最近感じること
久しぶりのブログでもあり、どこから話そうかと迷うところだけれど、国民民主党と山尾志桜里の件から触れてみよう。
山尾志桜里が来る参議院選挙に国民民主党から立候補することとなり、記者会見を開いたところ、山尾がしばらく前に噂されていたスキャンダルへの追及で会見が混乱し、国民民主党は急遽公認を取り下げ、山尾の出馬も無くなったらしい。
これを受けて、国民民主党における擁立やその取りやめ手続きが稚拙であると見做されている。そもそも擁立に関して玉木代表が(本人も不倫スキャンダルを抱えているのだろうに)ほとんど勝手に担ぎ出したにもかかわらず(つまり、山尾を担ぎ出せば、自分の乾ききっていない「かさぶた」も剝がされるのは目に見えているというのに)、いざ批判が沸き起こると手を引くという姿はとても見られたものではない。
また、山尾のスキャンダルについては、それを追及していたマスコミにも問題を感じる。山尾自身は不倫関係については認めていないわけだし、本人が認めていないものを過剰に追及していた感は拭えない。関係者が亡くなっているという報道もあるようだが、その「遺族」の気持ちを代弁して追及する姿勢も異常だ。犯罪などでもマスコミが犯罪被害者やその遺族の立場に立って代弁しているような姿をみかけるが、それは正当な事なんだろうか。被害者という立場を利用しているようにしか見えない。山尾に対する異常なまでの追及を、聖書に記述されている「石打刑」になぞらえた主張も見かけたが、まさに「玉木に対して石を投げた者だけが、山尾にも石を投げなさい」と言いたい気分になる。
古代ローマの詩人は、大衆統治の要諦を「パンとサーカス」と喝破したが、21世紀を四分の一過ぎても、それは変わらない。いや、水はやすきに流れる。いよいよ社会はそうした愚かしい在り方に落ち着いてきているようだ。ここでいう「サーカス」というのは、円形闘技場の事を言うようで、映画『グラディエーター』などで描かれていた剣闘士は実在し、大衆はその殺し合いに熱狂したという。
現在の社会で、この「サーカス」はユーチューブなどのSNSということになるのだろう。Tiktok や X(twitter) その他様々なインターネットコンテンツが、人々に刹那的な娯楽を提供している。若い女の子が踊って見せたり、若者がビルの屋上でパルクールをして見せたり(そして、本当に落ちてみたり)まさに命がけの「サーカス」に人々は目を奪われ、時間を奪われていく。そしてそうしたコンテンツの社会波及力を利用して、消費社会は様々な消費財を広告し、その販売代金の一部がコンテンツ会社や出演者に渡される。今までテレビや新聞などの「オールドメディア」が収益を得ていた領域に、一般大衆が徒手空拳で殴りこんできて、その美田を奪っている。
こうした社会の変貌が様々な歪を見せているが、ここでは2つの側面だけを取り上げてみよう。
一つは、「オールドメディア」の在り方の話。
もう一つはそうしたSNS社会が生み出す政治の問題だ。
私は現在、業務上 Windows11 を使っている。そこにお仕着せで搭載されているウェッブブラウザは Microsoft Edge ということになる。そうなると、起動時には MSN(MicroSoft Network)ニュースが表示される。そこではほどほどのビジネスニュースや外信と、圧倒的な芸能ネタが展開されている。正直誰が誰か、私のようなロートルには見分けがつかないが、おきれいなお嬢さん方や、さわやかな笑顔の若者のクッツイタの離れたのという話題で溢れている。まさに「サーカス」、江戸時代の瓦版や「羽織ゴロ」と変わらない。しかし、少し様相が異なるところがある。記事のタイトル、キャッチは誰々と興味を引くような有名人が、何々をやったというようなトピックなのだが、似たような記事が少しづつ表現を変えて併記されている。記事を読むとその出来事は、どこかのテレビやラジオ番組の上でということになっている。つまり、テレビやラジオなどの番組上に起こったことを記事にする「こたつ記事」だ。呆れるのは、その「こたつ記事」は、最後に「~と、週刊〇〇が報じた」などと、他のメディアのパクリ(これでも報道引用?)であることが多々あることだ。そもそもその有名人が番組の上で何をしようと知った事ではないが、それをこたつ記事に仕立てたメディア報道を、さらに孫引きしているというわけだ。この記事の存在価値は、MSNにタイトルが掲載され、そのタイトルにひかれた読者からページビューが稼げるということだけなんだろう。内容も薄ければ、需要の在り方も薄い。多分、稿料自体は驚くほどの安価なんだろう。その安価に見合うだけの労力で記事は構成されている。それを読む読者は5分もすればその記事の事など忘れてしまうだろう。刹那的な時間つぶし。そうした孫引きサイトが山のように存在する。
困ったことは、こうした孫引きサイトは記事の内容など保証していない。裏取りなんて面倒なことをしていては採算割れする。「誰々が言った」事は事実なんだから、それを「報道引用」することに問題はないだろうとばかりに量産し、拡散し続ける。彼らにとっては中身など関係ない、サイトに客を引いてページを見てもらい、そのページに掲載した広告を見てもらうことが目的なのだ。他人が傷つこうが、人が死のうがお構いなしだ。
これは「オールドメディア」においても同じだ。キーマンの発言を裏取りもせずに「誰々の発言」と拡散する。それが事実と遊離していてもメディアは反省もしない。(おかげで、名古屋城の木造化は全く進まないのだろう、メディアがもっとちゃんと検証すれば、事実は明らかとなる)「横のものを縦にして」(役所などのマスコミ発表は横書きが多いので、それを縦書きの新聞記事に仕立てることをこう言う)いるだけの「オールドメディア」は、上記の孫引きサイトを笑えない。こうした孫引きサイトは淘汰されるだろう。すでにライターにはAIの代替が迫ってきているし、そもそも乱立したニュースサイト、まとめサイトには、価格競争ぐらいしかユーザー(広告クライアント)に訴求するネタはない。
そしてそうした波に「オールドメディア」も飲み込まれている。一般新聞社などの既存メディアのインターネット上のサイトも、孫引きサイトも見た目だけでは差はない。いや、逆に内容のないサイトの方がデザイン的に優れていたりする。手軽なトピックを短めに発信している孫引きサイトの方が、記事の途中からは「有料会員専用です」といやらしく限定をかけてくる既存メディアよりも好感をもって受け入れられるかもしれない。
ここで、「オールドメディア」に提案がある。記事自体を有料提供するのはそれで良いかもしれない。しかし、アーカイブに関して無料提供してはどうだろう。たいていのメディア、新聞は図書館での閲覧を容認している。インターネット上のコンテンツに関しても、速報性のある当日分や一年以上前のアーカイブに関しては有料提供は理解できるが、昨日分から、直近一年程度の記事については無料開放してはどうだろうか。
図書館で新聞の閲覧を容認するのは、国民に対する知る権利の保障でもある。
さらに聞いた話だが、記者によってはこうしたアーカイブの存在を嫌がる者もいるようだ。つまり、記事の中でその時々に世論迎合しているような者は、そうした記事の歪みが残るのが嫌なのだろうか。ワシントン・ポストの発行人フィリップ・グレアムは「新聞は歴史の第一稿」という言葉を残したが、自身の原稿をアーカイブに残したくないような記者や、そんな者が書いた新聞に意味があるとは思えない、そんな言葉によって作られた社会が健全性を保てるわけもない。(中日新聞の「河村ウォッチ」なんて、負の遺産として集約しておくべきだ)
ちょっと、気になって中日新聞において「堀川浄化」というキーワードのヒット数を調べてみた。

松原市政になる直前、堀川の浄化が数多く取り上げられ、その結果か松原時代に「庄内川からの導水」が実現化した。そのおかげで堀川は徐々に水質が改善され、やがて木曽川からの導水が行われ、「堀川千人調査隊」が結成される。確かにあの頃は、堀川の川底が見える時もあり、泳いでいる魚や亀も眺められたものだった。
しかし、2010年、河村市政となり、この導水事業(堀川に、庄内川や木曽川の水を流す事業)が停止されると、2011年の中日新聞紙上には「堀川浄水」という言葉は一言も載らなくなった。
現在も「堀川千人調査隊」は活動を続けており、なんとなく「堀川がきれいになった」という根拠のない(というか、あからさまな事実誤認)がもてはやされている。上記のように2010年以降、堀川には上流の水は流れておらず、水源は下水処理場となっている。(それでも、しっかりと処理はされているから、まだ、あの程度で済んでいる。また、堀川の水質の問題は、名古屋港の水質の問題でもある)
https://news.yahoo.co.jp/articles/d26ef0afa9987feeaff3984fff12a21e30a73237news.yahoo.co.jp
追記:
アユが遡上していたそうだ。
それは否定しないけれど、「浄化に手ごたえ」というのは、あまりにむなしい。
今年など、突然暑くなって、堀川周辺の悪臭は一段と厳しい。河村市政における堀川対策は悪政、失政の連続だ。
(「鳥久騒動」も私は忘れていない、ああいった公人にあるまじき権力の乱用をしっかりと批判していれば、後に起こる愛知トリエンナーレや知事リコールなどの騒動も起きなかったのではないのだろうか)
名古屋の街、堀川がどぶ川になってしまったのは、この河村市政の誤りと、それを報じなかった中日新聞の責任だ。こんなメディアなら、数多ある孫引きニュースサイトとともに、消え去っていっても何の問題も感じない。
次に「SNS社会が生み出す政治の問題」に触れようと思うが、次回に続く。
追記:
いま、2014年当時の「鳥久騒動」の自分の記事
を読み返してみて「河村市長が主体的にこの問題を解決しようとしていた動きが無い。つまりここでも河村市政にありがちな「ネグレクト」が発生していた事が分かる。」という自分が書いた文章を読んで、現在起こっている日本保守党、百田&有本とのいざこざに通じるものがあると感じる。
記事のテーマである「鳥久騒動」記事で触れた「相生山問題」「木曽川導水路」「国際展示場の問題」など、その他にも「南京発言問題」「愛知トリエンナーレ問題」「知事リコール問題」。河村は様々な問題を起こしてきている。(何でもないことを「問題」にしてメディアに取り上げさせたのは河村と言っていい、理由は、そうやってありもしない「問題」を騒ぎ立て、メディアに取り上げさせることで、あたかも河村がなにか活動をしているように見せかけているに過ぎない。実態はマッチポンプ、不必要な「問題」を起こして、事態をいたずらに深刻化させているだけに過ぎない)
河村はそうした「問題」の途中で、「なんとかしてちょうよ」と、誰か第三者に解決を訴えかけ、支援を呼びかける。少なくない人々がこの支援の呼びかけを真に受けて、その問題に飛び込んでみるが、その「問題」がこじれると河村はいなくなる。そもそも河村がいっぱしの政治家であれば解決策を提案するとか、市長など一定程度権力を持つ立場なら、解決のための行動を率先して起こすものだろうが、河村の行動原理は異なる。解決の為ではなく問題をより深刻にするような行動に走ることが多い。(その方がより広範に支持を訴えかけることができるからだろう。思い起こせば、中日新聞は河村のこうした策略にはまっている、または意図してはまっているのかもしれない。それは河村のこうした行動原理(問題解決よりは、問題を拡大させて、自らの支持を得ようとする傾向)は、地元メディアとしては「美味しい」からだ。何事もなく、無事これ名馬の市長よりも、何かあれば問題を引き起こす市長がいれば、紙面は賑やかになる。/しかし、地元の住民としては迷惑な話だ)
実は、河村は庶民でもなければ世慣れた「中小企業の経営者」でもない。河村が経営していたとする「画廊」はすでに実体はないし、世間が河村たかしの家業と認識している、古紙回収業「河村商事」は河村の父親が亡くなって以降は母親が経営を継ぎ、河村が政治ごっこにかまけている間に母親から河村の息子に代替わりしている。つまり、河村には中小企業を経営し維持したという実績などない。彼自身「人生行き詰ったから選挙に出た」人物であり、なぜ人生に行き詰ったのか、その反省などなく現在に至っている。
その為に、河村自身には問題解決能力であるとか、交渉力といったものは微塵もない。
それどころか、河村の父親が亡くなって以降、家業を切り盛りし、維持してきた優秀な母親は、同時に河村お坊ちゃまにとっては大きな存在であり、代議士になって以降も様々なタイミングで河村をいさめては彼を助けていたとされる。河村がバカなことをやって地元の有力者を怒らせた際には、河村の代わりに頭を下げにいったり。私の聞いた逸話では、そうやって地元有力者に対する謝罪の場を設け、親子で連れ立って謝罪に訪れた際、誠実に釈明、謝罪する母親の横で、ぼやっと他人事のように様子を見て、母親に促されて頭を下げる際にも、中学生のようにふてくされたように頭を下げる河村の姿があったという。いじめ自殺事件で被害者宅を訪れていた河村がまさにこれだった。
河村はメディア露出のために様々な「問題」を引き起こす。しかし、そのたびに解決は誰か第三者に依存する。そうした行動原理は、河村とこの母親の関係が原型なのではないだろうか。
「体現帝国」第十二回公演『見えない青髭公の城』
「体現帝国」第十二回公演『見えない青髭公の城』
名古屋を拠点とする劇団「体現帝国」が第十二回公演『見えない青髭公の城』の上演を、独自劇場『体現帝国館』で続けている。
地元メディアをはじめ、演劇人やサブカル人士の口コミで好評が伝えられ、毎公演満席のようで、全国から観客が詰めかけている。
私はこのブログで以前にも、同劇団による第十一回公演『奴婢訓』の紹介を行った。
今回の上演にあたっては、私は『試演会』から鑑賞することができた。それどころか、同劇場が作られていくところから、その経緯を目にすることができ、同劇団の主催であり、演出家の渡部剛己が「青髭公の城」を題材に「青ひげ」そして『見えない青髭公の城』として作品を練り上げていく工程を見ることができた。
「青ひげ」はグリム童話とされるが、シャルル・ペロー執筆の童話(1697年)が源流で、現代のグリム童話では収録されていない。
その後、バルトークがオペラ『青ひげ公の城』として構成し直し、このバルトーク版を下敷きに寺山修司が戯曲『青ひげ公の城』を作り、『演劇実験室◎万有引力』が上演した。
なぜ「青ひげ」は「剥製職人」となったか
今回の渡部版『青髭~』では、青髭は「剥製職人」となっている、しかしペロー版でも寺山版でも「青ひげ」が「剥製職人」であるなどという記述はない。ではなぜ渡部版『青髭~』では、「青ひげ」は「剥製職人」となったのか、その経緯の中には非常に今日的な問題が含まれているのではと私は推測する。
そうした課題と、寺山版が訴えていたもの、それらを演出家渡部剛己は見事に融合し、更に普遍的な主題に昇華している。
そうした私の視点から見た「体現帝国」版『見えない青髭公の城』の読み解きを披瀝したいと思う。
こんな事を書くと「演劇など、雑音を入れずに作品を鑑賞したい」という方もお見えでしょう。ご自分で作品を鑑賞され、その後にこの文章を読まれて「違うじゃないか!」とご意見を戴くのも一興かもしれません。
しかし、ある方が観劇前に販売されている脚本を読まれて
ピンと来なかったそうですが。来場され、実際に劇を見て驚いたと言われていた。
渡部剛己の作劇は会話劇やプロットを提示して見せるようなものではなく、<場>を作り出す創作であり、まさに<体現>を信条としている。そうした意味ではここで「体現帝国」版『見えない青髭公の城』とは何かについて一万字を費やしたところで、今、毎週体現帝国館で繰り広げられる出来事は何も伝わっていないに等しい。
また、渡部剛己自身、劇の内容について他者に語ることを妨げていない。(予め「戯曲」として台本を売っているのだから)そうした意味からも遠慮することなく考えを述べてみたい。
それと、5月7日の中日新聞夕刊で同作品が取り上げられていた。「けたたましい音を立てながらシャッターが閉まると、自分の手すら見えない完全な暗闇に。暗所、閉所恐怖症気味の人は注意が必要かもしれない」として劇団ホームページの観劇の注意に触れている。
この「けたたましい音を立てながら閉まるシャッター」というのが『体現帝国館』の<おもてなし>で、オープニングで披露される赤木さんの歌唱と、このシャッターの暴力的な閉鎖音によって、観客は日常と断絶される。是非体験されることをお勧めする。
ひとことつけ加えておくと、客席には劇団のTシャツを着たスタッフが付いており、異常時にはスタッフにその旨を告げると、適切に対応誘導してくれる。
渡部版『青髭~』にかかる戦争の影
さて、ペロー版と寺山版の「青ひげ」について、手短に整理しておこう。ペロー版では青ひげは妻に「この鍵の部屋は決して開けてはいけない」と告げる。しかし妻は好奇心に逆らえず部屋を覗いてしまう。こうした「好奇心と禁忌」が主題であると言われている。寺山版ではそうした「青ひげ」の舞台を作るという劇中劇の形を借りて、現実と虚構。演劇と演者の関係を語り、いささか乱暴に結論を言うのであれば、寺山が繰り返し訴えていたような「書を捨て、街へ出よう」という結論に至っていたのだろうと理解している。
本公演に先駆ける『青ひげ公の城・試演会』においても、寺山版の影響は感じられた。天井から吊り下げられた自転車と、蠢く渡部演じる「男」が絡み合う演出は、「現代人が耽溺する文明社会/機械文明からの離脱」を主張するのだろうかと推測させた。(第2回試演会ではこの自転車はオートバイのフレーム+手となり、よりロボットを連想させた、本公演では割愛された)
こうした試演会が続けられている間にも、イスラエルによるパレスチナ侵攻に関係する非人道的な行為に対する報道が続けられていた。
演劇人による抗議行動としての「ガザ・モノローグ」も各地で様々な形で行われ、渡部剛己も参加していた。
そうした中で、私は「ガザの動物園」の話を渡部剛己と赤木萌絵に披露した。
「ガザ地区」では、自由に出入りできない子どもたちに、動物を見せようと「動物園」を開設した。しかし食料の搬入に制限を加えたイスラエルの影響で多数の動物が死んでしまった。動物園の運営者は、それでも子どもたちに動物を見せたいと、死んでしまった動物を<剥製>として展示したのだ。
イスラエル側プロパガンダの影響で、日本では「ガザが悪い」「パレスチナが悪い」「イスラムが悪い」というようなイメージが流布されているが、動物の飼料搬入を拒んで、子どもたちに展示している動物園の動物を餓死させるようなイスラエル政府に、正義や大義は感じられない。人間として疑問を投げかけざるを得ない。
痩せこけ、餓死してしまった動物たちの姿は、こうした非人道的な行いを止められない、私達文明社会の貧弱さを表しているように感じられてならない。剥製の動物たちの弱く悲しげな眼差しはとても正視できない。
お二人は非常に興味を示してくれた。
そして確か、次の試演会では「青ひげ」は「剥製職人」ということになったと記憶している。
「剥製職人の青ひげが、国連が決めた戦争博物館の展示品を作るために戦場に出向いて、その死体で剥製を作る」
このプロットに触れた時に私は「しまった」と思った。余計なノイズを入れてしまったのではないかと恐れた。
しかし渡部剛己は「剥製」を単なる逸話と捉えず、「時間を止め、ものの本質を浮かび上がらせる行為」と捉え直し、戦争を語り直してみせた。
剥製の踊り
意思、思考、言葉の剥製
そして108体のユディット
「剥製」は見事に物語の背骨となっている。
そして展開される「好奇心と禁忌」「現実と虚構」
物語は寺山が主張したように、「観客を現実へと」誘う。
最後、まばゆい光と、飛び散る水しぶきの、その先にあるものが「一幕の劇」=現実であり、観客が居るべき場所である。
「呼応」「トレース」「自分」
ここでおじさんは、余計な一言を書く。雑誌『創』5月号に香山リカさんが話題となっている小説『世界99』(村田沙耶香・集英社)の書評を載せている。
この物語世界は「世界1」から多層的に続く世界が重なり合い、その世界の人に同調することを「呼応」自分もその通りに振る舞うことを「トレース」と呼んで自我を失っていく。
この物語世界の在り方と、朝日新聞のガザ通信員を努めていたムハンマド・マンスールさんがイスラエルのミサイル攻撃でなくなった事。ムハンマドさんがNPO法人「地球のステージ」に所属して、子ども支援活動を行っていた事がリンクする。
「地球のステージ」の桑山紀彦医師(精神科医)のメッセージが引用される。
「地球のステージの活動がきっかけとなり、
誰かが自分の人生の主人公として、
また一歩踏み出すきっかけになれば…」
香山さんは「自分の人生の主人公」として生きなければならないのかと逡巡する。
知らぬ間に「呼応」し「トレース」していく中で、自分自身を見失っているのではないかと。
しかし子どもたちが自己決定権を奪われ、戦いの中で亡くなっていくのは悲惨であり、「一歩踏み出すきっかけ」を作ろうとしていたムハンマドさんの行いは尊く、それを打ち砕くイスラエルの無差別な攻撃は非難されるべきだ。
誰しもが自分の人生を生きる権利は守られるべきだ。それが決して「主人公」などと胸を張って言えるものではなくても。
「呼応」や「トレース」によって歪められた現実で生きていたところで、それは生きていると言えるのか?
戦争博物館に飾られた剥製ではないのか。
誰の心にもある『見えない青髭公の城』
ここで、私の思考はもう一段飛ぶ。九段理江さんが北国新聞に2023年2月25日に掲載した『彼と彼女の間に投げる短い小説』に次のような一節がある。
「それはいつもきみがしている、人の言葉を失敬するようなもの。君は一生、そうして他人をリサイクルしながら生きていくつもりなの?」
「パレスチナが悪い」「ウクライナはナチだ」「移民を排除してアメリカを再び偉大な国に」「国の無駄な組織を解体すれば、国民の負担は減る」「財務省を解体せよ」「知事に対する誹謗中傷の文章を書いたような職員は処罰されても仕方がない」「国会議員は庶民並みの収入にしなければならない」「減税を行って民間にカネを戻せば経済は活性化する」「女性支援団体は、公的助成を着服している」「保険証を電子化すれば医療は効率化する」「日本社会は外国人労働者に支配される」
根拠のない、またはあやふやな言葉が溢れかえっている。
デマを飛ばして、そしてそのデマに乗って、一時の溜飲を下げることは楽しいのだろう。単純な構図を描いて、他人を批判、攻撃する行為は手軽なハッピー・ピルだ。しかし、そうした根拠のない主張に「呼応」し、現実からの遊離を「トレース」すれば、どんどんと自分の依って立つステージは現実とは程遠いものになっていく。
解決策は簡単だ、見ればいい。事実を、過去を、周囲を、そして自分自身を、虚心坦懐に見つめ直し、事実からの遊離を確かめていけば良いのだ。
『見えない青髭公の城』は誰の心にもある。そこでは自分は決して間違わず、どんな願いでも実現する。歴史は常に自分たちの納得のいくように書き換えること(by 西田昌司)もできる。しかしこの城に引きこもる行為は一幕の生を生きることにはならない。
納得のいかない事実から目を背けている間に、床一面にドロドロのユディットが転がる、荒れ果てた世界が残されるのだ。
「減税会」に伴う論考(7)
前回に続いて、3月22日に守山区生涯学習センターにおいて行われた「減税会」の会合における渡瀬裕哉氏の講演についての検討を続けよう。
渡瀬氏は効率の悪い行政機構による国家運営よりも、減税を行って小さな政府を実現した方が良いのだと主張する。これはアルゼンチンのミレイ政権や米国におけるDOGEの施策とも重なる、いわゆる「新自由主義的な夜警国家論」と言える。
国政において行政改革などが行われているが、意味はないと断じる。一つの事業を潰したところで、余った予算を他の事業が持って行ってしまい、なかなか「減税」、つまり国民の懐にはお金は戻ってこない。なので先に減税をさせて、縮小した歳出の中で、無駄な事業については縮小、廃止させた方が良いのだと主張する。これは10年以上前、市民税減税を進めた河村たかし前名古屋市長の「プライスキャップ」理論と同じような主張で、渡瀬氏は河村前市長を「減税の先導者」であるように称賛する。
確かに名古屋市は市民税減税を行ったが、実はこの原資は歳出削減や事業廃止ではない。
河村氏が市長となって廃止したような事業があるのであれば、ご指摘いただきたいが、河村氏が主張するような「市職員の給与を一割カットして市民税減税を行った」という主張には嘘がある。
少なくとも名古屋市や総務省が示している資料には、名古屋市の職員給与が一割削減されたような痕跡はない。
また、木曽川導水路事業は停止したが、それも先ごろ再開されることとなった。そして停止している間に事業費等が高騰して名古屋市の歳出負担は却って大きくなっている。
つまり渡瀬氏の主張するような、「減税を先に行って、行政機構を小さくする」という事例に、河村氏による名古屋市の減税は、残念ながら当たっていない。
河村氏は、市長になりたての頃、水道料金を値下げしてみたり、最近では名古屋城を木造化するという巨大ハコモノ事業を主張してみたり、どちらかというと「小さな政府」を志向するのではなく、ばらまき政策に親和的だ。
渡瀬氏は「地方こそ減税を行わなければならない、東京一極集中に抗して、地方が繁栄するには、減税を行ってヒトや企業を呼び込む必要がある」とも主張する。これも市民税減税を進めていたころの河村前市長の主張と同じだ。
では、実際に市民税減税を行った名古屋市にヒトや企業は集まったのだろうか。
確かに名古屋市の人口は集まっている。しかしこれは全国的に見られる、人口の集中化と呼ばれるもので、社会の高齢化にともなって、病院や交通インフラが整っている都心に人が回帰しているというに過ぎない。名古屋市においても、春日井市の高蔵寺や小牧市の桃花台といった郊外型ニュータウンの一戸建てから、高齢者が名古屋市内の医療施設付き高齢者集合住宅に移住する傾向が見られる。特に名古屋市内では「敬老パス」があることから、郊外の一戸建てで、通院や買い物にも車を運転する生活から、無料の公共交通機関による通院や買い物に利便性を見出す人が多いのは自然な事だろう。
では、企業は名古屋に集まっているのだろうか。
名古屋市会でもこうした議論は行われた。統計的にも名古屋市の河村減税で企業が名古屋に移ってきたという有意な傾向は見られない。そして、「減税などしても企業は移ってこない」という象徴的な事例が存在する。
他でもない河村前市長の家業である「河村商事」は、当時、名古屋市のお隣である春日井市の勝川に居を構えていた。ほんの50mもずれれば名古屋市という場所だ。その気になれば、河村氏の居宅がある旧河村商事/河村画廊の住所に、本店所在地を替えることも容易だっただろう。市議会でも、「ぜひ引っ越してきていただいて、名古屋市に税金を納めてくれ」と言われていた。ところが「市民税減税10%」が実施されても、河村商事は春日井市の企業で居続けた。
河村流減税程度では、その減税を求めて名古屋市に移転しても、利は少ないのだ。
そもそもこの世には「タックスヘブン」というものがあり、日本国内でも儲かりすぎている企業、個人はしっかりと税を逃れている。現在先進国は協力して、こうした税逃れの不公正を是正する国際的な枠組みを設けようとしているが、"Americans for Tax Reform" の一員として、こうした傾向に反対をしているのが渡瀬氏本人であるはずだ。
「タックスヘブン」で租税回避しているお金が適正に課税されれば、少しは一般庶民の税負担は軽減されるだろうに、なぜこんな行動を取っているのか理由を知りたいものだ。減税会の方々は一度、渡瀬氏に伺ってみても良いかもしれない。
渡瀬氏は「減税を進め、規制を廃止することが繁栄を導く」と、こんな話もしていた。
いわく「日本の企業が市場で競争しようとしても、米国の巨大資本に叶うわけがない。ボクシングでたとえるならば、マイクタイソンを相手にボクシングをさせられるようなものだ。勝てっこない、しかし規制を撤廃し、こちらがサブマシンガンでも持ち出していいなら、マイクタイソンにだって勝てるかもしれない」
まったく「政治系ユーチューバー」の主張だろう。バカバカしいにも程がある。そもそも企業運営は「競争」ではない。優れた経営者というのものは「競争」がまだ行われていない市場を探し出すか、競争などない、新たな市場を生み出すものだ。「市場競争」に真っ向から突っ込んで疲弊しているのであれば、そんな経営者は無能という以外ない。
また、規制を撤廃して「サブマシンガンを持ち出して」良いというのであれば、対する巨大資本はタイガー戦車でも砲兵隊でも持ち込んでくるだろう。規制を撤廃するというのは、今、持てる者が優位に立つということで、スタートラインを揃える(機会の均等を求める)のであれば、規制を設けることこそビジネスチャンスを生む。現実のボクシングがウェイトやグローブなどの規格、競技ルールと規制だらけなのは、こうした適正な競技を行うためで、ボクシングのたとえから考えてみても「規制を廃止することが繁栄を導く」などと言えないことは明らかだろう。
次のような発言もあった。
会場から「税金を取っていても道路に穴は開く」という発言が飛び出した。埼玉県八潮市の道路陥没事故を指しての発言であることは明白だろう。
これを受けて渡瀬氏は「行政はダメなんです。税金を払えば安全になるわけではない。行政は予算をもらえば、新しい道路を作ってしまう。メンテナンスにお金をかけていないんです」と発言した。「減税会」の皆さん、事実を元に、まともな政治の議論を行うのであれば、こんな程度の発言を聞いて笑っているようでは、真っ当な政治議論は成立しません。これは明らかにお笑い芸人レベルの「政治系ユーチューバー」の主張です。
行政において、現在「アセットマネジメント」が最重要課題となっています。高度経済成長期、景気も順調で労働者人口も多かった時期に建てられた建物や社会インフラが、改修時期を迎えて経済は縮小しており受益者も減ってきています。どのように計画的に、無理のない形で改修を進めるのか、考慮していない地方自治体など存在しないでしょうし、予算をもらえば新しい道路を作るなんて行政機構はありません。
前回のブログで欄外に付け加えた「名古屋市上下水道局」主催で行われた「なごや水道・下水道連続シンポジウム」でも、基盤をなす社会インフラである「上下水道」を安心、安全に維持するためのお話が展開されていました。
名古屋市上下水道局
「なごや水道・下水道連続シンポジウム」 第1回~第3回案内
https://www.water.city.nagoya.jp/category/sdgs/index.html
これが事実にもとずく「真っ当な政治議論」です。「行政はダメなんです。税金を払えば安全になるわけではない。行政は予算をもらえば、新しい道路を作ってしまう。メンテナンスにお金をかけていないんです」などとする主張は単なる「扇動」であり、こうした「行政悪玉論」や「行政や議会は既得権者である」というような事実に基づかない批判が、真っ当な政治議論を阻害し、いたずらな対立を生む。
その一つの象徴が、現在行われている「財務省解体デモ」なのでしょう。
本当に財務省を解体したいのであれば、財務省の存在を根拠づける法律は「財務省設置法」であり、これを改正すれば解体だろうと消滅だろうと、なんでもできる。そしてその「立法権者」は国会であり、国会を構成する議員を選出するのは有権者である。
財務省の前で騒いでも解体などできない。やるなら国会なり(実際に、法案改正を提出するのは内閣であると考えるなら)首相官邸の前でアピールすべきだろう。
そもそも財務省は、その昔大蔵省という古風な名前(飛鳥時代以前に遡る)だったわけだ。1998年、大蔵省接待問題や金融危機に対する再生委員会の所管問題を受け、大蔵省が解体されて、金融庁が生まれた。大蔵省とすれば、接待疑惑などの批判に晒されたおかげで銀行局が金融庁に、つまり局が庁になったわけで、「焼け太り」と言っていい。
今般の「財務省解体デモ」でも「歳入庁」と「歳出庁」に分離しろというような話もあるらしいが、財務省の中の人々も歓迎するのではないだろうか。焼け太りは目に見えているのだから。
当面の生活防衛は大切だ。社会における不正や非合理も是正されるべきだろう。しかし、それには民主的な手続きと、法に準じた方法論が必要となる。そういえば、渡瀬氏はオンブズマンを批判するのに「彼らは法的な問題しか追及しない」とか言っていたが、行政を外から是正しようとするなら、その根拠は法を起点にする以外ない。法の範囲を超えて行政や社会を改変しようとするなら、それは脱法行為であり「反社会的行為」と呼ばれる。
そうした法や手続きを無視して闇雲に騒いでも解決には至らない。こうした道筋に沿って議論する事こそ、政治的議論と呼ばれるもので、そうした法を無視して、事実を確認もせずに主観を押し付ける行為は居酒屋などで行われる、「憂さ晴らし」「居酒屋政談」「政治系ユーチューバー」のPV稼ぎでしかない。国民生活や国家の行く末に何も関係がない。
そうした趣味の世界でワチャワチャ遊んでいるのは楽しいのかもしれないが、それではあまりに・・・いろいろ足りない。
前回エントリーで述べた言葉を繰り返そう。
「当ブログの今までの主張(「減税会」に伴う論考(1)~(5))の趣旨は、結局、政治論やら経済論以前に「嘘や煽動家に騙されないように、事実に立脚してものを見ましょう」と言っているに過ぎない。」
「減税会」に伴う論考(6)
当ブログでは先の名古屋市長選挙において、河村前名古屋市長を「減税の先導者」のように称賛し、後継市長候補を支持していた「減税会」なる集団に着目していた。その後、いわゆる「103万円の壁」を軸に国政、税制に対しても同会は活発な主張を続けているようである。
更に米国のトランプ政権が進めるDOGE(政府効率化委員会)の施策やアルゼンチンにおけるミレイ政権の政策など、新自由主義的な「小さな政府」論(従来から言われている夜警国家論、名付け親はドイツの社会主義者ラッサール(1825~1864)であり19世紀の議論である)の焼き直しが行われており、社会構築論としては既に成立していないものと思われるが、様々な思惑から、こうした過去の議論は無視して繰り返されているのだろう。
私としては、ここでそうした「減税国家=小さな政府=夜警国家」の無効性を私が主張したところで、聞く耳を持ってはもらえないと思う。それよりも、アルゼンチンにおけるミレイ政権や米国におけるDOGEの成否を見守ったほうが理解も早いだろう。まさに論より証拠だ、と思う。ミレイ政権やDOGEの成否が判明するまでは、日本においてこうした政策に舵を取ることは控えた方が良いだろうと推測する。
つまり、私としては「減税会」の主張するような「減税」や「小さな政府」「行政のムダを省く」といった主張には同意することはできない。
私のスタンスを明確にしたところで、その「減税会」が、3月22日に守山区生涯学習センターにおいて会合を行うというので参加してみた。
同会には当ブログでも著書を検討した「減税会」のオピニオンリーダーと思しき渡瀬裕哉氏が参加され、河村たかし衆議院議員/前名古屋市長も参加されるということだったので、どのような話が聞けるものか楽しみにしていたが、残念ながら河村氏は直前になって出演キャンセルになったようだ。
先に結論を言っておくと。
私は減税会の皆さんが、納税者、主権者として「最少の経費で最大の効果を挙げるように」(地方自治法第二条の14項)求める事に異論はない。しかし、同条項は憲法が保証する(つまり、国が国民に対して約束した)「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む」(憲法25条の1項)ことができるように「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(同条の2項)のであって、「住民の福祉の増進に努める」とするのであれば、現在の福祉状態の維持にとどまる、または後退する事は、この条項(地方自治法第2条第14項)の主張を満たしていない。法が「住民の福祉の増進に努める」と謳っている以上、増進させる義務があると考える。
故に減税によって歳出が削減され、「住民の福祉」が後退、縮小されることがあってはならない。アルゼンチンのミレイ政権や米国のDOGEが進める政策を日本で展開するとしたなら、こうした日本国憲法の精神に反していると断ずる。
また当ブログの今までの主張(「減税会」に伴う論考(1)~(5))の趣旨は、結局、政治論やら経済論以前に「嘘や煽動家に騙されないように、事実に立脚してものを見ましょう」と言っているに過ぎない。
極端な物言い。先鋭的な決めつけには必ず穴がある。そうした齟齬を無視して物事をすすめても実りは少ない。
私は私事があり3月22日の会合は中座したが、先ず渡瀬裕哉氏の話が1時間ほど続き、次に春日井市義である鈴木あきのり氏の「事業減点シート」についての動画が示され、「減税クイズコーナー」なる催しがなされた。
会はこれ以降も続いたようだがその内容については私は知らない。
渡瀬裕哉氏の話については、同氏の著作で述べた以上の事は無かった。結局、参考文献、つまり先行研究も示されていないような話であり、そうした二次的な資料を根拠として議論しても、真っ当な政治の議論にはなりそうもない。
3月22日の会合を一言でまとめるならば、「政治系ユーチューバー渡瀬裕哉氏のファンミーティング」であって、それ以上のものとは思えなかった。
渡瀬氏の話から個別の議論について検討していく。
話の冒頭、渡瀬氏は「日本人は元来、減税派である」と主張される。その根拠として日本人の貯蓄率の高さ、つまり貯蓄性向を取り上げ、「なぜ、日本人は貯蓄に励むのか、国家に頼らないからだ」と主張される。「国家によって税を徴収され、それによって保証されるよりも、自分たちの貯蓄で生きていく」自助の精神に富んでいる。と主張されるわけですが、この「日本人は貯蓄性向が高い」という「イメージ」は既に過去のものとなっており、現代においては成立していない。つまりこれは居酒屋政談で語られる、通俗的な過去の認識に立脚したイメージ論、または「解像度の低い政談」でしかなく、真っ当な政治談義ではなく「政治系ユーチューバーのファンミーティング」という指摘を補強するだろう。
事実をお示しすると。
https://president.jp/articles/-/29440

OECDの調査では、日本の貯蓄性向は下落し続けており、主要国の中で最低の部類に至っている。韓国や米国よりも低いのだ。
更に渡瀬氏は政治改革をいくら行ってもダメだ。行政のムダを削減しても、別の事業に当てられてしまう。行政改革よりも先に「減税」を行って、支出の総額を抑え、無駄な事業を見直させるようにしなければならない。という主張を展開する。河村市政が始まった頃、河村前市長は市民税減税は「プライスキャップ」である、キャップを被せて無駄な事業を圧縮する。と説明していたが、同音異曲だろう。渡瀬氏は「名古屋市の減税、河村前市長の減税は素晴らしい」と主張を展開しているが、ではお伺いしたいが、河村前市長の行った市民税減税は、どういった事業を削減して実施されたのだろうか?
現場で手でも挙げて聞いてみようかとも思ったが、つまみ出されてもつまらないのでぐっと我慢していた。
もしこのブログを読んでいる「減税会」の皆さん、または減税日本関係者の皆さんは、当初の市民税減税(減税率10%であったもの)の原資はどこから来たのかお答えいただけますかね。
河村前市長は「総人件費を10%削減した」と胸を張るがこれは嘘だ。
2012年に調査した名古屋市の公開情報でも、最大に見積もっても8%、普通に比較すれば6.7%程度、人件費を圧縮したに過ぎない。そしてこれは「人件費」の圧縮であって、外注委託などを行って人件費から物件費に巻き替えられた分については考慮していない。
また、総務省のデータでは名古屋市の給料削減の比率は2%程度となっている。
当時のブログにも記載したが、河村衆議院議員が「市民税減税10%、原資は市の職員給与を10%削減」と主張し、名古屋市長に当選した。
つまり市の職員は皆、給料が一割削減されるものと暗澹たる気持ちになっていたそうだ。そこで当時の財政局長が幹部職員と対応を協議し、幹部職員の給与10%削減を受け入れる事とした。その合意をもってこの財政局長は河村新市長に向かって「幹部職員は給与10%削減を即座に受け入れます、また、市民税減税についても原資の240億円は財政局が責任をもって揃えます。(つまり、こんな程度の人件費削減では財源は得られない。しかし、元々政策経費枠があるのでそれを巻き替えれば1~2年程度の減税の財源確保は可能と見越した)しかし、その代わり、これ以上の職員給与削減は求めないでいただきたい。お約束いただけますか」と、河村に呑ませた。
一般職員からは、自分たちの給与削減を防いでくれた英雄と語りぐさになったそうだ。
結局、河村前市長は大きな行政削減は行ってなどいない。
支払いを停止させた木曽川導水路事業も結局先送りしただけで、名古屋市の負担が121億円であったものが309億円に膨らんだだけだ。
河村前市長が市長となって初めて施行した政策とは「上下水道料金の値下げ」だった。これは後述の渡瀬氏の主張と反する話だろう。
河村前市長は、名古屋市上下水道局が耐震改修のために蓄えてきた改修費を吐き出させて、それで水道料金の値下げを断行したのだ。
2つ注目すべき事実がある。
1つ目は河村前市長は水道料金の値下げを自分の手柄のように語っているが、市長就任して1年も経っていない段階で、余剰予算が生まれるわけもない。それまでの前任者が蓄えてきた予算を自分の手柄のようにばら撒いたに過ぎない。
2つ目は、この度広沢新市長が市長就任して、すぐに水道料金の値上げを決めなければならなくなった。(今年の10月から値上げとなる)
広沢新市長は今後も河村前市長の尻拭いを幾つもしなければならないのだが、この水道料金の値上げはその端緒と言えるだろう。
(続く)
名古屋市上下水道局
「なごや水道・下水道連続シンポジウム」 第1回~第3回案内
https://www.water.city.nagoya.jp/category/sdgs/index.html
「減税会」に伴う論考(5)
諸事あって「『減税会』に伴う論考」が滞ってしまった。
期間も空いたことなので今までの(1)~(4)を軽く振り返ってみる。
(1)においては事実認識の精度を上げなければならないという話をした。特に昨今では、日本国内における「減税政策」について様々な政党が様々なアプローチで主張を始めているが、玉石混交。中には選挙民に「税の軽減」を餌に事後買収予約をしているような主張も見受けられる。そうしたプロパガンダを見抜くためには、しっかりとした事実に立脚した、論理的に整合する議論をすすめなければならない。
(2)では、そうした中で、精度の低い認識の例として、私のSNSにおける投稿への反論として上げられた慶應義塾大学名誉教授岡部光明氏の論文を検討することで、慶應義塾大学名誉教授だろうがなんだろうが、事実に立脚しない主張もあるし、論理的にも破綻していることもあるという例を示した。
(3)においては歴史上繰り返される「人口減少論」に依拠したプロパガンダの例を示し、そうした全体適合に見える主張が、実は社会の富裕層(南北問題では北側、格差社会においては有資産階級)の既得権保護の主張に陥る例を示した。
最近でも日本社会における人口減少と、省資源を見越して、GDP減少社会に対応するために、経済を減速させようという主張があったが、人口とGDPはリンクなどしていない。経済を縮小均衡させようというマインド自体が経済を収縮させ、その中で貧困層の生活水準等が限界を超えているのではないか。または中間層が失われ、格差の拡大と貧困層の深刻化が見られるのではないかとも思われる。
社会の活力、経済を活性化させるのはイノベーションであり、その起点は人々の希望や欲求だ。そうした希望や欲求を抑圧して、いたずらに現状に対する満足だけを喧伝する行為は、人々を萎縮させると同時に、経済をも萎縮、縮小させ、その中で取りこぼされる人々を生み出していくのではないかと考える。
地方自治法などで謳われる「行政の執行が最少の経費で行われる条件」は憲法が保証する(つまり、国が国民に対して約束した)「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことができるように「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」のである。「住民の福祉の増進に努める」とするのであれば、現在の福祉状態の維持にとどまる事は、この条項(地方自治法第2条第14項)の主張を満たしていない。縮小均衡も同様だ。法が「住民の福祉の増進に努める」と謳っている以上、増進させる義務がある。
ここでちょっと最近の出来事を拾って話は脇道にそれるが。最近「財務省解体デモ」という行動が起きている。
「財務省解体デモ」の誤謬
主権者たる国民が、どのような主張を展開するのも自由ではあるが、「財務省解体デモ」の参加者は、この国の仕組みを理解していない。義務教育で行われる「公民」の落第者であると断じられても致し方ない。
現在の国の建付けでは、司法権、立法権、行政権をそれぞれ裁判所、国会、内閣&官僚に分けて持たせており、国民はこの内、立法権を担う国会の成員を選択することで立法権者を直接選択し、司法、行政を司る法の成立権を国民の選択に委ねている。つまり法律を成立させることで司法判断や行政判断をコントロールすることになっている。(司法権に対する国民主権の行使として最高裁判官審査制度や行政に対する審査権はあるが、それぞれ実効性があるかは疑問)
もし「財務省」を「解体」する必要があるのであれば財務省の成立根拠法である「財務省設置法」を改正すればいいだけで、その権能を有しているのは国会である。つまり、国会なり内閣に「財務省解体デモ」を仕掛けるのであれば理解できるが、財務省やその職員に解体を訴えても意味がない。官僚=公務員というものは箸の上げ下ろしまで法令に準じて行う必要があり、法令で定められていないことはできないし、なにかさせようとするなら法令で定めれば良いだけだ。
あなたが道を歩いていて、自動車に軽く当たったとしよう。あなたにあたったバンパーやドアミラーを、怒りに任せて「痛いだろう!」とばかりに引っ叩くのは理解できるが、それがなにかの解決になるわけではない。一時的な気分を紛らわせているだけだ。問題はその車を運転しているドライバーにあるのは明白で、操作を行った責任者と対話する必要があるのは当然だ。あなたの生活が苦しく、税制や財政措置に疑問があるからと言って、そのバンパーやドアミラーを引っ叩くように財務省やその官僚を批判しても始まらない。財務省を操作している(筈の)内閣なり、国会に対して主張を上げるのが当然の行為であって、財務省の前で「財務省解体」を主張する行為はあまりに筋が違っている。三権分立も満足に理解していないような人々の政治的主張がまともには取り合ってもらえるとは思えない。
現代の日本社会において「減税」を求めるという政治的主張は、条件付きでは理解できる。しかし「事実認識の精度」をあげなければ、そういった主張は一部煽動家に利用されるだけで、彼らの猟官運動に利用されるだけになってしまう。つまり、実効性も怪しいような政治的主張を掲げて、選挙に立候補し、議席を獲得し議員歳費や政党助成金を手に入れれば、適当に政治的主張を声に出し続けるだけで、日々をやり過ごせば満足な生活が得られるということだ。
百田尚樹と有本香が設立した日本保守党が、満足に公約も果たさず、党大会さえ開かないという政党運営に終止している姿は、まさにこうした政治的詐術と言えるだろう。そこに当ブログで散々取り上げてきた河村たかしが参画している姿というのは象徴的とも言える。
そうした意味で(4)において「減税会」のオピニオンリーダーと思しき渡瀬裕哉氏の著作を参照して、こうした危惧がないか探って見た。渡瀬裕哉氏が主張するように、「政治を変える戦略」として「政治家に約束させること」を具体的に掲げ、「政治家に約束・履行させることの重要性」を訴え、「僕たちは政治家を常に監視し続けなければならない」と指摘している。これにはまったく同意できる。そして「まずは地方政治から変えよう」と呼びかけている件についても同意できる。
政治家を常に監視し続けるならば、公約や党規を守らないような政治家には退場を突きつけるのが当然であり、有権者に虚偽を言い続けた河村たかしを信用する行為はこうした戦略とは相容れないはずだ。しかし例えば渡瀬氏が河村たかしの今までの政治的行動を省みず、河村が「減税」と言っているだけの理由から、共闘を行おうとするのであれば、それは自著と矛盾する。また、河村が現在衆議院議員であるという権威を認めて、彼のあやふやな「減税論」を満足な検討もなく肯定するのだとすれば、渡瀬氏が彼自身の著書『社会的嘘の終わりと新しい自由』で批判した「権威主義2.0」である権威主義に絡め取られていると断じる以外にない。これについては後述する。
また、肝心の渡瀬氏の著作のタイトルであった『税金下げろ、規制をなくせ~』との主張について同意できるかというと、私は懐疑的だ。同書において渡瀬氏がいう「減税の効能」や「規制緩和」のご利益は、どこかの神社のお札程度のありがたみも感じられなかった。
現在、国民の税負担を軽減し、規制を緩和させ、官僚機構、行政機構を縮小しようとするのは、トランプ政権下のイーロン・マスク率いるDOGEが典型例だろう。
果たして渡瀬氏の言うように「税金を下げ」「規制をなくせ」ば、バラ色の社会が訪れるのかは、米国においけるトランプ政権におけるこうした政策の結果が判明してからでも遅くはないだろう。
または、こうした行政削減を推し進めている先行事例はアルゼンチンにおけるミレイ政権であって、トランプやイーロン・マスクもミレイ政権を見習っているそうなので、アルゼンチンの変化も参考になるのかもしれない。
こうしたアルゼンチンや米国の「改革」が良い結果をもたらすのか、それとも社会的破綻を来すのか、自分たちが生活するこの日本という社会にDOGEを適応すべきか否かかは、こうした先行者たちの行く末を見たうえで判断すべきだろう。
そしてこうした慎重な態度が「保守」ではないだろうか。
誰かが「良いものだ」と言っているだけで、その効果も十分に検討しないまま、自分たちの住んでいる社会を「改革」しようというのは蛮勇にすぎる、無責任な行為だ。日本社会では「保守」という言葉は劣化し、底値の様相だが、本当の「保守」とは「改革」には懐疑的で慎重な筈だ。
なので、この一連の論考の中で、私は渡瀬氏やその支持者たちが主張するような「減税」の効果「規制緩和」の効果、そして「小さな政府」の効果については、主観的主張をするにとどめ、それらの主張が誤りであるとは断じずにおきたいと思う。アルゼンチンのミレイ政権の施策、米国トランプ政権、イーロン・マスクなどが進める施策について、その結論を待って、それら「減税」や「規制緩和」そして「小さな政府」の主張が正しかったのか、間違っていたのかを判断したいと思う。
しかし、そう考えてみると、アルゼンチンのミレイ政権や米国のトランプ政権の施策に習って、今現在日本国内で「減税」や「規制緩和」そして、「小さな政府」。あるいは「日本版DOGE」の設立を求めるような主張にはどのような根拠があるのだろうか。つまり、誰かが言っているというだけで、その主張の根拠や実証もない主張を、オウム返しのように主張する行為に正統性があるとは思えない。
つまり、私としては「減税会」の皆さんに、根拠もなく「減税」や「規制緩和」そして、「小さな政府」を要求する行為は「事実認識の精度」が低すぎやしないかと指摘したい。そして「アルゼンチンや米国の状況がはっきりするまでは、もう暫く様子を見たほうが良いんじゃないんですか」という提案を行う以外ない。
ちなみにミレイ政権やイーロン・マスクが主張するように行政や公的セクタを縮小すれば民間の、つまりは国民の可処分所得が増えるというような主張。公的セクタと民間セクタが国の「お金」をゼロサムで奪い合うような考え方は、間違っているがあちこちで語られている。
「図表10 日本の経済成長を促すには」

この図表は河村たかしの書いた「減税論『増税やむなし』のデタラメ」というデタラメが書かれた本に掲載されている図表である。
「お金を回す=経済を活性化させ、新たな利益を上げるためには、赤字部門にお金を渡しては意味がない。産業部門に渡して儲けることが大事」と、総務部を「赤字部門」営業部を「産業部門」(産業部門という言葉も意味不明)と分けて、見える収益を上げる部門にお金を回せと、大学を出たばかりのボンクラ社長令息の経営者のような事を言っている。間接部門である総務やら庶務、はたまた商品開発部門は直接的には利益を生み出さないのは当然で、そうした企業運営の経費を稼ぐために、商品に利幅を設けて営業活動で利益を上げている。しかしこうした目に見える利益だけを重視して総務や庶務、商品開発をおろそかにすれば企業は立ち行かない。
河村たかしは自身を「民間企業の経営者」と喧伝しているが、家業である古紙回収業を担ってきたのは父母や息子であって、自身は「河村画廊」などの経営を適当に行ってきただけで、まともな企業経営の経験などない。企業経営の経験が無いという断定はこの図を見れば一目瞭然だろう。
そしてあろうことか、河村はこの自身の歪んだ企業観、経済観を「国」に当てはめ、役所や議会を「赤字部門」民間を「産業部門」であると断じ、国の赤字部門にお金をいれることを止めて、つまり税として役所や議会がお金を徴収することを止めて(そもそも議会は税を徴収しない)、民間にお金を流すべきと主張しているわけだ。
この結論はミレイ政権やイーロン・マスクの主張に近いだろう。それ自体は「生産性」の無い、直接的には利益を生み出さない行政機構を解体し、そこに注ぎ込んでいたお金を納税者に返す、減税を行えば、「儲けることができる」産業部門である民間にお金が流れ、国は豊かになるというのだ。
こうした公的セクタと民間セクタのお金の奪い合いがゼロサムであるかのように捉える考え方は誤りだ。

図は2017年センター試験政治・経済に出題された問題だ。家計と企業、政府の間でやり取りされる経済循環について穴埋め問題で説明させている。
家計(個人)は企業に対して、労働者として労働力を、消費者として財やサービスの代金を、また株式購入などを通じて資本を、個人が土地を持っていればそれを貸したりする。それに対して企業は労働力には賃金を、自ら提供する財やサービスの代金には財やサービスを、資本には配当や利子を、土地を借りていれば地代を支払う。
企業は財やサービスを提供し、つまり企業活動として商品を販売し、政府がそれを買い上げれば代金を支払う。企業活動には社会資本(電力や水、交通インフラ等)が必要であって、そうした整備のための租税や社会保険料を負担している。
政府と家計の間でも個人が労働力を提供すれば政府は賃金を支払うし、個人も生活のために租税や社会保険料を負担し、政府は公共サービスや社会資本を整備して応える。
国家経済、公共経済は循環であって、家計や企業などの民間セクタと政府、行政の公共セクタは対立してなどいない。相互に交換を行うことで経済循環が成立する。
実際に今、米国においてDOGEが強制的に行政機構を閉鎖し、こうした組織が買い上げていた製品を提供している企業の経営が成り立たなくなったり、行政機構のサービスに依存していた産業や地方の危機が危ぶまれている。政府、行政の公共セクタからお金をふんだくれば民間セクタにお金が回るなどというのは、せいぜい小学生か中学生の浅知恵で、経済が循環であると知っていれば、その構成要素の一つを無理に停止させれば、すべての循環が滞ることは容易に予想できる。
まあ、結論を急ぐ必要はない。ミレイ政権や米国の事例について、もう暫く観測を続けるべきだろう。
2)「減税会」のオピニオンリーダーと思しき渡瀬裕哉氏の著作を巡って(2)
私は前節で渡瀬裕哉氏の著作『社会的嘘の終わりと新しい自由』(株式会社すばる舎2023年)については、本質的な危うさが内包されていると書いた。
まずタイトルに有る「社会的嘘」とはなにか、渡瀬氏が現代社会をどう捉えているか見てみる。
渡瀬氏は現代社会が「閉塞感を感じる社会」であると捉えている。こうした閉塞感の理由は権威主義にあり、人々はこの権威主義に抑圧されて自由を失っていると説く。
渡瀬氏の分類によれば、この権威主義には1.0から3.0までの3分類がある。
1.0:国家権力が個人の価値観に対して直接介入する王政や神権政治
2.0:権威をもった政治体制が抑圧的な社会統制を行う、また民主主義を標榜していても制度変更などを通じて権威主義体制に退化する、渡瀬氏は例として中国やロシアを挙げている
3.0:リベラルで民主的な運動が行き過ぎ国民に価値観を押し付けている場合、渡瀬氏は例として行き過ぎたポリティカル・コレクトネスやSDGsを挙げている。これは米国のトランプ政権がDEIを停止させた政策と呼応しているだろう。
この「権威主義」を3つに分類する考え方は渡瀬氏独自のものであるようで、特に先行研究や参考文献も記されていない。議論を見ていると「権威主義」というよりも個々人の自由に対する「介入」を問題としているのであれば、家父長制度やパターナリズムと捉えたほうが一般的であるような気もするし、1.0である「国家権力」による個々人への抑圧の前に、日本社会ではお馴染みの地域集団(村など)に見られる「同調圧力」、「空気に依る支配」「五人組」といった伝統的介入のあり方を0.0と捉えられるような気もする。
日本における家族や小集団に依る「同調圧力/空気に依る支配」について検討されていないのは残念だ。
渡瀬氏によればこういった「権威主義」によって個人の自由が抑圧され、国民は(つまり渡瀬氏本人は)閉塞感を感じているということだろう。
そして渡瀬氏は「自由な社会」として「中央集権的ではなく、他者から価値観を強制されず、自らの意思で人生設計を描くことができる社会」が「自由な社会」であると結論付け、「既存の政府の役割を否定、または縮小する提案を読者諸氏に積極的に行っていく」とされている。
そして渡瀬氏は「自由な社会」を構築するために「中央集権」に対する方策として「自立分散」を提唱する。
つまり、これらの議論はエーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」などで行ってきた議論やニーチェなどが行ってきた「奴隷道徳」の議論を焼き直しているように思える。
近年の話題だけにブロックチェーンやそれを基盤としたDAOにも言及しているがDAOにもCompound FinanceDAOにおいて発生したような問題はあるし、そもそもロシア情勢やイスラエルの情勢によって影響を受けている以上、DAOだけがユートピアを形成できるわけではない。実態世界における権威や権力がDefi の世界へ介入をかける可能性は排除できない。というよりももっとわかりやすくパターナルな、ムラ社会的な側面があるように思える。
国防も自律分散型で成立するかのように主張しているが、それは有り得ないだろう。結局明確なビジョンが描けないまま総花的な話に終止してしまっている印象を抱く。
ここでこの著書の章立てを引用しておこう。
第1章 権威主義が人間を不幸にする
第2章 国民から「人生」を奪う政府の取り組み
第3章 自由な社会のあり方
第4章 「自由な社会」の人生の生き方
お気づきいただけるだろうか。渡瀬氏は価値観の押し付け、介入が社会の閉塞感を生み出すと、結論を出しておきながら、結局自らの構想する「自由な社会」においては、一定の「人生の生き方」があるのだと規定してしまっている。
そして渡瀬氏はこうした自由な社会においては権威主義的な社会で価値を持った能力は陳腐化し、「自由な社会」で生きるために必要な3つの能力があると語られる。
その3つの能力についての議論は本稿の趣旨とは外れるので触れない、お知りになりたい方は同書を読まれることをお勧めするが、私は非常に疑問を思った。
この本は現代社会の閉塞状況が、どういった原因から発生するのかを突き止め、それへの解決策を提言するものではなかったのだろうか?個々人が「他者から価値観を強制されず、自らの意思で人生設計を描くことができる社会」=「自由な社会」を構築するための提言を述べていたのではないだろうか。そのためには既存の社会構造、行政機構を縮小し、個人に対する介入を阻み、個々人が「自らの意思で人生設計を描くことができる社会」
そうした「小さな政府」を実現するための第一ステップが「減税」であるというのであれば、理路としては理解できる。(賛成できるかは別だが)
しかし、こうした社会制度設計の議論が、いつの間にかその社会における個人の資質の話題となり、こういった資質を持った人間は「自由な社会」で必要とされる、生きられる。と言うのであれば、その社会制度設計は果たして十全だろうか。
どのような特性を持った者(または、特性が欠如している者)であっても、生きていられる社会が優れた社会制度設計なのではないだろうか。
優れた者で構成された社会なら、優れた社会になるだろう。
しかし社会の問題は、様々な人間が生まれ、到来してくるのであって、それを予め予定期待することはできない。どのような者であっても受け入れ包摂しうる社会がより社会として優位なのではないだろうか。
社会のために人があるのではなく、人の為に社会があるのだから。
私は一読「ターザンなら、原生林でも楽園になる、ヒトは皆ターザンではないので、社会制度を組み上げて、生存可能性を高めているのだろうに」と思った。
つまり、この本は社会制度設計の本ではなく、人生訓の本なんだ。
そういえば表紙には「2030年代の日本をどう生きるか」
「私たちは何に気づき、どう生きるべきか」と書いてある。
仰る通り、渡瀬市の価値観を投影した人生訓の本であって、これをこのまま「権威主義的に」受け入れるとすると、それは自己矛盾なのではないのだろうか?
「減税会」に伴う論考(4)
2)「減税会」のオピニオンリーダーと思しき渡瀬裕哉氏の著作を巡って(1)
氏の著作である『税金下げろ、規制をなくせ ー日本経済復活の処方箋』(光文社新書2020年)はまだ理解できる(議論の論点が成立するという意味、同意できるわけではない)が、「社会的嘘の終わりと新しい自由」(株式会社すばる舎2023年)については、本質的な危うさが内包されているという問題。
まず、『税金下げろ、規制をなくせ~』について、同書に沿って私見を述べてみる。渡瀬氏は同書について「僕がこの本で語ることの骨子は、アメリカの保守派、特に自由な経済を標榜するキーパーソンである全米税制改革協議会議長グローバー・ノーキスト氏の主張に沿ったものです。ノーキスト議長の著作には、減税のバイブルとも言われる”Leave Us Alone” (未邦訳、2009年)(引用者付記:2024年3月26日に 『救国シンクタンク叢書 Leave US Alone 減税と規制緩和、アメリカ保守革命の教典』として出版されている)があります。タイトルを直訳すると”放っておいてくれ”。『少ない税金こそが国を富ますのである』と、いかに減税が国にとって大切であるかを説き、どうやって減税を実現するかの方法を綴っています」(同書 p.3)とあるように、ほとんど「全米税制改革協議会」の布教書の面持ちを持っている。
日本でも無視はできない団体であって。
外務省
www.mofa.go.jp
経団連がこうやって対応しており、
www.keidanren.or.jp
渡瀬氏自身もこうした展開をしている。
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日本における参加者の顔ぶれを見ると、団体の性質もおおよそ想像がつく。
現在の行政には肥大化があると。例えば日本国内においても『近年の「立法爆発」で法律は「スパゲティ状態」の限界に』などと危惧されている。
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トランプ政権(前期)が行った「ニ対一ルール」(一つの行政施策を作るのなら、二つの行政施策を廃止せよという原則)。日本の財務省が振りまいた「ペイ・アズ・ユー・ゴー原則」(ペイゴー原則)より厳しい。こうした「小さな政府論」の現在のスーパースターがアルゼンチンのミレイ大統領ということになるのだろうし、今期のトランプ政権で設立されるという政府効率化省,”DOGE” または「政府効率化委員会」が、そうした考え方の具現化なのだろう。
まだ、正式サイトとかなく、Xにアカウントだけあるらしい。率いるのはイーロン・マスクとのことだ。
渡瀬氏の説く「減税の効用」を見ると、まず「減税=規制緩和/廃止」であると捉えている事がわかる。グローバー・ノーキスト氏の”Leave Us Alone” (放っておいてくれ)というドグマは、個人の自由を尊重し、介入を否定するという哲学であって、それは「放逸」と何処で線引が成されるのか、私には疑問がある。
一つ例を取ると渡瀬氏は教育について次のように語っている。
学校より民間の塾のほうが、ずっと教育内容がいい。学校の先生が「受験勉強は塾で教わってください」などというぐらいですから、それは明白です。
教育の質が悪いだけではありません。いじめによって自殺に追い込まれたり、不登校となって社会から排除されたり、学校によって安全や将来を脅かされている子どもたちが数多くいます。学校に通っていると、下手をすると殺されてしまうのです。
学校も民営化すればいい。もっと言えば、行かなくてもいい。もちろん行ってもいいですけど。(同書 p.99)
まず興味深いのは最後の逡巡です。個人主義を主張する渡瀬氏としては、自身の価値観から演繹すれば「学校なんて行かなくていい」と言いたいが、子ども当人が行きたいのであれば「行ってもいい」というしかない。
結局、子ども個々人の問題を一緒くたに議論するから、話が乱雑に聞こえる。「教育の質」が受験勉強や受験テクニックの販売であるかのような導入から、いじめや不登校による社会からの排除といった学校の問題と教育の問題、それと子どもを育成するという社会の問題がごちゃごちゃに語られている印象を持つ。
現代の教育制度や学校のあり方に問題が無いなんて思わないが、だからといって渡瀬氏の言うような解決策である「学校も民営化すればいい」が最適解であるとも思えない。社会的格差や学力だけではなく、経済的要因で落ちこぼれていく子どもが生まれるであろうことや、そうした脱落した子どもたちが社会に別の層を形成し、それが社会を不安定にさせるだろうことは容易に想像がつくからだ。
そんなことを言うと、どこかから「学校は勉強をするだけのところではなく、人間教育をするところだ」とか「集団行動を学ぶことが大事なのだ」などという声が聞こえてきそうです。
それなら、ボーイスカウトにでも入ったらいい。目的はいったい何なのでしょう?そのために、今の学校が必要ですか?それは別にやればいいのです。僕に言わせれば、勉強すら教えられない学校で、人間教育なんかできるわけがないし、やって欲しくもない。できない組織ができないことをやろうとするから、何もできない学校になるのです。
唐突に「ボーイスカウト」が出てくるところなど、米国右派文化に浸っていたであろう渡瀬氏の視野を感じさせます。「人間教育」や「集団行動」。もう少し正確に言えば子どもの「社会適合性」を練磨する為に、現代の学校という集団生活が用意されているという側面はその通りでしょう。しかしこうした集団生活が、先のセンテンスで指摘されたような「学校によって安全や将来を脅かされている子どもたちが数多くいます。学校に通っていると、下手をすると殺されてしまうのです」という側面もあるのでしょう。しかしこれは「ボーイスカウト」などの他の集団生活においても起こりうることであって、本質的な議論であろうとは思えない。
まして、これから求められる多様な価値観とスキルが身に付けられる教育など、こなせるわけがありません。誠意をもって真面目に教育に取り組んでいる学校の先生も、わけのわからない文科省からのお達しをこなしたり、日教組の取り組みに付き合わされたりして、本来は子どもと向き合うために費やされるべき時間が減ってしまい、生徒や先生も可哀想だと思います。
青少年健全育成条例の項で、意味のない規制を作っていると言いましたが、「利権をよこせ連合」からすると意味のない規制にも意味があるのです。不毛なことをさせられていると人間は次第に考える力を奪われていきます。そして、知らず知らずのうちに利権屋の仲間に入れられてしまうのです。学校の先生が真に子どものために働ける環境を作りましょう。(同書 p.99)
確かに学校教育においても「ブルシット・ジョブ」は有るでしょう。子どもの存在を無視したような、教員と教育委員会の間だけでやり取りされるような類の報告やら通達というものもあるでしょう。また日本における英語教育に見るように、中学、高校の6年間を費やして日常会話もこなせないカリキュラムというのも問題だろうと思う。
しかし「では、代替策は」と考えた場合、教育や学習の方法について最も知見を積んでいるのは、やはり文科省などの既存行政組織ではないかと思える。
渡瀬氏が主張するような現在の教育行政の問題点を挙げ連ねて、「政府効率化委員会」でも通して文科省をはじめとした国内の公教育の制度を全て ”Leave Us Alone/放っておいてくれ” とばかりに廃止し、子どもたちの教育については各家庭などの自由裁量に任せるという社会も想像できなくもない。学校などに通いたくない子どもは通わなくていい。子どもには数学よりも生きるすべを学ばせたい。というような考え方も成立するのかもしれない。
しかしここで即座に想像がつくのが、社会の階層化とその固定化。世代間移転。つまりは、金持ちの子どもは充分な教育を受け、社会の上部構造を再形成し、豊かな生活を送るようになり、貧しい階層に生まれた子どもは充分な教育を受けられないまま、刹那的な生活に追い込まれるであろうという未来図だ。
これは結論と言っても良いが、”Leave Us Alone/放っておいてくれ” というドグマは、豊かな階層にとって非常に都合の良いものであるということだ。そしてそこで語られる「行政の無駄」なるものは、豊かな階層から見た「無駄」であって、貧しい階層やマイノリティの立場からはけして「無駄」とは言えない施策ではないかということだ。つまり、持たざる者たちを切り捨てて、持てる者たちの社会を構築するというのが、こうした「新自由主義」の姿と言える。
ちょうど、1月20日にトランプ大統領の就任演説式が盛大に開かれたが、トランプ大統領の周りを取り巻くのはメタのマーク・ザッカーバーグ、アマゾンのジェフ・ベゾス、アップルのティム・クック、Googleのスンダー・ピチャイ、オープンAIのサム・アルトマンらいわゆる巨大テック企業の首脳であって、「フォーブスの“リアルタイム・ビリオネア・リスト”のトップ3であるマスク氏、ベゾス氏、ザッカーバーグ氏が、トランプ氏の家族や閣僚候補らに近い特等席を当てがわれていた」などと報じられている。
その他のトランプ政権の人材登用をみると、ヘアケア製品会社コンエアーを創設したビリオネアであるレアンドロ・リッツートの息子であり米州機構大使を務めるジュニア(推定資産35億ドル)や投資銀行CEOのウォーレン・スティーブンス駐英国大使(34億ドル)、プロレス団体「WWE」の経営者一族であるリンダ・マクマホン教育長官(30億ドル)、金融サービス会社カンター・フィッツジェラルドCEOハワード・ラトニック商務長官(22億ドル)、不動産デベロッパーでトランプと縁戚にあたるチャールズ・クシュナー駐フランス大使(18億ドル)、スペースXで船外活動を行った民間宇宙飛行士で決算処理会社のCEOジャレッド・アイザックマンNASA長官(18億ドル)、不動産会社を経営するユダヤ系富豪スティーブン・ウィトコフ中東特使(10億ドル)、実業家のビべック・ラマスワミ政府効率化省(予定)(10億ドル)等など。資産によって構築されたトランプ政権とも言える。ちなみにあのイーロン・マスクは今回の大統領選挙で447億円をトランプ陣営に拠出したとされる。
今回の米国大統領選挙は、民主党対共和党の戦いではなく、民主党エリートと共和党エスタブリッシュメントという既得権益を持つ旧態依然とした米国政治体制と、それに対峙するドナルド・トランプと「我々」の戦いだ。などと喧伝されたが、この「我々」を構成するのは、4年前に米国議会を襲ったトランプ支持者ではなく、こうしたビリオネア、社会の富裕層という事になる。米国において社会の下層を構成する国民の受け皿になるべき民主党左派は、そうした人々から嫌われているようにみえる。日本社会にも見られる「肉屋を称賛する豚」の姿だ。
なかでも呆れかえるのはリンダ・マクマホンの教育長官就任で、そもそもWWEというキワモノプロレス団体のタレント経営者であったマクマホン一族の一人で、そのWWEでは、立役者ともいえるビンス・マクマホンとドナルド・トランプは数々の小芝居で客を沸かせてきた。このリンダはマクマホン一家の中では「良識派(プロレス用語でベビーフェイス)」で通してきた。上院議員選挙にも出馬しており、議席こそ獲得していないが2017年にはトランプ政権下で中小企業庁長官となっている。
昨年、1980年代初頭に「WWE」の従業員(リングサイドアナウンサー)による児童の性的搾取を故意に助長したとして提訴されている。なお、本人は否定。
余談が長くなったが、トランプの大統領就任式でもう一つだけ。
トランプ氏の三男であるバロン・トランプの存在が注目された。
パターナリズムと、世代間移転。いわゆる「世襲」。
格差の拡大、階層の固定化と強化。
その中で行われる政治権力の世襲。
民主主義とは最も遠い情景が米国において展開されている。
自由競争とは、スタートラインを金で買える自由も含まれるのだろう。
話を渡瀬氏の著作に戻そう。
渡瀬氏は『税金下げろ、規制をなくせ~』の中で「政治を変える戦略」として「政治家に約束させること」を具体的に掲げ、「政治家に約束・履行させることの重要性」を訴え、「僕たちは政治家を常に監視し続けなければならない」と指摘している。これにはまったく同意できる。そして「まずは地方政治から変えよう」と呼びかけている件についても同意できる。こうした現実に即した活動と、議会と有権者の関係性が政治を空理空論から現実のものに変えていくのだろうと思える。
現代の日本社会には根強い問題が横たわっている。それは有権者の中にある議員、特に地方議員に対する無理解と不信感だ。名古屋市では河村たかし前市長が唱導して2010年に名古屋市議会がリコールされた。市議会が丸ごと有権者から解職されたわけだ。
リコールを求める有権者からは「地方議員は何をやっているのか、仕事が見えない。ロクに仕事もせずに高給を貪るのは許せない」という声を聞いた。
そうした声を受けて何人かの議員はブログやSNSなどを利用して情報発信に務め、また名古屋市では議会基本条例が制定され、市議会開催時に議会報告会を開いて、市民との意見交換を行う事とされた。(しかしこの議会報告会は、やがて河村前市長の反対によって施行されなくなった)
リコール選挙の後に、私は名古屋市会の議員と様々議論を行ってきたが地方議員自体は、その職責を十分自覚しており、誠実に職務を行っている。そして何割かは本当に尊敬できる人々だ。確かに一部の議員には問題も感じたが、リコールされなければならないような議員は少ない。
そして、その基準を、河村前市長が生み出した減税日本ナゴヤの市議たちに当てはめるのなら、ほとんどの減税市議は即刻辞表を書くべきだ。
そして、リコール選挙の時に言われた「市議の仕事が見えない」という批判も、市議の仕事が見えないのではなく、有権者、市民が市議の仕事を見ていないと言ったほうが正しい。現に、今の減税日本ナゴヤの市議の仕事を見て、再選を許すその基準がわからない。有権者は地方議員の仕事など見ておらず、その仕事の内容で投票をしていない。漠然としたイメージだけで投票しているのであって、そんな的はずれな基準で有権者が市議の当落を決めるのであれば、地方議員は有権者に対する信頼感を失う。
そう、つまりは有権者の議員に対する不信感と同時に、議員における有権者に対する不信感や侮りがはびこっている。4年に一度、河村前市長の名前や声を掲げて、選挙区を自転車で走り回れば、後は眠っていても高給がもらえる。それが河村たかし生活協同組合である減税日本の姿で、有権者や地域住民の生活向上など気にもかけない。
そうした相互不信を払拭し、地域住民の議会となるためには、地域住民、有権者が議会や首長と言った選出公職者の言動をしっかりと見つめ、それを厳しく評価する必要がある。それは渡瀬氏と同じ観点を持つ。
渡瀬氏の言うような「減税」と「規制緩和」そして、「小さな政府」が国民生活にとって利益があるのか否か。それはそうした政策を実際に実現させているアルゼンチンのミレイ政権や、米国のトランプ政権の動向を注視すればいいだろう。そうした先行事例に注視し、良い結果がもたらされるのであれば、日本社会においても「減税」と「規制緩和」そして、「小さな政府」を進めれば良い。しかし、アルゼンチンや米国において成功とは言えない結果と成ったのであれば、それを進める事は論理的に間違っている。
本当の「保守思想」とは、これぐらいの慎重さと、事実に対する厳しい目を持つものだろう。
なので今のところは渡瀬氏とは手法においては同意ができるが、方向性については私は懐疑的であると言うに留めておこう。
次回では渡瀬氏の「社会的嘘の終わりと新しい自由」(株式会社すばる舎2023年)という最新書籍にそって、その本質的な危うさについて述べてみたい。
更に、「既存政治勢力がなぜ「減税」を主張に加えようとするのか、そしてそれの何処が誤りか」についても触れておきたい。
ちなみに、東京都千代田区長選挙において、元N国党/政治家女子48党の佐藤沙織里が次点という結果になった。河村たかし衆議院議員もSNSで支持を表明していたようだが、
@satosaori46 さとうさん、76歳総理を狙う男、河村たかしです。減税を打ち出しての選挙戦、素晴らしい。頑張ってください!
— 河村 たかし(本人) (@kawamura758) 2025年1月29日
「『減税』と言っておけば支持を得られる」類の話で、それによって有権者はメリットを得られるのか、得られないのか、見定める必要があっただろう。ちなみに、彼女はN国党において「チューナーレステレビ(つまりは、単なるモニター?)」を販売していたようだが、それを買った消費者は、喧伝されていたような利益を得られたのだろうか。
(続く)
「減税会」に伴う論考(3)
1)事実認識の精度をあげなければならない話
精度の低い認識の例(2)
トマス・ロバート・マルサスは 1798年『人口論』を発表した。人口増加は指数関数的であるのに対して、食料供給は線形にしか増加できず、どこかで食糧供給の限界に人口が至り、人類は飢餓に陥るという主張だ。
こうした主張は繰り返しぶり返される。1968年にはポール・エリックが『人口爆弾』を発表する、1972年にはローマ・クラブが『成長の限界』を公表する。
ポール・エリックやローマ・クラブの主張、危機感は世界的な流行となり、そうした世界観を背景にした映画もいくつか作成された。1972年に『赤ちゃんよ永遠に』*11973年には『ソイレント・グリーン』が作成されている。*2
日本において今に至るも『成長の限界』的な縮小均衡論を口にするものも居る。経済や社会を縮小均衡させれば「着地する飛行機のタイヤ」よろしく、社会の下層が割りを食い、結局棄民政策にしかならない。
ローマ・クラブの『成長の限界』論も、南北問題、南切り離し政策に陥っていた。*3
確かに日本社会はこれから2050年頃までの間、生産人口の減少や社会保障費の増大と言った、人口ピラミッドのアンバランスによる社会的困難は起きるのだろう。しかし、人口ピラミッドがアンバランスな時期に「財政均衡」を考えるというのは、あまりにも知恵が無さすぎる。個人の家計ですら、事業の失敗であるとか家族が体調を崩すというような場合には、貯金を取り崩したり、売れるものを売ったり、様々な方法で生き残りを模索するだろう。
日本には社会的インフラもあれば外債もある。悲観的になる必要は全く無い。
また、以前書いたようなイノベーションが起これば、全ての問題はほぼ解決がつく。世界中の情報を瞬時に手に入れることができ、安価に意見交換、情報交換までできる。物資は世界中から手に入れることができ、同時に世界中に販売することもできる。19世紀にはおおよそ考えられなかった事が、現代では当たり前に行われている。
国家の重要な使命は勤労の権利(憲法27条)を満たすことであった。
日本社会において、有効需要を生み出し、労働者に仕事を与えることは国家の責務であった。そしてそうした職場が、社会において中間のセーフティーネットとして機能し、失われていった地域社会や部族共同体の代替物として、生活の保証、身分の確保、医療や災害の際の安全弁として機能してきた。
しかし、日本社会が活力を失うにつれて、企業の能力が劣化し、企業にはこうしたセーフティーネットの機能を期待することができなくなった。EUの通貨危機などで見られたような通貨経済から脱落するような人々まで生み出されている。
通貨も雇用も要らない。
適正な社会的リソース(食料、衣料、住居、教育、医療、治安等)の分配さえあれば良い。
言い換えよう。
例えば、戦後、シベリアから引き上げてきた陸軍兵士たちを何らかの形で雇入れ、仕事を与え、賃金を支払わなければ社会不安を引き起こす可能性があった。その為に国は当時の国鉄に過剰な雇入れを行い、過剰な労働力を吸収した。日本の国鉄が世界有数の品質を誇り、同時に過剰な人員に苦しんだ背景には国鉄の経営の問題だけではなく、こうした戦後の雇用政策がある。
こうした政策のもう一つの面が大阪に現れる。
国は復員兵によって生み出される過剰な労働力の供給を国鉄の採用で吸収しようとしたが、大阪地域というのは日本国内でも有数の私鉄優位という風土が有った。大阪においては国鉄で労働人口を吸収し切ることが出来なかった。その結果として大阪では府と市が二重化し、行政自治体が労働力を吸収することなる。東京や日本全体で国鉄が労働力過剰であると指弾されるのと同じように、大阪においては府と市の二重行政が指弾された。
しかし、それは歴史的経緯が生み出した結果であって、そうした観点を欠如した議論はいささか乱暴にすぎる。
戦後の日本政府は雇用によって、社会的リソースの配分を企図した、国家の重要なテーマは雇用であり、失業の解消であった。しかしそれは目的ではなく手段でしかない。真の目的は社会的リソースの配分だ。
「核融合発電」(「核」という言葉が嫌なら「プラズマ発電」)によって、エネルギーは無尽蔵に生み出せる。そしてそれは食料の安定的な供給と、資源の充足を意味する。 核融合発電が実現すれば、ヒトは戦争などで奪い合う必要はなくなり、食料や資源の不足に怯える事も無くなる。
国家や社会は、こうして得られた社会的リソースを、どのように配分するのかと言った機能を果たすことになるだろう。通貨と言ったものも、こうした社会的リソースの配分を適正に、正当に行うための道具でしかない。ひょっとすると不要なものとなるだろう。
その昔は、金・ゴールドが国際的な価値を持った。その金・ゴールドを基準として兌換する証券を紙幣と言った。しかし現代で金兌換紙幣を求めるものは少ない。ダイアモンドなども国際的価値の基準だったが、鉱山の開発、人工ダイヤの進展、デビアス社の力の低下から、国際的な価値は下がりつつある。
通貨はいよいよ実態を失い、国家が「納税は通貨によって行え、納税を行わない場合には刑事罰を加える」との法的制限(というか、暴力的施策)を行わなければ、存在価値を失うかもしれない。
現在、通貨の価値を金との兌換によって考えるものが居ないように、通貨の供給量、財政均衡を主張するものも居なくなるだろう。
ここで上で述べた「行政の執行が最少の経費で行われる条件」について再考しておこう。この条件とは、条文を順番に読めば明らかで、地方公共団体は、「1. その事務を処理するに当つては」「2.住民の福祉の増進に努める」という前提条件を満たした上で「最少の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない」のであって、「その事務」とは国などから所管された自治事務であり、その他にも「 住民の福祉の増進に努める」義務を負っている。憲法が保証する(つまり、国が国民に対して約束した)「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことができるように「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」のである。
そしてそれが「核融合発電」(プラズマ発電)によって賄うことができれば、通貨も雇用も要らない。「減税」なんてせせこましい事を言っている必要もない。正当な社会的リソースの分配さえ可能であれば良いのだ。そしてそんな社会が直ぐ目の前まで来ている。
(続く)
次回以降いよいよ「減税会」のオピニオンリーダーと思しき渡瀬裕哉氏の著作を巡っての議論に入り、次いで既存政治勢力がなぜ「減税」を主張に加えようとするのか、そしてそれの何処が誤りか。その欺瞞性について述べていく。





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