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一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

大村幹事長不信任決議における減税日本の問題点(6)

6月12日には議会運営委員会も開かれたようだ。公開質問状の回答に対する公開質問状も提出されるらしい。

至極当たり前のことから説き起こしていきますが、議会というのは、立場も考え方(政治指向)も異なる人々が集って、お互いの主張、利害を調整する場である。(前回は、ここでクラウゼウィッツが出てきたのが、間違いの元で恐ろしく長くなってしまった)

自民党共産党公明党民主党。仲良しクラブではなく時には厳しく利害が対立する。それぞれに受け入れられない部分があるのは、当たり前で、だから様々な政党が成立する。

こうした様々な政党が、それでも共通の目的は持っている。つまり、名古屋市の行政を効率よく実行させ、議会をスムーズに進行し、法に定められた議会の審査や議決を行うことだ。議会がスムーズに進行すれば、それだけ行政も効率を上げることが可能となる。逆に、議会がもたつけば、議決待ちの案件などが発生し、市民生活に影響を与えるかも知れない。

スムーズな議会運営のために、協議機関として議会運営委員会があり、その準備会として各党(構成員が5人以上の「交渉会派」)の幹事長が集まって協議する理事会が有る。

実は、減税日本ゴヤは構成員が13人なので当然「交渉会派」の要件を満たしているが、以前「議運離脱宣言」を出しているために、それを持ち出せば議運の議事に減税日本ゴヤを排除しようとすればできる。しかし、それを行えば減税日本ゴヤに投票した有権者は失望する*1だろうし、市長は「対立軸(=騒ぎ立てるネタ)」ができて喜ぶだけだろうから、敢えて行使していないようだ。


こうした協議の場で、各会派(自民党から共産党まで)の理事が減税日本ゴヤの大村幹事長の発言を不信としているのであれば、減税日本ゴヤや大村幹事長としてはできることは2つしかない。1つは理事会に出席する議員を代えることであり、もう1つは大村幹事長が行いを改めることだ。

減税日本ゴヤの副幹事長は今、中川議員であり、他会派の理事からは、大村幹事長の代わりに中川副幹事長を出してください。というような提案が出されているようだ。

ここで私が疑問に思うことは、大村幹事長に他会派から不信任を突き付けられたのであるから、会派内で善後策を議論するべきだろうが、それが為されていないことだ。減税日本ゴヤにはこうした議決機関は議員総会*2しか無いので、それを開くべきだろうが。それが開かれていないようだ。

それより何より、大村幹事長に不信任が出された経緯について、わざわざ「公開質問状」で議会側に訪ねなければならないほど「(大村幹事長本人に)聞いてもわからない」(佐藤夕子団長の言葉)ということは、当然の事に会派としての善後策も確定していないということになる筈だ。

つまり、大村幹事長の行いを改めるという手段は取れないということになるだろう(なにせ、何が悪いのか自覚がないのだから)

ならば、中川副幹事長を代わりに出せばいい。減税日本ゴヤが理事の交代を拒むのであれば、理事会としては減税日本ゴヤ抜きで進めれば良いのではないだろうか。大村幹事長と、理事会が議論しても水掛け論になるだけではないのか?

前回、河村代表や減税日本における民主主義の無理解を披瀝した。河村代表は、自身や仲間内の権利意識は高いが、他者の権利については無理解である。いまも、減税日本ゴヤの議会運営委員会、理事会に対する対処方針について、一部の議員が協議するだけで、所属議員にも説明がないまま、勝手に決定事項が理事会に提出されているようだ。そもそも前回の公開質問状においても、党も会派も有権者に対する説明は一切無い。

有権者/市民に対する情報公開もなく、意見聴取もない。

所属議員にも事情の説明をしないということは、その所属議員を無視するだけではなく、これら議員を付託した支持者をも無視する行為であって、公の政治政党としては有り得ない。

佐藤団長、大村幹事長、余語幹事は、こうした権利侵害を自覚しなければならない。

減税日本に民主主義はなく、河村たかしも民主主義を心得ていない。

そもそも民主主義とは何か。理解しているのだろうか?

17世紀、ヨーロッパにおいて、キリスト教のあり方(大雑把に言って、カソリックプロテスタントの相違)を巡って対立が深刻化し、長い戦乱と成った。三十年戦争と呼ばれる戦乱だ。この凄惨な戦いの末、ヨーロッパはウェストファリア条約という合意の下に戦いを収めた。

ヨーロッパの人々は、お互いが信じる、カソリックプロテスタントという宗教的確信に殉じて戦い続けたのであるが、こうした主観的確信(好き嫌いと言っても良い)を主張して(押し付けて)合意を求めても、それが不毛である事を知る。

つまり「私が信じることについて、他者からとやかく言われる事は不当である。こうした私の確信について、私の自由な決定権は、当然に認められるべきである」とするのであれば、同時に「他者の信じていることについて、その言葉や表現が、私にとって<虫酸が走るほど>受け入れがたいことであったとしても、その他者の自由は認めなければならない」*3

近代的な自由の思想はここからはじまる。

自分の思想信条の自由を守るのであれば、
他者の思想信条の自由についても尊重し、守らねばならない。

これが「リベラリズム」の姿だ*4

そして、それまでの王や宗教的指導者といった権威を持つものの独占的主権政(王政)から貴族や王族などの集団による集団政へと移行していく。

これは王政よりも(限定的)民主政の方が「優れている」から移行したわけではない。激化する国家間競争において、一人の人間が決定するような政治よりも、複数の人間による協議によって決定を行ったほうが、広い知見、優れたプランが生まれやすく、優位に立て、結果として王政が駆逐されたとみても良い。

ここにおいて限定的ながらも、集団の合議を行う「議会」が生まれる。(ローマ帝政下におけるユダヤ自治組織サンヘドリンや、古代ギリシャにおけるエクレシアなどの例はある)

こうした協議で意見の対立が起こると、それまでは決闘だの戦争だのといった実力行使か、王や宗教的権威による裁定を仰いできたが、議会においてはお互いの主張を構成員に聞いてもらい、どちらがよりもっともな主張であるかを決定するという、様々な方法が開発された。(単純な多数決はその1つであり、重要な決定については全会一致でなければならない、や3分の2を求めるもの、また時には全会一致の議決は無効とする*5という規則を持つ会議も会った)*6


開かれた議論、公平で公正な判断が、民主主義の基本であり、減税日本にはそんなものは無い。*7


ここでもう一つ重要な考え方がある。それは「設計主義」と呼ばれるものだ。

例えば、王政を打倒し、四民が平等に会議を開けば良い国となる。という思想の下にフランス革命は起こされた。ロシア革命共産主義思想の有効性を信じて、王政を打倒し、共産党一党支配を求めた結果だ。すべての「革命」と呼ばれるものは、こうした政治思想を信じて為される。

これは、「人間は理想社会を設計可能で、それが実現されれば、理想社会は訪れる」という考え方が根底にある。*8

それ以降、このサブセットは様々に提案される。

ユダヤ人を排斥し、共産党を退ければ、ドイツは輝ける栄光を取り戻す。と訴えたのはアドルフ・ヒットラーであり、大阪府市が統合し、大阪都となれば二重行政が解消され、大阪は復活できる。としたのが「維新(=革命)」の橋下だ。また、現在の自民党(というか、清和会)が主張する「憲法改正して美しい国へ」という主張も、こうした設計主義の匂いが立ち込めている。

そして、名古屋においても「減税が実現すればどえらいことが起きる」と煽っているのが、河村代表だ。(「名古屋発 どえりゃあ革命!」が出版されたのは平成23年(2011年)だ)

言っておくが、河村流減税は「歳出削減=行政の削減」によって、事業規模を縮小することによって、納税者の負担を軽減する(=再分配を縮小する)という主張である。維新の府市統合も「行政の削減」の文脈だ。今般のコロナ禍において、イタリアよりも少ないICU病床率や、満足にPCR検査も行えない保健所の人員体制など、現代日本において、異常なほど削った行政の問題点が顕在化している。それなのにこれ以上「公務員を減らせ」と言っている者は、こうした現実が見えていないのだろうか。それは真っ当な議論ではなく、何か別の意図があるように思えてならない。

公務員は多いのか少ないのか、その実情を国際比較でさぐる(2019年時点最新版)(不破雷蔵) - 個人 - Yahoo!ニュース


それはさておき。

こうした「ナニナニが達成されれば理想社会が訪れる」というような考え方を「設計主義」「人間は理想社会を設計可能」とする考え方だ。

こうした事例の嚆矢である「フランス革命」において、そうした考え方に疑問を持った一人にエドマンド・バークがいる。「保守思想の父」と呼ばれている。

保守思想という概念は、こうした「革命」に対する考え方として生まれている。

バークは人間は不完全なものであり、完全な社会など構想できないし、いつまで経っても理想社会など成立しない。人間にできることは、いま目の前にある様々な問題を少しづつ改善していく漸進的手法しかないと主張する。

そのバークも、議会制民主主義に真を置き、自身議員として立っている。

設計主義に付くも良いし、こうした漸進的保守主義に立つのも良い。

しかし、民主主義は守られねばならない。それは取りも直さず、自身の自由を守ることだからだ。

いまの減税日本には民主主義はなく、河村たかしには他者の思想信条の自由を尊重するという「たしなみ」はない。権力を持つものが、他者の人権を踏みつけにする姿ほど、この社会において醜悪な姿はない。

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日本民主主義発祥の地 ナゴヤ

<一言余計な事を>
以前、名古屋城の木造問題で、街のアチラコチラで「辻説法」を行っていた。そうしたところ老婦人が「名古屋城はどうなってしまうの」と聞かれた事がある。私が「大丈夫ですよ、いまの天守は易々とは壊せませんから」とお伝えすると、ひどく安堵されていた。現在のコンクリート天守再建の際には家族で寄付を行い、すでに亡くなったご主人は再建された天守が大好きであったそうだ。
そうした家族の思い出のある名古屋城天守を、河村市長が壊すとか、コンクリートの邪魔物などとなじるのを聞くと、心が痛んだそうだ。

こうした人々の心を、「70歳児」はなんと思っているのだろうか。

ここにも見られる河村たかしの錯誤と傲慢が、あいちトリエンナーレにおける行動にも繋がっているのである。


名古屋城住民訴訟について

次回、第七回公判、場所が変わりました。
1階の 1号法廷 です。

第七回公判:
令和2年6月23日(火)午後2時
名古屋地方裁判所 1号法廷です。

名古屋地裁で一番大きな部屋だそうです!

住民訴訟についての動向は、順次お知らせいたします)

peraichi.com


*1:責任は、離脱宣言で責任回避した減税日本に有る

*2:市民に開かれた党であるとして、規則では公開のはずだが、ここ数年公開での議員総会は開かれていない、いっそ規則を変えたほうが良いんじゃないのかと思うが、まあ、誰も規則など気にしていないので良いんだろう

*3:少し時代が下がるヴォルテールの言葉もこの考え方を受け継いでいる「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

*4:語源であるラテン語の liber は社会的、政治的に制限されないという意味である

*5:全会一致というのは、全員が極端に偏ったと判断し、社会が極端に偏った場合の決定は、やはり偏っている。という判断だ

*6:民主主義、democracy の語義は、ラテン語の demos (民衆・大衆) の kratos(権力・支配)である

*7:権力の自覚のない権力者ほど、幼稚で愚かな者はない

*8:ああ、もっと恐ろしいことに考えが行き着いた。こうした「優れた政治思想」だけが人を引きつけるのではない。カリスマが人をひきつけ、その人に任せれば理想社会が築かれるというような考え方が支配していないだろうか。これはとんでもない退行だ。小泉純一郎安倍晋三橋下徹、それに山本太郎。人に仮託して理想を求めるというのは、20世紀というか、昭和で終わったのではなかったのだろうか