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河村たかし市長の芸術政治利用を許さない会住民監査請求

追記(2022年8月25日):請求代理人より許可を得たので、住民監査の内容(名古屋市職員措置請求書)を掲載します。

個人名、住所等は伏せてあります。
フォント、文字数、行数等は改変してあります。

名古屋市職員措置請求書20220707.pdf - Google ドライブ


 「河村たかし名古屋市長による芸術の政治利用を許さない会」が住民監査請求を起こしている。8月19日に意見陳述が行われたようだ。

 「あいちトリエンナーレ2019」の負担金の一部について、名古屋市は「あいちトリエンナーレ2019実行委員会(会長:大村愛知県知事)」に支払いを拒否し、同実行委員会から支払いを求められ、訴訟に発展した。5月25日に判決が言い渡され、当然のことながら実行委員会側の完全勝訴の判決がくだされた。判決の中では河村市長がクドクドクドクド繰り返す「芸術への異様な評価」についても否定的な判断がくだされ、名古屋市の、というか河村市長の(というか、代理人である北口弁護士の)主張は完全に否定されている。

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名古屋市は、というか河村市長は諦め悪く控訴したわけだが、この控訴が無駄であると、名古屋市民176名が監査人となって請求されたのが今回の住民監査である。

この控訴について、「議会が控訴費用なんか予算承認しなければ控訴できないのではないのか、議会はなぜ諾々と河村市長の控訴を認めるんだ」という意見がある。

私も同じような意見を市議にぶつけたことがある。
その際に大意こう反論された。

「まず、大前提として公訴権というものがあって、当人が控訴したいと言っているものを妨げる権利は(よほど公序良俗に反しない、緊急性がない限り)議会にはない。これが第一段階。
 次に、ここで控訴を議会が止めるとする。すると河村市長は絶対にこう言う『むちゃくちゃですわ、わしが勝てた裁判を議会が邪魔したんですから』議会の責任にするだろう、そんな責任転嫁をさせたくない。それが第二弾階。
 そして大切な事は、どうせ控訴したって負けるに決まっている。判決が出るたびに『河村市長、あんた間違ってるよ』と言われるわけで、そうやって恥をかけば良い。最高裁まで三回あるんだから、三回恥をかける、これが大事な第三段階」

なので、訴訟費用は確かにもったいないが、本人がやるという控訴を止めることはできない。とのことだ。私は納得している。

なので、この住民監査で控訴が止まるのは困る(費用を河村市長自身で負担すれば良い)

しかし、そうした控訴の判断が、市民から見て許しがたい、政治利用、市政の私物化であることは間違いがなく、そうした意味を明確にする為にも、監査請求人の一人となって参加した。また、昨日の意見陳述に合わせて陳述書を提出させていただいた。(資料番号12だそうだ)

 この私が書いた陳述書については、私がここで公開する分には自由なのだそうで、担当弁護士の了承を得て、ここに掲載させていただきます。

 当ブログの既存記事を下敷きにしています。

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陳述書

令和4年8月15日
名古屋市監査委員御中

(資料番号12)



名古屋市は、あいちトリエンナーレ2019に係る経費として、本件負担金の総額を減額変更したことに伴い、令和2年5月21日に、「あいちトリエンナーレ実行委員会」より、不交付分の負担金(3380万2000円)等の支払を求めて負担金交付請求事件を提起された。
その後の意見陳述等を踏まえ、令和4年5月25日に、名古屋地方裁判所より敗訴の判決を言い渡された。


名古屋市は、同判決を不服として、令和4年5月30日に名古屋高等裁判所に控訴を提起したが、判決は法的にも適切なものであり、常識的に見ても妥当性を持つ。河村市長個人の特殊な主張によって名古屋市民の浄財である名古屋市の予算を費消することは適当ではなく、控訴にかかる日時もまた無駄である。名古屋市は即刻無駄な控訴を取りやめるべきである。


一審判決におけるすべての名古屋市側意見は公開されていないため、名古屋市が公式ホームページ上で公開している判決書(https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000153810.html)より、名古屋市側の意見とされている物を閲すると、その中には、日本国政府の政府見解と異なる独自の意見、または歴史修正主義と断じられても仕方のない意見もあり、名古屋市民としては名古屋市が公金をもって公の裁判において、このような意見を提出することは容認しがたい。また、本来各個人が自由に解釈すべき芸術作品について、河村市長個人の独特な、そして作者までもが否定している解釈を押し付け、一方的な評価を下している部分もあり、こちらも容認し難い。


今般の裁判における主たる争点は「事情の変更により特別の必要が生じたとき」には負担金の支払いを拒むことができると名古屋市は主張するが、その主張は正しいのか。(判決文にいう「争点(3)」)というものだが、その前にも手続き論として書面表決は規約13条8項の「会長が必要と認める場合」の要件を満たすかというもの(判決文にいう「争点(1)」)と、書面表決は定足数要件を満たすかという議論(判決文にいう「争点(2)」)もあるが、いずれも原告(「あいちトリエンナーレ実行委員会」)の主張が採用されている。


主たる争点はまた8項目に細分化されている。


(1)「事情の変更により特別の必要が生じたとき」の解釈
(2)本件での各事情の検討
(3)公共事業性とハラスメントについて
(4)政治的中立性について
(5)報告義務違反の有無
(6)運営会議の不開催
(7)その他の事情(原告に生じる不利益)
(8)事情の変更による特別の必要性の判断


この中でも「(3)公共事業性とハラスメントについて」から「(4)政治的中立性について」において、裁判所は不自由展に対して反対意見が多数寄せられたことを受け、鑑賞者に不快感、嫌悪感を生じさせたかもしれないとしながらも、そうした表現方法、芸術活動というものもあるのであって、そうした芸術活動を「ハラスメント」として、違法と断言することはできないとしている。


実態としては、不自由展に多く寄せられた反対意見というものは、実際の展示を見たわけでもない者たちが、一部政治的にゆがんだインターネットコンテンツ(主には、ユーチューブ動画)によってデマを吹き込まれた結果、その是非を考えないままその意見をオウム返しに述べたものばかりで、よしんばそれが正当な意見であるとしても、裁判所は法的に展覧会を否定できないとした判断であり、非常に力強い。


また、河村市長が今に至るも繰り返している「あいちトリエンナーレ」が公共事業であるという主張についても、「原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)は権利能力なき社団であって、地方公共団体ではないから、本件芸術祭を地方公共団体が行うような公共事業であるということはできない」と退けている。河村市長はこの判決文を読んでいないのだろうか。または名古屋市長でありながら「公共事業」の意味を理解していないのかもしれないと危惧される。


これでまだ河村市長において「公共事業だから云々」という主張を繰り返し控訴しようというのであれば、単なる蒙昧と断定する以外無い。


判決文は、以上のような流れで、最後に判断を述べているが、全てについて被告=名古屋市の主張を退けている。原告側の完全勝訴で、これで控訴を行うなどとは単なる政治的パフォーマンス、公金の無駄な浪費でしかない。


そもそも河村市長は負担金を払わないとした時に、文化庁も不払いとしていて「文化庁が払うのなら、名古屋市も払いますよ」と言っていた。文化庁はその後支払いを行ったのだから、そのタイミングで名古屋市も追従しておけば面倒も裁判費用も必要なかった。あの河村市長の発言は何だったのか、無責任な食言である。


河村市長の政治的都合、決断力のなさで、名古屋市民の浄財を浪費しているにすぎない。




この判決文で引かれている被告=名古屋市の主張に、「政治的に中立であるべき地方自治体」である名古屋市において、正当性を疑うような記述がある。その一つは23ページ目からの「不自由展実行委員会の構成員5名は、いずれも、美術の専門家ではなく、いわゆる左翼系メディアに登場するジャーナリストないし左翼系活動家としてしられている」とする記述以降のものであって、完全に政治的偏向があり、歪んだ政治思想に満ち、品位を欠いた揶揄である。


そして呆れたことに、名古屋市が公開している判決文のこの部分は対象者氏名らしきものをここでは黒塗りしているが、判決文全体では先に5名の氏名は記述されており黒塗りの意味もない誹謗中傷行為である。


もう一つ指摘をしておくと、被告=名古屋市は、こうした構成を原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)事務局も知っていたと主張しているが、ではその原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)の会長代行である河村たかし名古屋市長は知り得なかったのだろうか?


十分に知りえる立場にいながら、その構成をこうして事後に批判するというのは、当たらないのではないのか?


判決文19ページに著された名古屋市側の主張とされる次の記述も政府見解からも逸脱し問題である。


「キム作品についていえば、いわゆる従軍慰安婦問題は、新聞社が、捏造した虚報を全世界に向けて大々的に、何度も繰り返し発信し続けたことにより、韓国をはじめとする全世界の人々に、あたかも慰安婦の強制連行が歴史的事実であるかのように誤解され、信じ込まれてしまったものである。これによって、日本及び日本国民は著しい国辱を受けた」


二段階で考える必要がある。「従軍慰安婦問題」とその「強制連行」の問題だ。ここでいう「新聞社」の「捏造した虚報」というものは、いわゆる「朝日新聞による吉田証言問題」を指していることは明らかだがそこで「捏造」されたものは、「吉田なる人物が従軍慰安婦の強制連行に手を貸した」ということであって、全体としての「従軍慰安婦」の存在は否定されていないし、「強制連行」の歴史的事実も否定などされていない。


政府見解としては「従軍慰安婦」は歴史的事実であって、それを地方自治体が裁判上の主張として否定する行為は、行政の一貫性の上からも失当であり看過し難い。


「吉田なる人物が従軍慰安婦の強制連行に手を貸した」事実はなかったが、それは全体としての「従軍慰安婦の強制連行」の実在を揺るがすものではない。


アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)という団体がある。戦時性暴力についての資料を参集し、インターネット上で公開している。(https://wam-peace.org/
このサイトで、「連行」というキーワードで資料を検索すると、様々な証言や裁判資料、郷土史料などが参照できる。


例えば、吉見義明名誉教授(映画「主戦場」でも発言が引用されていた、日本近現代史の泰斗)監修の「東京裁判-性暴力関係資料」からの「桂林 軍事委員会行政院戦犯罪証拠調査小隊」による裁判資料には次のような記述がある。


「工場ノ設立ヲ宣伝シ四方ヨリ女工ヲ招致シ麗澤門外ニ連レ行キ強迫シテ妓女トシテ獣ノ如キ軍隊ノ淫楽ニ供シタ」


また東京裁判における「ビールマン夫人宣誓供述書」には次のようにある。


「是等兵士ノ幾ラカガ這入ッテ其ノ中ノ1人ハ私ヲ引張ッテ私ノ室ヘ連レテ行キマシタ。私ハ一憲兵将校ガ入ッテ来ルマデ反抗シマシタ。其憲兵ハ私達ハ日本人ヲ接待シナケレバナラナイ。何故カト云ヘバ若シ吾々ガ拒ンデ応ジナイナラバ、居所ガ判ッテヰル吾々ノ夫ガ責任ヲ問ハレルト私ニ語リマシタ。コノ様ニ語ッタ後、憲兵ハ其兵士ト私トタケ残シテ立去リマシタ其時デスラモ私ハ尚ホ抵抗シマシタ。然シ事実上私ハヤラレテシマイマシタ。彼ハ衣服ヲ私ノ身体カラ裂キ取リマシタ。ソシテ私ノ両腕ヲ後ニ捻リマシタ。ソコデ私ハ無力トナリ、ソノ後デ彼ハ私ニ性交ヲ迫リマシタ。・・・此ノ状態ガ3週間継続シマシタ」


こうした証言、史料は一つや二つではない。そうした数々の史料のうち、その一部でしか無い「吉田証言」の虚偽性だけを暴き立ててあたかも全体が虚偽であるかのごとく主張する行為は、論理学の解らない愚昧の所業である。


更にいうと、こうした東京裁判並びに連合国軍事法廷の裁判を受託することが、第二次世界大戦以降日本が主権を回復するための講和の条件であった。


サンフランシスコ平和条約」の第十一条には次のような記述がある。


「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。(略)」


日本は、上記裁判の結果を受け入れることで、講和を得た。この条約の効力は当然今も働いている。この裁判結果を受け入れたくなければ、もう一度この国はGHQの占領下に戻してもらうか、条約の破棄を宣言すべきだろう。


それもできないまま、他国には条約を守る(東京裁判等の結果を受け入れる)ふりをしつつ、内向きには「東京裁判史観からの脱却」などと、今更ながらの責任逃れを行う。そのような二枚舌こそ、恥ずべき行為であり、日本及び日本国民の「著しい国辱」と言うべきなのではないか。
二枚舌、嘘つきは名古屋市の代表者として相応しくない。


名古屋市が公金をもって斯くも破廉恥な主張を行うことは容認しがたいものである。




河村市長は令和元年9月20日に、あいちトリエンナーレのあり方について原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)会長の大村秀章愛知県知事に「公開質問状」を送っている。


https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/cmsfiles/contents/0000121/121114/190920.pdf
この「5」において「質問の趣旨」として「阪口正二郎」氏(現:早稲田大学社会科学総合学術院 社会科学部教授)の論文を引用している。しかし、その阪口正二郎教授は、令和元年8月14日に「現代ビジネス」誌上で次のように述べておられる。


「ここで今回の『排除』に公権力が関わっていると考えるのは、河村たかし名古屋市長が、今回の展示物に対して『日本国民の心を踏みにじる行為』だとして、展示の中止を求める抗議文を実行委員会に提出していたことによる。河村市長の行為は公権力の行為として誤っている。」(「表現の不自由展」中止と「ヤジ排除」不寛容な日本社会の深刻な状況(阪口 正二郎) | 現代ビジネス | https://gendai.media/articles/-/66519?page=2


つまり、河村市長は自らの公開質問状で根拠として挙げた法律上の有識者に、直接行為を否定されているのであり、この段階で考えを改めるべきである。また、同公開質問状で引用されている阪口 正二郎論文「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」(法律時報74巻1号参照:https://cir.nii.ac.jp/crid/1520854805438556544)を引いてみると、同論文は先行研究として奥平康弘さん(2015年に亡くなった東京大学名誉教授であり、憲法、特に表現の自由アメリカ合衆国憲法の泰斗)の「福祉国家における表現の不自由➖富山県立近代美術館のばあい」(法時60巻2号75頁)(1988)「法ってなんだ」184頁(大蔵省印刷局、1995)及び「”自由”と不連続関係の文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化➖最近の美術館運営問題を素材として(上)(中)(下)」(法セミ547号80頁、548号82頁、549号77頁)が掲げられている。


もちろんここで言う「 富山県立近代美術館のばあい」とは、大浦信行さんの『遠近を抱えて』を巡る騒動のことであり、当時は「天皇コラージュ問題」とされたものが、現在において「天皇写真焼却問題」とされているものである。


実は、こうして一つのテーマが30年以上にわたって議論されている(というか、政治的道具として芸術作品が使われ、一方的な誹謗を受けている)わけだが、そうした歴史的な重層性は河村市長の文章からはうかがい知れない。


阪口正二郎論文「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」には次のような記述がある。「芸術と国家の関わりについての憲法上の問題を析出しようとする文章であり、本稿は問題の解決策を提示しようとするものではなく、問題をいかなるものとして認識すべきなのか、筆者なりの認識を示す。」(「1.はじめに」)
同論文は阪口教授の私見であり試論であるとされる。つまり、河村市長が公開質問の主張を補強する根拠とするには、そもそもそぐわないものである。


続く「2.芸術に対する国家の援助と干渉」及び「3.政府言論という問題」において阪口教授は述べる。


「一方で国家の側からすれば芸術をコントロールしようとする動機があり、他方で芸術の側からすれば自己の普及のためには国家による財政的な援助を期待せざるを得ず、こうした両者の要求が広範に交錯する現代の国家にあって(略)文化に属する芸術に対して国家が選別的な形で援助を行う際にも、やはり政府言論という視座は無視しえない意味を持つはずである。」と、注意を促している。


「4.政府言論のディレンマ」において、その「政府言論」についての論考は深められていく。


「国家が私人のなす表現行為に対して内容に基づく<規制>を行う場合、わいせつ表現や名誉毀損など一定のカテゴリーに属する表現行為の場合を除いて、規制は最も厳格な審査に服する。では、私人の表現行為に対する国家による内容に基づく選別的な<援助>の場合にも、同様に考えるべきだろうか。あるいは、そもそも政府言論に問題があるのだとすれば、より広く、政府言論は一般的に許されないと考えるべきだろうか。(略)政府言論には危険性と同時に積極的なメリットがあり、そのことは、政府言論の危険性が問題になる、表現行為に対する国家の選別的な形での援助についても(略)少なくとも部分的にはあてはまる。『政府言論のディレンマ』『政府言論のパラドックス』と呼ばれる。」


「民主主義国家において、われわれが主権者として国家の行動を監視し賢明な判断をしようとすれば、われわれは政府の立場を知る必要がある。」


「さらに、資本主義のもとで言論市場が一定の私的権力によって独占される危険性がある場合に、国家は、そうした環境にあっては容易に市場に登場しそうにない私人の表現行為に財政援助をなすことで、言論市場をより豊かなものにすることによって、民主主義や個人の自立といった価値に貢献することができる。」


「国家が表現行為の内容に基づいて選別的に援助をなすことが禁じられている領域があることを考えればわかる。それは、道路や公園などいわゆるパブリック・フォーラムの領域である。」


「道路や公園など典型的なパブリック・フォーラムの領域において、国家が表現の内容に基づいて規制を行う場合、規制は厳格な審査に服し、よほどのことがなければ合憲とされることはない。道路や公園が公の営造物であろうと、国家はそこで私人が自己の所有する土地において振舞うのと同じように振舞うことが許されているわけではない。」


「『芸術としての卓越性』という選別基準も、(略)一般的には許されるはずである。(略)芸術作品としてすぐれたものではないという理由で国家が援助を拒否することは可能である。そもそも芸術活動への財政援助という制度の趣旨は、すぐれた芸術作品の供給を促進することにあるはずであり、質の劣った芸術活動にまで援助することは制度の趣旨に反し、制度それ自体の存立を危うくさせる可能性がある。」


「しかし他方で、国家はいかなる内容に基づく選別をしても許されるというわけでもないはずである。たとえば、自民党を支持する芸術家には補助金を支出するが、自民党を批判する芸術家には補助金の支出を拒否するといった形での選別的援助は憲法上の問題を提起する。」


「国家が芸術活動に財政援助をなすかどうかは国家の正当な裁量の範囲内にあり、しかも国家は財政援助をなすにあたって、私人の表現行為を規制する場合とは異なって、一定の内容に基づく選別をなすことも許されていると考えられるが、だからといって国家の内容に基づく選別に憲法上の制約が全くないわけではない。」


最後の「6.観点に基づく選別」において。表現行為の内容に基づく選別を「主題に基づく選別」と「観点に基づく選別」という伝統的な表現の自由理論の分類に従って考察すると、「主題に基づく選別が、国家が芸術に援助をなす場合には、国家が単純な検閲者として立ち現れる場合とは異なって、一般的に許される可能性がある。」


観点に基づく選別はどうだろうか。「自民党を支持する芸術家」という例で考えたように「観点に基づく選別の禁止というルールは有効そうに見える。」しかし、話はそんなに単純ではない。


「芸術としての卓越性」といった基準は、観点に基づく選別とそう簡単には切り離せない。


「芸術活動に対する国家の援助という領域においては、観点に基づく選別の禁止というルールですら、ある程度適用範囲を限定し、すぐれた芸術の促進という制度の存立目的と合理的関連性のない『純粋な観点に基づく選別』を禁止することにとどまざるをえないだろう。(略)学問の自由の場合と同様に、やはりこの領域において肝要なことは、すぐれた芸術に対して援助を行うという制度それ自体をできるだけ政治から切り離し、『(芸術としての卓越性という)基準を政府が過度に政治化させないようにすること』であり、制度それ自体の自律性を確保することである。」


明白だろう。「すぐれた芸術に対して援助を行うという制度それ自体をできるだけ政治から切り離し(略)政府が過度に政治化させないようにする」ことが肝要であると政治の介入を排除しているのである。


つまり、ここにおいて、河村市長の主張は阪口教授の論考で否定されている。




この阪口論文に先行する奥平論文において、まるで予言を見ているような、歴史的重層性に驚かされる。


先に上げた「福祉国家における表現の不自由➖富山県立近代美術館のばあい」及び「”自由”と不連続関係の文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化➖最近の美術館運営問題を素材として(上)(中)(下)」は奥平康弘さんの著書「憲法の想像力」(日本評論社 2003年)に収録されているようだ。以下ではその書籍からの論考を述べる。


繰り返すが、阪口正二郎教授の論文を、公開質問状の中で引用したのは河村たかし名古屋市長本人であり、その阪口正二郎教授の論文は先行研究として奥平康弘さんの論考を下敷きとしている。


同書142ページより「”自由”と不連続関係に在る文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化/最近の美術館運営問題を素材にして」と、阪口さんが参照している論文が掲載されている。(初出:「法学セミナー」2000年7・8・9月号)


「『天皇コラージュ』事件とは、1986年3月、富山県立近代美術館が催した『’86富山の美術』展で展示されていた大浦信行作品『遠近を抱えて』を、数十日後に県議会において県議二名が『不快だ』と非難し、さらにそれをきっかけに右翼団体が大規模な反対・抗議運動を組織化し、大きな騒ぎになったことに、端を発する。県の美術館はこうした動きに動転し、問題の作品を早速非公開とする措置を講じた。県側の対応はまことに徹底したものであって、問題作品を館外に売り払い、同展覧会のための図録も一切焼却してしまった。
県議たちにより『不快だ』として『展示するチャンス』=『表現の自由』を奪われた作品は、当時存命中であった昭和天皇の写真を題材にし、その周辺にヨーロッパで名画として知られているボッティチェリの裸婦像の部分などを組み合わせて作られた連作コラージュ版画である。県議らは、これを『天皇のプライヴァシー』『天皇の肖像権』を侵した不敬作品であるときめつけたのであった。『天皇中心の”神の国”』を信じる(あるいは信ずる振りをする)ことによって人びとの注目をひこうとした地方政治家の思惑は、ものの見事に当たった。また、なにかことを起こすことによって、勢力の維持・拡大をはかろうとしていた右翼団体にとっては、これは物怪の幸いであった。全国のあちらこちらから拡声器を積んだ自動車をもって、続々と富山市に集結。喜々として抗議運動を展開した(富山県立近代美術館問題を考える会編『全記録 裁かれた天皇コラージュ』桂書房、2001年、参照)」(憲法の想像力 p.145)


事実として明白なように「昭和天皇御真影」を焼いたのは、大浦さんの作品を収めた図録を焼いた富山県立近代美術館なのであって、そう追い込んだのは、「不快だ」として大浦作品を否定した県議や右翼団体である。


こうした出来事に出会い、その心情を映像作品にしたのが、今回あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」で展示された大浦作品の「オリジナル作品」であり、本来は1時間を超える映像作品となっている。それをあいちトリエンナーレの会場では20分程度のダイジェストにまとめて展示していた。同会場では、作品の閲覧前に注意書きがなされ、不用意に閲覧しないように警告、ゾーニングがなされていた。そうした中で動画を勝手に報道引用し、更に「天皇焼損シーン」だけを切り取って繰り返し放映したのがテレビのワイドショーであり、インターネット上の違法転載サイトである。
批判はこの切り取られた「天皇焼損シーン」に対して行われているものであり、もはや大浦さんの作品とはいえない、あまりにも歪められた事実経過と言わねばならない。


その後、富山県では大浦作品の再展示を求める訴訟が起こされ、いわゆる「天皇コラージュ問題」として取り上げられることになるが、再展示は認められなかった。


「公の施設としての美術館は、従来からの実定法システム(およびそれを前提とした行政法論理)に守られて、美術館経営に関して非常に広い --ほとんど不当といいたくなるほど広い-- 裁量が授権されていると考えられてきている。富山県立近代美術館が『天皇コラージュ』作品に対しておこなった非公開措置も、これの当否を訴訟という形式をもって争うことは、たいへんに難しい。誰が、いかなる権利にもとづいて、美術館のどんな行為を、違法として争うことができるのだろうか。要するにいままでは、県が配分する予算の範囲内で美術館は、作品の購入・売却・展示・その差し替えなど、経営の根幹にかかわる部分において、裁量、すなわち『法から自由』の行動余地を与えられてきている。館の措置によって利害・損害を受ける者があるにしても、そのすべては『法と無関係』な事実上の(反射的な)利得に過ぎないのであって、裁判上の救済その他の法の対象たりえない --そういう建前で制度が作られ運用されてきている。」(憲法の想像力 p.147)


つまり上記で阪口教授が指摘されたように、「『政府が過度に政治化させないようにすること』であり、制度それ自体の自律性を確保」されているがために、美術館が「非公開」と決めてしまえば、それを覆すことはできない。


これは翻って言えば、正当な法的観点から見た場合、今回のようにあいちトリエンナーレ実行委員会や、その個別展示である「表現の不自由展・その後」のキュレーターなど、展示主体が公開を決めた以上、政治が介入する事は不当であるということだ。作品に対する意見や批判は自由に行えばいいが、政治的に介入すれば不当な事となる。当たり前過ぎて、繰り返すのもバカバカしいが、河村市長の判断が、不当であり、間違っている。


更に奥平さんは同書で非常に示唆に富む事例を報告されている。それはまるで今日の予言である。それが「ニューヨーク市ブルックリン美術館」における騒動の顛末である。


「まず、ブルックリン美術館をめぐる話である。ことのありようはこうである。ブルックリン美術館は、1999年10月はじめに、ある大規模な特別展を開く予定で計画を進めていた。ところが、この展覧会で展示されることになっていたいくつかの作品の内容がよろしくないという理由で、開幕間際、9月半ば過ぎになって、当該美術館の親元であるニューヨーク市の市長R・W・ジュリアーニが、美術館側に計画の変更を求めるという事態へと発展した。しかし美術館はこれに応じなかったため、ジュリアーニ市長は、毎月公費で支払われる美術館運営費(月額49万7554ドル)の打ち切りを決定するとともに、美術館に対する土地建物の貸与契約の破棄を通告するという、異例の強硬な挙に出たのである。すなわち、いまや美術館は、ひとつの展覧会計画を実行しようとしたために、それに異議を挟む市長によって、美術館の存立そのものを葬り去られる瀬戸際に立たされるにいたったのである。」(憲法の想像力 p.150)


「この騒ぎがどんなふうに結着がついたかというと、 (略) 散々のケチにもかかわらず美術館は当初の計画を全く変えること無く、予定どおり (略) 難なく終幕を迎えた。 (略) 暫定推定での入場者数18万人にのぼり、現代物としては美術館はじまって以来最多の観客を集めたという。 (略) この現象の背後にはジュリアーニ市長の馬鹿騒ぎがあったのであって、展覧会成功はこの市長の愚行の功績によるところが大きかったという皮肉的な見方が成り立つかもしれない。」(憲法の想像力 p.151)


あいちトリエンナーレ2019においても、来場者数が67万人を超え、過去最多となった。「市長の愚行の功績によるところが大きかった」というところまで同じとなった。


問題の作品展とは「センセイション――サーチ・コレクションのなかのイギリス若手芸術家たちの作品群」と題するもの。


「市長(ジュリアーニニューヨーク市長:引用者補足)が本件展覧会『センセイション』開催反対理由として挙げたのは、まずC・オフィリ『聖なる処女マリア』である。この、ケニア出身の画家が描くマリア像では、一方の乳房に象の糞を素材に用いており、その背景には臀部や女性器の写真小片が散りばめられているという構図の、いってみれば独特にアフリカ調が強くうかがわれる作品である。ジュリアーニ市長は、この作品をつかまえて『私を不快にする』『むかつく』と酷評し、さらに公金支出打ち切り決定を次のように説明した。『あなた方は、政府の補助金をもらって、他のだれかの宗教を冒涜する権利など持っていないのだ。だから、われわれ市当局としては、美術館長がまともな分別を取り戻すようになるまで、美術館への公金支出を中止するなど、やれることはすべてやる意向である。美術館としては、自分たちが政府から補助してもらっている施設である以上は、社会に在る人びとがもっとも個人的に深く抱懐する信条を傷つけるようなことがあってはならない、と悟るべきなのである。』と語り。
返す刀で市長はまた、動物の肉片等をフォルマリン漬けにしたものを素材にしたハーストの作品にも言及し、これにも『むかつく』と評して打ち棄てた。爾来、この騒動のなかでは、『むかつく』(sick)というジュリアーニ市長の評言が流行を見ることになる。」(憲法の想像力 p.157)


ジュリアーニ市長は宗教感情に訴えたが、かれ自身カトリック教徒であるのは公知の事実であり、従来からそれを売り物にもしてきたところでもあって、かれのこの訴えはニューヨークに少なくはない同宗派の面々の支持を見込んだうえでのことである。」(憲法の想像力 p.158)


つまり、今回のあいトリ騒動では日本国内の「天皇崇拝者」の宗教的シンボルが「穢された」のであろうし、ブルックリン美術館での騒動では、カソリックの宗教的シンボルである「マリア像」が「穢された」ということなんだろう。


ジュリアーニ市長からみれば、この作品(C・オフィリ「聖なる処女マリア」:引用者補足)は反カトリック的であるがゆえに『むかつく』のであるが、じつをいえば、これを作ったオフィリもまたカトリック教徒なのであって、この作品にはなんの神聖冒涜・反カトリック的な意味合いをこめていないのだ。と抗弁する。象の糞を使ったのが侮辱的証拠だという非難に対しても、オフィリの出身地アフリカのある地域では、民族宗教のうえで象の糞は豊穣神のシンボルとしてむしろ神聖視され、かかるものとして象徴的に用いられてさえいるという話もあるのである(オフィリは、本件展覧会で展示されるかれの他の作品のいくつかでも、同じく象の糞を素材に用いている)。」


「作品の美醜をめぐる美学的な判断というものは、なかなかに微妙なものがある。そうだから、公金を扱う権力者は極力この判断世界に入るのを避けねばならないということになるのだが、ジュリアーニ市長はそうは考えなかったようである。」(憲法の想像力 p.158)


つまり、ジュリアーニ市長の無理解がこの騒動の発端なのであり、異なるエスニシティに対する不寛容が問題だったわけだ。


このブルックリン美術館での騒動、ジュリアーニ市長の騒動、または「センセイション/サーチ・コレクション」の騒動は、美術に詳しい人々の中では有名だそうだが、あいちトリエンナーレ騒動では、そうした意見は聞かれなかった。河村市長は、画廊を経営していた「画商」だった筈なのだが、こうした事例について、ご存じなかったのだろうか?


「80年代 (略) 芸術家たちの作品評価をめぐり大論争が生じた。こうしたばあい、議論の場は、けっしてただ単に芸術家同士あるいは芸術愛好者とか鑑賞市民とかいった、諸個人間の芸術論争という形で展開するのではない。きわめてしばしば、公金支出という契機を媒介として公権力主体が出てきて、芸術論争にある種独特な公的裁断をくだすという構造というかしくみになっている。そこに現代社会の特徴のひとつを見いだす、とさえ言える。」(憲法の想像力 p.174)


今回、このニューヨークにおける騒動と教訓を理解しないものが、この愛知県において同工異曲の騒動を引き起こしている。ビスマルクの警句「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは将にこのことだろう。


奥平康弘さんは同書で次のようにも述べてみえる。


「シフリン(Steven H. Shiffrin(Cornell Law School ) チャールズ・フランク・リービス法学部名誉教授:引用者補足)は、ある書物(The First Amendment, Democracy, and Romance, Harvard Univ. Press, 1990:引用者補足)によって『なぜ表現の自由は保証されねばならないのか』という問題に独創的な考察を加えているのであるが、それは結果において、さっきから言っている『想像力』ということと通底するところがある。


シフリンは言う。表現の自由なるものは、一九世紀中葉以降の詩人R・W・エマソンウォルト・ホイットマンなど個人主義的・反抗的・反権威主義的な人たちに象徴されるような性格のロマンティックな傾向を持つ者たちにこそ保障されるべきなのだ、と。どうしてそうなのか。


こういった人たちの言説は、反体制的・革新的・創造的であって、少数派であるがゆえに、政府や社会によって抑圧されるのが常である。けれども、こうした思潮こそが、社会に活力を与え、人びとを生き生きとさせ、民主主義を推し進めるものなのであって、そうだから、こういった傾向の意思表明を自由闊達に行わせるためにこそ、表現の自由憲法保障はあるのだ(あるべきなのだ)、とシフリンは言う。ここにはまさに、「想像力」をはたらかせ憲法憲法たらしめようというぼくの主張しているところと、オーバー・ラップしているところがあるのではないだろうか。」(憲法の想像力 p.22)


河村市長は、将に自由を尊重し、個人主義的であり、反抗的であり、反権威主義的な者だったはずだ。


そうした者が、自ら権力を握り、狭隘な思い込みから他者を批判し、他者の思想を排除し、聞く耳を持とうとしない。文化や価値観といったものの多様性を理解せず、他者の主張に対する「想像力」を失う。


権力が腐敗するとは、この「想像力」を失ったとき、思想の空間がよどみ、腐敗が始まるのだろう。


以上のように、名古屋市控訴審においても、特定の芸術作品について、河村市長個人の独特な見解に基づいて非難し誹謗する主張を繰り返していることは名古屋市民として容認することはできません。


以上

後日請求書本文(名古屋市職員措置請求書)も、許可が得られれば掲載する予定です。