新自由主義は視野狭窄の思想だ。空間的には自国だけ、自分だけの狭い範囲の利己主義を肯定し、それを「現実主義」などとごまかす。時間的には過去からの教訓を汲もうとせず、将来への備えを否定する。今、ここでだけ有利な、目先の「思いつき」に固執する。これが新自由主義に他ならず、竹中平蔵などの主張に賛同する、自民党の清和会や維新がこうした主張を繰り返している。
社会設計には健全な冗長性が必要であるにも関わらず、”今の社会”にとっての最適ばかりを追い求めると、社会の変化に対応できなくなる。
医療、保健行政を削減してきた大阪が、このコロナ対応でどのようなひどい結果を招いたか、
すでに明白だろう。
そうしたところ、今朝の新聞を読んでいて驚き、呆れた。この参議院選挙に立候補している維新の候補が「ひとりの子も死なせない日本!」というキャッチコピーを掲げている。
前名古屋市副市長、河村たかし名古屋市長の下で副市長を努めていた人物だ。
名古屋市が「ひとりの子も死なせない」と言えるだけのなにかの成果を上げているのであればまだしも。
に示されているように、名古屋市内の中学校における生徒の自死事案は止まってなどいない。この問題の責任のすべてが、河村市政によるものなどとは主張しない、それぞれに様々な原因、問題があったのだろう。しかし、少なくともこの4年で11名の尊い命が失われている。こうした現実を受けて、では河村*1はなんらかの対策を取ろうとしているのだろうか。十年一日の如く「なごや子ども応援委員会」の設置を言うだけで、それが効果を見ていないことはこの資料からでも読み取れる。
そもそも例えば、市民集会など開いて名古屋市民の意見を聞くという事が行われただろうか。全く行われてもいない。無策。
それでいて、この11名の事実を無視するかのように「ひとりの子も死なせない」などと、策があるかのように喧伝する姿勢は有権者を騙すにしても、子どもの命を種にして有権者を騙す。人としてあるまじき行為ではないかと思えてならない。
更に言うと「ひとりの子も死なせない」などという主張自体が視野狭窄に陥っている、非常に視野の狭い狭隘な主張であると指摘せねばならない。
河村たかしはこの10年ほどで、名古屋から約9,000人の子どもを失わせている。
日本の社会は出生数がどんどん落ちている。少子高齢化に対応していった結果、その想定以上に出生数が落ち、少子高齢化に拍車がかかっている。
本来は、こうした子どもの減少や、社会の存続をはかるために「こども庁」を設立するという議論であったはずが、知らぬ間に「こども家庭庁」といういかにも自民党清和会的な、頭の悪そうな夾雑物が挟み込まれた。
政治が「家庭」について、あれこれ口を出すなんてのは、全く僭越至極な態度であり、政治の本来の在り方は、国民個々人の求める「家庭」の姿を受け入れるプラットフォームづくりではないのだろうか。さらに「あるべき家庭」なんて口出しまでしそうな勢いで、こんな事を続けていけば、却って「あるべき家庭」の姿からはじき出された人々が、子どもを持つことが一層困難になる。
急務は、どのような人であれ、どのような形であれ、子どもを産み育てられる社会のあり方が模索されるべきではないのか。そしてそれこそが政治が語るべき事柄ではないのか。
以前、「縮小均衡論」が社会を縮め、経済を縮小させ、若者から結婚や育児の機会を奪っていると主張した。
すでに4年前の話だ。
私はそこでこう述べた。
「この生まれなかった『失われた第3の人口の山』に示される、数十万人、百万人を超える子どもたちの背景には、失われた数十万という家庭があり、そこで育まれる生活や喜びがあった筈だ。ヒトが育ち、独り立ちをして職を得、社会を支える。その中で伴侶と出会い、家庭を築き、子どもを生み、育てる。そして子どもたちの成長を見守り、子どもたちの成長から学び、やがて子どもたちの独り立ちを見守る。必ずではないし、絶対でもないが、こうした当たり前の生活の姿は、ヒトの幸福そのものだろう。そうした幸福を、根こそぎ奪ったモノが、この30年ほどの日本の経済政策だ。『ひとり暮らしの40代が日本を滅ぼす』のではない、日本を滅ぼす経済政策が、雇用政策が、ひとり暮らしの40代を生んだのだ。」
厚生労働省のサイトに出生数の推移がある。
www.mhlw.go.jp
この図表の元となった出生数推移を見ると、2009年の出生数を基準にすると、累計で約80万人出生数が減っている。(2009年の出生数が、2019年まで続いていた場合と、現実との差が約80万人)
ある人はこれを「子どもを産む前に殺してしまっている」と評した。
公務員の給料が高いと見れば、それを引き下げようとするようなさもしい「引き下げデモクラシー」が、この日本の社会をどんどんと奈落の底に落としていった。
他人を引き下ろしても、自分は浮かばれない。逆に、他人が浮かぶように考えることが、回り回って自分の身をも助ける。これが理性のある人間の姿ではないのか。
そうはせずに、公務員の給与を引き下げる、議員の報酬を引き下げる。そうしたさもしい精神が、やがて自分の収入をも引き下げることとなり、社会全体の経済を収縮させる。
経済は、トレード・オフの関係にはない、公務員給与が下がれば民間の給与が上がるなどということはない、経済とは循環であり、メリーゴーランドのようなものだ。公務員給与が上がれば、公務員の消費が活発になり、市中の消費が活発化する。市中の消費が増えるということは、雇用が生まれ、市中の企業の売上も増え、そこに雇用されている社員の給与も上がっていく。社員の給与が増えれば、より一層消費は拡大し経済が活発化する。
メリーゴーランドの何処かを止めたり、遅くすれば全体が止まり、減速する。名古屋市における「河村流減税政策」(通貨発行権のない地方が、歳出を削減して減税を行う政策)は、歳出を削減する事で、その事業を受ける民間企業の売上を減らすという縮小均衡を加速する政策であり、経済が収縮する時には行ってはならない失政である。(なので、日本全国どこも真似をしないし、経済学や行政学からも完全に無視をされている)
しかし、こうした縮小均衡論の影響は確実に名古屋市内にも影響を及ぼし、名古屋市内における出生数も全国平均同様、減少を続けている。
河村たかしが名古屋市長となった2009年を基準に考えると、2020年までの11年間で累計9,194人「生まれなかった」事になっている。
為政者として、この出生数の減少を我が事のように考えなければ、政治家ではない。「ひとりの子も死なせない」などとは、こうした現実を把握できない亡者の虚言にほかならない。河村たかしはこの10年ほどで、名古屋から約9,000人の子どもを失わせ、そこにあった当たり前の生活の姿、ヒトの幸せを奪っているのである。
*1:ここに敬称など要るか?