市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

名古屋城天守木造化事業「投了」

 「また一つ」*1詰んだ。

 名古屋市河村たかしの政策、いや、デマがまた一つ詰んだ。

 12月5日の名古屋市会・経済水道委員会で名古屋城天守木造化について議論が有った。その席上、名古屋市がいう「新たな昇降機技術」の公募結果について報告があった。

 名古屋市河村たかしは、名古屋城天守を木造化するに当たり、「史実に忠実な再現」を行うとして、エレベータの設置を拒否した。*2「木造天守にはエレベータは付けない」として、実験施設「ステップナゴヤ」を約1億円の費用をかけて新設、技術開発に8000万円、実機導入に2億円という巨費をつぎ込んでエレベータに代わる「新たな昇降機技術」を募集していた。今回公表された最優秀提案者は「MHIエアロスペースプロダクション」と言うらしく、MHI、言うまでもなく Mitsubishi Heavy Industries, Ltd. 三菱重工の関連会社だ。下関に同様の関連会社が有り、「MHI下関エンジニアリング」というそうだ、そこに次のような商品の紹介があった。

https://www.mhi.com/jp/group/mhise/media/876/download

シップフリーモ(SF)エレベータ1-2
シップフリーモ(SF)エレベータ2-2

「シップフリーモ(SF)エレベータ」

 「エレベータ」だ、そもそも「昇降機」とは「エレベータ」の和訳でしかなく、「エレベータを付けず、昇降機を付ける」などというのは、幼稚な言葉遊びでしか無い。名古屋市職員や中日新聞も、河村と付き合うと知能が幼稚化するようだ。

 この製品に文句はない、既存製品であれば信頼性も高いことだろう、しかし、既にある製品を選定するために、わざわざ実験施設だの必要だったのか?疑問が残る。

 委員会での市当局からの報告では、このエレベータを何階まで設置できるかは判らないとのことだった。ところが同時刻に開かれた名古屋市市長会見で河村は1,2階までしか設置できない。というような見解を示した。それも「これで妥協してやったんだから、これ以上文句を言うな」とでも言わんばかりの態度で(正確な表現は「1、2階まで(上がれれば)合理的配慮と十分言える」)。

 確か河村は「新たな昇降機技術」の公募開始の際に「障害のある人にも最上階からの眺めを堪能してもらう」というような事を言っていたと思うのだが。(名古屋城説明会における発言だったと思う)もはやそんな発言もどこへやら。


 日本弁護士連合会からの「要望書」では、最上階までの11人乗り(現行同等)のエレベータの設置を求めている。エレベータの設置を認めない事は「人権侵害である」と断じている。

www.nichibenren.or.jp

 日弁連からこのような要望書が提出されているにも関わらず、それを無視するような河村の発言に、愛知県の障がい者団体が抗議文を提出した。

mainichi.jp

 これに対して河村は「文書は読んだが(発言は)撤回するわけない」と明言。「(戦前の)国宝第一号だった建物を破壊する権利はない」と述べたと報じられている。

 「国宝第一号だった建物」は現存せず、存在しない建物を破壊はできない。 今回作られる木造レプリカは、「(戦前の)国宝第一号だった建物」ではない。あくまでレプリカであって、レプリカが「国宝」になった例はない。(金閣寺は再建されても「国宝」になどなっていない)

 更に言うなら、現存する鉄筋コンクリート天守は申請すれば「登録有形文化財」となる資格を有する文化財であり、それを破壊しようとしているものが、どの口でこれを言うのか。河村に「文化的価値の有る建物を破壊する権利はない」*3

 しかし、これで名古屋城天守木造化計画は明確に「詰んだ」。

 結局、この「新たな昇降機技術」の公募とは何のために行われたのかと言えば、文化庁の復元検討委員会に天守木造復元を認めてもらうための法的条件を整備するために行われたものに他ならない。

app.box.com

 名古屋市が平成27年(2015年)に策定した「名古屋城天守閣整備事業にかかる技術提案・交渉方式(設計交渉・施工タイプ)による公募型プロポーザル ・業務要求水準書」の第3章、第2節に「主な設計条件」が挙げられているが、これは名古屋市の要望することということではなく、特別史跡名古屋城跡に建てられている名古屋城天守の工事に必要な、文化庁文化審議会の現状変更許可を得るために必要な条件なのである。

 この中で「7.バリアフリー化、バリアフリーに配慮したものであること」と明記されている。

 文化庁はこれらの条件が満たされない限り、現状変更許可は出さない。つまり、名古屋城天守の木造化などできなくなったということだ。

 考えてみれば明白だ。名古屋市日弁連から、バリアフリーについて、現存する鉄筋コンクリート天守以下に後退することは「人権侵害」であると指摘されているのだ。文化庁がこのような計画に対して認定を行い現状変更許可を出せば、日弁連文化庁に対して意見書を送るなり、法的措置を取るだろう。そもそもエレベータの設置を河村が拒む理由は、客観的なものとは言い難い。恣意的な河村本人の好き嫌いでしか無い。そのような問題で文化庁日弁連と事を構えるわけがない。結局、今まで通り「受理せず」という結論以外に成りようがない。

 河村は本年度末の来年3月、文化庁に現状変更許可を得る書類を提出すると言っている。*4

 予言しよう、来年の3月に河村は東京の文化庁を訪れ、「何か」を提出するだろう。そして新聞は(今までの例を見れば特に中日新聞は)「名古屋市文化庁名古屋城天守木造化計画を提出」ぐらい書き立てる。この言葉は嘘ではない、文化庁の窓口には提出されて、置かれてはいるだろう。しかし、「受理」ではない。

 なぜこんな猿芝居が繰り返されるのか。気が付かない名古屋市民や中日新聞の記者はバカという以外にないだろう。市長選挙、来年の統一地方選挙。そうした選挙の直前に、河村は毎度毎度、あたかも名古屋城問題が進んでいるかのように見せ、さらに河村自身、メディアに露出し、選挙の事前運動をするため、イベントを作っているに過ぎない。

 つまり、名古屋城問題で河村が文化庁に出向くのは選挙目的でしか無い。

 そして選挙が終わり、人々の興味も失せたころに、文化庁から「不受理」の知らせが届き、話は振り出しに戻る。振り出し、上に書いたように事業者への要件定義を示したのが平成27年(2015年)、来年の4月にこうした三文芝居が繰り返されるのであれば、すでに8年間同じことを繰り返している。

 8年もの行政の遅延、虚偽を諾々と伝え続けた中日新聞は、将来、歴史家から厳しい指弾を覚悟すべきだろう。

 
 ここで話をもう一度整理してみよう。河村の希望とする「史実に忠実な再現」と「現代社会の求めるバリアフリーの条件」、この両立を探るために名古屋市は実験施設「ステップナゴヤ」を1億円で作り、技術開発に8000万円、実機導入に2億円という巨費を積んだ。しかし日弁連から「人権侵害」と指摘されるような対策しか提案できなかった。

 ということは、この両者は現実的に両立しないということであり、河村が幼稚にも繰り返す「史実に忠実な再現でなければ、作らなくて良い」という言葉通り、木造化天守など作らなくて良いし、そもそもできないということだ。

 実験施設「ステップナゴヤ」を1億円で作って判ったことは、「史実に忠実な再現」と「現代社会の求めるバリアフリーの条件」は両立しないという事実だ。


 日弁連の要望書を軽視してはならない。今日本全国で様々な公共施設が建て替え、建て直しをされている。そうした際に旧来の施設よりもバリアフリーの条件を軽視する傾向があると言われている。現に名古屋城のすぐ横で建設されている愛知県新体育館についても、そうした指摘がある。
news.yahoo.co.jp

 主には予算的な都合のようだが、現状で得られているバリアフリーの条件、障害を持つ人々のアクセスを後退させることは、今まで得られていた公共サービスの減退であり、そうした社会からの排除に他ならず、当事者には容れることなどできない。今、名古屋市で「史実に忠実な再現」などという極めて恣意的で文化的な理由によってこうした排除が正当化されてしまえば、全国の施設でも転用される可能性がある。

 文化庁がこのような「障害者排除」「人権侵害」の計画に許可を出したなら、どのようなことになるか容易に想像できる。河村は想像できないようだ、名古屋市職員は想像できるが黙っているのだろう、中日新聞の記者はその想像ができないのだろうか。


 文化庁文化審議会の審査を受けるためには、復元検討委員会に「基本計画」を提出する必要がある。

 12月5日の委員会にもこの基本計画進捗状況が報告されている。それによると第8章の「復元計画と利活用」については「取りまとめ中」とされている。

 ・・・・つまり「特別史跡名古屋城跡木造天守整備基本計画」は「取りまとめ中」なのである。令和4年12月に。


 名古屋市竹中工務店と平成29年5月9日に「名古屋城天守閣整備事業基本設計その他業務委託」の契約をしている。

app.box.com

 そして、平成30年3月30日に基本設計業務は完了したとして、代金約8億4千万円が、平成30年4月27日(支払期日)支払われている。

app.box.com

 この基本設計業務の細目を決めた「業務委託仕様書」の第23条では「建築基本設計は、以下の項目について行う。/(1)基本計画書」と明記されている。

第23条(建築基本設計)

app.box.com

 ところが、平成30年3月30日に竹中工務店から名古屋市に提出された「成果品目録」には「基本計画書」が記載されていない。

app.box.com

 これが、私達が戦っていた裁判の一つの骨子だ。「基本設計業務は完成しておらず、その代金支払いは違法だ」
 
 結局、判決としては名古屋市の主張が容れられた。施主としての名古屋市がそうと決めれば、契約事項は如何様にも変更可能ということだろう。しかし、名古屋市は管理責任を持っているが、その権能は無制限ではない、行政の大原則は「主権在民」であって、その市民に(代表としての議会に)示した契約事項が守られていなければ違法な取引でしか無い。

 私たちは戦略的に2審までで裁判を止めた。その理由は広言しない。

 これからも、河村のジタバタを高みの見物と決め込むつもりだ。


追記:
名古屋城木造化事業は「詰んだ」
中日新聞は一度、検証するべきだ。

 名古屋城天守の木造化については名古屋市は散々市民に説明会を行っているが、現在の鉄筋コンクリート天守の「破壊」については、その是非を市民に聞いていない。

 平成28年に行った「2万人アンケート」では、「現天守閣の耐震改修工事を行う」の項目に「概ね40年の寿命」と書き加えているが、この根拠はない。専門家からは否定されており、実際に「平成の大改修」を行った、大阪城天守閣*5では「40年の寿命」などとは考えられていない。つまり、明らかな嘘の記述によって形成された「民意」なのである。

 木造復元に賛同する民意など幻想である。

 そもそも木造天守は現在の鉄筋コンクリートと外観はほとんど同じである*6

 それよりも、木造というのは現在の鉄筋コンクリートよりも維持費、修繕費がかる。
 最近、SNS上に現在の「清洲櫓」の様子が投稿された。

清洲櫓 2022年12月5日

 瓦屋根に布団が引っかかっているように見えるが、雨漏り対策だそうだ。投稿者も「情けなく思ってしまう」と言っていたが、私も同様だ。今の名古屋城管理組合の状態を見ると、木造化された大天守でも同じような「雨漏り対策」がされるのではと思えてしまう。

 本当に、名古屋市民は、中日新聞はこんな事で良いと思っているのか。


追記:
www.city.nagoya.jp

令和5年度予算要求に対する財政局査定内容の公開

令和5年度予算要求に対する財政局査定内容に対する市民意見
財政局財政部財政課予算第一係御中

1.住所
(略)
2.氏名
(略)
3.ご意見をお寄せいただく事項名、局名及び番号
  事項名:
    名古屋城天守閣の整備
  局名:
    観光文化交流局
  番号:
    56追加
    (p.37)
4.ご意見の内容
名古屋城天守木造化再建について、
市長河村は「史実に忠実な再建」を掲げた。
しかし法的にバリアフリーを満足させなければ再建は行えない。

そこで、名古屋市は「史実に忠実な再現」と「現行法に叶うバリアフリー」の
2つの要望を満足させる新たな技術を公募するとして、
令和元年より階段体験館「ステップナゴヤ」を約1億円の費用をかけて新設、
新技術開発に8000万円、実機導入に2億円という予算も計上し
全世界に向けて(市長会見)技術の公募を行った。

それにも関わらず、昨年12月5日に公表された公募結果では、
現存する天守よりも上層階に来客を運搬できる昇降技術は実現できなかった。

このような状態では昨年10月24日に日弁連より要望を受けた要件は満たせず、
再建される木造天守建物は人権侵害となってしまう。

つまり、上記巨費を投じ、3年以上の歳月をかけて、
全世界に呼びかけたものの「史実に忠実な再現」と「現行法に叶うバリアフリー」の
条件を満たせる技術は、現存しないということが判明した。

そうであるならば、即刻名古屋城天守木造化再建について再考すべきで、
当該予算についても漫然と保管費用等を支払うのではなく、
売却を進めるなど、費用負担の軽減に務めるべきである。

復元事業の進捗情報 | 復元事業の進捗情報 | 名古屋城公式ウェブサイト
木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針


*1:地域委員会、減税10%、議員報酬半減、国政進出、総理を狙う男(わら)、etc.etc.,

*2:防火施設等の施設を拒否している事も重要であるが、ここでは敢えて触れない。できれば気が付かないままでいて欲しい

*3:というか、あいちトリエンナーレの迷走でも明確なように、元画廊経営者であったはずの河村たかしには文化や芸術を語る知識も見識もない

*4:平成31年4月に、2022年12月までに目処がつかなければ全員切腹といった申請を、小狡く「年度末」まで引き伸ばしたわけだ

*5:鉄筋コンクリート製で耐震改修工事を行った

*6:正確に言うと、最上階の窓が小さくなり、展望機能は減少する

「政務活動費不当利得返還請求事件」における減税日本ナゴヤの二枚舌

前回エントリーの続きです。
ichi-nagoyajin.hatenablog.com


河村たかし名古屋市長が設立した地域政党減税日本」。その名古屋市会における会派である「減税日本ゴヤ」で団長なども務めた浅井康正市議(現在も団長)が令和2年8月に配布したとする広報紙について疑義がある。

・配布については株式会社ポトスに再委託したとされているが、その株式会社ポトスに対する再委託の証明ができていない。

 名古屋市監査委員に提出し、名古屋市監査委員は「領収書」と認定した証拠が、「領収書」としての要件を満たしていない。つまり、株式会社ポトスに対して代金の支払いが行われた証が立っていない。また、名古屋市監査委員は領収書ではないものを領収書と誤認した監査結果を出している。更にその「領収書」もどきを監査請求者に対して隠蔽していた。

 減税日本ゴヤ・浅井康正市議が株式会社ポトスが配布・ポスティングを行った証として提出した「部数表」については、原告である私が同様のチラシ配布を企画した際に見積もりと同時に提出を受けており、「部数表」は見積もり段階で入手可能である事が判る。つまり「部数表」を持っているからといって配布が行われたとする証にはならない。

 減税日本ゴヤ・浅井康正市議が提出した「部数表」には「入金日」「入金確認」という項目があるが空欄となっており、支払いが行われた形跡がない。

・同広報紙は水野プランニングにおいて印刷されたと主張しているが。

 水野プランニングには印刷設備は無い。

 印刷するとした原価である、用紙代、インク代、版下作成費、デザイン代金等が示されておらず、印刷を行ったという証しは立っていない。


 法律上、条例上は広報紙の政務活動費支出については、「領収書」を提示するだけで支払いを受け取れる。しかし「領収書が真正であるかどうか。字面が正しいだけだというなら、そんなものは審査になりませんので、その領収書が、本当にその人がそのお金を受け取ったのかとかということについては、議長がやるなら議長、議長が嫌だったら市長がやるなりして、これは名古屋市民の本当の血税ですので、誰かがその使い道の正しさを、領収書の真正をやっぱり調査しないといけないと思います」(被告名古屋市長 河村たかし 平成23年7月11日名古屋市長定例記者会見における発言、甲第22号証)

https://www.city.nagoya.jp/mayor/page/0000026298.htmlwww.city.nagoya.jp

https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:LhaeDsn5ifQJ:https://www.city.nagoya.jp/mayor/page/0000026298.html&cd=1&ct=clnk&gl=jpwebcache.googleusercontent.com

https://archive.is/MFvFC


 と、河村市長が言うように、古くからの河村たかしの支援者でありお仲間でもある水野昇氏(水野プランニング)の領収書だけでは「領収書が真正であるかどうか。字面が正しいだけだというなら、そんなものは審査になりません」

 水野昇氏が古くから減税日本ゴヤの政務活動費を受領している例についてはこちらを。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 利害関係のない第三者の配布証明(配布・ポスティングで人員を雇う場合には、その日当の支払いに、配布者名を記載した日当受け取り/領収書が取られているはず)や、印刷に関しては広報紙の用紙を買い付けた領収書、注文書、受領書、配達記録など印刷を明かす証拠書類が残っているはずなのだ。(法人税法によって7年間の保管義務がある)

 そうした証しが立てられなければ「これは名古屋市民の本当の血税ですので、誰かがその使い道の正しさを、領収書の真正を」立証しない限り、支払われるべきではない。

 減税日本河村たかしは上記の発言を市長公式記者会見の上で市民、有権者に対して発言しているのであるから、自党の会派が行った政務活動費の支払いについて、説明不可能であるならお金を返すべきであるし、そうした責任を果たさないのであれば上記の発言は市民、有権者を騙し、愚弄した発言であると断じられても仕方がない。

 当ブログは減税日本河村たかし、及び減税日本ゴヤ所属の市会議員が如何に口先ばかりで市民を騙し、愚弄しているか数々の実証を行ってきた。嘘の上に嘘と嘘を重ねているのが減税日本河村たかし、及び減税日本ゴヤであるが、この事例もまた同様である。

 現在行われている裁判において、以降何らかの証拠が提出されたり、司法において「市長」であるとか「市会議員」というネームバリューを重く見て、一市民である私の提出した証拠や主張が容れられない可能性はある。名古屋城裁判でも同様で、あれは結局市民の提示した事実よりも、名古屋市の言っている事(根拠無し、部分的に矛盾していても)の方を司法は信じるという司法の硬直性を表す結果となっていた。

 そうした意味では私は司法には過剰な期待はしない。

 しかし、現在の状況で、減税日本ゴヤ、浅井康正、水野プランニング、水野昇は、名東区で当該広報紙を配布したという実証ができていない。

甲第23号証_浅井康正選挙公報-01
甲第23号証_浅井康正選挙公報-02

 これは浅井康正市議の2011年、2015年、2019年の市議選における公報である。それぞれ「税金のムダづかい排除」「政務活動費の全面公開 黒塗り部分も公開します。」「政務活動費の全面公開」と公約に掲げている。

しかし私が要求した情報公開に対しては、

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/ichi-nagoyajin/20211207/20211207161218.jpg

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/ichi-nagoyajin/20211207/20211207161244.jpg

などとゼロ回答を行っている。

 上記私の公開質問には「印刷」に関しても触れているが、回答については触れても居ない。これは選挙の際の公報に掲げた「政務活動費の全面公開」との公約を反故にする行動ではないか。

 つまり、浅井康正は市民に対して嘘を言っている。(私は市民に嘘をいう公職者に対して、敬称を付ける気はしない)


 呆れかえるのはこれだけではない。今回の訴訟において補助参加人「減税日本ゴヤ」は、その準備書面(1)で「仮に手数料が発生していたとしても、本条例上許容されている」であるとか「『政務活動費という公金の支出であるならば、より廉価な業者に発注すべきである』というのは原告が思料する事柄にとどまるものであって、何ら法的根拠はない」などと言っている。

 つまり、自分たちが使う政務活動費について、より廉価に実施できるとしても、法的根拠がないのであるからそんな努力は必要ない。と言っているに等しい。

 これが減税日本河村たかし減税日本ゴヤの日頃の発言と矛盾している事は明かだ。

甲第21号証_減税日本党綱領

 減税日本の党綱領、基本理念の1番に「行政の無駄を不断に見直し、徹底した行財政改革により税を国民に還元する」と主張している。「行政の無駄を不断に見直し、徹底した行財政改革」を行うと言っているのは「原告が思料する事柄」なんだろうか、被告名古屋市河村たかしの掲げる党綱領の主張するところなのではないだろうか。

 被告名古屋市河村たかし、及び補助参加人減税日本ゴヤは、有権者、市民に対して党綱領で「行政の無駄を不断に見直し、徹底した行財政改革」を行うと主張しつつ、いざ自分たちの支払う政務活動費については、「手数料が発生していたとしても、本条例上許容されている」とか「法的根拠はない」などと冗費を肯定するのだ。これを二枚舌と言わずに何と言うのだろうか。

 政党にとって自ら掲げた「党綱領」は法や条例よりも重い筈だ。何となればそれは有権者との約束だからだ。

 河村たかし減税日本減税日本ゴヤ有権者との約束を守ろうという意志など無い事がここからも判る。

 浅井康正が広報紙の配布を株式会社ポトスに依頼したいのであれば、水野プランニングや水野昇に中間に立ってもらう必要もないし、配布代金の計上に水野プランニングにわざわざ領収書を書いてもらう必要もない。株式会社ポトスが発行した領収書の名宛人を水野プランニング名義にするのではなく、浅井康正の名義にすればよかった。現状で水野プランニングは一切の中間マージンを取っていないとのことだが、水野昇氏は1円にもならないことに、わざわざ領収書を発行し、収入印紙まで付けて浅井康正に渡していることになる。そんな手間をかけさせるなら浅井なり水野が株式会社ポトスの社員に一言「宛先を浅井にして浅井宛に領収書を送ってくれ」と言えば済む話だ。水野昇氏が領収書を発行する合理的説明はついていない。

 また、印刷についてもそうだ。水野プランニングには印刷機器は無い。再委託したのであれば、配布を株式会社ポトスに再委託したのと同様、委託先に金を支払い、領収書を浅井康正名義で発行してもらえば済む。水野プランニングにおいて印刷を行ったとする主張には信憑性が無い。

 なぜここまで疑わしいのか。この広報紙を配布したとする令和2年8月。2020年8月といえば、あいちトリエンナーレ騒動に端を発した「大村知事リコール運動」が行われていた時期である。そして水野昇氏は、このリコール運動の主体であった「お辞め下さい大村秀章愛知県知事愛知100万人リコールの会」設立時の「主たる事務所の所在地」を自宅としていたほど、この運動に深く関与していたのである。

愛知県公報令和2年8月4日 第126号(抜粋)

http://www5.pref.aichi.jp/kofu/126.pdf

水野プランニング所在地:

 リコール運動で忙しい筈の水野昇氏が、手数料も取らずに、なぜ浅井康正の広報紙について印刷や配布の手続きを肩代わりし、収入印紙まで買って領収書を発行しなければならないのか?合理的説明がなければ全く理解できない。浅井康正市議は市議でありながら広報紙の印刷の手配や配布の手続き一つできないという事なのだろうか?それでも各支払いについてわざわざ水野昇氏に水野プランニングの領収書をわざわざ発行させている理由はなんだろうか。

 ある人に言わせると「高須克弥が河村のデマに乗せられて、まんまと大村知事リコール運動を始めた。河村は自分の市長選挙の為に活動家の掘り起こしと、支援者の名簿を充実させたかったし、捕まった田中孝博や各地の地方議会の政治家も売名や支援者掘り起こしを期待していた。知事を本気でリコールできると思っていたのは素人でちょっとアレな高須ぐらいなもんだ。他人より先にこの運動に関わっていた水野昇は政治団体を届け出て、その時自分の自宅を所在地にしているぐらいこの運動の事務局長をしたかった。その後田中が入り込んで事務局長の座を追われたから、偽造署名騒動の際に署名簿を持ち出して河村や高須に『御注進』に及んだのも、これをきっかけに田中を事務局長から引き釣り下ろして、自分がその後釜に付きたかったんだろう。ところが河村も高須もそんな事は端から承知していて、わざわざ署名簿をガメって騒ぎを大きくした水野を恨んだんだろう。それで裁判まで起こしている。
 水野がリコール運動の事務局長に座りたかったのは、高須マネーが目当てだ。一般の選挙では街宣車は1台しか使えないが、リコール運動では街宣車を何台仕立てたっていい。水野は100台街宣車を仕立てて、毎日愛知県中を走り回らせると提案していたようだ。100台の街宣車、このマージンだけでも大きいが運転する人件費、燃料代金のキックバックも2か月ともなれば大きな金額になる。しかしこの100台街宣車案は田中事務局長と高須に否定されてしまう。水野にしてみれば一所懸命下ごしらえをした知事リコール運動から1円も売上を立てることができない。ってんで河村に泣きついた。ところが河村からは色よい返事を貰えなかった。河村はこういところはケチで冷たいからね。なのでかねがね親しくしていた浅井に泣きついて、政務活動費からリコール運動の8,9月の活動費として約100万円、一月50万円換算で支払いを作ったんじゃないの?
 総額が印刷と配布で1,132,065円。当時本当に別の区で配布していたA3版だけでは100万円に届かなかったから、中川区の中川あつしが勝手に展開していたA4版も加えて、100万円に、浅井のキックバック取り分、15%の約15万円乗せたって考えると、ちょうど帳尻が合う。中川がA4版の裏面に自分の事ばかり書いていたから、表面は提出できても裏面は提出できなかった。わざわざ白紙にした。広報紙の裏側白紙にして配布する政治家がどこに居るよ。聞いたこともない。それで仕事が雑な水野昇が、書かなくてもいい「両面印刷」なんて領収書に書くからこんな事になる。多分A3版の領収書をそのまま使いまわしたんだろうね。現物の裏面が問題になるなんて思いもしなかっただろうしね。実際に監査委員の鼻から脳みそが垂れていそうな連中は見逃しているんだし。
 そんなところが真相じゃないの?」だそうです。某人物の個人の見解です。

名古屋市減税日本ゴヤ政務活動費に係る不当利得返還請求事件」事件番号「令和4年(行ウ)第36号」

次回公判は11月24日(木曜日)午後1時30分
名古屋地裁11階、1102法廷

次回公判は 2月2日(木曜日) 午後1時30分
名古屋地裁1102法廷でございます。

どなたでも傍聴できます。


追記:
監査結果
https://www.city.nagoya.jp/kansa/cmsfiles/contents/0000010/10918/20220310_juminkansa.pdf

後ほど意見を述べます。

追記(2023/06/09):
<住民監査をポンコツとする理由>
1.後に住民訴訟において「領収書」とは認められなかった「領収書(控)」のコピー(収入印紙の添付、発行責任者不明)を「領収書」として認める不正
2.更に、その主張根拠(「領収書(控)」のコピー)を住民(つまり私)に開示せず
3.A4版領収書は「両名印刷」と明記されているにも関わらず、提出されたA4版広報紙の様態は片面印刷。この齟齬について追求の形跡なし。説明の齟齬を見逃している。
4.判例の誤用
5.印刷業務に関するエビデンスの不在を見逃し


河村たかしセクハラ?/政務活動費返還訴訟

1. 河村たかし、韓国フェスティバル会場で女性アイドルにセクハラ行動
2. 名古屋市減税日本ゴヤ政務活動費に係る不当利得返還請求事件(令和4年(行ウ)第36号)


本編の前に、少々柔らかいネタから。

河村たかし、韓国フェスティバル会場で女性アイドルにセクハラ行動

先日(11月12日)、名古屋市内で行われた「韓国フェスティバル」に、河村たかし名古屋市長として呼ばれ、その際バックステージで出演していた女性アイドルと記念撮影していたようだ。

11月12日 韓国フェスティバル

この河村が見せている指の形は「フィグ・サイン」と呼ばれているもので、「性行為」を表す卑猥なジェスチャーとされている。明らかなセクハラに当たる。

ja.wikipedia.org

一緒に写っている女性たちは「指ハート」と呼ばれるジェスチャーをしている。

ja.wikipedia.org

状況によっては一緒に写っている女性を性的に侮蔑するものとも捉えられかねない。また、その女性たちが韓国における女性の正装であるチマ・チョゴリを着ていることや、河村たかしにおける日頃の言動などを勘案すると、民族差別の意志があったものと見られ、「南京事件否定発言」に続く国際問題にも発展しかねない。

jp.reuters.com

無償化連絡会・大阪が名古屋市長に抗議文 – 無償化連絡会・大阪


私のツイッター上の投稿に対し「河村は指ハートをやろうとして間違っただけじゃないのか」などとする擁護発言も寄せられたが、2018年の韓国フェスティバルでは同じように女性アイドルと記念撮影を行い、この場では通常の「指ハート」を行っている。

2018年韓国フェスティバル

「南京発言問題」に続いて「金メダル事件」更にこの「セクハラ・ジェスチャー」問題。そもそも「総理を狙う男」だったのだが、齢74となり、このような問題行動を繰り返し、更にその責任もろくに取っていない*1ようでは、総理などなれるはずはなく、行き場がないので自身批判していた多選を重ね、名古屋市長の椅子にしがみつく姿は醜悪にすぎる。

3アウトチャンジだ。即刻名古屋市長の座を降りることを要請する。

追記:
www.mag2.com

www.j-cast.com

www.news-postseven.com

名古屋市減税日本ゴヤ政務活動費に係る不当利得返還請求事件(令和4年(行ウ)第36号)

以前ブログにも書いたように、減税日本ゴヤ所属の浅井康正市議(名東区)の政務活動費支出について疑義がある。浅井市議は令和2年8月に名東区内にA4版、A3版のチラシをポスティングしたとして、政務活動費を請求している。(1,132,065円:按分率100%、つまり全額公費よりの支出)しかし複数の名東区住民から「そのようなチラシは見たことない」との証言を得ている。

これについて本人に公開質問状を送り、名古屋市会議長にも調査依頼を行ったが、満足な回答が得られなかったために住民監査請求を行った。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

住民監査請求によっても納得の行く結論が得られなかったために住民訴訟を提訴した。

監査結果 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

住民監査における問題点は後述する。

政務活動費(旧称、政務調査費)の支出に対する住民訴訟は各地で行われていて、その支出に疑義があれば、住民の側が原告となって、当該地方自治体を被告として訴える事になる。(その前に、住民監査を提起する必要がある)

しかし、被告とされた地方自治体も、その政務活動費の支出については、報告を受けるだけなので、実態については把握していない。形式的に書類が揃っていれば支出されるのが実情だ。つまり政務活動費の返還訴訟において、その支出の適法性を主張するのは当該会派または議員となる。そして返還命令が出れば、そのお金を出すのも当該会派または議員なので、「補助参加人」として利害関係者として政務活動費の支出について、適法性を主張することになる。

今回の住民訴訟においては、
原告・市民(つまり、私、一人! ちなみに代理人(弁護士)もなし!)
私(原告)が提出する「証拠書類」には「甲」の分類名が付く。
被告・名古屋市長 河村たかし(証拠書類の分類名は「乙」
補助参加人・減税日本ゴヤ(証拠書類の分類名は「丙」)
補助参加人代表者・浅井康正
となる。(面倒くさい!)

通常の政務活動費に対する疑義の裁判では、出張費や事務所費などについてはその実態に対する疑義が提起されている。五百旗頭幸男監督による映画「はりぼて」は富山市議会における政務活動費の問題を追求したものだ。
しかし、広報紙(広聴広報費)については、その内容による「按分率*2」が争われる事が多いようだが、配布実態まで争われる例はないようだ。

しかし、今回の問題はこの配布実態そのものに疑義がある。通常の民事裁判における不当利得返還訴訟であれば、不法行為の立証責任は原告側、訴えた側にあるのだが、政務活動費の訴訟においては、原告は一般の市民で、政務活動費の支出実態を知ることはできない。それを知り得るのは当該支出を行った会派か議員本人になり、さらに政務活動費は公金の支出であるという事も踏まえ、会派、議員に適法な支出を立証する責任があると、判例が示されている。(平成29年1月31日仙台地方裁判所など)そこで住民監査の段階から当該広報紙の印刷、配布実態を減税日本ゴヤ、浅井康正市議に求めている。

住民監査の段階では、印刷については水野プランニングが行い、ポスティング、配布は「株式会社ポトス」に再委託されているとして、配布にかかわる「領収書」と株式会社ポトスにおける「部数表」が提出され、配布は行われているものと判断された。

住民監査において提出されたこの「株式会社ポトス」の「領収書」は当該広報紙が配布されたとする重要な根拠であって、当然公開されるべき証拠である。にも関わらず名古屋市住民監査委員はこの監査結果を根拠づける「領収書」の開示を拒んだ。

今般、私が住民訴訟を提示したのも、この「領収書」を見たいがためと言っても過言ではない。主権者たる住民からの監査請求に対して、その監査結果の根拠をなす証拠を開示もせず、監査結果だけを伝えるという態度は民主主義にもとる。後述する「見落とし」を含めて、今回の名古屋市住民監査委員は怠慢であると強く抗議する。

さて、住民訴訟に移行しこの「領収書」が補助参加人・減税日本ゴヤから提出された。「丙第4号証」がそれだ。

丙第4号証「領収書」

これが「領収書」であるとして出されたものだ。

これは「領収書」ではない、「領収書(控)」となっており、常識的に考えれば発行者側の「株式会社ポトス」において保管されているものだ。さらに法令で定められた収入印紙が貼っていない、収入印紙を貼っていないものを法的に「領収書」として扱う行為は脱法行為となる。

名古屋市住民監査委員はこの脱法行為を行ったことになる。(上で書いた「見落とし」とはこのことではない、それはもっと酷い)

8月31日の公判において原告(私だ、私!)から、「裁判長、被告補助参加人から提出された丙第4号証ですが、これは『領収書』ではないのではないですか」との指摘に、裁判長は適法に対応し、被告補助参加人代理人(一部の人にはおなじみの小島敏郎青山学院大学教授で愛知県政策顧問、名古屋市経営アドバイザー、東京都特別顧問、都民ファーストの会東京都議団政務調査会事務総長で弁護士資格をもって早稲田リーガルコモンズ法律事務所所属の弁護士先生であらせられる https://legalcommons.jp/member/kojima )に「領収書」の提出を命じられました。

裁判長が「領収書はあるんですよね?」と聞かれたのに対して小島先生は「あります」と答えられたものであります。当たり前です。水野プランニングは、政務活動費を売上としてお金を受領していますが、その代金は再委託した業者の価格そのままとのことで、491,865円は、政務活動費から直接(水野プランニング、水野昇氏は1円もマージンを取らずに)株式会社ポトスに支払っている事になっています。しかし水野プランニングには売上としてこの約50万円(印刷を含めると1,132,065円)が立っていることとなり、その原価である株式会社ポトスの発行した領収書がなければ全額を営業利益として計上しなければならなくなります。しかし、水野昇氏が1円もマージンを取っていないのであれば、その原価を明かす証拠として、この株式会社ポトスの領収書を示せば良いのであって、その場合営業利益はゼロですから課税もされません。

つまり、このノーマージンの営業行為に対して水野昇氏が課税を免れるためには、株式会社ポトスの領収書は必須の書類であって、それは法人税法の規定から7年間の保管義務が課せられています。

こんなこと、一般の商売をやった人間なら当たり前の常識で、瀬戸市議を努め、瀬戸市長選挙まで出られた水野昇氏が知らないわけはない。

つまり、当該領収書が水野プランニングに無い訳がない。

といったわけで今回、「丙第12号証」として提出されたのがこれです。

丙第12号証「受領証明書」

これも「領収書」ではないですね、それも本公判が始まって以降の今年9月5日に発行された書類です。

つまり、「水野プランニングから株式会社ポトス」に配布・ポスティング代金としてお金が支払われた証は立っていないということになります。(領収書を紛失した時って再発行をお願いすることもあるだろうけど、そうした場合は「領収書(再発行)」とかってすると思うんだけど、この「受領証明書」ってどう理解すれば良いんだろう)

次に、補助参加人・減税日本ゴヤが、配布を行った実績であるとして示したものは、「名東区長久手市エリア地区別部数表」と呼ばれるもので、「丙第5号証」「丙第6号証」として提出された。

丙第5号証 部数表
丙第6号証 部数表

ところで、原告(私だ)は裁判長から「名東区で配布がなかったことを明かす証拠を提示しなさい」と言われた。そもそもそれは「不在証明」に当たるため、不可能であることは承知の上で、蓋然性を高めるものを提出せよとの意向であると受け止めて、私も名東区全域にチラシを配布して「減税日本のチラシを見た人は居ませんか」と声をかけてみることを企画した。ついては、当該広報紙と同じ株式会社ポトスにチラシ配布・ポスティングの見積もりを取ってみた。株式会社ポトスが提示したのが「甲第24号証」となる。

甲第24号証 ポトス見積もり

結局、このポスティング代金が私の私費から捻出するには高額であること、このチラシを配布して誰も申し出てこないからと言ってそれで「配布されていない証」とする事はできないことなどから配布・ポスティングはしなかった。しかしこの「名東区長久手市エリア地区別部数表」はこうやって提示できる。つまり、この部数表を持っているからと言って配布・ポスティングを行ったという証にはならないのだ。

もう一つ、上の、「丙第5号証」「丙第6号証」を見ると「入金日」「入金確認」という欄が未記入となっている。これはつまり「見積もり段階」の書類であり、支払いや配布実績を表した書面とはいえないことを表している。

 ・・・結局、水野プランニングが配布を行ったとする証は一つも無いことになる。印刷にしてもそうだ。住民監査からこの訴訟に至るまで水野プランニングにおいて印刷を行ったという証拠は一つも提出されていない。原稿、版下、デザイン、紙の購入代金、インク代、印刷物の輸送代金(広報紙は名東区で約6万枚になる)、折込み等だ。

また面白い情報提供ももらった。知事リコール運動/偽造署名騒動でお馴染みの倉橋英樹豊川市議が、2019年瀬戸市議会議員選挙ポスター公費請求一覧を公表している。ここに「水野昇」氏の名前がみえる。水野プランニング代表、水野昇氏はこの選挙で自らのポスターの作製を外部業者に委託している。

甲第25号証_倉橋英樹豊川市議のSNS上の投稿における2019年瀬戸市議会議員選挙ポスター費用公費請求額一覧


さて、名古屋市住民監査委員は上記のように「領収書」といえないものを「領収書」と認め、更にその証拠の開示を拒んだまま監査結果だけを一方的に告げたことになる。そしてその結果は住民訴訟では鎧袖一触証拠とは受け入れられなかった。「法と証拠に基づいて審理されるべき」(被告補助参加人準備書面より)住民監査は蔑ろにされている。しかしまだこれは可愛いものだ。

今回の広報紙の内「A4版」を「丙第2号証」として提出されている。

丙第2号証(表)
丙第2号証(裏)

裏面の白紙を提示しているのは誤りではない。

この広報紙を印刷したとする水野プランニングの領収書はこれであり、

甲第4号証:水野プランニング2020年8月6日発行領収書(f0105)

ここには「A4 90kg 両面印刷」と書かれている。
今回住民訴訟において補助参加人は「誤記である」と述べているが、信憑性は薄い。

そして大問題は、この広報紙実物と、その領収書における齟齬について、名古屋市住民監査委員は一切言及していない。完全に見逃しているのである。行政の無謬性を言うのであればもう少し上手くごまかすべきだ。それができないのであればいっそバカ正直に「正義」を振りかざしてみたらどうだろうか。主権者は市民であって、監査は市民に代わって行政の過ちを見直す行為だろう。それを行政の言いなりになって、その誤りの糊塗に手を貸すのでは監査の意味はないし、市民の権利、主権者の定義、民主主義の原則そのものを毀損する。

名古屋市住民監査委員の今回の監査結果は民主主義を破壊する行為であると指摘しておく。

最後に面白い発言をご紹介しよう。

「領収書が真正であるかどうか。字面が正しいだけだというなら、そんなものは審査になりませんので、その領収書が、本当にその人がそのお金を受け取ったのかとかということについては、議長がやるなら議長、議長が嫌だったら市長がやるなりして、これは名古屋市民の本当の血税ですので、誰かがその使い道の正しさを、領収書の真正をやっぱり調査しないといけないと思います」(被告名古屋市長 河村たかし 平成23年7月11日名古屋市長定例記者会見における発言、甲第22号証)

名古屋市:平成23年7月11日 市長定例記者会見(市長の部屋)

名古屋市減税日本ゴヤ政務活動費に係る不当利得返還請求事件」事件番号「令和4年(行ウ)第36号」

次回公判は11月24日(木曜日)午後1時30分
名古屋地裁11階、1102法廷

どなたでも傍聴できます。


*1:金メダル問題における辞職、給与返納などの処分はまだ行われていない

*2:議員が配布する広報紙について、その内容が政務活動におけるものでなく、選挙のための政党や個人の広報(選挙活動)、後援会活動の要素がある場合は、全体の費用から当該記載事項の面積比率で「按分」して、政務活動部分のみ政務活動費からの支出が許容されるという比率

河村たかし市長の芸術政治利用を許さない会住民監査請求

追記(2022年8月25日):請求代理人より許可を得たので、住民監査の内容(名古屋市職員措置請求書)を掲載します。

個人名、住所等は伏せてあります。
フォント、文字数、行数等は改変してあります。

名古屋市職員措置請求書20220707.pdf - Google ドライブ


 「河村たかし名古屋市長による芸術の政治利用を許さない会」が住民監査請求を起こしている。8月19日に意見陳述が行われたようだ。

 「あいちトリエンナーレ2019」の負担金の一部について、名古屋市は「あいちトリエンナーレ2019実行委員会(会長:大村愛知県知事)」に支払いを拒否し、同実行委員会から支払いを求められ、訴訟に発展した。5月25日に判決が言い渡され、当然のことながら実行委員会側の完全勝訴の判決がくだされた。判決の中では河村市長がクドクドクドクド繰り返す「芸術への異様な評価」についても否定的な判断がくだされ、名古屋市の、というか河村市長の(というか、代理人である北口弁護士の)主張は完全に否定されている。

www.city.nagoya.jp

www.city.nagoya.jp

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

名古屋市は、というか河村市長は諦め悪く控訴したわけだが、この控訴が無駄であると、名古屋市民176名が監査人となって請求されたのが今回の住民監査である。

この控訴について、「議会が控訴費用なんか予算承認しなければ控訴できないのではないのか、議会はなぜ諾々と河村市長の控訴を認めるんだ」という意見がある。

私も同じような意見を市議にぶつけたことがある。
その際に大意こう反論された。

「まず、大前提として公訴権というものがあって、当人が控訴したいと言っているものを妨げる権利は(よほど公序良俗に反しない、緊急性がない限り)議会にはない。これが第一段階。
 次に、ここで控訴を議会が止めるとする。すると河村市長は絶対にこう言う『むちゃくちゃですわ、わしが勝てた裁判を議会が邪魔したんですから』議会の責任にするだろう、そんな責任転嫁をさせたくない。それが第二弾階。
 そして大切な事は、どうせ控訴したって負けるに決まっている。判決が出るたびに『河村市長、あんた間違ってるよ』と言われるわけで、そうやって恥をかけば良い。最高裁まで三回あるんだから、三回恥をかける、これが大事な第三段階」

なので、訴訟費用は確かにもったいないが、本人がやるという控訴を止めることはできない。とのことだ。私は納得している。

なので、この住民監査で控訴が止まるのは困る(費用を河村市長自身で負担すれば良い)

しかし、そうした控訴の判断が、市民から見て許しがたい、政治利用、市政の私物化であることは間違いがなく、そうした意味を明確にする為にも、監査請求人の一人となって参加した。また、昨日の意見陳述に合わせて陳述書を提出させていただいた。(資料番号12だそうだ)

 この私が書いた陳述書については、私がここで公開する分には自由なのだそうで、担当弁護士の了承を得て、ここに掲載させていただきます。

 当ブログの既存記事を下敷きにしています。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


陳述書

令和4年8月15日
名古屋市監査委員御中

(資料番号12)



名古屋市は、あいちトリエンナーレ2019に係る経費として、本件負担金の総額を減額変更したことに伴い、令和2年5月21日に、「あいちトリエンナーレ実行委員会」より、不交付分の負担金(3380万2000円)等の支払を求めて負担金交付請求事件を提起された。
その後の意見陳述等を踏まえ、令和4年5月25日に、名古屋地方裁判所より敗訴の判決を言い渡された。


名古屋市は、同判決を不服として、令和4年5月30日に名古屋高等裁判所に控訴を提起したが、判決は法的にも適切なものであり、常識的に見ても妥当性を持つ。河村市長個人の特殊な主張によって名古屋市民の浄財である名古屋市の予算を費消することは適当ではなく、控訴にかかる日時もまた無駄である。名古屋市は即刻無駄な控訴を取りやめるべきである。


一審判決におけるすべての名古屋市側意見は公開されていないため、名古屋市が公式ホームページ上で公開している判決書(https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000153810.html)より、名古屋市側の意見とされている物を閲すると、その中には、日本国政府の政府見解と異なる独自の意見、または歴史修正主義と断じられても仕方のない意見もあり、名古屋市民としては名古屋市が公金をもって公の裁判において、このような意見を提出することは容認しがたい。また、本来各個人が自由に解釈すべき芸術作品について、河村市長個人の独特な、そして作者までもが否定している解釈を押し付け、一方的な評価を下している部分もあり、こちらも容認し難い。


今般の裁判における主たる争点は「事情の変更により特別の必要が生じたとき」には負担金の支払いを拒むことができると名古屋市は主張するが、その主張は正しいのか。(判決文にいう「争点(3)」)というものだが、その前にも手続き論として書面表決は規約13条8項の「会長が必要と認める場合」の要件を満たすかというもの(判決文にいう「争点(1)」)と、書面表決は定足数要件を満たすかという議論(判決文にいう「争点(2)」)もあるが、いずれも原告(「あいちトリエンナーレ実行委員会」)の主張が採用されている。


主たる争点はまた8項目に細分化されている。


(1)「事情の変更により特別の必要が生じたとき」の解釈
(2)本件での各事情の検討
(3)公共事業性とハラスメントについて
(4)政治的中立性について
(5)報告義務違反の有無
(6)運営会議の不開催
(7)その他の事情(原告に生じる不利益)
(8)事情の変更による特別の必要性の判断


この中でも「(3)公共事業性とハラスメントについて」から「(4)政治的中立性について」において、裁判所は不自由展に対して反対意見が多数寄せられたことを受け、鑑賞者に不快感、嫌悪感を生じさせたかもしれないとしながらも、そうした表現方法、芸術活動というものもあるのであって、そうした芸術活動を「ハラスメント」として、違法と断言することはできないとしている。


実態としては、不自由展に多く寄せられた反対意見というものは、実際の展示を見たわけでもない者たちが、一部政治的にゆがんだインターネットコンテンツ(主には、ユーチューブ動画)によってデマを吹き込まれた結果、その是非を考えないままその意見をオウム返しに述べたものばかりで、よしんばそれが正当な意見であるとしても、裁判所は法的に展覧会を否定できないとした判断であり、非常に力強い。


また、河村市長が今に至るも繰り返している「あいちトリエンナーレ」が公共事業であるという主張についても、「原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)は権利能力なき社団であって、地方公共団体ではないから、本件芸術祭を地方公共団体が行うような公共事業であるということはできない」と退けている。河村市長はこの判決文を読んでいないのだろうか。または名古屋市長でありながら「公共事業」の意味を理解していないのかもしれないと危惧される。


これでまだ河村市長において「公共事業だから云々」という主張を繰り返し控訴しようというのであれば、単なる蒙昧と断定する以外無い。


判決文は、以上のような流れで、最後に判断を述べているが、全てについて被告=名古屋市の主張を退けている。原告側の完全勝訴で、これで控訴を行うなどとは単なる政治的パフォーマンス、公金の無駄な浪費でしかない。


そもそも河村市長は負担金を払わないとした時に、文化庁も不払いとしていて「文化庁が払うのなら、名古屋市も払いますよ」と言っていた。文化庁はその後支払いを行ったのだから、そのタイミングで名古屋市も追従しておけば面倒も裁判費用も必要なかった。あの河村市長の発言は何だったのか、無責任な食言である。


河村市長の政治的都合、決断力のなさで、名古屋市民の浄財を浪費しているにすぎない。




この判決文で引かれている被告=名古屋市の主張に、「政治的に中立であるべき地方自治体」である名古屋市において、正当性を疑うような記述がある。その一つは23ページ目からの「不自由展実行委員会の構成員5名は、いずれも、美術の専門家ではなく、いわゆる左翼系メディアに登場するジャーナリストないし左翼系活動家としてしられている」とする記述以降のものであって、完全に政治的偏向があり、歪んだ政治思想に満ち、品位を欠いた揶揄である。


そして呆れたことに、名古屋市が公開している判決文のこの部分は対象者氏名らしきものをここでは黒塗りしているが、判決文全体では先に5名の氏名は記述されており黒塗りの意味もない誹謗中傷行為である。


もう一つ指摘をしておくと、被告=名古屋市は、こうした構成を原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)事務局も知っていたと主張しているが、ではその原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)の会長代行である河村たかし名古屋市長は知り得なかったのだろうか?


十分に知りえる立場にいながら、その構成をこうして事後に批判するというのは、当たらないのではないのか?


判決文19ページに著された名古屋市側の主張とされる次の記述も政府見解からも逸脱し問題である。


「キム作品についていえば、いわゆる従軍慰安婦問題は、新聞社が、捏造した虚報を全世界に向けて大々的に、何度も繰り返し発信し続けたことにより、韓国をはじめとする全世界の人々に、あたかも慰安婦の強制連行が歴史的事実であるかのように誤解され、信じ込まれてしまったものである。これによって、日本及び日本国民は著しい国辱を受けた」


二段階で考える必要がある。「従軍慰安婦問題」とその「強制連行」の問題だ。ここでいう「新聞社」の「捏造した虚報」というものは、いわゆる「朝日新聞による吉田証言問題」を指していることは明らかだがそこで「捏造」されたものは、「吉田なる人物が従軍慰安婦の強制連行に手を貸した」ということであって、全体としての「従軍慰安婦」の存在は否定されていないし、「強制連行」の歴史的事実も否定などされていない。


政府見解としては「従軍慰安婦」は歴史的事実であって、それを地方自治体が裁判上の主張として否定する行為は、行政の一貫性の上からも失当であり看過し難い。


「吉田なる人物が従軍慰安婦の強制連行に手を貸した」事実はなかったが、それは全体としての「従軍慰安婦の強制連行」の実在を揺るがすものではない。


アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)という団体がある。戦時性暴力についての資料を参集し、インターネット上で公開している。(https://wam-peace.org/
このサイトで、「連行」というキーワードで資料を検索すると、様々な証言や裁判資料、郷土史料などが参照できる。


例えば、吉見義明名誉教授(映画「主戦場」でも発言が引用されていた、日本近現代史の泰斗)監修の「東京裁判-性暴力関係資料」からの「桂林 軍事委員会行政院戦犯罪証拠調査小隊」による裁判資料には次のような記述がある。


「工場ノ設立ヲ宣伝シ四方ヨリ女工ヲ招致シ麗澤門外ニ連レ行キ強迫シテ妓女トシテ獣ノ如キ軍隊ノ淫楽ニ供シタ」


また東京裁判における「ビールマン夫人宣誓供述書」には次のようにある。


「是等兵士ノ幾ラカガ這入ッテ其ノ中ノ1人ハ私ヲ引張ッテ私ノ室ヘ連レテ行キマシタ。私ハ一憲兵将校ガ入ッテ来ルマデ反抗シマシタ。其憲兵ハ私達ハ日本人ヲ接待シナケレバナラナイ。何故カト云ヘバ若シ吾々ガ拒ンデ応ジナイナラバ、居所ガ判ッテヰル吾々ノ夫ガ責任ヲ問ハレルト私ニ語リマシタ。コノ様ニ語ッタ後、憲兵ハ其兵士ト私トタケ残シテ立去リマシタ其時デスラモ私ハ尚ホ抵抗シマシタ。然シ事実上私ハヤラレテシマイマシタ。彼ハ衣服ヲ私ノ身体カラ裂キ取リマシタ。ソシテ私ノ両腕ヲ後ニ捻リマシタ。ソコデ私ハ無力トナリ、ソノ後デ彼ハ私ニ性交ヲ迫リマシタ。・・・此ノ状態ガ3週間継続シマシタ」


こうした証言、史料は一つや二つではない。そうした数々の史料のうち、その一部でしか無い「吉田証言」の虚偽性だけを暴き立ててあたかも全体が虚偽であるかのごとく主張する行為は、論理学の解らない愚昧の所業である。


更にいうと、こうした東京裁判並びに連合国軍事法廷の裁判を受託することが、第二次世界大戦以降日本が主権を回復するための講和の条件であった。


サンフランシスコ平和条約」の第十一条には次のような記述がある。


「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。(略)」


日本は、上記裁判の結果を受け入れることで、講和を得た。この条約の効力は当然今も働いている。この裁判結果を受け入れたくなければ、もう一度この国はGHQの占領下に戻してもらうか、条約の破棄を宣言すべきだろう。


それもできないまま、他国には条約を守る(東京裁判等の結果を受け入れる)ふりをしつつ、内向きには「東京裁判史観からの脱却」などと、今更ながらの責任逃れを行う。そのような二枚舌こそ、恥ずべき行為であり、日本及び日本国民の「著しい国辱」と言うべきなのではないか。
二枚舌、嘘つきは名古屋市の代表者として相応しくない。


名古屋市が公金をもって斯くも破廉恥な主張を行うことは容認しがたいものである。




河村市長は令和元年9月20日に、あいちトリエンナーレのあり方について原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)会長の大村秀章愛知県知事に「公開質問状」を送っている。


https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/cmsfiles/contents/0000121/121114/190920.pdf
この「5」において「質問の趣旨」として「阪口正二郎」氏(現:早稲田大学社会科学総合学術院 社会科学部教授)の論文を引用している。しかし、その阪口正二郎教授は、令和元年8月14日に「現代ビジネス」誌上で次のように述べておられる。


「ここで今回の『排除』に公権力が関わっていると考えるのは、河村たかし名古屋市長が、今回の展示物に対して『日本国民の心を踏みにじる行為』だとして、展示の中止を求める抗議文を実行委員会に提出していたことによる。河村市長の行為は公権力の行為として誤っている。」(「表現の不自由展」中止と「ヤジ排除」不寛容な日本社会の深刻な状況(阪口 正二郎) | 現代ビジネス | https://gendai.media/articles/-/66519?page=2


つまり、河村市長は自らの公開質問状で根拠として挙げた法律上の有識者に、直接行為を否定されているのであり、この段階で考えを改めるべきである。また、同公開質問状で引用されている阪口 正二郎論文「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」(法律時報74巻1号参照:https://cir.nii.ac.jp/crid/1520854805438556544)を引いてみると、同論文は先行研究として奥平康弘さん(2015年に亡くなった東京大学名誉教授であり、憲法、特に表現の自由アメリカ合衆国憲法の泰斗)の「福祉国家における表現の不自由➖富山県立近代美術館のばあい」(法時60巻2号75頁)(1988)「法ってなんだ」184頁(大蔵省印刷局、1995)及び「”自由”と不連続関係の文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化➖最近の美術館運営問題を素材として(上)(中)(下)」(法セミ547号80頁、548号82頁、549号77頁)が掲げられている。


もちろんここで言う「 富山県立近代美術館のばあい」とは、大浦信行さんの『遠近を抱えて』を巡る騒動のことであり、当時は「天皇コラージュ問題」とされたものが、現在において「天皇写真焼却問題」とされているものである。


実は、こうして一つのテーマが30年以上にわたって議論されている(というか、政治的道具として芸術作品が使われ、一方的な誹謗を受けている)わけだが、そうした歴史的な重層性は河村市長の文章からはうかがい知れない。


阪口正二郎論文「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」には次のような記述がある。「芸術と国家の関わりについての憲法上の問題を析出しようとする文章であり、本稿は問題の解決策を提示しようとするものではなく、問題をいかなるものとして認識すべきなのか、筆者なりの認識を示す。」(「1.はじめに」)
同論文は阪口教授の私見であり試論であるとされる。つまり、河村市長が公開質問の主張を補強する根拠とするには、そもそもそぐわないものである。


続く「2.芸術に対する国家の援助と干渉」及び「3.政府言論という問題」において阪口教授は述べる。


「一方で国家の側からすれば芸術をコントロールしようとする動機があり、他方で芸術の側からすれば自己の普及のためには国家による財政的な援助を期待せざるを得ず、こうした両者の要求が広範に交錯する現代の国家にあって(略)文化に属する芸術に対して国家が選別的な形で援助を行う際にも、やはり政府言論という視座は無視しえない意味を持つはずである。」と、注意を促している。


「4.政府言論のディレンマ」において、その「政府言論」についての論考は深められていく。


「国家が私人のなす表現行為に対して内容に基づく<規制>を行う場合、わいせつ表現や名誉毀損など一定のカテゴリーに属する表現行為の場合を除いて、規制は最も厳格な審査に服する。では、私人の表現行為に対する国家による内容に基づく選別的な<援助>の場合にも、同様に考えるべきだろうか。あるいは、そもそも政府言論に問題があるのだとすれば、より広く、政府言論は一般的に許されないと考えるべきだろうか。(略)政府言論には危険性と同時に積極的なメリットがあり、そのことは、政府言論の危険性が問題になる、表現行為に対する国家の選別的な形での援助についても(略)少なくとも部分的にはあてはまる。『政府言論のディレンマ』『政府言論のパラドックス』と呼ばれる。」


「民主主義国家において、われわれが主権者として国家の行動を監視し賢明な判断をしようとすれば、われわれは政府の立場を知る必要がある。」


「さらに、資本主義のもとで言論市場が一定の私的権力によって独占される危険性がある場合に、国家は、そうした環境にあっては容易に市場に登場しそうにない私人の表現行為に財政援助をなすことで、言論市場をより豊かなものにすることによって、民主主義や個人の自立といった価値に貢献することができる。」


「国家が表現行為の内容に基づいて選別的に援助をなすことが禁じられている領域があることを考えればわかる。それは、道路や公園などいわゆるパブリック・フォーラムの領域である。」


「道路や公園など典型的なパブリック・フォーラムの領域において、国家が表現の内容に基づいて規制を行う場合、規制は厳格な審査に服し、よほどのことがなければ合憲とされることはない。道路や公園が公の営造物であろうと、国家はそこで私人が自己の所有する土地において振舞うのと同じように振舞うことが許されているわけではない。」


「『芸術としての卓越性』という選別基準も、(略)一般的には許されるはずである。(略)芸術作品としてすぐれたものではないという理由で国家が援助を拒否することは可能である。そもそも芸術活動への財政援助という制度の趣旨は、すぐれた芸術作品の供給を促進することにあるはずであり、質の劣った芸術活動にまで援助することは制度の趣旨に反し、制度それ自体の存立を危うくさせる可能性がある。」


「しかし他方で、国家はいかなる内容に基づく選別をしても許されるというわけでもないはずである。たとえば、自民党を支持する芸術家には補助金を支出するが、自民党を批判する芸術家には補助金の支出を拒否するといった形での選別的援助は憲法上の問題を提起する。」


「国家が芸術活動に財政援助をなすかどうかは国家の正当な裁量の範囲内にあり、しかも国家は財政援助をなすにあたって、私人の表現行為を規制する場合とは異なって、一定の内容に基づく選別をなすことも許されていると考えられるが、だからといって国家の内容に基づく選別に憲法上の制約が全くないわけではない。」


最後の「6.観点に基づく選別」において。表現行為の内容に基づく選別を「主題に基づく選別」と「観点に基づく選別」という伝統的な表現の自由理論の分類に従って考察すると、「主題に基づく選別が、国家が芸術に援助をなす場合には、国家が単純な検閲者として立ち現れる場合とは異なって、一般的に許される可能性がある。」


観点に基づく選別はどうだろうか。「自民党を支持する芸術家」という例で考えたように「観点に基づく選別の禁止というルールは有効そうに見える。」しかし、話はそんなに単純ではない。


「芸術としての卓越性」といった基準は、観点に基づく選別とそう簡単には切り離せない。


「芸術活動に対する国家の援助という領域においては、観点に基づく選別の禁止というルールですら、ある程度適用範囲を限定し、すぐれた芸術の促進という制度の存立目的と合理的関連性のない『純粋な観点に基づく選別』を禁止することにとどまざるをえないだろう。(略)学問の自由の場合と同様に、やはりこの領域において肝要なことは、すぐれた芸術に対して援助を行うという制度それ自体をできるだけ政治から切り離し、『(芸術としての卓越性という)基準を政府が過度に政治化させないようにすること』であり、制度それ自体の自律性を確保することである。」


明白だろう。「すぐれた芸術に対して援助を行うという制度それ自体をできるだけ政治から切り離し(略)政府が過度に政治化させないようにする」ことが肝要であると政治の介入を排除しているのである。


つまり、ここにおいて、河村市長の主張は阪口教授の論考で否定されている。




この阪口論文に先行する奥平論文において、まるで予言を見ているような、歴史的重層性に驚かされる。


先に上げた「福祉国家における表現の不自由➖富山県立近代美術館のばあい」及び「”自由”と不連続関係の文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化➖最近の美術館運営問題を素材として(上)(中)(下)」は奥平康弘さんの著書「憲法の想像力」(日本評論社 2003年)に収録されているようだ。以下ではその書籍からの論考を述べる。


繰り返すが、阪口正二郎教授の論文を、公開質問状の中で引用したのは河村たかし名古屋市長本人であり、その阪口正二郎教授の論文は先行研究として奥平康弘さんの論考を下敷きとしている。


同書142ページより「”自由”と不連続関係に在る文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化/最近の美術館運営問題を素材にして」と、阪口さんが参照している論文が掲載されている。(初出:「法学セミナー」2000年7・8・9月号)


「『天皇コラージュ』事件とは、1986年3月、富山県立近代美術館が催した『’86富山の美術』展で展示されていた大浦信行作品『遠近を抱えて』を、数十日後に県議会において県議二名が『不快だ』と非難し、さらにそれをきっかけに右翼団体が大規模な反対・抗議運動を組織化し、大きな騒ぎになったことに、端を発する。県の美術館はこうした動きに動転し、問題の作品を早速非公開とする措置を講じた。県側の対応はまことに徹底したものであって、問題作品を館外に売り払い、同展覧会のための図録も一切焼却してしまった。
県議たちにより『不快だ』として『展示するチャンス』=『表現の自由』を奪われた作品は、当時存命中であった昭和天皇の写真を題材にし、その周辺にヨーロッパで名画として知られているボッティチェリの裸婦像の部分などを組み合わせて作られた連作コラージュ版画である。県議らは、これを『天皇のプライヴァシー』『天皇の肖像権』を侵した不敬作品であるときめつけたのであった。『天皇中心の”神の国”』を信じる(あるいは信ずる振りをする)ことによって人びとの注目をひこうとした地方政治家の思惑は、ものの見事に当たった。また、なにかことを起こすことによって、勢力の維持・拡大をはかろうとしていた右翼団体にとっては、これは物怪の幸いであった。全国のあちらこちらから拡声器を積んだ自動車をもって、続々と富山市に集結。喜々として抗議運動を展開した(富山県立近代美術館問題を考える会編『全記録 裁かれた天皇コラージュ』桂書房、2001年、参照)」(憲法の想像力 p.145)


事実として明白なように「昭和天皇御真影」を焼いたのは、大浦さんの作品を収めた図録を焼いた富山県立近代美術館なのであって、そう追い込んだのは、「不快だ」として大浦作品を否定した県議や右翼団体である。


こうした出来事に出会い、その心情を映像作品にしたのが、今回あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」で展示された大浦作品の「オリジナル作品」であり、本来は1時間を超える映像作品となっている。それをあいちトリエンナーレの会場では20分程度のダイジェストにまとめて展示していた。同会場では、作品の閲覧前に注意書きがなされ、不用意に閲覧しないように警告、ゾーニングがなされていた。そうした中で動画を勝手に報道引用し、更に「天皇焼損シーン」だけを切り取って繰り返し放映したのがテレビのワイドショーであり、インターネット上の違法転載サイトである。
批判はこの切り取られた「天皇焼損シーン」に対して行われているものであり、もはや大浦さんの作品とはいえない、あまりにも歪められた事実経過と言わねばならない。


その後、富山県では大浦作品の再展示を求める訴訟が起こされ、いわゆる「天皇コラージュ問題」として取り上げられることになるが、再展示は認められなかった。


「公の施設としての美術館は、従来からの実定法システム(およびそれを前提とした行政法論理)に守られて、美術館経営に関して非常に広い --ほとんど不当といいたくなるほど広い-- 裁量が授権されていると考えられてきている。富山県立近代美術館が『天皇コラージュ』作品に対しておこなった非公開措置も、これの当否を訴訟という形式をもって争うことは、たいへんに難しい。誰が、いかなる権利にもとづいて、美術館のどんな行為を、違法として争うことができるのだろうか。要するにいままでは、県が配分する予算の範囲内で美術館は、作品の購入・売却・展示・その差し替えなど、経営の根幹にかかわる部分において、裁量、すなわち『法から自由』の行動余地を与えられてきている。館の措置によって利害・損害を受ける者があるにしても、そのすべては『法と無関係』な事実上の(反射的な)利得に過ぎないのであって、裁判上の救済その他の法の対象たりえない --そういう建前で制度が作られ運用されてきている。」(憲法の想像力 p.147)


つまり上記で阪口教授が指摘されたように、「『政府が過度に政治化させないようにすること』であり、制度それ自体の自律性を確保」されているがために、美術館が「非公開」と決めてしまえば、それを覆すことはできない。


これは翻って言えば、正当な法的観点から見た場合、今回のようにあいちトリエンナーレ実行委員会や、その個別展示である「表現の不自由展・その後」のキュレーターなど、展示主体が公開を決めた以上、政治が介入する事は不当であるということだ。作品に対する意見や批判は自由に行えばいいが、政治的に介入すれば不当な事となる。当たり前過ぎて、繰り返すのもバカバカしいが、河村市長の判断が、不当であり、間違っている。


更に奥平さんは同書で非常に示唆に富む事例を報告されている。それはまるで今日の予言である。それが「ニューヨーク市ブルックリン美術館」における騒動の顛末である。


「まず、ブルックリン美術館をめぐる話である。ことのありようはこうである。ブルックリン美術館は、1999年10月はじめに、ある大規模な特別展を開く予定で計画を進めていた。ところが、この展覧会で展示されることになっていたいくつかの作品の内容がよろしくないという理由で、開幕間際、9月半ば過ぎになって、当該美術館の親元であるニューヨーク市の市長R・W・ジュリアーニが、美術館側に計画の変更を求めるという事態へと発展した。しかし美術館はこれに応じなかったため、ジュリアーニ市長は、毎月公費で支払われる美術館運営費(月額49万7554ドル)の打ち切りを決定するとともに、美術館に対する土地建物の貸与契約の破棄を通告するという、異例の強硬な挙に出たのである。すなわち、いまや美術館は、ひとつの展覧会計画を実行しようとしたために、それに異議を挟む市長によって、美術館の存立そのものを葬り去られる瀬戸際に立たされるにいたったのである。」(憲法の想像力 p.150)


「この騒ぎがどんなふうに結着がついたかというと、 (略) 散々のケチにもかかわらず美術館は当初の計画を全く変えること無く、予定どおり (略) 難なく終幕を迎えた。 (略) 暫定推定での入場者数18万人にのぼり、現代物としては美術館はじまって以来最多の観客を集めたという。 (略) この現象の背後にはジュリアーニ市長の馬鹿騒ぎがあったのであって、展覧会成功はこの市長の愚行の功績によるところが大きかったという皮肉的な見方が成り立つかもしれない。」(憲法の想像力 p.151)


あいちトリエンナーレ2019においても、来場者数が67万人を超え、過去最多となった。「市長の愚行の功績によるところが大きかった」というところまで同じとなった。


問題の作品展とは「センセイション――サーチ・コレクションのなかのイギリス若手芸術家たちの作品群」と題するもの。


「市長(ジュリアーニニューヨーク市長:引用者補足)が本件展覧会『センセイション』開催反対理由として挙げたのは、まずC・オフィリ『聖なる処女マリア』である。この、ケニア出身の画家が描くマリア像では、一方の乳房に象の糞を素材に用いており、その背景には臀部や女性器の写真小片が散りばめられているという構図の、いってみれば独特にアフリカ調が強くうかがわれる作品である。ジュリアーニ市長は、この作品をつかまえて『私を不快にする』『むかつく』と酷評し、さらに公金支出打ち切り決定を次のように説明した。『あなた方は、政府の補助金をもらって、他のだれかの宗教を冒涜する権利など持っていないのだ。だから、われわれ市当局としては、美術館長がまともな分別を取り戻すようになるまで、美術館への公金支出を中止するなど、やれることはすべてやる意向である。美術館としては、自分たちが政府から補助してもらっている施設である以上は、社会に在る人びとがもっとも個人的に深く抱懐する信条を傷つけるようなことがあってはならない、と悟るべきなのである。』と語り。
返す刀で市長はまた、動物の肉片等をフォルマリン漬けにしたものを素材にしたハーストの作品にも言及し、これにも『むかつく』と評して打ち棄てた。爾来、この騒動のなかでは、『むかつく』(sick)というジュリアーニ市長の評言が流行を見ることになる。」(憲法の想像力 p.157)


ジュリアーニ市長は宗教感情に訴えたが、かれ自身カトリック教徒であるのは公知の事実であり、従来からそれを売り物にもしてきたところでもあって、かれのこの訴えはニューヨークに少なくはない同宗派の面々の支持を見込んだうえでのことである。」(憲法の想像力 p.158)


つまり、今回のあいトリ騒動では日本国内の「天皇崇拝者」の宗教的シンボルが「穢された」のであろうし、ブルックリン美術館での騒動では、カソリックの宗教的シンボルである「マリア像」が「穢された」ということなんだろう。


ジュリアーニ市長からみれば、この作品(C・オフィリ「聖なる処女マリア」:引用者補足)は反カトリック的であるがゆえに『むかつく』のであるが、じつをいえば、これを作ったオフィリもまたカトリック教徒なのであって、この作品にはなんの神聖冒涜・反カトリック的な意味合いをこめていないのだ。と抗弁する。象の糞を使ったのが侮辱的証拠だという非難に対しても、オフィリの出身地アフリカのある地域では、民族宗教のうえで象の糞は豊穣神のシンボルとしてむしろ神聖視され、かかるものとして象徴的に用いられてさえいるという話もあるのである(オフィリは、本件展覧会で展示されるかれの他の作品のいくつかでも、同じく象の糞を素材に用いている)。」


「作品の美醜をめぐる美学的な判断というものは、なかなかに微妙なものがある。そうだから、公金を扱う権力者は極力この判断世界に入るのを避けねばならないということになるのだが、ジュリアーニ市長はそうは考えなかったようである。」(憲法の想像力 p.158)


つまり、ジュリアーニ市長の無理解がこの騒動の発端なのであり、異なるエスニシティに対する不寛容が問題だったわけだ。


このブルックリン美術館での騒動、ジュリアーニ市長の騒動、または「センセイション/サーチ・コレクション」の騒動は、美術に詳しい人々の中では有名だそうだが、あいちトリエンナーレ騒動では、そうした意見は聞かれなかった。河村市長は、画廊を経営していた「画商」だった筈なのだが、こうした事例について、ご存じなかったのだろうか?


「80年代 (略) 芸術家たちの作品評価をめぐり大論争が生じた。こうしたばあい、議論の場は、けっしてただ単に芸術家同士あるいは芸術愛好者とか鑑賞市民とかいった、諸個人間の芸術論争という形で展開するのではない。きわめてしばしば、公金支出という契機を媒介として公権力主体が出てきて、芸術論争にある種独特な公的裁断をくだすという構造というかしくみになっている。そこに現代社会の特徴のひとつを見いだす、とさえ言える。」(憲法の想像力 p.174)


今回、このニューヨークにおける騒動と教訓を理解しないものが、この愛知県において同工異曲の騒動を引き起こしている。ビスマルクの警句「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは将にこのことだろう。


奥平康弘さんは同書で次のようにも述べてみえる。


「シフリン(Steven H. Shiffrin(Cornell Law School ) チャールズ・フランク・リービス法学部名誉教授:引用者補足)は、ある書物(The First Amendment, Democracy, and Romance, Harvard Univ. Press, 1990:引用者補足)によって『なぜ表現の自由は保証されねばならないのか』という問題に独創的な考察を加えているのであるが、それは結果において、さっきから言っている『想像力』ということと通底するところがある。


シフリンは言う。表現の自由なるものは、一九世紀中葉以降の詩人R・W・エマソンウォルト・ホイットマンなど個人主義的・反抗的・反権威主義的な人たちに象徴されるような性格のロマンティックな傾向を持つ者たちにこそ保障されるべきなのだ、と。どうしてそうなのか。


こういった人たちの言説は、反体制的・革新的・創造的であって、少数派であるがゆえに、政府や社会によって抑圧されるのが常である。けれども、こうした思潮こそが、社会に活力を与え、人びとを生き生きとさせ、民主主義を推し進めるものなのであって、そうだから、こういった傾向の意思表明を自由闊達に行わせるためにこそ、表現の自由憲法保障はあるのだ(あるべきなのだ)、とシフリンは言う。ここにはまさに、「想像力」をはたらかせ憲法憲法たらしめようというぼくの主張しているところと、オーバー・ラップしているところがあるのではないだろうか。」(憲法の想像力 p.22)


河村市長は、将に自由を尊重し、個人主義的であり、反抗的であり、反権威主義的な者だったはずだ。


そうした者が、自ら権力を握り、狭隘な思い込みから他者を批判し、他者の思想を排除し、聞く耳を持とうとしない。文化や価値観といったものの多様性を理解せず、他者の主張に対する「想像力」を失う。


権力が腐敗するとは、この「想像力」を失ったとき、思想の空間がよどみ、腐敗が始まるのだろう。


以上のように、名古屋市控訴審においても、特定の芸術作品について、河村市長個人の独特な見解に基づいて非難し誹謗する主張を繰り返していることは名古屋市民として容認することはできません。


以上

後日請求書本文(名古屋市職員措置請求書)も、許可が得られれば掲載する予定です。


河村流減税(縮小均衡論)が奪ったもの

 新自由主義視野狭窄の思想だ。空間的には自国だけ、自分だけの狭い範囲の利己主義を肯定し、それを「現実主義」などとごまかす。時間的には過去からの教訓を汲もうとせず、将来への備えを否定する。今、ここでだけ有利な、目先の「思いつき」に固執する。これが新自由主義に他ならず、竹中平蔵などの主張に賛同する、自民党の清和会や維新がこうした主張を繰り返している。

 社会設計には健全な冗長性が必要であるにも関わらず、”今の社会”にとっての最適ばかりを追い求めると、社会の変化に対応できなくなる。

 医療、保健行政を削減してきた大阪が、このコロナ対応でどのようなひどい結果を招いたか、

www.youtube.com

 すでに明白だろう。

 そうしたところ、今朝の新聞を読んでいて驚き、呆れた。この参議院選挙に立候補している維新の候補が「ひとりの子も死なせない日本!」というキャッチコピーを掲げている。  

 前名古屋市副市長、河村たかし名古屋市長の下で副市長を努めていた人物だ。

某維新候補

 名古屋市が「ひとりの子も死なせない」と言えるだけのなにかの成果を上げているのであればまだしも。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/ichi-nagoyajin/20211124/20211124152506.jpg

 に示されているように、名古屋市内の中学校における生徒の自死事案は止まってなどいない。この問題の責任のすべてが、河村市政によるものなどとは主張しない、それぞれに様々な原因、問題があったのだろう。しかし、少なくともこの4年で11名の尊い命が失われている。こうした現実を受けて、では河村*1はなんらかの対策を取ろうとしているのだろうか。十年一日の如く「なごや子ども応援委員会」の設置を言うだけで、それが効果を見ていないことはこの資料からでも読み取れる。

 そもそも例えば、市民集会など開いて名古屋市民の意見を聞くという事が行われただろうか。全く行われてもいない。無策。

 それでいて、この11名の事実を無視するかのように「ひとりの子も死なせない」などと、策があるかのように喧伝する姿勢は有権者を騙すにしても、子どもの命を種にして有権者を騙す。人としてあるまじき行為ではないかと思えてならない。

 更に言うと「ひとりの子も死なせない」などという主張自体が視野狭窄に陥っている、非常に視野の狭い狭隘な主張であると指摘せねばならない。

 河村たかしはこの10年ほどで、名古屋から約9,000人の子どもを失わせている。

 日本の社会は出生数がどんどん落ちている。少子高齢化に対応していった結果、その想定以上に出生数が落ち、少子高齢化に拍車がかかっている。

 本来は、こうした子どもの減少や、社会の存続をはかるために「こども庁」を設立するという議論であったはずが、知らぬ間に「こども家庭庁」といういかにも自民党清和会的な、頭の悪そうな夾雑物が挟み込まれた。

 政治が「家庭」について、あれこれ口を出すなんてのは、全く僭越至極な態度であり、政治の本来の在り方は、国民個々人の求める「家庭」の姿を受け入れるプラットフォームづくりではないのだろうか。さらに「あるべき家庭」なんて口出しまでしそうな勢いで、こんな事を続けていけば、却って「あるべき家庭」の姿からはじき出された人々が、子どもを持つことが一層困難になる。

 急務は、どのような人であれ、どのような形であれ、子どもを産み育てられる社会のあり方が模索されるべきではないのか。そしてそれこそが政治が語るべき事柄ではないのか。

 以前、「縮小均衡論」が社会を縮め、経済を縮小させ、若者から結婚や育児の機会を奪っていると主張した。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 すでに4年前の話だ。

 私はそこでこう述べた。

「この生まれなかった『失われた第3の人口の山』に示される、数十万人、百万人を超える子どもたちの背景には、失われた数十万という家庭があり、そこで育まれる生活や喜びがあった筈だ。ヒトが育ち、独り立ちをして職を得、社会を支える。その中で伴侶と出会い、家庭を築き、子どもを生み、育てる。そして子どもたちの成長を見守り、子どもたちの成長から学び、やがて子どもたちの独り立ちを見守る。必ずではないし、絶対でもないが、こうした当たり前の生活の姿は、ヒトの幸福そのものだろう。そうした幸福を、根こそぎ奪ったモノが、この30年ほどの日本の経済政策だ。『ひとり暮らしの40代が日本を滅ぼす』のではない、日本を滅ぼす経済政策が、雇用政策が、ひとり暮らしの40代を生んだのだ。」

 厚生労働省のサイトに出生数の推移がある。

出生数推移

www.mhlw.go.jp
 
 この図表の元となった出生数推移を見ると、2009年の出生数を基準にすると、累計で約80万人出生数が減っている。(2009年の出生数が、2019年まで続いていた場合と、現実との差が約80万人)

 ある人はこれを「子どもを産む前に殺してしまっている」と評した。

 公務員の給料が高いと見れば、それを引き下げようとするようなさもしい「引き下げデモクラシー」が、この日本の社会をどんどんと奈落の底に落としていった。

 他人を引き下ろしても、自分は浮かばれない。逆に、他人が浮かぶように考えることが、回り回って自分の身をも助ける。これが理性のある人間の姿ではないのか。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 そうはせずに、公務員の給与を引き下げる、議員の報酬を引き下げる。そうしたさもしい精神が、やがて自分の収入をも引き下げることとなり、社会全体の経済を収縮させる。

 経済は、トレード・オフの関係にはない、公務員給与が下がれば民間の給与が上がるなどということはない、経済とは循環であり、メリーゴーランドのようなものだ。公務員給与が上がれば、公務員の消費が活発になり、市中の消費が活発化する。市中の消費が増えるということは、雇用が生まれ、市中の企業の売上も増え、そこに雇用されている社員の給与も上がっていく。社員の給与が増えれば、より一層消費は拡大し経済が活発化する。

 メリーゴーランドの何処かを止めたり、遅くすれば全体が止まり、減速する。名古屋市における「河村流減税政策」(通貨発行権のない地方が、歳出を削減して減税を行う政策)は、歳出を削減する事で、その事業を受ける民間企業の売上を減らすという縮小均衡を加速する政策であり、経済が収縮する時には行ってはならない失政である。(なので、日本全国どこも真似をしないし、経済学や行政学からも完全に無視をされている)

 しかし、こうした縮小均衡論の影響は確実に名古屋市内にも影響を及ぼし、名古屋市内における出生数も全国平均同様、減少を続けている。

名古屋市内出生数推移

 河村たかし名古屋市長となった2009年を基準に考えると、2020年までの11年間で累計9,194人「生まれなかった」事になっている。

 為政者として、この出生数の減少を我が事のように考えなければ、政治家ではない。「ひとりの子も死なせない」などとは、こうした現実を把握できない亡者の虚言にほかならない。河村たかしはこの10年ほどで、名古屋から約9,000人の子どもを失わせ、そこにあった当たり前の生活の姿、ヒトの幸せを奪っているのである。


*1:ここに敬称など要るか?

今般の一連の経緯

前回のエントリーで掲載した、令和2年6月30日の減税日本からの回答。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/ichi-nagoyajin/20220111/20220111120524.jpg


「今般の一連の経緯」について、「詳細な経緯が公表され次第、その経緯を精査の上、対応について随時検討」するとしているが。結果、この公開質問状にも回答はなく、減税日本のサイト、減税日本ゴヤのサイトにも情報の掲載はない。

genzeinippon.com

genzei758.com

当時、河村たかしは「議会によるパワハラ」であると騒いでいたが、この人物が「ハラスメント」について語ったところで説得力はない。自分たちが困れば「パワハラ」で、自分たちが行った行為については何ら反省も情報公開も、ましてや謝罪もないのが河村たかし及び減税日本である。


「今般の一連の経緯」というのは、2020年5月12日に発表された「ナゴヤ新型コロナ対策でらハートフル基金*1設置に係る問題で、それに伴う減税日本ゴヤ大村光子幹事長への「不信任決議」に至る「経緯」である。以下に時系列の整理と、主な問題点の抽出、更に当ブログの過去記事へのリンクを示す。

あらすじをかいつまんで話すとすれば、他会派(自民、民主)の議員から提案のあった基金設立について、河村も市長として承知しているなか、財政局において設立の調整がついた段階で、自派である減税日本ゴヤから「要望書」を提出させて、新聞記事にし、活動をアピールした。更に市長会見で設立を発表し、その際には他会派の議員からの提案であることなどは伏せられ、河村は完全に成果を横取りした。

なおかつ、その後の臨時議会減税日本ゴヤから質問の形で「提案」をさせるつもりで居た。しかし、そもそも河村が先行して発表してしまっているので、財政局より議会における「質問」にはなじまないと諌められた。

更に、基金設立の経緯において、他会派の議員の働きが有ったことから、議会における質問とするのであれば、当該議員には事前に説明したほうが良いと提案された。ここから減税日本ゴヤ内で、質問を出す出さないと動きが二転三転し、質問提出期限を超えてしまった。調整の中で最終的には減税日本ゴヤは別の質問を通告した。

質問通告の調整において発言が二転三転し、提出が遅れたことについて議運理事会が大村幹事長に釈明を求めていたところ。理事会の頭越しに大村幹事長は佐藤夕子団長とともに、自民党渡辺団長の自宅を訪れ「斡旋」を求める。これ自体も非常識な行動だが、あろうことかこの際、渡辺団長に嘘の事情説明をしてしまい、斡旋を断られ、明らかな釈明ができなかった大村幹事長には「不信任決議」が突きつけられたということになる。

以下に経緯がある通り、大村光子幹事長自身が嘘をついたのではないかもしれない。大村幹事長に嘘をつかせた人間が居る。

時系列整理

2020/04/20(月) 斎藤たかお(自民党・中村区)議員から、財政局に基金設立に関する情報を求める要請

2020/04/21(火) 斎藤議員から、財政局にコロナに関連する基金設立に関する要請

2020/04/22~23 河村市長、斎藤議員と電話で会話
  新型コロナウィルス感染症対策事業基金の提案。市長は設置すると回答。

2020/04/30(木) 減税日本 河村市長に基金設立の要望書を提出
  この段階で減税日本の市議は他会派から基金設立に関する動きがあったことは聞かされていない。
  しかし河村は勿論それを知っていた。・・・問題点A

2020/05/12(火) 河村、市長会見で「ナゴヤ新型コロナ対策でらハートフル基金」を設置と発表・・・問題点B,問題点C

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/ichi-nagoyajin/20200516/20200516091017.jpg


2020/05/12 15:00頃 減税日本 豊田議員、名古屋市財政局総務課庶務係に架電

  財政局、豊田議員から基金設立に関する質問骨子を15日の臨時会個人質問として受領。
  その際総務課長から豊田議員へ「本件(基金設立)は本日 14:00 に市長が記者会見した。
  今後報道される。答弁内容と重複する。担当課に連絡し、記者レクでのやり取りを説明する」

  それに対し豊田議員は「明日10時頃に鹿島議員に相談する」と回答。

2020/05/12 16:00頃 豊田議員に資金課長から上記記者レクにおける記者提供資料等を説明。

  「5月12日に市長が基金設立について記者発表してしまっており、
  質問内容は基金設立に対する要望と、それが実現されたということであれば、
  市長記者発表、その後の報道をなぞる内容であり、
  周知の事実であるなら議会で「質問」する必要はない。新聞を読めば判ること」などと説明。

問題の13日

2020/05/13(水) 9:30頃 減税日本と打ち合わせ。

  減税日本出席者:豊田、鹿島、佐藤、大村(途中退席)、
  当局出席者:財政局総務課長、庶務係長

  市当局より減税日本に(基金設立に関する報道の)新聞記事等の写しを提供。
  豊田議員から新たな質問骨子を受領。

  財政局
  「基金設立はほとんどの報道機関で取り上げられている。
  質問を頂いても報道をなぞるような答弁になってしまうがよいのか」

  「5月15日の本会議個人質疑の質問内容の通告まで時間がない。
  通告されるのであれば、基金の設置に関して自民と民主の議員からも話があったことから、
  減税日本から事前に自民、民主にお伝えいただいたほうがよい。

  自民の議員は市長とも電話で会談し、基金設立について提案していると伺っている」

  「通告の前にこうした調整を行わないと質疑中やその後に混乱する可能性がある。
  議会担当としては本意ではない」

  減税日本
  「他に質問する会派はあるのか。文章として要望している会派はあるのか」

  財政局
  「ない」

  減税日本
  「要望書として市に提出しているのは減税日本のみであれば、問題はないと思う」・・・問題点D
  「質問者は鹿島(副団長兼新型コロナウイルス感染症等危機管理対策委員長)か佐藤(団長)か決まっていない」

  財政局
  「要望書という形ではないが、自民、民主の議員には減税日本の要望よりも前に話をいただき、
  以降、適宜報告も行っている。
  そのことは減税日本の皆さんはご存じないことなので、ここでハッキリとお伝えしておきます。
  後で知らなかったと言われても、私たちも立っていられない(責任をとれない)ので、
  ただ、調整するかしないかは、最後は議員同士の問題です」


2020/05/13 10:30頃 総務課長、減税日本手塚議員に電話

  総務課長
  「基金設置に関しては、すでに報道されており、また、
  質問を行うのであれば他の議員との調整を要すると説明したが、
  会派内で動きが見られないので心配だ」

  手塚議員
  「鹿島議員(副団長兼新型コロナウイルス感染症等危機管理対策委員長)に伝えておく」

  後刻、手塚議員から総務課長に電話。鹿島議員に電話し、
  基金設置に関する質問は行わない方向で調整をした。

2020/05/13 12:00頃 市会事務局議事係長から財政局庶務係長へ

  財政局庶務係長
  「基金については、減税日本よりも前に話をいただき、その都度ご報告している議員がいる。
  通告されるのであれば、事前に調整されたほうが良いと思うと減税日本の議員にもお伝えしているが、
  通告は出そうか。
  調整は誰と行っているのか」

  市会事務局議事係長
  「出すと聞いている。調整は大村議員としている。
  財政局と健康福祉局一体に対する質問としたいとの意向だ」

5月臨時会の質問通告期限はこの12時で、すでに過ぎつつあります。
減税日本は市会事務局に調整を大村幹事長としていると伝えている事がわかる。・・・問題点E

2020/05/13 12:30頃 減税日本、財政局打ち合わせ

  減税日本出席者:佐藤議員、大村議員、
  財政局:総務課長、庶務係長

  財政局
  「通告さるのであれば、あらかじめ関係議員の耳に入れておいたほうが良い。
  今朝にもお伝えしているが、調整された様子がないが、
  通告が出そうだということで慌ててきた」

  減税日本
  「(調整は)必要ないと思う」
  「(最終的には)私(大村議員)が調整する」

佐藤夕子団長が「自民党民主党の議員が先行して提案していると言っても、要望書という形で具体的に提案しているのは減税日本なのだから、減税日本が質問することについて、自民党民主党の議員に事前に説明する必要はない」という趣旨の主張を繰り返していたようだ。(この考え方は、今も変わっていないらしい)

  財政局
  「関係議員は具体的には、自民党は斉藤議員、民主党は山田議員。
  いきなり大村議員から電話があるとびっくりするので、
  まずは当局から関係議員に連絡がある旨をお伝えする」

後に、大村幹事長は弁明で「12時35分頃に、私に対し、議員個人名を挙げて、通告内容の調整の提案を受けました」と言っている、大村議員はこの段階まで調整対象の議員名を知らなかったらしい。しかし財政局が減税日本に「調整が必要」と伝えたのは、9時30分の会合であって、大村議員の認識とズレが有る。

これがこの問題の重要なポイントで、9時30分の会合について、当局のまとめ資料で大村議員は「途中退席」と明記してある。大村議員は途中退席したために、具体的な調整相手について、この段階まで知らなかった。つまり9時30分の会合を「途中退席」したために申し送りを受けていなかったということになる。ここで申し送りをするべきは佐藤夕子団長であろうことは明白で、佐藤夕子団長がなぜ、大村幹事長に申し送りをしなかったのか。故意に? または、「忘れていた?」どちらにせよ、問題の原因はこの佐藤夕子団長の行動にある。

この段階で、

9:30頃 の減税日本と財政局の打ち合わせでは、減税日本は他会派との調整は不要であるとしている。
    財政局は必要であるが、最終的には議員の判断であるとしている。

10:30頃 総務課長が減税日本手塚議員に電話
    後刻手塚議員から総務課長に電話があり、その中で「鹿島議員に電話し、
    基金設置に関する質問は行わない方向で調整中である」と知らせる。 ・・・話が一転

    ところが、

12:00頃 市会事務局議事係長から財政局庶務係長へ

    「(質問通告を)出すと聞いている。調整は大村議員としている」と ・・・話が二転

12:30頃 減税日本、財政局打ち合わせ

    減税日本の発言として、
    「(調整は)必要ないと思う」と ・・・話が三転

    「(最終的には、)私(大村議員)が調整する」と ・・・話が四転

繰り返しますが、5月臨時会の質問通告期限はこの12時が期限で、すでに期限を過ぎての調整で話が二転三転しているのです。

2020/05/13 12:40頃 庶務係長から斉藤議員に電話
2020/05/13 12:50頃 庶務係長から山田議員に電話

2020/05/13 13:15頃 小出議員から庶務係長に電話

  自民党控室で経過説明
  自民党出席者:小出議員
  財政局:庶務係長、総務課長

  基金設置の提案に関して、当局がやり取りした内容を説明。
  説明内容を時系列でメモにするよう依頼有り。

財政局から斉藤議員に電話があった直後に、同派の小出議員(自民党市議団幹事長)から財政局に電話がかかっている。斉藤議員が対応について自派の小出幹事長に相談したものとみられる。
小出幹事長としては、ここではじめて事態を把握することとなる。(質問通告の期限は既に過ぎている)

2020/05/13 14:30頃 小出幹事長、斉藤議員、財政局から2名の職員が「局が作成した書面」を持って減税控室を訪問

  質疑について検討するよう申し入れ。

  減税日本はこの申し出を受け入れる。

2020/05/13 16:30頃 議会理事会、開催(約3時間の遅延)

大村幹事長の説明が二転三転
遅くなったので、週明けの19日に再度、大村幹事長から釈明を伺う事となる。


2020/05/18(月) 渡辺義郎自民党市議団団長宅を、減税日本ゴヤ佐藤夕子団長、大村光子幹事長が訪問。・・・問題点F

  大村幹事長は渡辺団長に
  「自分は減税日本ゴヤの要望書の前に、
  斉藤市議や山田市議からの要望があったという事は知らなかった」と説明したらしい。・・・問題点G

  「自分たちはこうした行き違えから質問を提出したが、
  結果として事情を理解し質問を取り下げた。
  そしてそうした事情確認のために質問通告が遅れ、
  理事会開催が遅れたことも謝罪した、
  それなのにこれ以上責任を求められている」

  渡辺団長は小出幹事長に事情を聞く、

  小出幹事長は
  「大村幹事長が減税日本ゴヤの要望書の前に、
  斉藤市議や山田市議からの要望があった事を知らなかったという主張は納得がいかない。

  財政局はちゃんと減税日本ゴヤにそうした事情を伝えている」と報告。

  渡辺団長は大村幹事長に「あんた聞いとったんじゃないか!」と激怒。

  佐藤夕子団長、大村幹事長は渡辺団長宅から追い出されるように帰る。

2020/05/19(火) 河村、渡辺義郎自民党市議団団長に電話

  上の事態を受けて、佐藤夕子団長から河村代表に報告が上がり、
  河村が渡辺義郎自民党市議団団長に「執り成し」をはかろうとした。

2020/05/19 市議会、深夜まで10時間近く空転
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/ichi-nagoyajin/20200521/20200521164041.jpg


2020/05/28 減税日本 名古屋市会に公開質問状
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/ichi-nagoyajin/20200530/20200530143714.jpg

2020/06/02 森、減税日本に公開質問状

2020/06/04 名古屋市会議長 減税日本に公開質問状回答

2020/06/11 減税日本 名古屋市会に再度公開質問状

2020/06/15 名古屋市会議長 減税日本に再公開質問状回答

2020/06/30 減税日本 森に回答

各問題点の精査

問題点A

この問題の起点はここにある。他会派の市議が提案した基金設立を、河村は知っていた。にも関わらず、その基金設立を自派の成果であるかのようにアピールさせるため、設立に向けた要望書なるものを自身の党から提出させている。

完全に成果の横取りだ。

減税日本ゴヤのメンバーも、こうした成果の横取りに疑問を持たないのだろうか。
減税日本はこうした愚劣な人間の集団ということが判る。

問題点B

他会派の議員からの提案を、まるで自分の発案かのように発表する。
河村お得意の成果の横取りである。

河村は市長就任直後の「水道料金の値下げ」以降、こうした成果の横取りを繰り返している。

問題点C

河村の愚劣はそれにとどまらない。

なぜ、発表を一週間待てないのだろう。

15日の臨時議会質問で、減税日本ゴヤの市議から基金設立について提案をさせる。それに対して回答する中で、あたかも減税日本の提案によって基金が設立できたかのように装うことができる。(成果の横取りだが)
しかし愚かな河村はそれが待てない。先に設立を公表してしまった。これにより15日、議会での「提案」自体が成立しなくなったのだ。愚かという以外に言葉がない。

問題点D

得手勝手な理屈であり誤魔化しだ。

時系列、事実の経緯を見れば事情は明らかな通り「要望書」以前に提案がなされている。
「要望書」などという文書の必要性はない。勝手な言い分を振り回して、それを受け入れなければ「パワハラ」だの「いじめ」だのと言い募るのは、馬鹿としか言いようがない。

問題点E

本来であれば、質問者である佐藤団長または鹿島市議が、斎藤市議、山田市議と調整すべきであった。

こうした調整は、質問内容を熟知している質問者自身が行うべきだ。しかし大村幹事長が動いている。
これは「幹事長」として動くということであるようだが、ここが最初のボタンの掛け違えだろうと思われる。

幹事長が調整するということになれば、会派間の交渉ということになってしまう。この質問に関わる行為、つまり、基金設立に関する行動を行っていたのは自民党の斉藤市議と、民主党山田市議ということになるが、自民党民主党もこれらの行為は会派としての行動ではなく、議員個別の活動である。特に会派内で報告や合意をとり会派として動いていたわけではない。そうであるなら、自民党民主党に大村が、幹事長として交渉すれば混乱するのが当たり前だ。

なぜなら、交渉相手である自民党市議団の幹事長は小出議員であり、民主党市議団の幹事長は橋本議員ということになる。両者とも自派の斉藤市議、山田市議の行動を把握しているわけでもないし、意向を知悉しているわけでもない。つまり、大村幹事長が小出幹事長や橋本幹事長に、この質問に関わる交渉を行おうとしても、そのような交渉は成立するわけがないのである。

質問者である佐藤夕子議員が斎藤市議、山田市議の元を訪れて事情の説明、調整をするべきだったのだ。

問題点F

以前の特集でも指摘したが、本来議員間で調整すべきことを、会派の幹事長で調整しようとする、幹事長で調整すべきことを団長間の交渉に持ち込む、最後は市長/代表である河村が出てくる。

上席者、肩書の大きな者が出てくれば交渉が進むなどと考えるのは浅はかに過ぎる。

問題点G

以前の特集で私が「犯人」とみなした言っていた佐藤夕子。12日9時半の会合の際、調整すべき議員の事を聞いているにも関わらず、それを大村幹事長に伝えていなかったのは佐藤夕子であり、ここ(渡辺団長への説明の席)でも大村幹事長が「聞いていない」と渡辺団長に誤った説明をしているにも関わらず、横に座っていてそれを(佐藤は聞いているにも関わらず)訂正せずに、結果として渡辺団長を激怒させてしまう。

なぜ、大村幹事長に情報を隠したのか、なぜ大村幹事長が(渡辺団長に)事実と異なる説明をしているにも関わらず訂正しなかったのか。

既存記事へのリンク

果たして、減税日本に「政治」など行えるのか? - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

5月28日減税日本公開質問状 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

大村幹事長不信任決議における減税日本の問題点(1) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

大村幹事長不信任決議における減税日本の問題点(2) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

大村幹事長不信任決議における減税日本の問題点(3) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

大村幹事長不信任決議における減税日本の問題点(4) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

大村幹事長不信任決議における減税日本の問題点(5) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

大村幹事長不信任決議における減税日本の問題点(6) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0



名古屋城天守有形文化財登録を求める会」では、
一月に一回程度、
北区にある「北生涯学習センター」で月例勉強会を開きます。

  令和 4年  1月25日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

         2月22日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

 2月22日(火)は、特別企画として。
  建築士が読み解く!
  名古屋市が作成した「幻」の名古屋城天守耐震改修案

  として、建築士 の 渡邉正之 様に
  現天守の耐震改修について、お話を伺います。

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。


*1:なんて名前だ。こんなふざけた名前こそハラスメントだろう

最も幸せな統治形態

市長記者会見

 4日に河村市長が年頭記者会見を行った。その様子をPAGEは書き起こしという形ではなく、要約として掲載している。

news.yahoo.co.jp

 一般メディアでは触れられていないが、PAGEでは「コロナ対策については、ワクチンの後遺症の対応に取り組む」と当たり障りのない表現で伝えているが、現場では「泉大津市の市長さんが言うには、若い人の場合はコロナで死んだ人より、ワクチンの副作用で死んだ人のほうが多いらしいですよ」などと切り出したようだ。また「信頼できる最新科学の情報」を「虎ノ門ニュース」ででも見たのだろうか。なぜ、河村が「虎ノ門ニュース」の受け売りを話したがるのかは、下に譲るが、少々看過できない問題をはらむので、そちらを指摘しておきたい。

 この泉大津市の南出賢一市長は「反ワクチン」では有名だそうで、市からのワクチン接種の案内に、独自のコメントを付けているようだ。

www.city.izumiotsu.lg.jp

 こちらは、市の公式なものなのでまだ表現は抑えられているが、こんな感じの会合にパネラーとして参加もしている。

https://koewoageyo-sympo20211225.peatix.com/

 また、こんな活動もしている。

note.com

 文中「泉大津の子供を守りたい」とか言っているようですが、誰かの発言に似ていますね。


 気になったのが「アトミックカーボン」というワードで、「東大が臨床研究の論文」を出していると言っているようですが、「東大 臨床研究 論文 アトミックカーボン」などのキーワードで検索してみると。

「小豆由来の極小粒径の炭素の抗腫瘍効果についての研究」
https://bloomington-vet.com/images/alternative/MJ.pdf


 という論文が出てきて、共同執筆者に「東京大学医学部附属病院肝胆膵外科」の所属者は居るようですが、どこに掲載されたものか判別が付きません。サイトは

bloomington-vet.com

のようですしね。

 論文をざっと読んでみても、シャーレの中の検体に対して行っている研究のレベルで、即座に有意性を言えるものなのか疑問がわきます。取り敢えず否定するだけの材料は持っていませんが、「アトミックカーボン濃縮2Lで¥16,831」とは良い商売だと。

www.amazon.co.jp

 そんな墨汁を薄めたような代物で、どんな効果があるかは判りませんが。こうした代替医療の問題点は「本来の治療を受ける機会を失わせる」という所にあると思っています。

 どんな疾病に対しても、医学や薬学の専門家が鵜の目鷹の目で治療方法を模索しています。そうした知識の集積は、時系列で言えば100年以上(「神農本草経」の成立が3世紀から5世紀と言われているので、知見の積み重ねは1000年以上と言える)、空間的には世界各国に及びます。そうした人類の営為以上の治療方法があるというのは、あまりにも傲慢ではないかと私は思います。

 詳しくは後に述べます。

愛知県人権尊重の社会づくり条例について

 愛知県がいわゆる「ヘイトクライム」に対応するために、「愛知県人権尊重の社会づくり条例」を採択しようとしてる。これに対して反対している人がいる。

voice.charity

 このサイト開設者は知事リコール運動の際に、名古屋駅街頭で「天皇陛下の肖像を焼いた」*1とか「特攻隊の死を揶揄した」*2とか「在日の若者とともに被災地を嘲笑する作品」*3などといった、「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」の出品作品に対するデマを街宣していた人物で、その後、南区における名古屋市会議員補欠選挙に、愛知県内でヘイトスピーチを繰り返し、ある時は国防服の一団とともに外国人を追いかけ回していた人物を候補に擁立し。中区市民ギャラリーで「わたしたちの不自由展」が行われた際には、掲示板に、自作のチラシを勝手に掲示したとして告発を受けた人物のようだ。

 この人物がデマを撒き散らしているのは、確信犯ではなく、どうも、本当にそう思い込んでいるからのようで、いくら反証を突きつけても、「揺るぎない確信」を崩すことはできそうもない。もう、お勝手にという以外無いようだ。(匙を投げるという)

 そこそこお金を使っているし、時間も相当消費している。生活に影響がなければよいがと思うが、まあ、しょうがないだろう。

 この人物は「差別などない」と言っているが、差別は厳然とあり、いわゆる「ヘイトスピーチ」も繰り返されている。

togetter.com

 これは、一昨年、名古屋市栄で行われた春節祭の際に、その傍らで大音響をもってヘイトスピーチを展開していた「愛国倶楽部」の模様だ。全体の風景も異様だが、スピーカーの数を見れば、どの程度の音量であるか判るだろう。記録では2013年に栄バスターミナル北側で騒いで以来、10年近く春節祭に対して、嫌がらせ街宣を行っている。この前年の「嫌がらせ街宣」に対して、圧倒的多数のカウンターが参集し、周囲を横断幕で囲ったりしたために、この時には「自分たちで自分たちを囲って」この様な異様な展開となったようだ。参加者もめっきり減っているし、そもそも何のために、何をしているのかもわからない。

 厳然と愛知県、名古屋市ではこのようなヘイトスピーチの実例があるのであって、そうした行動は社会全体で抑制しなければならない。なぜならば、ヘイトスピーチは「表現の自由」の範疇に収まるような話ではないからだ。

 昨年8月30日、京都府宇治市ウトロ地区で放火事件が起きた。人的被害こそ無かったものの、ウトロの歴史を紹介する資料が多数焼失したといい、人的被害が出ても不思議でなかったほどの酷い犯行だったようだ。12月に入り、犯人が検挙されたが、それは衝撃をもって受け止められた。犯人はそれに先立つ7月24日に名古屋市の民団関連施設にも火を付け10月に逮捕されていたからだ。つまり、犯人はたまたまウトロにおける放火を行っただけではなく、特定の民族に対する攻撃の意図を持って、放火という行為を行った蓋然性が高い。これは明らかに「ヘイトクライム」であり、犯人を犯行に走らせた背景に、この民族に対するなんらかの感情を抱いていたことを伺わせる。そしてその感情は、どこまで事実に基づくもので、どこから事実から遊離したものかわからないからだ。

 偏見は偏見を助長し、ありもしない「恨み」を生み出す。

 根拠もなく、歴史的経緯を無視した「在日特権」を信じこんでしまった者も多く、今も「天皇の肖像を焼いた」だの「特攻隊の死を揶揄した」だのと、新たなデマが繰り返され、偏見が偏見を助長する。

 「ヘイトスピーチ」を社会が警戒しなければならないのは、日本における関東大震災後の「朝鮮人虐殺事件」やドイツにおけるユダヤ人虐殺、ルワンダ内紛時の「千の丘ラジオ」の事例など、そうした言動が深刻な「ヘイトクライム」に繋がるからである。

 日本における関東大震災後の「朝鮮人虐殺事件」については、どうせ歴史改竄主義者は「でっち上げた」ぐらい言い出しそうなので内閣府の次の見解を示しておく。
報告書(1923 関東大震災第2編) : 防災情報のページ - 内閣府


ウトロ放火事件(2021年8月30日)
antiracismkyoto.wixsite.com


 このウトロ地区における放火犯が、名古屋で放火をした日付は、7月24日であり、その直前7月8日には中区栄ギャラリーにおける「わたしたちの表現の不自由展」に爆発物様の物が送りつけられ、同展は中止に追い込まれている。まだ何も関連を示すものはないが、私は差別を起点とした行動には、断固とした異論を唱えたい。それは私自身が、不合理な差別など受けたくないからだ。

私は、自分が差別を受けたくない、なので、誰かが差別を受けている事を見過ごすことはできない。

これらに共通するもの

 まず、なぜ河村が「虎ノ門ニュース」の受け売りを語りたがるのか、その理由から考えてみよう。

 ある人が「政治家と政治屋の違い」を語っていた。「政治家は次の世代の事を考え、政治屋は次の選挙のことを考える」私は一期目、二期目の議員が選挙を最優先に考えるのは否定しない。逆に一期目、二期目で「次の世代の事」を考えていてもほとんど何もできない。日本のシステムでは期数を重ねないと自身の政策など形にできない。しかし、三期、四期と期数を重ねても、選挙の事しか頭に無いようでは「政治屋」のそしりは免れないだろう。

 河村たかしの行動原理は、すべて「次の選挙」しかない。どう選挙に通るかしか考えていない、では、地道な政策実現を模索するのかといえば、この人物のどこをつついても「地道」なんて言葉は出てこない。結局、メディア露出「自分の名前がテレビ、新聞に載るか」しか興味がない。そこで出てくるのは「ヒトと変わったことが言いたい」「ヒトと変わったことがしたい」という発想だ。河村たかしが金メダルを噛んでしまったのも、そうした変わったことをすれば、「市長なんてことするんですか」「あ、こりゃ悪かったな」「もう、河村市長ったら、おちゃめなんだから」「ワハハ、ワハハ、ワハハ」ぐらいの展開になると思っていたのだろう。自分が73歳の汚れたジジイである事を忘れていたのだ。

 元々ワクチン否定論に親和的で、HPVワクチン(子宮頸がんワクチン)の問題の時も、わざわざ市費を使って調査をさせ、問題が究明できたら、HPVワクチン副反応被害者のヒーローになれるとでも思ったのだろう。ところが、逆にHPVワクチン副反応について否定的な結果が導き出されると、それはそれで重要な知見であったはずなのに、結果を隠蔽しようとした。事実やワクチンの対象者、科学的知見よりも、自身の売名を優先させた行動としか理解できない。

 HPVワクチンについては、確かに副反応のように後遺症に苦しむ人がいるのは事実だろう、それは否定しない。しかし疫学的にもワクチンによって抑制される子宮頸がんの発症と、全体的なワクチン副反応の発生比率では、がん抑止の方に有意性があるのは明らかであり、副反応の可能性は肯定しつつも、ワクチン接種を進めるべきなのは明らかだ。また、実際に存在する副反応、後遺症に苦しむヒトの実態を踏まえて、その原因や治療法、対処法を解明することも重要なはずだ。そうした意味からも、この「名古屋スタディ」の隠蔽は許されるものではない。アンフェアだ。

 また、上で挙げた「人権条例」に反対するサイトの開設者。文章は自分で考えたのか、そういえば「チャンネル桜=頑張れ日本」が、先日名古屋で行っていた街宣と趣旨が似ている。2020年の栄におけるヘイト街宣の模様を紹介したが、その幕に「草莽崛起」の文字が見える。この言葉は、チャンネル桜の代表である水島某のテーマでもあるという。

 「草莽崛起」、吉田松陰が言ったと云われる言葉で、「草莽」とは「草むら、やぶの意味から転じて仕官しないで民間にいる在野の人」を言う。「崛起」とは「山がそびえ立つこと」をいい転じて「頭角を現すこと」をいう。

 この言葉が「立派」と思えるのが、この国の文化が地に落ちている一つの証左である。この言葉はいやらしく、さもしい。

 在野から、頭角を現して、目立ちたい。立身出世をしたいという欲が見える。私利私欲から発した言葉であると見抜けないのなら間抜けだ。

 こうした姿を呉智英*4が「大衆食堂の人々」の中で書いている。同書の出版は1996年だそうだ。すでに30年近く前に、指摘されている。

 うろ覚えだがおおよそこうだ。呉が大衆食堂で食事をしていると、テレビから政治ネタのニュースが流れてきて、それを見ていたオヤジが適当な能書きを述べていた。いわゆる「居酒屋政談、床屋政談」のたぐいだ。呉はなぜヒトはこんないい加減な事を口走るのだろうと怪訝に思った。ヒトは何か言いたい。一家言あるように振る舞いたいが、かといってそのために勉強したり、努力することはしたくない。そうした大衆が増えることで、知識人が否定される。大衆迎合主義がはびこる。

 在野から、特に何も努力、勉強などしなくても、思い込み一つで声を挙げれば、頭角を現して周囲(Facebookとかツイッターのフォロワー)から称賛され、「承認欲求が満たされる」、「草莽崛起」。チャンネル桜で放送された通りの事をサイトに纏めて「意見書」として作れば、愛知県知事にも意見が言える。
虎ノ門ニュース」で「信頼できる最新科学の情報」を手に入れて、受け売りを話し、地元新聞が名前を掲載してくれていれば、市長で居られてぬくぬく税金で食っていける。


 ナカムラクリニックの中村氏が面白いことを言っている。

 「最も幸せな統治形態は、優れた政治家による独裁じゃないかな。民主主義って一見よさそうだけど、常に衆愚政治に陥るリスクがあるし、多数決が常に最善の答えとは限らない。」

 衆愚は自分の事を衆愚と思っていない。

 墨汁薄めた水を飲んで喜んでいられる人々には、そうした社会が「幸せ」なんでしょう。幸せってのは、不都合な事柄から、一切目を瞑った先に得られる物でもあるからね。

 ま、私はまっぴら御免ですけどね。


追記:
衆愚は自分のことを衆愚と思っていない。

「大衆食堂」から30年たち、ホフスタッターからも60年が過ぎている。

中日新聞論説委員が、政治における民への「信」は、食の保証であるかのように誤解し語っている。最も恥ずかしい誤りだろう。顔淵第十二の教えは、軍事による安全や、公助による保証(食の保証)を言っているのではない。それよりも政治への信頼。つまり政治が、社会のリーダーが、社会の成員に嘘を言わないことを示している。

月刊WILLに掲載された河村たかしの寄稿にも「朱子学の最高道徳は『親に考なれ』」などという馬鹿げた発言が載っていた。
ichi-nagoyajin.hatenablog.com

せめて「儒教の教えに考がある」程度なら、まだ判る。なぜわざわざ「朱子学」を持ってくるか。これが「大衆食堂」の風景だ。いわゆる「知ったかぶり」をするために中途半端な知識をひけらかせたつもりに成って、却って誤る。最も恥ずかしい行為だ。

まあ、先日の矢野財務省事務次官歴史認識も酷かったが。知識を軽視し、大衆に迎合する今の日本という社会に、複雑化する世界情勢や様々な困難に打ち勝つ可能性はあるのだろうか。日本社会は「自分たちが決定的に馬鹿になり、社会が力を失っていること」を自覚すべきだ。

今の世代の私達のような馬鹿が、今後の世代のために憲法を改正するなど、傲慢の極みだ。昭和の戦後にあった叡智は今の世代には無い。あの当時の人々よりも、今の私達の世代の方が優れているなどと、どうやれば思い上がれるものか、私には理解できない。

昭和、平成、令和と大衆の能力を失ってきた日本社会が今できることは、教育に力をかけ、せめて次の世代を育てることではないのだろうか。

追記の追記:

康子饋藥、拜而受之曰、「丘未達、不敢嘗。」(郷党第十の十二)

孔子が体調を崩した、康子が薬を送った、孔子はありがたく受け取ったが。
「私はこの薬についてよく知りませんので、今は口にしないようにいたします」と飲まなかった。

なんだか「政治的毒殺を恐れた」とか物騒な解釈をしている人もいるけど、
私が習った時には「自分がよく判らないものには手を出さない」この慎重な姿勢こそが、保守である。と言われたものだ。

怪しげな改革主義や、政策にホイホイのるのは、よく判りもしない薬を口にするようなもので、どのような副作用があるか判らない。(正統的な医療に於いては、副作用の発生確率や、発生時の対処方法も模索されている。それを超える効果が期待できるから適用を勧められるわけだ)しかし、代替医療などにはこうした知見が圧倒的に不足している。




名古屋城天守有形文化財登録を求める会」では、
一月に一回程度、
北区にある「北生涯学習センター」で月例勉強会を開きます。

  令和 4年  1月25日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

         2月22日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

 2月22日(火)は、特別企画として。
  建築士が読み解く!
  名古屋市が作成した「幻」の名古屋城天守耐震改修案

  として、建築士 の 渡邉正之 様に
  現天守の耐震改修について、お話を伺います。

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。


*1:大浦さんの作品に対して

*2:中垣さんの作品に対して

*3:Chim↑Pom↓の作品に対して

*4:最近、彼を名前だけから「中国人」とか言っているバカも居て、なんとも微笑ましい