市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「金メダル問題」の深層

 今朝の中日新聞、市民版に「市政回顧2021」の「上」として「金メダル問題」が掲載されている。

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2021年12月28日 市民版 「市政回顧2021(上)」 「金メダル問題」

 ・・・「市政回顧」の1回目、というか「上」というからには、せいぜい「上・中・下」の3回程度の展開になるのだろうけど、その1回目のテーマが「金メダル問題」という異常性。これが「市政」の「回顧」の1回目なんだ。100年後の名古屋市民がこれを見て、なんと言うか。それを想像しただけで、私であれば顔から火が出る思いだ。

 記事の惹句が「庶民感覚とずれ?」ときているが、「良識に反する」この事態を生み出したのが、他でもない2009年の市長転身選挙から延々と歪んだ報道を続け、「河村多選市政」を生み出し、維持してきた中日新聞自身の責任であるとの自覚のない報道である。

 チラチラとツイッターで書いておこうと思ったけれど、あまりにも問題が多いのでブログに記すことにする。

 まず、この記事。最近は記事の著作権への配慮から、全文スキャンして示すことはしたくないが、全文を示さないと批判ができないので、全文を引用させていただく。

 この記事は明らかに「筆」が入っている。中日新聞は記事に記者名をいれるが、これには入っていない。複数の人間による校正がかかったか、合議で作られた文章なんだろう。更に、明らかに違和感を感じる部分が2点ある。*1

 まず、1点目が2段目の「テレビ各局は夕方のニュースで一斉に放送し、インターネットでも広がり続けた」との記述。一体何が「広がり続けた」のか判然としない記述だ。この文章、通常であれば次のようになるのではないだろうか。「テレビ各局は夕方のニュースで一斉に放送し、インターネットでも『反省していない』『市長やめろ』など非難の声が広がり続けた」と。

 記事を見ると、「トヨタ自動車」や「ネット上」の「強いトーン」や「声」は記述しているが、出来事に対する批判を押し隠しているように見える。つまり中日新聞としては、そうした良識からくる評価は第三者に丸投げして、自身の受け止めは一切表明していない。それは「客観報道」といえば聞こえは良いが、権力者に当たり前の批判も加えない姿であって、報道とも言えないだろう。権力者=市長、河村たかしに対する「忖度」のために筆を鈍らせており、その為に一体何が広がったのか訳がわからない文章になってしまっている。何が広がったのかといえば、良識をもった人間であれば、当然抱く嫌悪感と否定の心であり、そうした常識が狂えば、社会は規範を失う。この記事には規範意識がない。

 筆を入れた者に規範意識が感じられない。こんな河村にまだ忖度する低い見識しか持てていない。そしてその規範意識のなさが、こんな中途半端な文章を生み出すのではないのか。モノを書いてカネをもらおうというプロ意識を感じない。つまり、記者ではない。

辞めちまえ!

カスが。

 この文章を書こうとしたキッカケも、某マスコミ関係者との「この記事見ました」という会話の中で、河村自身が各マスコミに擦り寄り、ネタを提供してメディア露出を諮ろうとしている事を聞いたからだ。しかしそのメディアは冷淡に対応していると言っていた。けれども中日新聞のこの「忖度具合」を見ると、まだ市長室発信の「とくダネ」*2に期待しているってことなんだろうか。来年の元旦にも何度目かの「中部国際空港に、あおなみ線乗り入れ」発表が行われるのかもね。

 中日新聞もここはキッチリ、良識を発揮して、河村を追い落として、いっそ「政局」にでもしたほうがネタも広がって面白いんじゃないのかね?確かにこのブログは「反河村」であり、私は河村を公職者として否定しているが、そうじゃなくても純粋にネタとして面白いだろう。

 メディアの基本は、豚をおだてて木に登らせて「豚が木に登りました」と書き立てて、豚が調子に乗って木から落ちたら「落ちた」と書き立てる。この2回で美味しくいただくんじゃないのか?・・・ひどい表現か?・・・中日新聞が、名古屋市長という木に登らせた豚以下の無能に苦しめられている名古屋市民の怒りと思って聞き流してくれ。


 違和感のもう一つは、「金メダル問題では、ネット上を中心に事実と異なる報道もあった」と言っている部分だ。何を言っているのかがさっぱりわからない。いったい何を指して「事実と異なる」事があったのだろう。そんな事があればちゃんと訂正しておくべきなんじゃないのか?

 河村が「訂正してもらわないかん」「説明せないかん」とそうした「誹謗」に耐えたような書き方しているが、そもそも、「金メダル問題」については、メダルを噛んだ事実、あの一瞬がすべての問題であって、その前後に「事実と異なる報道」があったとしても、それは「金メダル問題」自体を免責するようなものではないだろう。逆に、前後のあやふやな行動(突然、トヨタを訪れたり、本人との面談を強要してみたり、アチラコチラに手を回して見たりしたこと)が、様々な憶測を呼んだとも言える。すべて自業自得ではないか。

 「何を話しても批判されてしまう雰囲気だった」というのは、ある意味当たり前で、あのタイミングで話せば批判されるのは当然だ。「話」だけで、「口」だけで、事態の収拾を謀ろうとした市長周辺者の考え方は誤りで、それを唯々諾々と記事にしている中日新聞記者の見識こそ誤り、「良識とのズレ」ではないのか。

 それどころかこの河村が今までどれほど「事実と異なる事を言って他人を誹謗」してきたか。

 市議会リコールにおける議員報酬を2400万円と言っていた。政務活動費、当時は政務調査費を現在騒がれている国会議員の文通費のように捉えて、使途も自由、領収書も要らないように喧伝していたが、当たり前だが使途は制限され、領収書も必要であり、更に自費を一定程度按分支出しなければならないので、地方議員の政務調査費/政務活動費は、国会議員の文通費のような「第2給与」のような訳には行かない。河村たかし*3は、国会議員時代、この文通費を「そのように」使っていたので、他の議員もそうだと思ったのだろうが、それは事実と異なる。そして、今、佐藤夕子自身が、政務活動費を按分率100%で、2千万円もいい加減に使っている。こういったインチキを生み出したのも中日新聞が河村、減税日本に忖度し続けているからじゃないのか。

 ここ最近では、大村知事だ。あいちトリエンナーレ、及び知事リコール運動の中で河村の主張がどれほど事実にそぐわないデマばかりだったことか。そうした事も中日新聞はまったく触れない。愛知県民を馬鹿(鹿を馬というもの)にしたいのだろうか。

 あいちトリエンナーレ、特に「表現の不自由展」に出品した作品の製作者や津田大介氏に対する河村たかしが振りまいたデマ、誹謗中傷は未だに信じ込んでいるバカ者が大群で騒いでいる。深刻な名誉毀損ではないのか。


 河村の事実に基づかない誹謗なら、私も受けている。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 平成23年9月20日、台風15号による内水被害が発生し、10月に入ってからその説明会が守山区で行われた。(北区においても、避難と解除後の帰宅について問題があり、住民より要望が出されたが、北区における住民説明会は開かれなかった、これも問題だ)

 その会場で私は「河村市長にお尋ねしたいが、減税と災害対策ではどちらを優先されるのか、本日(平成23年10月24日)の財政福祉委員会における討議で、おたく(減税日本ゴヤ)の委員は災害対策よりも減税が大切だとはっきりと言っている」と尋ねた。


 この質問はスルーされ続けてきたが、最後の市長挨拶の際に河村は次のように語った。

 「減税と災害対策ではどちらが大切かという質問でしたが、これはどちらも大切です。うちの議員が減税の方が大切だと答えたって、そんな事言ったの?」と、最前列に座っていたT市議(現在は議席を失って私人なので匿名化しておきます、当時の記事ではそのままです)に問いかけた、私はこの時、T市議が河村市長に何と答えたかは知らない、席が遠かったので聞こえなかった、そして「そんな事言って無いそうでございます、その場に居た人間が言っているのですから間違いない」と答えた。つまり、T市議より、当日の財政福祉委員会において、減税日本ゴヤの委員から「災害対策よりも減税が大切」というような発言はなかったという報告が河村市長に対してなされたと推測でき、私の発言は嘘であるかのように扱われたわけだ。

ssp.kaigiroku.net

 「名古屋市会財政福祉委員会 平成23年10月24日」の議事録には、共産党の山口清明市議の「(略)松山委員にお聞きしますけれども(略)震災が起きても何があっても(略)やっぱり減税は、財政状況関係なく行うべき最優先課題だと認識されているというふうにとらえてよろしいですね」との問いかけに松山市議(当時、減税日本ゴヤ)が「そのとおりです」と答えている。

河村たかし、及びこの減税日本ゴヤ所属のT市議は、私に対して明白な嘘をつき、衆人環視の中、私を「嘘つき呼ばわり」したわけだ。「訂正してもらわないかん」ですし「説明せないかん」でしょう。

 なぜ、河村たかし、やT市議は市民に嘘を言ったのか。

 この出来事からすでに10年経っている。誹謗を受けた私に謝罪は無いし、説明もない。

 そして「河村たかしは嘘つきですよ」と、市民に広く知らせていれば、この10年の市政の停滞や、知事リコールの馬鹿騒ぎ、署名偽造も起きなかった。(あ!中日新聞の新聞協会賞も無かったってことか)

 以前、新自由主義者歴史修正主義者は、短期的で、視野の狭い中でしかモノを考えないと指摘した。現在持て囃されている、新自由主義も、歴史修正主義も、それは日本社会が時間軸として刹那的、短期的、空間として利己主義、内輪意識の強化と、その鏡像である排外主義に偏った結果であると思えてならない。こうした傾向、問題の根底に、日本社会を覆う視野狭窄がある。

 時間軸としての視野狭窄、前後の経緯を顧みない傾向が、これらの問題を生み出し、問題を判りづらくしている。「金メダル問題」も前後の経緯を踏まえないから単なる狂気の出来事ぐらいにしか捉えられない。

 起点は河村たかしが大村知事を愛知県知事として迎え入れたところから始まる。その当時は河村たかしは、「名古屋市長」として「市民税減税」を実現させ、国政に転身し、「消費税1%削減」を旗印に、自身は総理になれるだろうと夢想していたのだろう。もう、その段階で「無能」だ。彼自身の「人生行き詰まったら選挙に出ろ」といった誤魔化しに依拠した生き方が反映されている。なぜ「人生に行き詰まったか」なぜ「民主党党首選挙で推薦人が20人集まらなかったのか」その反省は無い。

 河村たかしには「民主主義」の理念は理解できていない。「大村知事を愛知県知事にしてやったのも自分だ」ぐらいに思っていたのだろう。そんな考えを持っていれば、大村知事と決裂するのも当然である。大村知事と河村の文藝春秋における議論を読めば一目瞭然だ。大村知事は民主主義の常識の上で議論しているが、河村の文章は弁解と誤魔化し以外何もない。

 やがて、名古屋市は国際展示場改修でもたつき、愛知県にそれを奪われた。名古屋城についても県は協力しないが、それも河村の自業自得であって、大村が河村を貶めたいがために協力していないわけではない。しかし河村にはそれがわからない。「自分がしてやった知事が自分に噛み付いてきた」といった気分なんだろう。大村氏を知事にしたのは愛知県民であり、大村氏は河村のように噛みつきはしない。

 そうした大村知事に対する幼稚な意趣返しと、大阪維新松井一郎からの電話で動いたのが、あいちトリエンナーレ騒動だ。ここでも、そうした騒動、及び河村のデマを批判せず垂れ流すメディア。中には、共同歩調を取るメディアも出てきて、河村は有頂天になる。そして、デマがデマを呼ぶ。

 この時のデマで少なくない人々は人格を傷つけられている。やってもいないことで河村たかしに誹謗中傷されているのだ。これは誰が癒やすのだ?

 そうした中で始まったのが、コロナ感染症の最中に実施された「知事リコール運動」だ。中日新聞も、もう、ここで見限るべきではなかったのか。完全に「デンパ系」に足を突っ込んでいる。今、河村たかしを支援している者は、視野狭窄にかかっているか、過去に自分が支援したという正常化バイアスに捉えられているか、それとも単なるクズでしかない。*4

 挙げ句の果てが「署名偽造」だ。もはや何をか言わん。これにも説明責任を果たしていない。

 そして市長選挙。直前までどん底だった河村たかしが、市民の民意で市長多選を獲得した。この民意を作ったのは誰で何だったのか。

 市長選挙では河村も「あるいは落選か」と諦めたようだ。様々な公約を打ち出した。思いつく限りの「毛ばり」をばらまいたわけだ。そして、そうした「毛ばり」は放置され、やはり、嘘つき河村たかしの嘘が積み重なっただけだ。(例示:30%キャッシュバック、敬老パスの乗り継ぎカウント問題)

www.chunichi.co.jp
web.archive.org

 まさに、河村たかしの「毛ばり」を名古屋市民に振りまいているのが、中日新聞であることが示されている。この ③ 「市バス・地下鉄の乗り継ぎカウントは1回へ」 は守られていない。河村たかしの嘘である

 こうした嘘が効いて、市長多選がかない、「やれやれ、ひと安心」といった塩梅で気が抜けて、ここで「"やんちゃ"な側面を出して、メディア露出」を狙ったのが、この「金メダル問題」だろう。

 これらの経緯を見て理解できることは、河村たかしの行動原理だ。彼がやっていることは、単なる「猟官運動」でしかない。自分の議席、つまり生活を守るために、行動しているに過ぎない。*5

 河村たかしは言う「総理になる」。しかし、総理になって何をするという理念など無い。民主党代表選挙で20人の推薦人が集まらなかったのには訳がある、という事だ。

 河村たかしの「猟官運動」。私利私欲に手を貸しているのが中日新聞ということになる。もう本当に大概にしておいてくれ。いくら豊かな名古屋でもこれ以上ぐちゃぐちゃにされるのは見ちゃいられない。



名古屋城天守有形文化財登録を求める会」では、
一月に一回程度、

北区にある「北生涯学習センター」で月例勉強会を開きます。

  令和 4年  1月25日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

         2月22日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

 2月22日(火)は、特別企画として。
  建築士が読み解く!
  名古屋市が作成した「幻」の名古屋城天守耐震改修案

  として、建築士 の 渡邉正之 様に
  現天守の耐震改修について、お話を伺います。

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。


shinnsou

*1:論点として、おかしいと思うところはもっとある

*2:誤報

*3:佐藤夕子

*4:私利私欲で虚偽を振りまき、他人を足蹴にしてして由とする者をクズと呼ぶ以外表現の方法を知らない

*5:市長選挙の際に、相手陣営を「生活防衛協同組合」などと誹謗したが、それは自分たちの生活防衛協同組合としての在り方を写していたに過ぎない。自分の物差しで相手を見ていたのだろう。現に河村が勝ち、対立候補は落選したが、対立候補を支援した誰が生活破綻しただろうか。しかし、あの時/そして今でも、河村たかし名古屋市長の座から滑り落ちれば生活破綻する者は少なからずいて、それらの者は生活防衛協同組合として、必死で河村の多選を実現化させたのだ。

生きる戦略

www.chunichi.co.jp

 今朝の中日新聞、今年のニュース回顧がはじまっている。1回目は知事リコール署名偽造事件を扱っている。中日新聞としては新聞協会賞ももらって鼻高々だろう。田中事務局長も登場し「なんであんなことをしちゃったんだ」との発言を引き、記事の惹句にもしているが、実は「なぜ、知事リコール運動を行った人たちは(事務局は)署名偽造なんてしちゃったんだろう」という疑問は、田中事務局長だけではなく、ほとんどすべての人々が抱く疑問でありながら、まだ誰も答えを出していない。

「なぜ、署名偽造なんてしちゃったんだろう?」
「なんのために、署名偽造なんてしちゃったんだろう?」
「そんな事がバレないと思ったのはなぜ?」


 少し前に、政治において、哲学の精神を持つべきであると書いた。哲学の精神とは批判の精神であり、懐疑の精神である。すべての事柄に、徹底的に懐疑を投げつけ、それでもなお、信じるに足る事柄(または、限定的にでも信じるに足る前提条件)を峻別し、それを踏まえなければ、人生を誤るし、そんな誤りを起こすような人物に社会の舵取りを任すわけにはいかない。

 人生に行き詰まったら、選挙に出て誤魔化しの人生を歩むのではなく、なぜ、自分は人生に行き詰まったかしっかりと反省し、新たな人生を歩むべきだ。そうした反省の作業、つまり、自分自身の考え方への懐疑を忘れると、思わぬところで躓いてしまうということだ。

 昨日も某所で哲学についての議論があり、西洋哲学は懐疑を基本に置くが、東洋哲学は信じることを基本に置くと言う人がいた。東洋哲学でも、仏教は龍樹(ナーガールジュナ)の例を引くまでもなく、哲学的懐疑を基本としているし、儒教や法家の思想も懐疑を基本とする。(「性善説」はヒトの本質を善と捉える考え方だが、盲目的に信じろと説いているのではなく、孟子朱子も、人の「性」は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、「礼」などによることが必要であると説いている)

 哲学というものは、洋の東西を問わず、懐疑を基本とし、批判を忘れた瞬間に、そこから過ちがこぼれ落ちる。

 これに反する在り方がある。それは「宗教」だ。

 「宗教」は、信じる対象を決め、それへの確信を基本とする。「宗教的確信」へ身を投げ出す行為は、将に禅で言う「竿頭一歩」、またはハイデガーの言う「投企」ではないだろうか。ハイデガーのいう「本来的自己」は、「これが本来の自己だ」と「確信」することだろうし、サルトルにおける「理想的存在 (即自=対自) 」もすでに「宗教」の香りが漂う。これらの議論を超えて、自我を漂わせる在り方が、20世紀後期の議論だったと思うが、まあ、それはおいておいて、「宗教」のように「まずは信じる」「信じ込んでみる」という在り方もある。

 この在り方を政治の現場に持ち込むと「パターナリズム」になる。「家父長制」「父権主義」とでも言おうか、中心に座るリーダーの言う事を、鵜呑みにするという在り方だ。ヤクザで言えば「親分が黒といえば、白いものも黒くなる」という在り方で、「史記」にいう「馬鹿」の由来もこれだろう。秦の末期、政治を壟断していた趙高が二世皇帝に、鹿を「馬である」と言って献じた。群臣は趙高の権勢を恐れて「馬です」と答えた。もちろん、秦はその後すぐに滅びる、権力者を恐れて、事実を事実と扱わないような政治体制が長続きするわけはない。しかし、笑えないね。今の日本でも法務省や検察が「鹿」を「馬」と言いはじめ、GDPの数字を操作し、一流企業まで検査偽造で嘘をつく。「鹿を馬」と言う奴ばかりの国は滅びる。

 「パターナリズム」は楽だ。中心者、リーダー、親分を決めたら、その下につくものは、何も考えずに付き従えばいい。考える手間もいらないし、異論を挟む余地もなければ、議論も起きない。リーダーが「右へ行け」といえば、行けば良いだけで、従うものは考える労力も要らない。「ミスターこうやるんだ」と言われれば、指を真っ赤にして指印を押せば良いだけ。「そんなもん、仮提出なら署名じゃないで、名簿書き写したって違法になりゃせんがね」と言われれば、いくらでも偽造すりゃ良い。団長が「広報紙の経費は100%政務活動費から支出すべきです」と言えば、判例も慣行も関係ない、2千万円でも政務活動費から支出しちゃえばいい。下手に反論して「ギャーギャー」言われたらたまらない。

 リーダーが優秀であれば、「パターナリズム」に支配された組織は強力だ。・・・リーダーが優秀であれば。リーダーがポンコツだと、後々「なんであんなことをしちゃったんだ」というハメに陥る。

 「懐疑」と「確信」という議論から、ゲーム理論の面白い側面に気がついた。

 ゲーム理論というのは、様々な存在(プレイヤー)が関連した行動をする中で、個々のプレイヤーの最適選択(ナッシュ均衡)が、全体の利益を最大化(パレート最適)できるかという、社会の在り方をモデル化して考える手法で、様々な制度設計で利用されている。

このゲーム理論の中でも有名なのが「囚人のジレンマ」と呼ばれる問題。

2人の共同関係にある犯罪者が逮捕される。


警察は2人の犯罪について、重大な部分は証拠を持っていない。
そのために、この2人の自白が必要になる。
そこで、2人にこう持ちかける。


共犯者を裏切って自白してくれたら釈放してやる。
しかし、共犯者はすべての罪をかぶって10年の懲役だ。
両方とも黙っていたら6ヶ月の懲役にはできる。
両方がお互いを裏切ったら、両方とも6年の懲役だ。
早く裏切って自白したほうが身のためだぞ。

囚人には2つの選択肢がある。「裏切」と「協力」だ。

自分が「裏切」った場合、相手も「裏切」れば6年の懲役を食らうが、
相手が「協力」して黙っていてくれたら、自分は無罪釈放になる。
自分が「協力」して黙っていて、相手も「協力」して黙っていれば2人とも6ヶ月の懲役ですむ。
しかし、相手が「裏切」ってしまうと、自分は10年の懲役を食らうことになる。

さあ、「協力」するべきか「裏切」るべきか。

 ここで、両者が対話できたり、容易に情報交換できる場合、両者とも「協力」を選択し、全体として最大の利益(パレート最適)を得ることができるかもしれない。現実の警察でもそんな事になりそうだ。そこで両者の情報交換を断つ。すると、疑心暗鬼が起き、利己主義が先鋭化して個々の囚人の最適選択(ナッシュ均衡)が選ばれる、それは「裏切」という事になる。すると、両者が「裏切」って両者ともに6年の懲役を食らう。

 個々のプレイヤーの最適選択(ナッシュ均衡)が全体として最大の利益(パレート最適)につながらないので、「ジレンマ」と呼ばれる。

 こうしたジレンマが生まれる中で、もっとも賢く立ち回るにはどうすればいいだろうか。という課題が「囚人のジレンマ」問題と呼ばれ、1950年代から商品マーケティングなどで注目され、研究された。1980年代になると、政治学者のアクセルロッドが、コンピューター上で様々な戦略を対戦させて、実証的にどの戦略が一番利益が得られるか検証する事を提唱した。現在では囲碁や将棋などでもコンピューターが対戦するというのはおなじみなのでくどくどと説明は要らないだろう。(後には、この生存戦略をパラメータにして、対戦させ、遺伝的に選別を行うという方法も提唱されて、それについて語れと言われればいくらでも語れるが、今日は止めておく))

 様々な戦略が提案された。徹底的に「協力」し続ける「聖人戦略」や「裏切」りしかしない、「悪人戦略」。一定程度の確率で、「協力」と「裏切」を繰り返し、この回数を様々に替えてみたり、可変にしてみたり。「囚人のジレンマ」実験に於いては200回程度の試行が繰り返される(有限回数の繰り返し「囚人のジレンマ」)ので、相手の「手」の傾向から戦略を算出する方法なども生まれた。

 こうした実験の中で、もっとも有利な結果を得たのは次のようなプログラムだった。

1.最初は「協力」を出す。
2.それ以降は、前回「相手の出した手」を出す。

 つまり、自分は「協力」をするが、相手が「裏切」れば、自分も次には「裏切」る。「しっぺ返し」戦略と呼ばれた。

 これは、シンプルで、それでいて説得力のある。さらには「倫理的な戦略」に思えた。実社会でもこうした戦略は使える。すべての個体を、素直にこのプログラムで動かせば、全てが「協力」ということになる。

 しかし、このしっぺ返し戦略にはデメリットも有り、例えば最初の一手が「裏切」から始まる「しっぺ返し」戦略を紛れ込ませると、両者とも裏切られ続ける結果に至る。そこで現在では、一定程度ランダムに「しっぺ返し」たり、「しっぺ返し」のパターンを遅延させたり調整されている。

 「繰り返し囚人のジレンマゲーム」では、「しっぺ返し」ルールは最強であり、長年、これを破る戦略は生み出されなかった。現在でも様々な場面でこの戦略の亜種が展開されているそうで、一説には米国の核戦略もこれを参考に組まれており「先制攻撃は一切しない、しかし、核攻撃を受けたら、次のタイミングで、核攻撃を受けた倍の数の都市を核攻撃する。」というルールが決められているとか。(真偽不明)

 アクセルロッドが提唱してから20年、無敗の勝利を勝ち取ってきた「しっぺ返し」戦略だが、これを破る者が出てきた。2004年、「囚人のジレンマゲーム20周年の大会」にサウサンプトン大学チームがある仕組みを組み込んだ60のプログラムをエントリーさせてきた。その60のプログラムは、200回の試行の最初の数回を一定のパターン(キーパターン)として認識し、合致した「キーパターン」を相手が出せば「仲間」とみなす。「仲間」でなければ徹底的に「裏切」を出す。(相手を「敵」と「味方」に峻別し、「敵」とみなせば攻撃的に対応するなんて、昨今ではよく見る風景だ)

 そして、これがサウサンプトン大学チームの戦略のキモなんだが、60あるプログラムの内、ある一定数は「裏切」を続けるが、別のグループは「協力」を続ける。つまり「仲間」の内の一部は、「協力」を出し続ける「仲間」に「裏切」を出し続けて有利なポイントを重ねる。別の一部は、相手がいくら「裏切」ろうが、自分の有利不利を考えずに「協力」を続けて収奪に耐える。ヒト呼んで「主人と奴隷戦略」この結果、20周年記念大会で、上位3位をこの「主人」が独占することになった。そして大量の「奴隷」は低い獲得ポイントに沈んでいった。

 直後から、批判も起きた。「最初に『仲間』を判別するのは、情報交換を禁じたルールに反する」とか「これはグループを組んで、一部を上位に押し上げる、集団戦略で、本来『囚人のジレンマゲーム』で求める個別の戦略とは異なる」など。

 確かに、一定のグループを組んで、多数の犠牲の上に、一部のメンバーを有利にすることは、個別の戦略論にはなじまない。しかし、この様相は、社会の実相に近い。実社会にはこの「主人と奴隷」のような、「教祖と信者」「わがまま勝手なリーダーと、それに盲目的に従う馬鹿ども」というような姿が散見される。日本には「一将功成りて万骨枯る」という言葉もある(出典は中国の古典だ)。

 こうした「パターナル」なグループでは、グループ内を「味方」とし、そうした在り方を批判するものなどを「敵」とみなす傾向がある。「主人、教祖、わがまま勝手なリーダー」の言うこと、行うことはすべて肯定される。メダルを噛もうが、デマやその場の思いつきを言いふらそうが批判されない。そして、そうした言動を肯定し、付き従う「馬鹿ども」もまさに「馬鹿」。馬と鹿の区別もつかない。インターネットで5分もあれば調べられるデマを検証もしない。

 「囚人のジレンマゲーム」で、「主人」が「裏切」続けても、「協力」し続ける「奴隷」のように、教祖やリーダーに献身する。

 はっきり言おう、「超迷惑」

 適当に、居酒屋(おお、もう八軒伝は無い)か、どこかで宗教か、サークルでも開いて、そっちでやってくれている分にはかまやしないが、いっぱしの政治を気取って、社会やら行政、経済について、何も判っていないままいい加減なデマを飛ばされるのは、迷惑以外の何物でもない。そもそもマスコミも、こうしたデマは明白にデマと示すべきだ。「政治塾が開かれます、参加費3万円、20人です」じゃないよ。いままで、その政治塾からどんな成果が生まれたのか書いてみろよ。何もない、誰もいないじゃない。

www.47news.jp

genzeinippon.com

 こんなゲーム理論を引くまでもないけれど、社会のリーダーやら、お金持ちに尻尾振って、「弟子入り」して、お金持ちやらリーダーになった例なんてあるの?

 リーダーやらお金持ちに近寄って、おこぼれに与ろうとか、引き上げてもらおうって?あーなんて「さもしい」了見。そんな「うましか」野郎は、結局、お金持ちやらリーダーの「餌」になっているだけだからね。マルチ商法やら、Clubhouseやらさ。さもしい、あさましい、せこい、陋劣、卑しい、下劣、愚劣、賎陋。そんなところで搾取されている姿は見てられない。


 重要なことは懐疑だ。自分自身の考え方への懐疑を重ね、反省を重ね、本当の生き方、生きる戦略を練るべきだ。自分の人生を他者に委ねるのではなく、自分自身の力で切り拓く、それが生きるってことじゃないのか?



余計なこと思いついちゃったけど、河村政治塾の講師に「囚人のジレンマゲーム」の説明を求めて、答えられなかったら、3万円返してもらいな。

そいつは2つ資格が欠落している。
1つめは、政治を語ろうというのに、現代ゲーム理論の基本である「囚人のジレンマゲーム」の説明ができないということ。
そしてもう1つは、名古屋市政、河村市政に重要な情報源である、当ブログをチェックもしていないって事だ。そんな奴の話を聞いてもなんの足しにもならない。

追記:「自分のブログに大きな口を」と思われるかも知れないが、現に12月24日には減税日本ゴヤの市議が会派控室に「全員集合」したようだ。



追記:
居酒屋行ってさ、プロ野球の話をするのは楽しいよね。(私は野球詳しくないのでしないけど)
あの選手がどうとか、このプレーがどうしたとか、あの監督はなんだとか。
しかし、それは居酒屋の単なる憂さ晴らしの談義だよね。
誰も、そんな話を真に受けて、次の日試合で使うべきなんて思っていない。

この3万円の講義、行っても聞かされるのは、
こうした居酒屋で展開されるべき談義レベルでしかないよ。
プロ野球の選手が、現代運動理論に精通しているように、プロの政治家なら「パレート最適」ぐらい即座に説明できる。(べきだ)

河村のやっている減税理論? どこにそれ取り上げた論文がある?(懐疑的な論文はある)プロ野球のグランドでは全然通用しない話を、3万円とってやろうってんだから、面の皮の厚さは立派なもんだ。

プロ野球に関する居酒屋談義が、本当の試合で通用しないって事を知っている人々が、同程度の政治談義で実態政治を動かそうって、本当にこの国は「うましか」の国になったのか。



最後に宣伝しちゃえ
peraichi.com

名古屋城天守有形文化財登録を求める会」では、
一月に一回程度、

北区にある「北生涯学習センター」で月例勉強会を開きます。

  令和 4年  1月25日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

         2月22日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

 2月22日(火)は、特別企画として。
  建築士が読み解く!
  名古屋市が作成した「幻」の名古屋城天守耐震改修案

  として、建築士 の 渡邉正之 様に
  現天守の耐震改修について、お話を伺います。

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。


Tの物語 --美濃加茂市藤井浩人前市長問題の一側面--

 岐阜県美濃加茂市の藤井浩人前市長が、来年1月23日投開票の市長選挙への出馬を、正式に表明した。

news.yahoo.co.jp

「浄水プラント」の導入に伴う収賄容疑に対して、2017年に執行猶予付きの有罪判決が確定し、市長を辞職した。辞職時に市長の座を継いだのが現職の伊藤誠一市長で、両者の関係は良好だったが、この度、藤井氏の執行猶予が明け、次期市長選挙に立候補するに当たり、選挙で対立することとなる。

 藤井市長の収賄事件については郷原弁護士が詳細に著作にされている。

www.kadokawa.co.jp

「最年少市長」として称賛された藤井氏が、市長になって「浄水プラント」を導入した。
プールの水などを、災害時の浄水として利用できる施設だった。

 ところがこのプラントを収めた業者が、補助金詐欺などで検挙されてしまった。
 その補助金詐欺の捜査の過程で、浄水プラントの美濃加茂市への導入、および藤井市長がまだ、美濃加茂市議会議員だった頃の関係があぶり出され、藤井氏の市長選挙出馬に伴って、この業者が「30万円」のお金を渡していたとされ、後に市長としてこの業者の「浄水プラント」を市の施設に導入した藤井市長が、収賄の3要件(公務員であること、賄賂の目的が職務に関していること(職務権限)、行為として「要求・約束」があること)を満たしてしまい(この3要件は後にまた出てきます)、収賄罪とされた。

 裁判の中で、そもそもの金銭の授受そのものにも疑問が起き、ひょっとしたら藤井さんはお金を受け取っておらず、「浄水プラント」の導入は、純粋に美濃加茂市の防災のためではなかったのか。との意見も地元美濃加茂では根強くあり、郷原弁護士はこの背後にある愛知県警・岐阜県警(両県警の合同捜査だった、ここも重要)+検察の問題も指摘されている。

 藤井氏の事実は私には分からない。

 しかし、この事件の起点をたまたま私は知っており、結局、この問題が起きた背景に、河村たかしが提唱し、中日新聞がうかうかと振りまいた、民主主義を食い荒らす「鬆」の存在を感じる。大阪の維新の伸張、立憲民主党における「健全な野党の不全」もここにある。

それはなにかといえば「猟官運動」「ジャクソン流民主主義」と言われる社会のあり方だ。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

エディー・マーフィーの喜劇映画「ホワイトハウス狂騒曲」(1992)でも描かれている。

filmarks.com

 つまり、昨日今日始まったことではないし、日本に特有な話でもない。単なる印象を頼りとした、無責任な選挙という名の人気投票に通ってしまえば、議員であったり首長という、ウハウハな極楽生活が約束されるという社会のあり方だ。

 船の舵を「面白いから」と豚や猿に持たせるようなものだ。

 さすがに、豚や猿に、社会や国の行く末は任せないかもしれないが、キチガイや嘘つきには平気で任せる。それが大衆社会の民主主義の危険性であり、よくよく注意を向けないと、国や行政が嘘だらけとなり、キチガイじみた様相に染められる。

 メディアに携わるものであれば、社会がこうした危険な遊戯をはじめていれば、「おいおいおい、喜劇芸人のコメントを真に受けるなよ」ぐらい言ってしかるべきだろう。ところが逆に、そのうち喜劇芸人までが「自分は、社会のオピニオンリーダーなんじゃない?」と真に受けだす。将にキチガイじみてくる。*1

 「人生行き詰まったら、選挙にでろ、選挙に受かったら、ウハウハで濡れ手に粟、税金で飲んで食える」なんて言葉を聞いて、政治を志す輩については、良識あるメディアは批判の目を向けなければならない。「人生行き詰まった」ような者たちに社会の舵取りを任せれば、社会が行き詰る。そうした者を否定しなければならない。

 それを「庶民派」だの「市民目線」だのと訳のわからない理屈を付けて持ち上げる。狂気の始まりだ。

 庶民や市民が、安心して生活できるのは、ちゃんとした技術を習得し、衛生管理を心得た、料理人が料理を提供し、免許を持った運転手が、バスや電車を操作するからであって、庶民や市民が受けるサービスを、庶民や市民の好き勝手に扱わせて良いわけではない。

 議員や首長にしても、本当であれば、庶民や市民以上に高い領域で、わきまえるべき常識をわきまえている者を据えるべきで、司法試験を9回も落ちている者(ということは、9回も無駄な挑戦を続けていたバカということ)を持ち上げてどうする。

 昭和の時代では、コミュニティーというものが存在した。(公的な組織、空間を上位層。個人的、私的な空間を下位層とすると、その中間に位置する「中間層」。いわゆる所得や資産の格差でいう「中間層」ではなく、社会を構成する関係性としての「中間層」が存在した)

 地域の地主、名士、商工人という集団が、例えばライオンズクラブだのなんだのと、「中間層」を形成し、その中から然るべき人品骨柄を備えたものを議員や首長に送り出した。また、労働者、一般市民においては、各職域の組合などから、熱心に他者のために働き、優れた交渉力を持ち、組織を引っ張っていく力のある者を互選し、「中間層」のリーダーに据え、組合の役員、議員に押し上げていった。

 「中間層」にヒト・モノ・カネの要素があって、組織が成立し得たから、各種選挙も成立した。

 ところが、現在ではこうした「中間層」は衰退している。地主、名士と呼ばれるクラスには○○連合や○○の科学、○○の家がコミュニティーに入り込み、ファナティックな方向に分断を進める。商工人と呼ばれるような商店、企業も衰退するか、コミュニティーの成因としての色合いは薄まる。労働者、一般市民にとってはもっと深刻で、非正規、派遣労働者には頼るべきコミュニティーすらない。

 映画「男はつらいよ」の舞台となる「とらや」の居間は裏庭に通じ、隣り合う「朝日印刷」の職工も含んだ「中間層」を形成していた。妹であるさくらは、この「中間層」の中で結婚し、家庭を持ったこととなる。しかし、現代に舞台を移すと、裏庭は整理され、印刷工場がマンションとなり、このマンションの住人は「中間層」たり得ない。

 今回の総選挙においても、通常政権党の候補ともなれば、その地域の名士が「選挙対策本部」を構成するが、某候補の選挙実務は、ある派遣業の社長がその座に座っていたそうだ。生業としてヒトを出せるものが居なければ、ヒトすら揃えることができないのだろう。また、立憲民主党に「連合なんか切っちゃえ」という人も居るが、選挙になれば、そこで動く人間は「連合」ぐらいしか調達できない。こうした事情があれば切れるわけがない。

 公明党共産党でも実情は同様で、両者とも組織の高齢化が進んでいることは火を見るより明らかだ。

 つまり現在、政治は圧倒的に人不足になっている。

 こうした隙間を突いて、「人生行き詰まったら、選挙にでろ、選挙に受かったら、ウハウハで濡れ手に粟、税金で飲んで食える」なんて類の人物が近づいてきても、容易に追い返せなくなる。選挙事務所にこうした人物が来て、「胡散臭い」と思っても、「証紙張り」*2ぐらいはさせておこうということになる。



 ある人物が、減税日本ゴヤ市議団のKG市議の事務所を訪ねてきた。

 この人物が、今回のストーリーの主人公で、Tとしておく。この人物の素性はよくわからない。名古屋市内で居酒屋を経営していたとも言われている。その居酒屋の経営についても、アルバイトとして働いていた人物を名義人にして融資を引き出し、返済が滞り、名義を貸したアルバイトの親にまで迷惑をかけたとか、色々と噂は出ていた。しかしこの頃のKG市議は知る由もなく、やがて事務所の業務を手伝ってもらっていたようだ。

 ところが、ほどなくKG市議は、このTと手を切る。まあ、「バレた」ということなんだろう。

 すると、今度は同じ減税日本ゴヤでも、則竹団長の辞職に伴う繰り上げ当選を果たしたST市議の元で手伝いをし始めたそうだ。しかし、ここも直ぐに「バレ」て放逐されてしまう。

 このTという人物は、図々しいというのか、ご立派というのか、あちこちに顔を出し、入り込むことがうまい。こうやって減税日本の市議の間を渡り歩いて居るが、その間にも、様々な人脈を作っていたようで、その触手は美濃加茂市の若い市議である藤井氏にも届いていたようだ。

 流れ流れて、減税日本の中でも、坊さん市議と言われたNK市議に行き着く。このNK市議。「現役僧侶」と謳っていたが、元は小牧市の市会議員選挙にも立候補して落ちており、その際には保険外交員をしていたようだ。その後葬儀店で働くようになり、僧籍をとって僧侶となっている。いわゆる葬儀の際の「派遣僧侶」だったようだ。しかし、保険外交員→葬儀店→僧侶とは、華麗な転身、ブリもビックリの出世魚(?)ということか。

 NK市議は、そのキャリアアップの一環として「名古屋市市会議員」を選んだだけあって、このTとはウマがあったようだ。

 このNK市議は白いオンボロのステーションワゴンに乗っていた。荷台に布団が置いてあり、同乗した人物に「これで病院から遺体を運ぶんですよ」と言っていたそうだ。ちなみに病院から葬儀場に遺体を運ぶ際は、遺体搬送の基準にあった「緑ナンバー」が必要で、このNK市議のステーションワゴン白ナンバーだったんだけど、まあ、その程度の違法行為は当たり前と思えちゃう所が、減税日本クオリティなのだろう。*3

 さて、このNK市議は、僧侶として、じゃなくて葬儀屋として、名古屋市の病院局*4にきわめて興味を持っていたようで、市議のバッチをちらつかせては病院局に出入りしていたらしい。そんな中でNK市議が病院局に「浄水プラント」の設置を提案してきたそうだ。(議会議事録にも、地下水利用など提案している、上記の3要件の職務権限で、確か地方議員の質問で収賄成立した例があったように思うけど、まあ、その程度の違法行為は当たり前と思えちゃう所が、減税日本クオリティ)

 生臭くなってきたでしょう。坊主が出てきて。

 そんなある日、某市政担当記者がまっさらのプリウス(それも上級仕様)が議員駐車場に入っていくのを見た。なんと運転しているのはNK市議の秘書として動いているT。こういうシーンを見て「ピン」と来るのがプロの記者というもの。

 早速、このプリウスの所有者を調べた。そうすると出てきたのはNK市議でもTでもなく、「SG」という会社。

 なんだこの会社、と思って調べてみると、浄水プラントの開発販売で、某地方自治体から補助金を得ていることが分かった。しかし、プラント自体は既にある某社の製品で、開発を理由にした補助金取得は極めて怪しい。更にNK市議がこの「浄水プラント」を名古屋市病院局に売り込んでいるとの話も聞きつけた。1.名古屋の市会議員が、2.職務権限である議員の本会議質問や、当局に売り込みをかけて、3.その見返りに高級自動車の提供を受けるような利益を得れば、収賄の3要件は成立する。

 愛知県警もざわついた。(記者から県警にどうつながったかは私は知らない)

 さあ、愛知県警のターゲットスコープにガッチリ、NK市議が捉えられた時に、なんと!美濃加茂市で「SG」の「浄水プラント」が導入されたという情報を得る。ここで、話は愛知県警と岐阜県警の合同捜査という事になる。

 警察はまず、「SG」社のNB社長を、補助金の詐欺でしょっぴく。

 そこからNK市議へ提供した車やら、働きかけも調べたようだが、なにせNK市議は減税日本の市議だ。市長与党とはいえ、こうした実行行為にはカラキシ影響力がない。結局、職務権限行為については曖昧なまま終息してしまう。しかし美濃加茂の件は、具体的に「浄水プラント」が導入されてしまっているし、市長である藤井氏が美濃加茂市議であった頃、市長選挙出馬をこのTに相談し、NB社長と面談している事も押さえた。

 やがてNB社長が藤井氏と会った際、2回にそれぞれ10万円、20万円を藤井氏に渡し、そして藤井氏が市長になるに及んで、浄水プラントの売り込みに便宜を受けたと供述し、愛知県警+岐阜県警の合同捜査本部は、藤井市長逮捕に踏み切る。最年少市長は、30万円の収賄罪で、職を失うこととなる。

 その後NK市議は減税日本を離脱し、小沢一郎氏の「国民の生活が第一」から名古屋市議選を戦うが、落選、今どうしているかは知らない。(合掌)

 Tについて、私が最後に見たのは、名古屋市の繁華街、栄の街頭で「国民の生活が第一」のチラシを撒いていた。更に郷原氏が藤井氏の問題を取り上げ、江川紹子氏とインターネット番組を作っていた時に、このTが出演し、3人で並んでいた絵面はなかなかシュールだった。

 今回、藤井氏が美濃加茂市長選挙に再挑戦する事を受けて、この事件について色々と見知っている人々と話し合っていた中では、「ひょっとすると、NB社長はちゃんと30万円渡しているけれども、藤井さんは1円も受け取っていないって事だって有り得るんじゃない?」と推測するものも居た。*5


 某党では、組織に入る時にはとんでもない「圧迫」を受ける。現在であれば「パワハラ」と捉えられかねないが、しかしこれはイニシエーション、通過儀礼だ。その党に入って何某か行おうとする者は、我が強い。「この国ぐらい、俺様に任せれば・・・」ぐらいの、良く言えば気概、実際には思い上がりを持っている。この鼻っ柱をキッチリ折って、それでも動けるものは、小さな我欲を超える大望を持っている。

 河村隆男なんぞは、このイニシエーションに耐えきれずに逃げ出した口だ。

 民主党党首選挙において、20人の推薦人を集められなかったのは、それなりの理由があったのだろう。現在のように印象だけで政治が行われ、実態に則さない選挙によって現実の社会が動いていく。何が良いかは難しい、価値観もそれぞれ違うだろう。しかし、ダメなものだけは簡単だ。私利私欲、自己保身に汲々とし、国民、有権者の課題を最優先に考えないものに、公職者たる資格はない。国民、有権者に嘘をつく者に、公職者たる資格はなく、そうした嘘の隠蔽に手を貸すメディアも同罪だ。

 人生行き詰まったら選挙に出る前に、なぜ自分は人生に行き詰まってしまったのか。何が間違いで、どうすれば良かったのか。そう反省を行える、当たり前の常識を持った者以外、政治の世界に入れてはいけない。


*1:そういう意味では、鳥肌実より、ホンコンや百田尚樹の在り方に、より一層の人間の限界を感じられて興味深い

*2:公営選挙において、選挙期間中配布できるビラの数は決まっていて、その数だけ「証紙」という小さなシールが選挙管理委員会から各候補に配布される。この証紙が貼られていないビラは配布できないことから、配布用の書面にこの「証紙」をチマチマ貼る作業が大量に発生する。立憲民主党小川淳也代議士を一躍有名にした映画「なぜきみは総理大臣になれないのか」で、選挙を手伝う人々がこの作業を行っていた様子が映し出された(と思う、記憶違いかもしれないけど)

*3:いままでも薬事法違反×3、車の当て逃げ、政務活動費の詐取、建築基準法違反と数々の違法行為が繰り返されていますからね

*4:現在病院局は無くなっています

*5:さて、お金はどこに消えた?

減税日本の病巣

 前回、政治的議論では事実を元に話さなければならないと主張した。そして哲学を心得なければならないと。哲学とはなにかといえば、それは「テキストクリティーク」の事であり、批判する精神こそが現代文明を支える基礎であり、徹底的な批判をくぐり抜けていない言明には意味はない。

 何か頭で思いついても、様々に思考し、批判に晒した後でなければ言明すべきではない。(または、意味のない言葉として言明すべきだ)

 例を引くのであれば、選挙の際に対立候補の掲げた「商品券配布政策」を「バラマキだ」と口に出して批判する前に、その批判は正しいか考えるべきだ。単に思いつきで「聞いた風な批判」を行っても、我が身に帰ってくるだけだ。更に、その政策が有権者に受けているとみて、追従しようと「30%キャッシュバック」などと口走る前に、その実現性について考慮し、自己批判しておくべきだったろう。

 人間はすべて頭の中で一旦考える。考える時には言語を使い、論理を使う。論理的思考を経ていない言明は客観性を持たず、説得力もなく、普遍性もない。言語化できないような感覚の世界の問題は、政治的文脈には乗らない。そうした課題領域も政治的文脈に乗せようとするのであれば、言語化され、客観化されなければ議論できない。

 人間を突き動かすのは論理ではない、という人がいる。確かに人を動かすのは情動だ。しかしその情動を律するのは論理であり、社会性を獲得させるには法に準じさせねばならない。ほしいままに情動を開放させることは社会人にはできない。

 論理的思考は万能ではないとの指摘もある。(その指摘もまた、論理的論考なのだ)確かに、そうだ、人の情動は論理だけでは測れない。しかし、法と論理に収められていなければ、社会的言論とはならず、客観性を持ち得ない。ある者は「論理的思考とはレゴブロックのようなもので、物事を因数分解(これは、「要素還元」という言葉を使ったほうがより正確だろうが)して、それをらしく並べてみせるだけで、レゴブロックで作られた車や船は、それらしく見えるが、ディテールがゴツゴツしているように、そのものではない」と批判する。論理的思考がすべての細部まで語り得ないとの批判だ。(これは、実は論理的思考の批判ではなく、論理的思考が徹底していないとの批判であり、より徹底させよという主張に行き着く)

 確かに、論理的思考には限界がある。言われるまでもなくゲーデルによって不完全性定理が証明されており、無矛盾な言明はなし得ない。またこの世にはプランク定数があり、人間はプランク定数がなぜプランク定数なのか知らない。知には限界がある。

 しかし、であるからすべての言明には批判が可能であり、必要となる。何某かを決定論的に語る言明には必ず不備がある。それ故、保守主義者は何某かの論理を掲げて、この社会を性急に変革しようとするものに批判を加え、懐疑を投げかける。

 「王政を打倒して民主革命を起こせ」「世界史上最も偉大な民族であるゲルマン人による人種革命」「科学的唯物論による共産革命こそ正しい」「天皇を中心とする神の国」「大阪府市を合体させて大阪都にする」これら社会設計思想を否定する態度が保守思想であり、政治哲学の態度だ。

 論理は不完全であり、人間の知には本質的に不備がある。しかし全てが不条理というわけでもない。前提を設け、その前提の中で、一定の言明は無矛盾を構成でき、真実とし、客観性を維持できる。ユークリッド幾何学では三角形の内角の和は2直角を表し、その前提の下、我々は文明を築き得る。飛行機が飛び、経済が成立し、医薬品が効果を見せるのも、それぞれの領域(前提)の中で論理的に主張できること(科学的知見)が成立するからだ。

 ヒトは非論理的で情動に支配される生き物である。しかし社会性を維持し、客観的な議論によって相互の生存を諮っていこうとするのであれば、言語化し、論理的に思考できねばならないし、そこに嘘を紛れ込ませれば必ず矛盾が生じ、破綻が起きる。

 更に政治的言明においては、主観性を排するべきである。自分の欲望や希望を主張する前に、社会全体の利益、共通の利益を考慮しなければ、共感は生まれず、組織、社会も成立しない。

 河村たかし減税日本の根本問題はここにある。

 これも河村たかしの浅学を表す逸話だろうが、河村たかしは「仁徳天皇」の逸話をよく口にする「民の竈」だ。河村は自らの「バラマキ行政」を肯定する論拠として、この逸話を引いているが、この逸話の要諦は最後にある。つまり、民の竈が十分温まるまで、仁徳天皇は自らの事は顧みなかったのである。ヒトの上に立つものは、自分のことよりも先に民のこと、社会全体の利益、共通の利益を考慮しなければならないとの教えだ。

 しかし、河村たかしは理解していない。最も顕著な例は、市長記者会見や市議会において、河村に異論が示された場合に、不満も顕に言う言葉「僕はそうは思いませんがね」だ。自分の主観を述べ、それを押し付けようとする。なんとも幼稚な態度、これは仁徳天皇の逸話からは、かけ離れた在り方であることは明白だ。民の意見より、自分の意見、民の感じ方より、自身の主観に拘束されている。河村が尊重する「民意」は自分が同意できるものに限られる。逆を言うと河村は自身の主観を押し付けるために、「民意」を使うに過ぎず、自身の意見と合わない「民意」は無視をし、隠蔽する(実例:名古屋城跡保存活用計画に対するパブリックコメント)。このような者に公職者たる資格はない。

ombuds.exblog.jp


 佐藤夕子も同様だ。河村と同じように「自分ファースト」である。

 佐藤夕子減税日本ゴヤ市議団に乗り込んできてから、いよいよ減税日本はヘンテコなことに成っている。1年も経たずに7人の幹事長が変わるなども異常だが、そもそも他会派と交渉できないなどという議員が、いったいどう政治を行うことができるというのだろうか。政治家にとって交渉というのは、料理人で言えば包丁を扱うようなものだろう。包丁も扱えないような料理人は料理人とは言えない。交渉ができない政治家など、政治家と言えない。

 この当たりの具体例は、
ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 佐藤夕子の委員会討論を見ていると気が付かされる事が幾つかある、この内ここでは2つだけ指摘しよう。根本的な問題についてはヒントすら与える気はない。気になる方は当ブログの過去ログにある、立花隆氏の発言が参考になるだろう。

 1つ目が、佐藤夕子が度々見せる「俯瞰の議論」だ。何か議論している時に、それを俯瞰から見たような漠然とした論点を展開する。

 本来であれば、議論をどんどん具体的な物に詰めていくべき時にも、そんな事は委細構わず俯瞰視し、論点をぼやけたものにする。特に注意を引くのが、そうした論点を外した議論を展開しつつ、本人は満足げなところがある。これは推測なんだが、佐藤夕子はああした行動を取ることによって「あなた達は、枝葉末節な議論に終始しているけれども、この私はもっと高い視野からこの問題を捉えているのよ」とでも言いたいのかと思えてしまう。実際には、そんな前提の議論はすでに終わっているから、具体的で実効的な議論を詰めたいのに、混ぜっ返すように前提に、全体構造に議論を持っていく。

 これは、減税日本ゴヤにいた「東大生市議」も同じ傾向があった。結論に行き着きそうになると「それは大切な論点ですね、ぜひ一度勉強会を実施したい」だとか「プロジェクトチームを作って話を詰めてみたい」って、そもそもそんな事しなくても、もはや議論の出口は見えているのに。と何度も思ったものだ。(当ブログの過去ログ、投稿欄に、「議会報告会」の費用負担についての議論が残っている)

 議論するのは好きなんだね。結論を出して実行に移すのは嫌い、またはできないんだ。

 つまり、居酒屋政談。無責任な井戸端会議のように、お話するのは楽しいけれど、実態的な問題、課題が浮き上がってきて、それに対して実効的な行動を起こすのはできない、やらない、やり方を知らない。

 こういう人がいると、いつまで経っても問題が解決しない。

 次に気になるのが「自己正当化」の議論だ。特定の事柄を話す時に、その自分の主張の論拠を話せばいいだろうに、それに係る自分の位置を説明する。つまり、自分はその事柄を話すだけの行いをしている、意見をいう正当性がある、その自分が「主観的に」こう思うのだから、それは正しい。とでも言うような理路で立論していく。いやいやいや、どんな権威であろうと、今までの正当性から、今回の正当性を主張するのは「類推」でしかなく、論理的には正しくないから。自己正当化には価値がないのに、それを続ける。更に面白いのは、その事柄への批判よりも、佐藤夕子の正当性への懐疑に対してより敏感に反応し、論点である事柄のことなどおいておいて、自身の正当化に血道を上げる。

 田山市議でも「ギャーギャー言う」と評価するのは無理がない。

 うーん、なんとなくバカバカしくなってきた。佐藤夕子の議論を分析していると、見事なまでに没論理の恐ろしさを感じさせる。人間は言葉を使い、論理を組み立てて思考すると言った、このような粗雑な言語定義と混乱した論理構成でしか話せない人物というのは、同時に粗雑な言語定義と混乱した論理構成でしか考えられない。それではやることなすこと支離滅裂になるのは当たり前だ。

 減税日本は、こんな混乱を今後も抱えていくのかと思うと、笑いが止まらない。

 さて、これ以上減税日本にヒントを与える必要もないだろうから、今日はこの程度にしておこう。

 美濃加茂市の藤井元市長の再審請求が出されたそうだ。この事件は実は減税日本と深く関わっている。ある意味、藤井元市長は河村たかしの被害者とも言える。政治のリアリティラインを引き下げ、ぽっかり空いた穴に落ちてしまったのが藤井元市長であったように思える。リクエストにお応えして、どこまで書けるか分かりませんが、この問題について書いてみます。


河村たかしは民主主義を理解していない

 本日のブログは話題が多い。特に最後の話題についてはとても重く受け止めている。全てに共通する問題は、河村たかしという人物が「民主主義」というものを全く理解しておらず、名古屋市の市政運営が民主的に行われていないという問題だ。いくつもある論点の内、まずは河村たかしが11月18日付で中日新聞、22日付で大村知事に送ったという「抗議申入書」について批判しておこう。

中日新聞、大村知事宛「抗議申入書」

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20211118_中日新聞_抗議申入書1-2
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20211122_知事宛抗議申入書

 あれほど、「汚い字」を批判されても、まだ自筆を止めない(そして、相変わらず下手な歪んだ字)どうも、「メダルかじり問題」について、すでに世間的には「75日」が過ぎて、もう頭を下げておく必要もないと見切ったようだ。しかし特に知事向けの文書についてなど、その雑な様態をみても、社会人としても通用しないものだろう。

 「抗議申入書」の論点は3つ。
1.高須氏に河村が知事リコールを仕向けてはいない
2.十年前の市議会リコールの名簿が偽造に使われた事実は一切ない
3.「首謀者」という表現は適切ではない

 まず1について、高須氏は河村から知事リコールを行うように促されたと発言しているし、知事解職の要旨は河村が大村知事を批判していた事柄を理由に上げている(下記詳述)。また、11月の署名収集停止記者会見において、河村は高須に「もう一度やればいい」などと促しており、河村と高須の関係は一事からも明らかだ。

 次の2について、偽造の元データに何が使われ、何が使われていないという事実は、偽造実行者しか判らないことだ。「偽造に使われた事実は一切ない」と言い切れるということは、・・・そういうことになる。

 続く3について、2で立証された事実があれば河村たかしが首謀者であることは疑いもない。それはさておき、大村知事は「首謀者」という言葉を「署名偽造」に対して使ってはいない、「知事リコール運動の首謀者」と表現している。確かに「首謀者」という言葉には「悪事・陰謀を企て、なすもの」という意味があるが、「知事リコール運動」自体が「虚言を弄した誹謗中傷」であり、少なくない県民を騙して行った政治活動であるなら、「悪事・陰謀」と言うに相応しいだろう。そうであるなら、それを企てたものは「首謀者」と呼ばれるのになんの不思議もない。では、「知事リコール運動」における「虚言」「誹謗中傷」とはなにか、その「請求の要旨」から一部を引く。

 知事解職請求の要旨には次のような記述がある。

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」で展示した作品が物議を醸すことが予想され、反発を感じる県民、国民への配慮もない愛知県知事の姿勢である。
昭和天皇の肖像を燃やす侮辱動画の展示
日本兵士侮辱した、日本軍兵士の死をまぬけな日本人の墓と表現した作品

 まず、「反発を感じる県民、国民への配慮もない愛知県知事の姿勢」としているが、閉鎖された展示室で、事前に十分な警告が為されて展示されており事実に反する。

 また「昭和天皇の肖像を燃やす侮辱動画の展示」という主張は大浦さんの作品に向けられた「虚言」「誹謗中傷」であるが、愛知県の検証委員会の調査では。

https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/267118_926147_misc.pdf

「映像の中で焼かれているのは写真でなく、自分(大浦氏)の版画作品そのもの。焼くことを従軍看護婦の女の子に託したのは、それを焼くことで自分の中に抱え込まれた内なる天皇を燃やすことで昇華させる行為であり、祈りと言ってもいい。」

天皇を批判するために燃やすなどという幼稚なものは芸術の表現ではない。」

「版画作品を燃やすシーンが戦争の記憶にまつわる物語のなかに挿入され、観る者に歴史としての「遠近を抱える」ことの意味をあらためて問うことが目的であり、天皇を侮辱する目的ではない。」

 との大浦さんの発言が取り上げられている。これを一方的に「昭和天皇の肖像を燃やす侮辱動画」と表現する事は、それ自体が事実に基づかない誹謗中傷であり、作者の大浦さんの人格をも貶めるものである。

 また、「日本兵士侮辱した、日本軍兵士の死をまぬけな日本人の墓と表現した作品」とは中垣さんの『時代の肖像』を指した「誹謗中傷」であるが、作品中の寄せ書きは「特攻隊」のものではなく、親族の海軍兵学校時のものであり、「特攻隊を揶揄したりは一切しない。と同時に、美化もしない。」と中垣さんは述べられている。これも作者の意図を無視した勝手な解釈であり、作者の人権を侵害する行為だろう。

 こうした「嘘」により、誹謗中傷を行い、知事に対して解職を求めることは、「悪事」であり「陰謀」である。その立案者を「首謀者」と呼ぶのになんら齟齬はない。

 河村たかしは、虚言を弄して、芸術作品を誹謗中傷し、事実を歪め、知事への解職を求めさせるように、愛知県民に対して歪んだ政治宣伝を行った、首謀者である。

G7サミット誘致

 名古屋市は2023年のG7サミットの開催地として、誘致を行うそうだ。真剣に受け止めている者が居るならバカだ。

 そもそも2019年のG20会合を誘致しようとして「名古屋市には宿泊施設が少ない、特にラグジュアリーホテルがない」と不適当と言われた。そのため、名古屋市内にラグジュアリーホテルを建設するように予算まで措置して、実際に3件の計画が動いているが、一番早いものでも完成するのが2023年で間に合わない。それどころかそのために「ナゴヤキャッスル」を建て替えるために取り壊してしまった。つまり、2019年の際よりも宿泊施設の条件について悪化しているのだ、これで選考されるわけがない。

 というか、前回、日本で開催されたサミットは三重県で、続けざまに隣の愛知県・名古屋市で開催するというのは、あまりにバランスが欠けている。

 名古屋市内のラグジュアリーホテル建設計画や、三重県サミットとの兼ね合いなど、まったく計画性が伺えない、幼稚な思いつき、出任せプランと言う以外にない。

 これは、横井元市議がブログに詳しく書かれている。

blog.livedoor.jp

30%キャッシュバック

 先の市長選挙において河村が、対立候補であった横井元市議の「全市民に商品券2万円」との公約をパクって「30%キャッシュバック」を言い出した「パクリ公約」。市長に当選しても、実行する気などなかったようで、この半年動きが見えなかった。やっと動いたと思ったら、実施は来年の6月以降とのことで、そんなタイミングで実施して、コロナ対策という意味があるのだろうか?

 2万円の給付を受けようとすると、7万円分の商品券(または電子キャッシュ)を買わなければならず、横井氏が市長であったなら、コロナで厳しかった今年の夏頃には、4人家族で8万円の商品券給付を受けられたのに、来年、同程度の給付を受けようとすれば、28万円分の商品券を買わなければならない。そんなお金をポンと出せるようなら、支援は要らない。

 これについても、横井元市議が詳しく問題点を指摘している。

blog.livedoor.jp

 商品券を使うというのであれば、わざわざ独自システムを15億円もかけて開発する必要などない。全部商品券にすればいい。更に、商品券なら30%キャッシュバックとか言わずに、一律2万円給付した方が公平で手っ取り早い。つまり、横井案をパクるのなら、丸々パクればいいのに、幼稚な見栄で違うものに見せようとするからこのような歪な仕様になる。更に必要もない「電子システム」にこだわり15億円もかけることになる。河村たかしの口から出任せを繕うためだけに15億円かけようというのだ。まだある。給付額が50億円で商品券と電子マネーで半々とすると、25億円をこの15億円のシステムで給付するということになる。一体何しているのか訳がわからない。そしてこんなものを来年の6月に実行する? ・・・事故が起きなければおめでとうだろう。

 横井元市議が詳細に検討されているが、もう一つだけ付言すると、対象者は最小で約24万人である。これを4年で分割実施する。そうすると前年の受給者を排他的に実施することは困難であるので、ポンと7万円を出せる24万人は、4年に渡って受給を受ける可能性がある。本来であれば一気に実施し、24×4=96万人に給付と平準化すべきだろう(それでも、名古屋市民230万人の半分にも満たない)が、なぜそうしないのだろうか?

 河村案の給付対象者(約24万人)の4年分、96万人を1年で実施すれば、対象者1人に対して1回という制限は加えやすい。しかしこれを4年に分けて実施するとなると、1人1回という制限は難しくなる(河村の嫌いなマイナンバーでも使う?)そうなると、ポンと7万円を出せる24万人は、4年に渡って4回受給を受ける可能性があり、その他の市民は指を咥えて見ていることになる。つまり、ただでさえ不公平なシステムを、河村の思いつき、口から出任せに合わせるため、4年分割実施とするから、より一層不公平な仕組みとなってしまう。


 なぜ河村たかしの施策は、尽く不公平な物になっていくんだろう?
 なぜ河村たかし減税日本からは人が離れていくんだろう。

議会報告会

 河村たかし減税日本には人が居着かない。減税日本は2回国政政党の要件を手に入れたが、その時の「同士」は誰も残っていない。参議院選挙で擁立した候補も残っていない。(一人は、この度維新から衆議院議員となった)

 河村たかしの施策は不公平で不合理、深い検討がなされていない。なぜか、減税日本河村たかしが「議論の重要性」を理解しておらず、減税日本の運営自体「民主的」でないからだ。

 河村たかしは「民主主義」を理解していない。議論ができない。

 定例記者会見などを見ていてもそれは理解できる。最近では 「PAGE」というニュースサイトが、Yahoo!YouTube を使って、名古屋市長会見の完全中継を行ってくれる、市の公式サイトでは割愛されていた2部、政務関係についても動画が見れる。

 それを見ていて気がつくのは、河村の「僕はそうは思いませんがね」という発言だ。例えば、記者が異論を唱えても「思いませんがね」という主観的感想をぶつけて考慮をしない。ましてや「市民からこういった意見が寄せられています」という市民意見にすら、河村個人の主観で反論する。これでは議論にならない。こういう事を言うと、どうせ河村は「じゃあ、市長は自分の意見を言ってはいかんのですか」ぐらいの反論を寄せてくるだろう。政治家河村たかし言論の自由と、市長河村たかしとしての「公僕」「パブリックサーバント」としての責務のケジメがついていない。河村たかしは喜んで「パブリックサーバント」という言葉を使うが、その意味が全く分かっていない。

 「公僕」「パブリックサーバント」であるなら、自身の主観はさておいて、主権者である有権者、市民の意向を優先するべきで、個人である河村に異論があっても、まずは主権者である有権者の意見を聞くべきだ。最もバカな態度は、その場で「言いくるめ」ようとする態度だ。記者会見などでは、市政記者が「言いくるめ」られている場面が度々見られる。その場、口先だけで「言いくるめ」られれば、河村にとってはその問題は解決したことにでもなるんだろう。実際に問題はそのまま放置されるが。市長の記者会見場では解決しても、実態は解決していない、そんな問題がすでに、地域委員会、減税政策、相生山、国際展示場、名古屋城、SL などなど山積みされたままだ。

 河村たかし減税日本も、こうした課題解決のための議論のやり方を知らない(佐藤夕子や田山の「議論」もその場の言い逃れが主眼だ)。口から出任せ、ごまかしのための詭弁に詭弁を重ねているだけだ。その結果、外向きの議論ができない。減税日本ゴヤが、議会で行き詰るのはそのためで、河村たかしが各施策に市民意見を取り入れないのもそのためだ。(追記:つまり、減税日本ゴヤ市議団の中で、もう少し真面目で真剣な「議論」を行っていれば、佐藤夕子が展開したような、無責任で独りよがりな対応など行わなかっただろうし、今までの様々な問題も発生しなかった。それらはすべて、思いつきを独裁的に展開した佐藤夕子、またはそれを指示した河村代表の非民主的な党運営に原因がある)

 名古屋市には「名古屋市議会基本条例」という条例がある。条例公布は平成22年で公布者は河村たかし本人だ。

https://www1.g-reiki.net/city.nagoya/reiki_honbun/i502RG00001202.html

 この第4条の4に「議会は、議会報告会を開催し、議会活動に関する情報を積極的に公開するとともに、市民の意見を把握して、議会活動に市民の意見を反映させる」とある。昨今ではあちこちの地方自治体で、市民ミーティングや住民意見交換会などと、様々な名称で議会と市民の意見交換が行われているが、名古屋では、本来議会開催のたびに行うこととされているこの「議会報告会」が全く開催されていない。

 名古屋市会の各会派(減税日本ゴヤ除く)は毎年の予算要望で開催を求めているが、河村たかしは予算を付けない。条例違反を続けている。

 減税日本はこの「議会報告会」を市会各会派が開催すべしとしているが、これは法律違反だ。

 なぜなら、条例では「議会報告会」の開催主体は「議会」とされている。「議会」とは憲法93条で「地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する」とされているのであり、議会の設置責任は地方公共団体にある。その議会が条例に定められて行う行事は、地方公共団体に開催義務がある。名古屋市はこの義務を果たしておらず、河村たかしはこの条例違反の状態を続けている。

 名古屋市民は、河村たかしによるこの市民への主権侵害を怒るべきだし、地元メディアもこの河村たかしの怠業を告発すべきだ。

 本当に、河村たかしが「民主主義」と口にする時、私はエも言われぬ怒りを感じる。河村たかしこそ、民主主義の破壊者であり、名古屋市はこの10年以上に渡って、民主主義を蔑ろにし、市民意見を踏みにじる市政が続けられてきているのだ。

 議論とは、衆知を集めてこそ意味がある。市民の様々な意見を取り入れることで、行政はより良いものに成っていく。そして、そうした声を聞くことこそが政治の起点であり、市民、有権者の声を聞かない政治は歪み、腐敗していく。

 やがて腐敗した河村市政の歪みが子どもを「死」へと追いやる。

「ひとりの子どもも死なせない」

 河村は「ひとりの子どもも死なせない」と主張する、マニフェストにも掲げている。

 まず、これは主観的な価値観だ。確かに同意する人は多いだろうが、価値観としては主観的であることを理解しておかなければならない。その上で、その方法だ。「子どもを死なせない」という価値観があり、それを政策目標として掲げた時に、真っ先に考慮すべきは、「子どもが死んでしまう理由」はなにか、その調査に着目すべきだろう。

 河村はこのテーマを即座に学校教育に結びつけるが、それは視野の狭い議論だ。

 交通事故に巻き込まれる子どもの問題として、道路行政、交通行政が議題として挙げられるだろう。まさに基礎自治体の長として考慮すべき課題ではないのか。あちこちの小学校区で「危険な通学路」の問題が取り沙汰されている。河村たかしはここになにか手を打っているのか?また、貧困という問題もあるだろう。満足な食事が摂れていない子ども。貧困、労働環境の劣悪化から子どもを育てる親そのものが社会から阻害され、ひいては子どもも阻害される。これも基礎自治体の着目すべき課題だが、河村たかしは何か手を打っているのだろうか。他にも子どもが命を失う問題はあり、行政が行うべき課題もある、しかし河村たかしはそうした問題に一顧だにしない。

 つまり、河村たかしにとって「子どもの死」など実はどうでもいい問題なのである。どうでもいいと考えているから、交通行政、貧困対策、防災に対する目配りが無いのだ。

 たまたま辞めていった岩城副市長などが導入した「なごや子ども応援委員会」の評判がいいので、それに「ひとりの子どもも死なせない」と勝手に子どもの自殺問題をかぶせているだけだ。「なごや子ども応援委員会」が子どもの自殺予防対策として有効なのか、子どもの自殺は「なごや子ども応援委員会」で解消できるのか。まったく議論されていない。

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なごや子ども応援委員会の設置状況といじめの認知件数の推移について

 こうした資料が名古屋市会の委員会に提出されたそうだ。「なごや子ども応援委員会」は平成26年から導入され、令和元年にはすべての学校に設置された。「いじめ」の認知件数については、「なごや子ども応援委員会」の設置状況と認知件数の間で相関は見られないようだ。

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中学校における自死事案の発生件数について

 しかし、中学校における自死事案の発生件数を見てみると、令和2年では5件と突出して多くなってしまっている。「なごや子ども応援委員会」の設置状況と相関はないどころか、逆相関を示している。

 確かにナイーブな問題であるし、これだけでそうした相関を決めつことはできないだろう。しかし、「なごや子ども応援委員会」の設置拡大だけで子どもの自死は止められそうもない。子どもの自死を止めるにはどうすべきか、そして相変わらず存在するいじめ問題や、不登校に陥る子どもたち。こうした広範な問題ついて、市民意見を聞かなくて良いのだろうか。民主主義はどこにあるのか。

 河村たかしの主観的好悪だけで、「なごや子ども応援委員会」が拡充されるだけなら、それは民意を反映した市政ではなく、河村たかしの趣味を満足させるだけではないのか。


河村たかし、減税日本から民主主義を取り戻せ

 追記:
 現在、衆議院総選挙愛知2区(守山区千種区名東区)に、東区選出の自民党市議が立候補している。東区(愛知1区)からのお国替え出馬となっており、住民票がまだ東区にあるらしく、ご自分には投票できないという珍事となっているらしい。
 それはさておき、東区の名古屋市議が国政転出したという事で、東区では市議補選が行われる。

 ここに、減税日本は河村事務所の職員を市議候補として立てるとの方針だったようだ。
 現職の佐藤夕子(敬称については、以下参照)がいる上に、もう1議席を取るということだろう。東区の有権者は私有物とでも思っているようだ。東区から市議を2議席獲得し、2年後の市議改選時には一人を県会に転出させるという方針だったようだ。当初はこの補選に出馬する職員を県会に転出させる予定だったようだが、市議会における混乱等を受けて、佐藤夕子に県会転出させるという方針に変わったようで、それを受けて佐藤夕子が補選に職員を出馬させる件については反対を始め、結果、減税日本からの補選出馬は微妙な情勢のようだ。
 職員を補選出馬させる事情は、そもそも河村事務所の資金不足によるものだったようだ。職員給与を県議報酬に切り替えるというつもりだったのか。まったく、私利私欲の議席私物化、家業化と言っても過言ではないが。そこに佐藤夕子が反対するというのも保身でしかない。
 なんとも醜悪な姿が垣間見える。

 今年の名古屋市会、9月定例会は異例の幕開けを迎えた。

 9月10日に始まった本会議冒頭、服部将也議長が異例の「談話」を読み上げ、市民に対して謝罪を行ったのである。理由は、名古屋市会の委員会討論において「伊勢湾台風で街がきれいになった」との問題発言を行った減税日本の前田恵美子市議が一時的に離れていた減税日本ゴヤ市議団へ、市民に対する説明や謝罪もろくにしないまま、復帰するとの発表が行われた。それを受けて被災地住民から厳しい抗議が市会に寄せられ、そうした声に応えるための謝罪と談話であった。

 問題発言のあと、前田市議は市民に対して謝罪も説明もしていない。減税日本は都合の悪いときにはマスコミに対するコメントの発表などで「市民への説明」が果たされたと主張するがこれが同一でないことは明白であり、マスコミへの対応よりも市民に対する説明が優先されるべきは当然の事のはずだ。

 減税日本佐藤夕子(市民に虚偽を述べる議員に対して敬称はつけない)は「前田議員は社会的な制裁を受け、深く反省している」などとして復団を決定している。公職者がその言動に対して批判を受けることは当然のことであって、それを「制裁」とは言わない。前田市議はなんら制裁など受けていない、批判を受けただけだ。それも、至極もっともな批判だ。そして本人は反省しているのだろうか。本当に反省しているのであれば、今般抗議文を出した市民に対して、直接謝罪に赴くなどするだろう。伊勢湾台風の慰霊祭に参列を許されていないようだが、許されるように繰り返し、繰り返し、誠意をもって謝罪すべきではないのか。自らの発言の非人道性を認識するならば、遺族、地域住民に対して心よりの謝罪を繰り返し、許しを乞う以外に行うべきことなどない筈だ。しかし、上にも見たとおり、報道などが行った至極まっとうな「批判」を「社会的制裁」であると受け止めているようでは、反省など伝わるわけがない。

 代表である河村たかしの「反省」も至極自分勝手で幼稚なものだが、さすが減税日本の人間は、同程度の幼稚な「反省」しか行えないようだ。
 
 10日の本会議では、この後「佐藤ゆうこ理事に対する問責決議案」が行われている。

https://nagoya.gijiroku.com/g07_Video_Search.asp?Sflg=1&kaigi=18&NitteiID=740

 読売新聞は「問責決議案は自民、名古屋民主、公明、共産の4市議団が提出。『佐藤氏が復団で主導的役割を担っていたことがうかがいしれる』などと指摘し、『被災者の心情を再び大きく傷つけた』」と報じている。

www.yomiuri.co.jp

 日本共産党市議団 9月市政ニュースでは、事の経緯が詳細に伝えられている。

http://www.n-jcp.jp/wp-content/uploads/2021/09/ac863ed591206284ec51ba7b29d430b8.pdf

 端的に言って減税日本佐藤夕子はバカである。理性的に事実を把握することができず、論理的に考証することもできない。そして手前勝手で視野狭窄な、わがままな判断しかできない。こうした知的傾向の一つでも当てはまれば「バカ」と呼ぶに十分だが、3つの段階をそれぞれ踏んでいる。正真正銘の「バカ」と言う以外ない。佐藤夕子がなぜバカになってしまったかといえば、たぶん、河村たかし衆議院議員よ代議士よと持ち上げられて、霞が関官僚などに「先生、先生」とおだて上げられた結果だろう。自身の発言が無謬であるかのように勘違いしてしまい、自分を批判する者は「こととして批判する」「攻撃者」であって、そのような者の発言に耳を傾ける必要はないとでも思ってしまったということだろう。人間、まっとうな反省と自己点検ができなくなると途端にバカになる。

 ちょっと興味深いのは、2011年(平成23年)のこのブログ、佐藤夕子がまだ衆議院議員だった頃の出来事だが、そこで私はズバリ今日の状況を言い当てている。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 この事例は、衆議院議員であった佐藤夕子が2011年当時、大問題となっていた東電原発事故の後処理について、衆議院に「質問主意書」を投げていた。しかし6月20日に提出されている「質問主意書」の回答は、すでにその前の6月3日、6月16日の文書で示されており、それらを参照もせずに「根拠がない」と主張する事は誤りであるという指摘だ。

 こうした事を受けて、私は「政治は事実を元に議論されなければならない」と主張している。(今も変わっていない)そして、それを乗り越えた「政治の奥義」についても触れている。確かにこの「政治の奥義」は正しい。現在においても揺るがない。現在行われている衆議院総選挙においても、その奥義たる力をいかんなく発揮するだろう。

 2011年のブログで、私は「政治の奥義」は「人気を得ること」と書いたつもりだ。河村たかしの支援者は田山市議の市政報告会でこう言った「うるさい、私たちは河村さんの話を聞きたいのであって、そういった政治の話はどうでもいい!」佐藤夕子の支援者も、佐藤の国政報告会でこう言った「私たちは佐藤さんのお話を聞きにきたので、そういう政治の難しい話は聞きたくない」・・・感動しますね。そうした名古屋の人気者、河村たかし佐藤夕子のおかげで、名古屋の政治は大きく歪められてしまった。事実を無視し、人間の行うべき義を貶め、礼を失する。権威と「得票≒民意」にあぐらをかき、批判を受け付けない。その「得票≒民意」は、権威、権力に屈したメディアが作り上げたもので、その力の前で国民は虐げられる。・・・私には、名古屋城天守が閉鎖される時に、涙を流して「これでお城は本当に壊されてしまうの」と聞いてきた女性の顔が忘れられない。

 河村たかしの高笑いの影で、泣いている市民が居る。

 しかし、この奥義によって選良として選ばれても、それに相応しくないものはやがて露呈する。


 河村たかしがこんなツイートをしている。

 「旧5大都市で比較すると、名古屋市は市税収入の伸びが最も高く、これは名古屋市における河村流減税政策による経済効果の成果だ」ということのようだ。


この主張に市民の方々が一斉に検証をかけている。


(それぞれの画像はクリックしていただくと拡大表示されます)

https://pbs.twimg.com/media/FCEV3QBXIAkN6Ga?format=png&name=large

https://pbs.twimg.com/media/FCEV494XoAACB1I?format=jpg&name=large

https://pbs.twimg.com/media/FCEV5_uWUAEp2rx?format=jpg&name=large

https://pbs.twimg.com/media/FCEV7SbX0AUQw0g?format=png&name=large

 まことに素晴らしい。

 市長の発言に対するファクトチェックを、市民が自主的に行う。

 これぞ民主主義。河村たかし名古屋市に民主主義を育てるために、敢えて市民に嘘を言っているのかと思えるほどだ。

 河村たかしは、上記のグラフを市長会見でも示したようだが、さすがの地元メディアも、河村の見え透いた嘘には乗らなかったようで、全社無視を決め込んだようだ。

 しかし、本来であれば、市長が公式な市長会見で提示した資料について、虚偽または、虚偽とまでは言えなくても、明らかに事実を歪めて告知する事実があるのであれば、そうした様態も含めて報じるべきではないのか。

 そして、市民、有権者に対して、市長の発言には事実を歪めて知らせる傾向があること、政治的な偏りが含まれることを知らせるべきだ。そこまでやって料金を取れる報道と言えるのではないのか? 報道発表の横書きの文書を、新聞の縦書きに書き写すだけではプロの仕事とはいえない。

 最近、コレクティブと言う映画を見た。

transformer.co.jp

 ルーマニアで起きた政治的スキャンダルだ。

 この中で「メディアが権力に屈したら国家は国民を虐げるのです」という台詞がある。メディアが権力に対する健全な批判精神を失えば、社会が歪んでいく。


 話は戻るが、前田市議の復団について、その詳しい経緯が増田市議の口から語られている。

都市消防委員会 令和3年10月7日
※1時間20分後ぐらいからの委員間討論

nagoya.gijiroku.com

 増田市議の告発や、こうした減税日本の一部議員による専横に、港区選出の減税日本ゴヤの新人市議、沢田仁実市議が嗚咽を漏らすほど追い詰められていた様子がわかる。

 佐藤夕子は、当初から離団などする必要はないと思っていたようだ。前田市議に対する「批判」は「自分たち(減税日本)に対する攻撃」であって、攻撃のための攻撃であると捉えていたようだ。

 減税日本ゴヤは、結成当初、全ての事柄を公開された団総会で民主的に議論し、党議拘束はしないとしていたはずだ。団総会は一般の市民まで傍聴が可能だった。それがいつの間にか公開されなくなり、秘密会になった。

 やがて無かったはずの「党議拘束」が、減税条例に対する本会議採決の態度を期に「党議拘束以上の拘束」として拘束されるようになった。

 この辺りから「陰謀論」が団を支配し始める。減税日本を分断する分派派が居るというのだ。その者たちが当時の団長である則竹市議を陥れ、費用弁償引き出しを報道に知らせたと囁かれた。事実関係や時期を勘案すれば、この則竹問題をリークしたのは誰だかわかろうと言うものだ。市長周辺者が則竹団長辞職に伴う繰り上げ当選対象者に、言動に注意するように告げていたのはいったいどういう意味だったのだろうか。それは例のバス旅行での出来事で、則竹問題が明らかになる以前の出来事だ。則竹を切り、その情報漏えいを行ったと批判を口にするものを排除する。残ったのはイエスマンばかりとなった。

 この傾向は佐藤夕子が市議団に参加し始めた頃から一段と強化された。団の民主制は一段と毀損され、佐藤夕子河村たかしの発言が絶対となる。

 現在の減税日本に民主制など無いし、そんな政党が民主主義を実現できるわけがない。

 今回、前田市議の復団を了承したのは減税日本の中でも一部の市議、たった5人の話し合いだったそうだ。その他の市議には説明も、相談もなかったという。
 
 その5人とは、佐藤夕子、余語さやか、大村光子、浅井康正、鈴木孝之であるという。
 
 もはや、佐藤夕子や浅井康正などに語る言葉はない。死ぬまで判らないままでいればいい。
 
 余語についても、親に精神的に圧殺されているように見える。彼女も犠牲者なのだろう。親が河村支援者で、その親の信仰心の供物が「わが娘、余語さやか」なのかもしれない。とんだアブラハムがいたものだ。

 大村光子と鈴木孝之には考えてもらいたい。確かに減税日本は批判にさらされている。それを君たちは攻撃と受け止めるかもしれない。しかし、ではこの「攻撃」を受けて、君たちは何を守っているのだろうか。

 前田市議の発言は、その非を認め、被災者住民の方々の理解を得る以外に解決の道があるのか?(まさか、「人の噂も75日」と単に時間がすぎるのを待つつもりか?)
 
 河村たかしの語る、上記のような減税の効果は信じるに値するものか?よしんばそれを信じたとして、今の段階で河村たかしが、このような情報を公開する意味は、単に自分の誤った減税政策を糊塗したいがためではないのか? ごまかしのために、このあやふやな主張を繰り返しているだけではないのか?
 
 30%キャッシュバック政策はどこに行った?4年間続けると言っているが、すでに1年執行されないことは決定した。つまり、公約はすでに反故にされたのであり、河村たかしが真っ先に言うことは、その謝罪なのではないのか?

 市長選挙の際には実施について財政局に確認していると言っていた。大村光子市議。これでもあなたは河村たかしを信じるのか?鈴木市議、あなたが支えているものは市民のためのものか?それとも、河村たかし佐藤夕子の個人的な利己心、保身のための行動なのではないのか?
 
 河村たかしが口にする様々な事柄、それは一体誰のためのものだろう。市民のためと言えるのか?浅ましい自己保身ではないのか。今、名古屋市民に必要な問題意識も、それに向き合う誠実さも、河村たかしにはない。

 余語さやか、大村光子、鈴木孝之の各市議に訴える。減税を割って出よと。
 
 河村たかし佐藤夕子の、単なる私党、私物に過ぎない政党など、名古屋市民にとっては迷惑以外の何物でもない。

 その他の減税日本ゴヤの市議たちよ。名古屋市民の為に仕事がしたいのであれば、今、この時に河村たかしと、佐藤夕子の下から立ち去り、その実態を名古屋市民に明かすべきだ。

 それがすなわち、民主主義を取り戻す事となる。



 

針のむしろの3年と200日

 本日は大村愛知県知事リコール署名偽造事件で逮捕された広告関連会社前社長山口彬被告の初公判の日となっている。9月24日に行われた田中事務局長とは分離して審議される。
 田中被告(事務局長)は起訴内容の認否については明白にしていなかったが、山口被告は起訴事実を認めている。田中被告(事務局長)は河村市長が言っていたように「仮提出だから地方自治法に言う署名簿ではない」というような主張をして、正面突破無罪主張をするようだが、山口被告は起訴事実を認め、捜査に協力し、量刑の軽減を考えているのかもしれない。

 田中被告(事務局長)の裁判は、「署名簿」の定義をめぐる法解釈上の「宗教論争」になるようで、高須代表や河村応援団長の関与などは飛び出さないかもしれないが、山口被告の裁判では事実関係は認めて、山口被告本人の責任度合いを争う裁判となるようで、あるいは高須代表や河村応援団長の関与などの運動そのものの実態も表に出るかもしれない。

 実際、報道によると。

mainichi.jp

 田中被告(事務局長)から山口被告は「署名活動に代筆はつきもので、(2010年の)名古屋市議会のリコールでもあったはずだ」と説得されたとされる。

 これは、極めて重大な発言で、田中被告(事務局長)が名古屋市議会リコールにおいても「代筆はつきものであった」と認識した根拠は何か?誰からそのような事を聞いたのか。また、このような発言が田中被告(事務局長)と山口被告の間で信憑性を持った原因はなんであるのか。

 文藝春秋2021年7月号340ページに河村たかし名古屋市長は直接請求署名の代筆について「自分自身の経験から、家族が他の家族の名前を、中小企業の社長が社員の名前を勝手に書いたりする程度はあり得ても」と書いている。公になる文章でもこのような脱法行為を明言していたのであるから、2010年に行われた、名古屋市議会リコールにおいて、いかなる脱法行為が有ったのか、名古屋市会か100条委員会を開いて事の是非を明らかにするべきなのではないのだろうか。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

さて、実はもうすぐ。恐ろしい情報公開が行われる。

www.pref.aichi.jp

令和2年11月27日に、令和元年分の「政治資金収支報告書」定期分が公開されたが、令和2年分の収支報告書は、来月の同時期に公開される。

ここには、政治団体「お辞め下さい大村秀章愛知県知事 愛知100万人リコールの会」(以下、100万人の会)の収支報告書が公開されるのだ。

注目点は3点

1. 100万人の会へのクラウドファンディングに5万円以上寄付した人物の氏名、住所が明示される。(ネトウヨ君、個人情報大開示大会、クラファン会場)

2.100万人の会の不透明な会計が示される。(350万枚刷り、県内にポスティングされたとされる受任者募集ハガキの実態とは?情報公開によって謎が深まる可能性もある)

3.任意団体「ネットワーク河村市長」の旧受任者(3万4千人)への郵便物郵送料金約260万円の存在。この団体、所在地は河村たかし名古屋市長の現住所と同じ任意団体であり、政治団体としての届け出もされていない。更に、河村たかしについては、資金管理団体として「河村たかし政策研究会」が既にあり、それ以外の任意団体が約260万円の利益供与を受け取る事には触法性がないのだろうか?

https://www.pref.aichi.jp/senkyo/021127/z/c01z0614.pdf

さてさてさて。

残念ながら、「ネトウヨ君、個人情報大開示大会、署名簿縦覧会場」は開催されなかったが、上記のように「クラファン会場」が公開されることで、全国的なネトウヨ君(あんな活動に5万円以上を支払うという「おめでたい手合い」)の個人情報が晒されることとなる、高須代表はどう言っていたか知らないが、これが事実だ。

ちなみに、上記の「河村たかし政策研究会」への寄付者がこのように公開されているように、誰にも公開され。著作権法第三十二条の二項に示されているように「国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人又は地方独立行政法人が一般に周知させることを目的として作成し、その著作の名義の下に公表する広報資料、調査統計資料、報告書その他これらに類する著作物は、説明の材料として新聞紙、雑誌その他の刊行物に転載することができる。ただし、これを禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない。」とされ、政治資金収支報告書には、「転載を禁止する旨」は表示されていない。

ネトウヨ君たちの阿鼻叫喚の声が聞こえそうで楽しい。

さて。

東京では「都民ファーストの会」から国政政党への展開がみられ「ファーストの会」が立ち上がった。ちょっと面白いのはこの会は候補者公募を行っているようだが、その募集締切が17日で、自民党岸田政権が打ち出した衆議院総選挙の公示19日には、とてもじゃないが間に合わない。(募集を締め切って、選考をするなり、面談するなり。そして、公認を出すとか推薦を出して、それにあわせて各種印刷物を揃えて、配布準備を行う。ここまでで2日、48時間。絶対無理!)


さらに、元埼玉県知事で現参議院議員上田清司氏の新党構想が動いているとか、そこに鳩山元総理の影(というか、札束)が見えるとか、国民民主が急接近しているとか。

ある人物が言っていた。

今年の春、名古屋市長選挙に河村たかしは出るべきではなかった。「多選には反対していましたから」とか、綺麗事でもなんでも言っておけば、国政転身の模索も自由にできただろうし、各メディアも一巡出演を仰いでいただろう。確かに、知事リコールの署名簿偽造にも関与が有るのではと疑われたが、選挙で問題となるスキャンダルとは、汚職等のお金の問題か、ふしだらな種類の男女関係であって、署名簿偽造問題が投票行動に影響を及ぼすことは考えにくく、実際河村たかしは市長に再選された。(次点候補に肉薄された原因は、純粋に準備不足、運動不足)

河村たかしがこの春、市長選挙に出なかったならば、その後の金メダル事件も生まれなかった。

名古屋エリアの集票を期す、維新、上田新党、小池新党はこぞって河村たかしに国政進出を促しただろう。そして「愛知維新上田ファースト減税日本」でもなんでも旗を立てて国政転身すれば、国会議員歳費1,561万円に期末手当635万円。文書通信交通滞在費が1,200万円に立法事務費が780万円。しめて4,176万円。これに政策秘書、第1、第2秘書の歳費まで税金。たまりませんわな。

それなのに、優柔不断にも名古屋市長に居続け、今に至って給料3ヶ月150万円を止めるの止めないのと、せこい話でウダウダやっている。蟹は甲羅に似せて穴を掘るとはいうが、名古屋市長たるものが金の話、それも150万円の話で満足に他者を納得もさせられない。みっともない事この上ない。これ以降も、次々起こる追求に、防戦一方だろう。嘘は付けばつくほど次第に大きくなり、ごまかしが効かなくなってくる。特に昨今はマスコミがこぞって疑惑の目を向け始めた。いつまでごまかし続けられるか。是非、この名古屋市長の椅子という、針のむしろに3年と200日。座り続けてくれ。

[以下の部分、通じにくいので上のように書き直しました。]

名古屋エリアの集票を期す、維新、上田新党、小池新党はこぞって河村たかしに国政進出を促しただろう。そして「愛知維新上田ファースト減税日本」でもなんでも旗を立てて国政転身すれば、国会議員歳費1,561万円に期末手当635万円。文書通信交通滞在費が1,200万円に立法事務費が780万円。しめて4,176万円。これに政策秘書、第1、第2秘書の歳費まで税金。たまりませんわな。

給料3ヶ月150万円を止めるの止めないのと、ウダウダやって、それ以降もこの名古屋市長の椅子という、針のむしろに3年と200日。座り続けてくれ。