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河村たかし名古屋市長は尾張藩書物奉行の末裔か?

 突然電話が鳴った「また河村が有吉の番組に出ているぞ」との事だった。
 人気者の有吉弘行が「世間のデマ」を検証するというテイで番組が進行する「有吉弘行のダレトク」という番組だ。この番組には以前「河村市長の名古屋弁は偽物ではないか」というテーマで河村市長は出演している。

http://www.tudou.com/programs/view/YT0F8AtqXZ8/

 「愛と希望の国づくり」は誰に見せても大受けだ。

 今回は可哀想に千種区のマスコットキャラクター「こあらっち」が俎上に載せられて、「コアラ」には尻尾が無い。「こあらっち」には尻尾がある。「デマだ」と「いじられていた」ようだ。
名古屋市:こあらっちの部屋(千種区)

 まあ、敢えて言えばこういった「ゆるキャラ」に厳密な設定が必要なのだろうか?
 そもそも「こあらっち」は「こあらっち」であって「コアラ」であるとは言っていない。(一般的には「コアラの妖精」みたいな「逃げの設定」を打っているものだ)
 本物の「コアラ」は頭に「あじさい」も乗せていないだろう。

 千種区の設定ページを見れば判るように、その問題になった「しっぽ」についても、わざわざ「チャームポイント」として「まぁるいしっぽ」と謳っているのだ。

 まあ、こんな事はどうでも良いのかもしれない。(「子どもたちの夢を云々」と怒る人には「ごめんなさい」と謝る以外ないでしょうが)
 河村市長の「でまかせ名古屋弁」の方が面白かった。

 河村市長についてはその他にも「デマ」っぽい話が幾つもある。

 ちょうど、前回のエントリーで触れた「まとまったネタ」というのもそうした一つである。題して「河村たかし名古屋市長は尾張藩書物奉行の末裔か」である。



 世間では一般的に河村たかし名古屋市長は尾張藩藩士の末裔であると言われている。
 それも尾張藩書物奉行の末裔であって、その為に学業に優れている、そして歴史に造詣が深いという話が広く信じられている。

 ところで、この話を追求していくと少々おかしなこととなる。



 つまり、「河村たかし名古屋市長が尾張藩書物奉行の末裔と言われている」という話の根拠を辿ると、そのすべては2009年6月22日の中日新聞「河村ウォッチ」の記事に行き着く。



 大切な「原典」なので全文を引用してみよう。

河村ウォッチ
「ご先祖様は書物奉行
「歴史大好き・・・系譜に納得!」
鶴舞図書館 今も蔵書4000冊公開」

 織田信長楽市楽座に、御三家筆頭の尾張藩-。19日の所信表明で、随所に歴史の一幕をちりばめた名古屋市河村たかし市長。古いもの好きのルーツを探ると、江戸時代に尾張藩書物奉行を務め、国学者として知られた先祖に突き当たる。先祖がのこした4千冊の蔵書は、鶴舞中央図書館(名古屋市昭和区)に保管され、「河村文庫」として今も公開されている。

 先祖は河村秀頴(ひでかい)(1718〜83年)。徳川家康の死去により尾張紀伊、水戸の御三家に分けられた書物を管理した書物奉行で、五百石の中級武士だった。

 “庶民派"を自任する市長はあまり系譜に触れないが、市博物館の松村冬樹学芸員は「石高は藩士の中で中の上だが、藩主の教養部門を受け持つ名誉職だった」という。

 秀頴の蔵書は当時、2万冊余りあった。書庫は現在の同市東区白壁にあり、「文会書庫」の名で一般市民に惜しまず公開していた。「高い身分や紹介がなければ蔵書を見せない当時としては画期的」(松村学芸員)といい、情報公開に積極的な河村市長*1にも通じるものが。

 書籍は1922(大正11)年、市立図書館(現在の鶴舞中央図書館)の設立時に寄贈された。図書館が空襲で焼け、蔵書は大幅に減ってしまった。

 学問の家系だった河村家だが、国学者として名をはせたのは秀頴の弟秀根(ひでね)、秀根の次男益根(ますね)まで。愛知文教大の榎英一教授(日本史学)は「昔は学問を探究するのは金が必要で、3人目で終わってしまったようだ」と話す。

 河村市長は「幼いころは祖父に『書物奉行の末裔(まつえい)だから、世のため人のため生きなかん』と言われた記憶がある。国学者だった先祖に負けないように、ちゃんと勉強して6月議会に臨みたい」と話している。

 お気づき頂けただろうか。

 記事のリードは「ご先祖様は書物奉行」などとなっており、伝聞調ではなく断定として書かれている。しかし河村たかし名古屋市長が尾張藩書物奉行の末裔であるとする根拠河村市長自身の発言のみで、その内容も「幼いころは祖父に…」という伝聞でしかない。

 記事の中に「市博物館の松村冬樹学芸員」と「愛知文教大の榎英一教授」という研究者のコメントを引いているが、この両者とも「書物奉行の河村秀頴さんの業績と、当時の在り様」を一般論として語っているだけにすぎず「河村市長が書物奉行の末裔である」という事実関係については一切触れていないのである。

 しかしこの記事は「ご先祖様は書物奉行」というタイトルの如く、河村市長の家系が記事のテーマであって、その後この「末裔論」が定着してしまっているという現状に対して、余りにも記事の根拠が薄弱である。

 そこで、中日新聞並びに記事にコメントを寄せてみえる松村学芸員に取材を試みた。

 まず松村学芸員にこの件を伺ってみると。

 「河村市長が書物奉行の末裔であるかどうかは判らない。書物奉行の河村秀頴さんについては尾張藩藩士たちの記録である『士林泝芣(しりんそかい)』に系図が載っている。ただそれは現代につながるものではない。(明治維新による尾張藩の消滅以降は現代的な戸籍に代わっており、それは学術目的といえども勝手に参照する事はできない)

 記事掲載時にもこの事実関係については判らないと伝えてある。今でも判らないと思っている。ご当人が『末裔である』と言われるのであればそれを否定する事は難しいのではないかと思う」

 との事だった。

 この松村学芸員にご指導いただいたように「士林泝芣」という書物に当たってみた。活字化された書籍が鶴舞中央図書館に所蔵されており、誰でも参照する事ができる

(画像はクリックすると拡大表示されます)












































 この家系図の部分を判りやすく抜粋したものも用意した。

 この系図で言うと問題の「書物奉行 河村秀頴」とは、「秀興」の事である。「士林泝芣」によれば「河村秀頴= 秀興 」については何の記載もない。記事の中で松村学芸員が「名誉職だった」と言われていた理由はこれであって、いわゆる「町奉行」であるとか
寺社奉行」というような正式な組織内の職名ではなく、優れた学識をもった「秀頴=秀興 」に対する「名誉職」であり「報酬」だったのだろう。

 この文書の中には学者としての名前である「秀頴」すらない。

 また、あたかも「学問の家系だった河村家」であるかのように記事では扱われているが、「秀頴」の弟の「秀根」は宗春候のお小姓として召し出されている事が伺える程度だ。

 また後年(宗春候死亡後)秀根さんはちょっとした事件に巻き込まれるようだが、その事実関係については良く判っていない。*2ただ、この話の背後に宗春候死亡後の尾張藩の宗春候に対する独特の雰囲気。あまり触れたくない過去としての「宗春候」の存在を感じてしまう。

 それはさておき。

 この系図をご覧頂けばわかる通り、「尾張藩書物奉行 河村秀頴」さんには跡取りがいない。系譜はここで途切れている。記事に掲載されている秀根さんのお子さん益根さんも血脈は途絶えている。

 つまり「 尾張藩書物奉行の末裔」という話には根拠がないという事になる。

 では大きく取って、「尾張藩書物奉行である河村秀頴さんを輩出した河村家」の系図を辿ってみよう。すると家門は秀綿さんから秀詮さんに継がれて、ここで「尾張藩士としての河村家」も途絶えている。

 秀詮さんの亡くなった時期については記載がないが、その先代である秀綿さんについては「寛保三年亥七月廿一日卒」という記載がある。「寛保三年」とは西暦に直すと1744年だそうで、明治元年まで124年ある。維新の百年以上前に家門が途絶えているとす
ると、これは追えるものなのだろうか?

 さて、中日新聞にも記事の内容について問い合わせをかけてみた結果をご報告する。

 概要「河村市長の父親は次男に当たるため、おじさんが『本家』に当たる。そのおじさんのお宅には家系図があり、それを見せてもらった記者もいる」との事だった。それ以上の「裏取り」はしていないし、これ以上検証するつもりもない。との事だった。

 映画「七人の侍」において、三船敏郎扮する「菊千代」が、どこから手に入れてきたか不明の系図を振り回すシーンが面白おかしく描かれているが、明治維新や昭和の初期、そして戦後少々して家系図がブームになった事があった。「美智子さま成婚」や「雅子さま
成婚」の頃。米国で大ベストセラーになった「ルーツ」の頃などもブームになったことを思い出す。

 自分のアイデンティティーに自身自信の無い人が、どうしてもこういった外部的なアイデンティティーに依存しようとするのだろう。

 この調査の中で河村市長の定説について別の疑問も提示された。

 河村たかし名古屋市長は元々の戸籍名を「河村隆之」と書いて「かわむらたかし」としていたものを「河村たかし」が通名であると選挙で使い、その後戸籍も変更したとされている。

 しかし元々の戸籍名は「河村隆男」つまり「かわむらたかお」であったそうなのだ。

 父親が「河村誧男鉦男(かねお)」であったそうなので、一文字譲り受けたという事はありそうな話だ。元々は「河村隆男」であったところ、選挙で県議選に立つこととなり、当時市議に立っていた先輩議員が「たかし」であったために改名して「市議もたかし、県議もたかし」として選挙戦を戦おうとしたらしい。*3

 親からもらった名前すら、選挙の道具として捨ててしまう人物が、江戸の家門を守る文化を理解できるものなのだろうか。私には疑問に思える。

 そして、最後にこのツイートをご紹介する。


 河村たかし @kawamura758 ツイート 208558438240890880


 同キャッシュ




尾張藩書物奉行」は河村秀頴さんだけである。

河村秀根さんは「書物奉行」ではない。

 河村氏や中日新聞の記者が見たという「系図」とは、いったいどのようなものだったのだろうか?



追記:
山形浩生が「月刊Journalism」に原稿を「ボツ」にされたようで、経緯も含めて全文を載せている。
消費税引き上げ前夜に:2014年の経済ジャーナリズム (月刊Journalism 没原稿) - 山形浩生の「経済のトリセツ」
※コーセー相手にアレコレ言うような無鉄砲な真似はしない。
"経済ジャーナリズム:2014 年への展望 (2013.12月 『ジャーナリズム』没原稿 )山形浩生"

経済を取り巻くジャーナリズム論で、このエントリーにも通じる論考が見える。

 リーク情報をもとに報道を行うこと自体は別にいけないことではない。しかしながらそれは、情報源と報道とのなれ合いをもたらす原因でもある。イラク戦争時代、当時のブッシュ政権の経済政策を『ニューヨークタイムズ』のコラムで批判し続けたポール・クルーグマンはその問題を指摘している。当時、主要メディアの多くは政府の提灯持ちとなっていた。もちろんそこには当時の社会の雰囲気もある。特に 9.11 以後にはブッシュ政権批判は御法度となり、体制批判はすべて非愛国的な国賊発言とされることも多かった。

 だがそれだけではないとクルーグマンは指摘している。いちはやくリークをもらい、それを流すことが報道だと思うようになれば、その情報源とは仲良くするにこしたことはない。リークをもらえなければ死活問題になってしまうからだ。
(略)
 リーク情報に基づく変なニュースは、そのリーク源に利用されているだけで(役所の人々はそれを明言する)、それを記事にしたところでそのメディアにとってはあまりいいこともない。

経済ジャーナリズム:2014 年への展望 (2013.12月 『ジャーナリズム』没原稿 )山形浩生


*1:河村市長は情報公開に積極的であるとは言えないかもしれない。ご自分に都合の悪い情報については平気で隠ぺいをはかるようだ。近々その一例をご覧に入れよう。

*2:「当世名古屋元結」という書物を参照。( http://www.mytown-nagoya.com/konnahanashi/shougun01.html )「将軍暗殺計画」だというような話もあるが、単なる経済事件だという話もある。

*3:愛知六区に川村昌代氏を立てた経緯にも通じるようだ。