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あいトリ 知事ー市長意見交換 (問5)  補足 <前編>

あいちトリエンナーレ(以下、「あいトリ」)における、河村たかし名古屋市長と大村秀章愛知県知事の間の往復書簡は、両者の考え方を明白にするものであり、あいトリに係る大村知事へのリコールについても示唆を与えるだろう・・・などと白々しいことを言っていても始まらない、この往復書簡は、ズバリ河村たかしのめちゃくちゃを表すこととなる。

自分の言いたい放題を言っておいて、大村知事からの返答をろくに評価、批判もせずに、またまた一方的な反論を、いわゆる「脊髄反射」のように繰り返す。

特に、この問5については、引用元とした一橋大学の阪口正二郎さん本人が、直後に河村市長の行動を否定する意見を表明しているのであり。

あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)

gendai.ismedia.jp

自説の根拠を求めた有識者より直接否定されたのであれば、自らの不明を恥じて静かにしておくべきだろうが、厚顔にも大村知事に対してリコールを求める騒動を起こして、こうしてまた自らの恥を蒸し返すとは、いったいどういう脳みそをしているのだろうか。

恥とか、反省という言葉はないのかもしれない。いい傾向だ、そうして生き恥を振りまいていただきたい。

さて、そうした問5だが、果たして阪口さんの「引用」が正しものであるか、ここにひかれた論文を国会図書館から取り寄せてみた。*1

阪口正二郎著「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」法律時報74巻1号

CiNii 論文 -  芸術に対する国家の財政援助と表現の自由 (特集 "表現の自由"の探求--メディア判例研究会五周年記念企画)

国立国会図書館

国立国会図書館オンライン | National Diet Library Online

そうしたところ、驚くことが分かった。
この阪口論文に、先行研究として奥平康弘さんの

福祉国家における表現の不自由➖富山県立近代美術館のばあい」(法時60巻2号75頁)(1988)「法ってなんだ」184頁(大蔵省印刷局、1995)

「”自由”と不連続関係の文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化
➖最近の美術館運営問題を素材として(上)(中)(下)」法セミ547号80頁、548号82頁、549号77頁

が掲げられている。

もちろんここで言う「 富山県立近代美術館のばあい」とは、大浦信行さんの『遠近を抱えて』を巡る騒動のことであり、当時は「天皇コラージュ問題」とされたものが、現在において「進化(?)」して「天皇写真焼却問題」とされているわけだ。

実は、こうして一つのテーマが30年以上にわたって議論(?)されているわけだが、そうした歴史的な重層性は河村市長の文章からはうかがい知れない。

これは、日本だけにとどまらない、一般的な傾向に思えるのだが、最近の粗雑な政治議論の中で、「歴史的重層性」への軽視が見受けられるような気がする。歴史の中で自分に都合の良いところだけをチェリーピックして歪んだ世界観に浸っているというのは、居心地がいいものなのだろうか。

話題を日本国内における「右派の台頭」といったものに絞ってみた時にも、その端緒はいわゆる「歴史教科書問題」であろうし、そうした動きが活発化したのが「新しい歴史教科書」問題だろう。その際に「右派」から提案された主題は、地政学などではなく、「日本神話」だった。まったく頭が痛い。いわゆる「日本神話」を持ち出した明治型国民国家という設計が、その後どういった悲惨な結末を迎えたか、そうした評価を忘れている。
私が理解するところ、「日本神話」を国民教育に取り入れたのは、西洋型一神教世界観(デカルト的機械論的世界観といってもいい)を国民に提示して、いわゆる「四民」を「臣民」として一体化させることによって、当時の国民国家をキャッチアップしようとした社会設計であって、国家の上級官僚は葉隠的に理解していた。つまり、アタマから信じてなど居なかった。

いわゆる「維新の志士」たち、白刃を掻い潜ってきた国家リーダーにとって、天皇制も、その神話も「使える」から使ったに過ぎない。それが時が下り、軍のリーダーすら「神風」に頼るという知的劣化を起こしてしまった、それが「日本神話」を巡る制度設計の過誤だったはずだ。戦後、吉田茂―池田―佐藤というリーダー、更にその背後に居た福田恆存、田中美知太郎、小林秀雄等などの人々は、戦前のこうした「一点張り」の危険性を熟知し、広範な多様性に活路を見出そうとした。実は、こうした考え方こそ、この日本の国柄であり「天皇中心の神の国」などという世迷い言こそ唾棄すべきものと捉えるか、方便品としてありがたく「使わせて」もらうべきものであって、今またこうした言辞を頭から信じ込むような輩が社会のオピニオンを握ろうというのは、社会の劣化でしか無い。


まあ、ともかく。
こうした、阪口―奥平という重層的な議論をたどると、そこには驚くほど今日的な先行問題が存在していたことがわかる。

その前に、阪口さんの論文を俯瞰させていただこう。

阪口正二郎さんの「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」(法律時報74巻1号)の要約はおよそ以下のようになっている。

1.はじめに
2.芸術に対する国家の援助と干渉
3.政府言論という問題
4.政府言論のディレンマ
5.内容に基づく選別
6.観点に基づく選別


「1.はじめに」において阪口さんは次のように前提を述べる。

 芸術と国家の関わりについての憲法上の問題を析出しようとする文章であり、本稿は問題の解決策を提示しようとするものではなく、問題をいかなるものとして認識すべきなのか、筆者なりの認識を示す。

と試論を提示しようとする。(つまり、何らかの主張を補強するための根拠とするには、そもそもそぐわない)

続く「2.芸術に対する国家の援助と干渉」及び「3.政府言論という問題」において。

 一方で国家の側からすれば芸術をコントロールしようとする動機があり、他方で芸術の側からすれば自己の普及のためには国家による財政的な援助を期待せざるを得ず、こうした両者の要求が広範に交錯する現代の国家にあって(略)文化に属する芸術に対して国家が選別的な形で援助を行う際にも、やはり政府言論という視座は無視しえない意味を持つはずである。


と、注意を促している。
  
「4.政府言論のディレンマ」において、その「政府言論」についての論考は深められていく。

 国家が私人のなす表現行為に対して内容に基づく<規制>を行う場合、わいせつ表現や名誉毀損など一定のカテゴリーに属する表現行為の場合を除いて、規制は最も厳格な審査に服する。では、私人の表現行為に対する国家による内容に基づく選別的な<援助>の場合にも、同様に考えるべきだろうか。あるいは、そもそも政府言論に問題があるのだとすれば、より広く、政府言論は一般的に許されないと考えるべきだろうか。(略)政府言論には危険性と同時に積極的なメリットがあり、そのことは、政府言論の危険性が問題になる、表現行為に対する国家の選別的な形での援助についても(略)少なくとも部分的にはあてはまる。「政府言論のディレンマ」「政府言論のパラドックス」と呼ばれる。

 民主主義国家において、われわれが主権者として国家の行動を監視し賢明な判断をしようとすれば、われわれは政府の立場を知る必要がある。

 さらに、資本主義のもとで言論市場が一定の私的権力によって独占される危険性がある場合に、国家は、そうした環境にあっては容易に市場に登場しそうにない私人の表現行為に財政援助をなすことで、言論市場をより豊かなものにすることによって、民主主義や個人の自立といった価値に貢献することができる。

 国家が表現行為の内容に基づいて選別的に援助をなすことが禁じられている領域があることを考えればわかる。それは、道路や公園などいわゆるパブリック・フォーラムの領域である。

 道路や公園など典型的なパブリック・フォーラムの領域において、国家が表現の内容に基づいて規制を行う場合、規制は厳格な審査に服し、よほどのことがなければ合憲とされることはない。道路や公園が公の営造物であろうと、国家はそこで私人が自己の所有する土地において振舞うのと同じように振舞うことが許されているわけではない。

 『芸術としての卓越性』という選別基準も、(略)一般的には許されるはずである。(略)芸術作品としてすぐれたものではないという理由で国家が援助を拒否することは可能である。そもそも芸術活動への財政援助という制度の趣旨は、すぐれた芸術作品の供給を促進することにあるはずであり、質の劣った芸術活動にまで援助することは制度の趣旨に反し、制度それ自体の存立を危うくさせる可能性がある。

 しかし他方で、国家はいかなる内容に基づく選別をしても許されるというわけでもないはずである。たとえば、自民党を支持する芸術家には補助金を支出するが、自民党を批判する芸術家には補助金の支出を拒否するといった形での選別的援助は憲法上の問題を提起する。

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 国家が芸術活動に財政援助をなすかどうかは国家の正当な裁量の範囲内にあり、しかも国家は財政援助をなすにあたって、私人の表現行為を規制する場合とは異なって、一定の内容に基づく選別をなすことも許されていると考えられるが、だからといって国家の内容に基づく選別に憲法上の制約が全くないわけではない。


最後の「6.観点に基づく選別」において。

表現行為の内容に基づく選別を「主題に基づく選別」と「観点に基づく選別」という伝統的な表現の自由理論の分類に従って考察すると、「主題に基づく選別が、国家が芸術に援助をなす場合には、国家が単純な検閲者として立ち現れる場合とは異なって、一般的に許される可能性がある。」


 観点に基づく選別はどうだろうか。「自民党を支持する芸術家」という例で考えたように「観点に基づく選別の禁止というルールは有効そうに見える。」しかし、話はそんなに単純ではない。

 「芸術としての卓越性」といった基準は、観点に基づく選別とそう簡単には切り離せない。
 

 芸術活動に対する国家の援助という領域においては、観点に基づく選別の禁止というルールですら、ある程度適用範囲を限定し、すぐれた芸術の促進という制度の存立目的と合理的関連性のない「純粋な観点に基づく選別」を禁止することにとどまざるをえないだろう。(略)学問の自由の場合と同様に、やはりこの領域において肝要なことは、すぐれた芸術に対して援助を行うという制度それ自体をできるだけ政治から切り離し、「(芸術としての卓越性という)基準を政府が過度に政治化させないようにすること」であり、制度それ自体の自律性を確保することである。


明白だろう。「すぐれた芸術に対して援助を行うという制度それ自体をできるだけ政治から切り離し(略)政府が過度に政治化させないようにする」ことが肝要であると政治の介入を排除しているのである。

つまり、ここにおいて、河村たかしの主張は否定されているのだ。

ところが、この阪口論文に先行する奥平論文において、私たちはまるで予言を見ているような、デジャヴをみているような歴史的重層性に驚かされ、そうした「輪廻の輪」から逃れられない、業の深い河村たかしという衆生に憐みを感じるのだ。

しかし、それは次回に譲ろう。

あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2における表現の自由とヘイトスピーチの誤解)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問3)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問4)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 阪口論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 奥平論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問6)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問7)



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注意喚起


*1:というよりも、ここで阪口さんのその論文を引用しているように見えるけれども、これって単にスカリア判事の発言を孫引きするためだけに参照しているだけであって、学位論文でもこんな無茶は通らないだろう、一橋とはいっても、というか一橋だからか、河村たかしの練度が知れる