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「『社会正義は』いつも正しい」について

 2024年になりました。21世紀も約四分の一の通過点に差し掛かってきています。日本社会は順調に活性を失い、ロシアが侵攻したウクライナの情勢は硬直状態となり、国際的な穀物危機と同時にロシアの経済が逆に潤うという不健全な状態が固定化されかねない状況でもあります。更にイスラエルによるパレスチナへの不法行為には人間の業を感じずに居られません。ナチス・ドイツによって民族虐殺を味わったユダヤの民が、今度は同じような、そしてそれ以上の民族虐殺をパレスチナにおいて行っている。ある人は「イスラエルによる行為は、ナチスの模倣であり、ヒトラーの肯定だ」と言われました。人類はヒトラーを否定しきれていなかった*1
 イスラエルの行為に対する反応は、人類に突き付けられたヒトラーの亡霊による謎掛けに見えます。

 そんな中、昨年の8月にトマ・ピケティの著書「資本とイデオロギー」が邦訳(また、コーセー)され、なかなか読み始められない状態にいましたが、この正月休みで一気に攻め込むことにしました。さすがピケティ、非常に示唆に富む著作です。しかし今日はこの話ではなく、同じ山形浩生が訳した「『社会正義は』いつも正しい ―人種、ジェンダーアイデンティティにまつわる捏造のすべて」について書いておきたいと思います。

 写真はこの正月休みの読書ネタです。本来はピケティの同書と小熊英二さんの「<日本人>の境界」を読もうと思っていたところで、たまたま買った「ウンコな議論」(これもコーセー訳、ハリ―・G・フランクファートの"On Bullshit"(2005)の邦訳)の文庫版を手にとって上記の「『社会正義は』いつも正しい」に行き着いた。この「ウンコな議論」の文庫版は、その題名以上に異常な本と言ってもいい。

www.hayakawa-online.co.jp

www.chikumashobo.co.jp

 7ページ目から始まって、あとがき(訳者、コーセーの)が138ページで終わっていて、活字も大きい(スルッと読める)。この内フランクファートの本文は7ページから66ページまでの59ページで、山形の訳者解説が72ページから127ページ、さらに文庫版あとがきが131ページから138ページに至る。つまり、山形の文書が55ページ+7ページとなって本文よりも訳者あとがきの方が多い!山形がいかに訳書と言いつつ、自分の言いたいことを言っているか。

 では、その言いたいこと「ウンコな議論」とはなにか。一言で言えば「ポストモダンの議論は Bullshit であり、真実に依拠すべきだ」に尽きる。

 では、「Bullshitなポストモダンの議論」とはなにか、これについて「『社会正義は』いつも正しい」が整理している。’60年代、ミシェル・フーコージャック・デリダジャン=フランソワ・リオタールなどに代表される社会理論の潮流は、それまである主張を「真実」として正当化する科学などの手法や、それを支える包括的な説明を疑問視し、ナラティブ*2への疑問を提示した。

 ここから「ポストモダンの知の原理」が確立した。それは「客観的知識や真実の獲得に関する急進的な懐疑主義と、文化構築主義*3への傾倒」であるとする。つまり基準体系としての「真実」を社会は失った。

 さらにこうしたポストモダンが「政治原理」を社会に向けて提案、規定していく。それは「社会は権力体系とヒエラルキーで形成され、何をどのように知り得るかはそれらによって決まるという考え方」であり、上記の「文化構築主義」から演繹されていることは容易に理解できる。こうして基準体系を失い、文化的枠組みや権力体系、ヒエラルキーを過剰に意識した政治原理が暴走すればそこに混乱が生じることは当然とも言える。

 特にこうしたポストモダンは次の4つの主題を侵食する。
  1.境界の曖昧化
  2.言語の権力
  3.文化相対主義
  4.個人と普遍性の喪失

 こうしたポストモダンの混迷を受けて2017年から18年にかけて、「『社会正義は』いつも正しい」の著者であるジェームズ・A・リンゼイ、ヘレン・プラックローズらによって「不満研究事件/不満スタディーズ事件」と呼ばれる出来事が起こる。これは「第二のソーカル事件」とも呼ばれている。

「知」の欺瞞

 「ソーカル事件」とは1995年にアラン・ソーカル現代思想系の学術誌にインチキな論文を投稿し、査読をくぐり抜けて掲載されてしまった事を指す。この様子はアラン・ソーカル自身の著書、「『知』の欺瞞」(写真)に詳しい。

www.iwanami.co.jp

 この影響は日本にも波及して、浅田彰山形浩生に「血祭り」に挙げられており、今回の翻訳もこの文脈に沿ったものだろう。

cruel.org

 ポストモダンの混迷は基準体系の喪失であり、それは自分自身をも凋落させたと言ってもいいかもしれない。日本国内においては上記のような浅田彰などに対する懐疑も示され、同時にオウム事件が発生しポストモダンは議論の場から退場したかに見える。*4

 しかし、「『社会正義は』いつも正しい」では、こうしたポストモダンの潮流が応用ポストモダンとなり、さらに様々な場面で混乱を引き起こしていると説明されている。

 ポストモダンの三つのフェーズがどう進展したかを理解するには、急進左派の社会理論に深い根を持つ木を想像してみよう。第一フェーズ、高踏脱構築フェーズは1960年代から1980年代にかけて生じ(普通は単に「ポストモダニズム」と呼ばれる)、木の幹である<理論>となった。第二フェーズは1980年代から2000年代半ばで、本書では応用ポストモダニズムと呼んだが、この木の枝となった。もっと応用可能な<理論>と研究―――ポストコロニアル<理論>、クィア<理論>、批判的人種<理論>、ジェンダースタディーズ、ファット・スタディーズ、障害学、その他各種の批判ナントカ研究/スタディーズだ。現在の第三フェーズは2000年代半ばに始まり、<理論>が単なる仮説から「真理」、しかも当然の真理となった。これが<社会正義>研究の葉っぱとなり、それまでのアプローチを必要に応じて組み合わせている。この三フェーズすべてで変わらないのは<理論>で、そのあらわれがポストモダンの二つの原理と四つの主題だ。


「『社会正義は』いつも正しい」 pp.268

 最近でもハーヴァード大学のクローディン・ゲイ学長が辞任に追い込まれた。

jp.reuters.com

 直接的にはイスラエル支援に対する明確な立場表明を米国議会において拒否したことで、イスラエル資本による大学への寄付を止められたことによる。しかしその根底には、アファーマティブ・アクションに対する米国保守派の根深い忌避感があるだろう。この本も反アファーマティブ・アクションの文脈から「利用」されそうな危惧があるが、米国における<社会正義>(或いは、ポリティカル・コレクトネス)の混迷の根はここにあるのだろう。

 ではこの混迷を脱する方法はあるのだろうか。同書にはこのようにある。

 <社会正義>は、見た目はよさげな<理論>だが、いったん実践してみたら失敗するし、しかもその過程ですさまじい被害を引き起こす。<社会正義>が成功できないのは、それが現実に対応していないし、また公正と互恵性についての人間の直観に反しているし、それが理想論のメタナラティブだからだ。それでも、メタナラティブはもっともらしく聞こえるし、知識、権力、言語についての社会の考え方に、大きな影響を与えるだけの支持を獲得することもできる。なぜか?理由の一部は、人間は自分が思っているほど賢くはないからだし、一部はほとんどの人が少なくともある水準では理想主義者だからだし、一部は何かがうまくいってほしいと思ったら人は自分をごまかす傾向があるからだ。でも<理論>はメタナラティブだし、メタナラティブは、実のところあてにならない。


 ポストモダニストも、この点では正しかった。彼らがとんでもなくまちがえたのは、有効で適応性のある仕組みをメタナラティブとかんちがいしたことだった。宗教や多くの理論的構築物はメタナラティブだが、リベラリズムと科学はちがう。リベラリズムと科学は仕組みだ。小ぎれいな理屈ではない。それは自己確信的というより、むしろ自己懐疑的になるように設計されているからだ。


「『社会正義は』いつも正しい」 pp.302 (太文字は引用者による)

 「ウンコな議論」では「真実に依拠すべきだ」と主張し、ソーカル事件も健全な相互批判とその際の基盤の確認の重要性を教えた。そしてジェームズ・A・リンゼイとヘレン・プラックローズは自己懐疑的なリベラリズムと科学の重要性を説く。

 山形浩生は日本における<社会正義>の深刻な事例はまだ見受けられないと報告している。確かに、クィア<理論>やらジェンダースタディーズどころの騒ぎではなく、ちょっとジェンダーという基盤がゆらいだだけで「女性トイレ」の話に矮小化してしまう社会で「メタナラティブ」とか説いたところで虚しい感さえする。

 しかし、日本には日本ならではの、土着の応用ポストモダニズム問題が生まれている。それが宗教右派の問題であったり、「在特会」に代表される排外主義の問題だ。宗教右派自民党清和会、統一教会日本会議などの議論の不能性は、彼らが抱え込んだナラティブ(大きな物語)をポストモダン懐疑論で保護してしまったところにあるだろう。

 「在特会」の正式名称が「在日特権を許さない市民の会」という戦後民主主義的な「市民の会」としたことに象徴されるだろう*5。こうした排外主義者、歴史改竄主義者、宗教右派などは、どのように言葉を尽くしても客観的な理解ができない。事実を把握できない。「在特会」が主張したような「在日特権」は既に明確に否定されたか、戦後の混乱期を正常化するために行われていたような政策も過剰に是正されてしまっている。(例:朝鮮学校に対する支援など)また、政府が「日中歴史共同研究」において明確に存在を肯定している「南京事件」についてもあいも変わらず否定論を繰り返す者たちが居る。そうした者たちの主張の骨組みに「1.境界の曖昧化、2.言語の権力、3.文化相対主義、4.個人と普遍性の喪失」が見られる。ポストモダンの中で弱体化した「父権」や「家族」「男性」を陳腐なナラティブを持ち出すことで保護し、それに対する批判や反論を政治的偏向と否定する。

 「人々が共通の土台でお互いに話をする能力が失われ、見解の相違を解決する客観的な手段が何もなくなるから」「つまり自分の主観体験を共有する人々に向かって、自分は被害者だと主張してみせるしかできない」(同書 pp.322)

 さらに、ポストコロニアル<理論>、クィア<理論>、批判的人種<理論>などの「アイデンティティ重視の左派アイデンティティ・ポリティクスが抱える最大の問題の一つは、それがアイデンティティ重視右派のアイデンティティ・ポリティクスを裏付けてあげて、強化してしまう」

 宗教右派自民党清和会、統一教会日本会議などとの議論が不全である理由の一つがこうした傾向にあるように感じられる(最大の理由は、彼らの理解力の欠如だろうが)。

 リベラルで科学的な社会であれば、すべての言論は相互批判と懐疑的評価のまな板に載せられる。しかし、パターナルな、そして宗教的ナラティブに依拠しているこれらの者たちは、自分の持論に対する疑問を持たない。ファナティックな姿だ。

 現代を根拠付ける哲学原理は「自分が真理をつかんだとどれほど確信を持っていても、その信念を社会全体に押し付ける権利はない」しかし、自民党の一部には憲法を改正し、<国民に>それを押し付けようとしている者たちが居る。(そもそも、憲法は、国民に対するものではない!一般国民には憲法に対する遵守義務はなく、その憲法の範囲で制定される民法、刑法などの各法令に束縛される。もう一度言う一般国民には憲法に対する遵守義務はない。)

 米国や西欧で巻き起こっている政治的混迷はこのような<社会正義>が根底にある可能性があり、それがこのように明確になり、相互批判、自己懐疑の健全性、リベラルと科学の重要性が再認識されれば、その混迷は打開可能だろう。日本においては、同様の文脈が深く、または無自覚に根を張ってはいるが、そうした混乱は認識されていない。顕在化していない。

 日本社会における無視し難い困難は、排外主義や歴史改竄主義を振りまく宗教右派自民党清和会、統一教会日本会議などの頑迷な存在であろうと思われるが、これらは論理的整合性を持たない。必ずどこかで行き詰まる。約80年前には国を巻き込んで行き詰まったわけで、次回の行き詰まりでは、国や社会を巻き込まないように願う。


*1:死刑制度を存置している日本は否定しているように見えない

*2:大きな物語

*3:文化構築主義とは、「人間は自分の文化的な枠組み(パラダイム)にあまりに縛られており、あらゆる真実や知識についての主張は、そうした枠組みの表像に過ぎない」とする考え方

*4:日本においては、こうした議論の不徹底が後述する混迷を引き起こしたとも言える

*5:在日特権」によって後述するような「被害」にあい、それを「許さない」「市民の会」という立ち位置を自己規定しているという意味で応用ポストモダニズムに乗っている。そしてこうした「被害者ムーブ」は昨今のNHK党や「暇アノン」における自己規定においても同様と言える