市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

文明の価値

新型コロナウイルス ( COVID-19 ) について言いたいことがあるが、その前に本日(2月16日)の中日新聞に興味深い文章が載せられていたのでそれに触れてみたい。

まず、慌てて付言しておくが、 COVID-19 について、外野から素人意見を投げつけたいわけではない。なんだか、あちこちから、様々なヒトがああすればいい、こうすればいい、というような「提言」を出しているが、こうした場面で明白に判ることは、人間には2種類あるということだ。一つは「誰も気が付かない事に気がつく『頭のいい人』」と「自分程度が思いつくことは、きっと誰でも考えついている。現場でも考慮されて、却下されているだろうことに気がつく人」だろう。

当ブログでもあれこれ、私の思いつきを書いてはいる。それは多分、現場ですでに考慮されているかもしれないが、どうなんだと、敢えて評価するためにも発言をしてみている。無駄になるのであれば無駄でもいい。しかし、今般の COVID-19 については、そんな悠長な段階でないことはわかっている。外野のノイズに煩わされること無く、現場が対応できるように、周囲の環境を守る事に注力すべきだろう。そうした前提に立って、そうした外野や、周囲の環境について語りたいだけだ。

では、その COVID-19 についての話の前に、中日新聞の文章について触れてみたい。一つは経済学者である浜矩子さんのコラム「近頃気になる二つの言葉」であり、もう一つは「溶けていく民主主義」と題された社説だ。

浜さんの視点には時に目を瞠るものがある。また、私は中日新聞というメディアを全否定するつもりもない。確かに論評に値しないようなメディアがある。自身の党派性に固着して、その自己肯定に拘泥するようなメディアに耳を貸す暇はない。語る価値を認めるからこそ、その「深度」の不足に絶望する。

浜さんの主張はおおよそ次のようなものだろう。「サーベイランス・キャピタリズム(監視資本主義)」という言葉がある。全人類に対して商品流通や情報流通(報道も)などを提供する GAFAと呼ばれるような巨大プラットフォーマーが「エコシステム」としてその位置を確立すると、全人類をとりまく環境要因としてプラットフォーマーの重要性が増し依存性が増す。「つまり、今日的人間界のエコシステムは、ネット内の屋台事業者(プラットフォーマー)たちに大きく依存している。そして、その屋台事業者は監視資本主義(サーベイランス・キャピタリズム)の主人公なのである」と述べられる。そして、最後の結論は「こんな不気味なことはない」と締められる。

そして社説で述べられているのは新反動主義の主導者であるピーター・ティールを取り上げ、関連もある Facebook の展開しようとしている仮想通貨、リブラに注目し、国家や民主主義の否定をすすめる思想にどのように抗するかを述べている。「『経済の自由に民主主義は必要ない』と考えるようになったら―。大きな不安を覚えます」とされ、こちらの結語は「国内外で溶けだそうとする民主主義を守るために、強い気概を持つべき時期にきていると痛感します」とくる。

私が何を「絶望」しているかご理解いただけるだろうか。浜さんは「こんな不気味なことはない」と恐れているばかりであり、社説子は「民主主義を守るために、強い気概を持つべき」と精神論を掲げる。・・・・まるで、B29に対して竹槍を配るかのような図ではないのか。

社説で取り上げられたピーター・ティールはスタンフォード大学在学中からリバータリアニズムを主張する学生新聞「スタンフォード・レビュー」を創刊しており、徹底的なリバータリアンである。現在米国、英国、フランスなどで彼を含め、民主主義に対して否定的な見解が提示されている。(現代の民主主義を基礎づける啓蒙主義に対しても、暗黒啓蒙/Dark Enlightenmentという思想潮流もある)こうした流れにある「加速主義/accelerationism 」についても、現在あれこれ考えているので近々述べてみたいと思う。少なくとも、「気概を持つべき」という結論には至らない。そもそも「民主主義」自体を「気概を持って守る」ことが正解であるとも思えない。つまり、現在の「民主主義」の問題こそ再考すべき課題なのではないかという推測がある。「民主主義」を墨守すべき制度とは思えない。人間の為の社会であり、その社会のための制度設計であるべきで、逆ではない。実際に左派加速主義は、民主主義を守るためのリベラルな主張であったように思われるし、右派加速主義にも根底にヒューマニティを感じる*1。こうした批判の中で民主主義もまたアップデートされるべきだろう。

ピーター・ティール自身、ルネ・ジラールの「世の初めから隠されていること」

を思想の根底に置いている。

新反動主義の思想潮流の理解には、ニーチェをはじめドゥルーズガタリなどの論考、再評価も必要となるだろう。そうした徹底的な論考は後日にして、ここでは一つだけ道筋を提示してみたい。

ローレンス・レッシグが「CODE」を出版したのが2000年だ。(コーセー訳の日本語版が出たのが2001年)その後「CODE 2.0」が出たのが2006年になる。

CODE VERSION 2.0

CODE VERSION 2.0


レッシグは社会における制約を4つに層分けして論じている1.法律/LOW、2.規範/NORM、3.市場/MARKET、4.構造/ARCHITECTURE である。

仮想通貨はついにこの「構造/ARCHITECTURE」が国家の基盤である通貨の「脱構築」まで図ろうとしている姿ということになる。ここで必要となるのは ― 特に、日本において ― 法律による制限の再構築、再評価だろう。

昨日もある会合に参加させていただいて、現在の安倍政権が進めようとしている「改憲論議」の深層をご教示いただいたわけだが、私はこの改憲/護憲議論に今ひとつ乗れない。プラットフォーム自体が自民党清和会的な無効性の匂いを浮き出させているからだ。つまり、居酒屋政談の続きにしか聞こえない。そもそも日本人には「法の規範に従う」という気質にかけている。そのために憲法を変えようが変えまいが、結果として日本社会は変わらないと思えるからだ。

現在のように閣議決定政令)で違憲状態が許されるのであれば、憲法でいくら縛ったところで政府を拘束できない。(結果として、憲法の拘束に政府が従うべきとする根拠は、国民/有権者が、政府は憲法に拘束されなければならないという当たり前の前提に立ち、憲法を超えて政府が行動した際には、国民/有権者はその無法な政府から権限を取り上げるというルールが厳密に成立していなければならない。つまり、国民において厳格な法への規範意識がない場合には、法は無力となり、そこに費やされる労力もまた虚しい)

ここで、一つ余計なことを書いておくと。
この4つの制約の内、本来最強の制約は「構造/ARCHITECTURE」である。法律がどのように定められても、石は水に沈むし、木の葉は流れる。横車を押す為政者は時に、木の葉を沈め、石を流すかのような議論を求めるが、物理法則だけは揺るがすことはできない。つまり、木造5層の高層建築物に人を入れて火が付けば多大な犠牲者が生まれるということだ。有識者という者は、こうした当たり前のことを社会に示すものではないのだろうか。

閑話休題

特に日本においては、法規範は無視されがちであり、重視されるのは明文化されていない「 規範/NORM」ということになるだろう。特に「ムラのオキテ」が有効なのが日本の社会であって、このために首相は国費で地元有権者を飲食で接待しても法に触れないし、最高級のホテルは首相の支援者800人と個別に契約を結ぶ。そして、文書は破棄され、その記録も残っていない。こうした記録が保存されるシステムは、それなりのサーバシステムであるだろうに、そのログを開示しただけで「セキュリティ上の重大な危惧がある」と言われるほどに脆弱と来ている。(さらに、そうした政府のシステムがAWSの上に乗るという報道もある、もう笑える)

浜さんは「不気味」であるとしているが、レッシグが示したような道筋によって問題の在り処を探ればそれは「不気味」さではなく、現実に対応すべき「課題」であることが判るし、それは「守るために、強い気概を持つべき」前に、日本社会に対して明文化されていない、後出しジャンケンのような「規範/NORM」を振り回す者に対して明白に「NO!」を突きつけ、「民主主義のルール」つまり、議論と手続きによって定められた法であるならば、それを全ての者に対して守らせ、首相といえども(市長といえども)こうした法に従わない者には、公的地位からの退場を求める厳しさが必要なのである。竹槍を振り回している場合ではないだろう。(そういう意味では中日新聞が最も「気概」を持つべきである)

さて、では少々 COVID-19 が浮き出させたこの国の風景について少々述べさせていただく。

名古屋においても感染者が現れ、対応する方々には大変な心労と膨大な業務が出現したことだろう。こうした時に必要なことは、「人間はどうやったって、一時にできる業務というものは一つしか無い」という当たり前の前提を思い出すことだ。多大なバックログと、それへのプレッシャーは心に重い負担となるが、片付けるには一つ一つに当たる以外にない。

どのような高い山でも、それを登っていくには、一歩一歩を前にすすめる以外にないのだ。

疲れた時に、この山の頂上を見て、先行きの長さに押しつぶされる時もある。そうした時には足元だけを見て、一歩一歩だけに集中する。そうした積み重ねが、それでも確実に自分を目的地に運んでくれる。

更に、仕事であれば、業務が飛び込んでくる。あるいは優先順位も無視して飛び込みの仕事も生まれる。しかし、慌てることはない。自分に一時にできることは一つしか無いのだ。そうしたバックログ(今、仕掛っている業務も含めて)を全体的に見直して行くしか無い。

大切なことは足元の一歩を前にすすめるということだ。

さて、すでにガタガタ言う段階は過ぎている。

郷原弁護士が「国民の命を守るため、安倍内閣総辞職を〜新型肺炎危機対応のため超党派で大連立内閣を」と主張している。

news.yahoo.co.jp

訴えは至極もっともだ。

日本政府は COVID-19 の感染を防止するためにクルーズ船からの上陸を抑制した。
しかし、そのクルーズ船の内部における防疫に失敗し、結果として船内に多大な感染者を生んでしまった。それどころか日本政府の派遣した防疫官や救急隊員にまで感染が広がってしまった。(この姿が、将来の日本を占っているようにも思える)

そしてさらに名古屋を含む各地から感染者が出始め、重要なことにその感染源の特定ができていない、つまりこの国にはすでにサーベイランスを満足に行う能力がないという事実だ。

これは、行政を批判しても、政権を批判しても始まらない。

郷原弁護士が言うように、正当な業務が行われるかを担保するためには、そうした業務の記録の保持と、その記録の開示は絶対に守られなければならないだろう。それは現場作業者の安全を守るためでもある。ルールはヒトを守るためにあるのだ。
公的事業、税金を使って行われる業務については、それがどのように使われたのか、確実に記録が残らなければならないし、その内容が十分に開示されなければならない。そして、開示された事実を元に、その効果や問題点について、十分な議論がなされなければならないし、そうした見直しを元に、制度や規則、または法律の見直しを行わなければならない。

こうした行政記録の重要性や、その情報開示による健全性の担保、さらにそうした規則や律法の重さを自覚していない現在の安倍政権に対して、郷原弁護士がこのように主張する気持ちは痛いほどわかる。

また、こうした郷原弁護士の主張に対して、「緊急時に政権の空白を生むのか」と主張する者もいるが、かまわないだろう。政権なんか空白になったところで行政は自動運動するのであって、そのための法律であり執行令等だろう。東京電力原発事故においては、政権の介入が現場を歪めたというような事例もあったようだ。それを思えば、政権が空白になったところで構やしないだろうし、今でも空っぽみたいなものだし。

今日の問題は、すでに国立感染症研究所などが2011年の段階で、人的、物的、予算的な弱体化に警鐘を鳴らしていた。そうした声に対応してこなかった結果だろう。

https://buzzap.jp/news/20200209-niid-budget-keep-falling-2019ncov/

buzzap.jp


昨年4月にあの「桜を見る会」の追求でも名を挙げた共産党の田村智子参議院議員が国会でこの予算削減に対して追及をしている。

www.youtube.com

国立感染症研究所機関評価報告書

現場の防疫官や、消防隊員が悪いのではない。彼らもまた被害者なのだろう。
まるで、第二次世界大戦のころのインパール作戦とか、戦艦大和の特攻を連想させる。

いったい、誰が国立感染症研究所この予算を削減したのか、いったい、なぜこの予算を削減させたのか。つまりは、「歳出削減」だの「財政健全化」だのという財政均衡論、小さな政府論が、こうした国の機能を奪っているのであり、今日の困難を無視して予算削減を求めた者に対しては、「平和ボケ」の一言が投げられてしかるべきだ。

そろそろ、縮小均衡論、財政再建論を振りまいていた恥ずかしい経済学者、政治家、評論家には退場を願うべきだ。

困難な時にこそ、冷静な議論によって、理性的な判断を下すべきであり、その為の文明だろう。



現在、減税日本の市議の皆さん向けの文章を企画している。お楽しみに。
それと同時にちょっと大きな企画も書いている。複数のエントリーに渡る予定だ。


名古屋城天守木造化事業基本設計代金支払いの違法性に対する住民訴訟」の第6回公判は

2月26日(木) 午後3時
名古屋地方裁判所 第1102法廷です。

各方面で有名人となった北口弁護士(名古屋市代理人)も出席されます。

peraichi.com

また、月に1回程度会合を開いております。

3月11日(水)18:30~20:30 
         北区「北生涯学習センター」第1集会室
4月11日(土)18:30~20:30 
         第1集会室

参加自由、参加費無料。

https://www.suisin.city.nagoya.jp/system/institution/index.cgi?action=inst_view&inst_key=1164770111&fbclid=IwAR3dCep_82RHqZ8L7YgqsegRtQOr3IiSer-A2DL5XtG45JSpcRt2W9v6UzA


*1:つまり、ヒューマニティとはなにかを問い直すことによって、ヒューマニティを守らなければならないという使命感のようなものを感じる

あいトリ 知事ー市長意見交換(問2)

<<920河村質問>>
<<115知事回答>>
<<118河村見解>>

<<920河村質問>>

2.「作品」のもつ反社会性・害悪性の評価と、「芸術性」の評価とは、別次元の問題ではないか。

【問2】ある特定の作品、例えば「肖像画・焼損映像」のもつ「芸術的な価値」の有無・程度の評価と、その反社会性ないし「害悪」性(むしろ、「反芸術的」ともいうべき性質)の有無・程度の評価とは、全く別次元の問題であり、後者の評価については、「県立美術館の安心・安全な管理運営」上の必要性の観点、又は、公共団体が実施主体となる公共事業の性質からくる表現の内在的制約の観点から、「芸術」的評価とは別異に法律判断が可能*1であり、本件企画展の主催者代表である貴職の責任において行うべき性格の「法的」判断*2ではないか。

【質問の趣旨】憲法21条1項が保障する「表現の自由」については、「公共の福祉」(憲法12条、同13条参照)の制約が及ぶか否かについては、異論のあることは承知しているが、「公共の福祉」による制約を認めない見解においても、表現の自由も無制限のものではなく、「内在的な制約」があることは異論のないところであると思料される*3。そして、本件企画展の場合、「肖像画・焼損映像」のような健全な良識をもった日本国民の「心」「魂」、あるいは一部には「(戦後の)皇族に対する畏敬の念」、「自尊心」が深いところで傷つけられ、それ故にこそ、愛知県及び愛知芸術文化センターに抗議が殺到することが「事前に」当然に予想され、県立美術館における「平穏で静寂な館内環境」を保持できないことが当然に想定される作品については、「県立美術館の安心・安全な管理運営」の面から規制することは貴殿の当然の職責であり、現に、貴職は、問題が顕在化した後になって、(芸術監督と相談の上)貴職の責任において本件企画展を独断で中止させている*4。貴職は、「公人が特定の作品の芸術的な価値について当否を判断すること」は、厳に慎むべきであるとの立場であり、当名古屋市長も、全く同様の立場であるが、このような「県立美術館の安心・安全な管理運営」の見地からの「作品評価」、当該作品の表現内容に内在する「暴力性」、「反社会性」等の害悪の面に向けられた「作品評価」は、当該作品の「芸術性」評価と全く関係のない別次元の評価であり、公的な立場からも十分に評価できる「法律上の判断」であると考えるが、いかがか。

<<115知事回答>>

【問2について】

「作品の表現内容に内在する『暴力性』、『反社会性』等の害悪」を客観的に評価することは非常に困難です。さらには、『芸術性』の評価だけに止まらず、思想、信条、良心に立ち入っての評価に直結する危険性を有しています。

トリエンナーレの安心・安全な運営を脅かす者が出現した場合、その責任は脅かした者にあることは明白です。あまねく一般に開放されたイベントにおいて、安心・安全を確保するための措置は、過去の経験等に沿って講じていましたが、想定を遥かに超える故意の脅迫的行為が行われれば、どのようなイベントでも中止・中断に至る場合があることは止むを得ないものと考えられます。

<<118河村見解>>

【問2】 に対する回答について

【問2】は、不自由展の展示作品、例えば、天皇焼損映像*5のもつ反社会性・害悪性は、法的評価にかかわる問題*6であって、当該作品の芸術評価とは別次元の問題であるから、公共事業の主催者として、公金支出の責任者として、公共事業の展示作品としての適否について積極的に判断をくだすべきではないか、という趣旨の質問でした。

これに対する貴職の回答は、「作品の表現内容に内在する『暴力性』、『反社会性』等の害悪を客観的に評価することは非常に困難です。さらには、『芸術性』の評価だけにとどまらず、思想、信条、良心に立ち入っての評価に直結する危険性を有しています」と回答されています。

率直に申しあげて、私は、貴職の「二枚舌」に、大変驚きました。貴職は、先般、10月27日、一民間団体*7が、愛知県の管理する施設で、「日本人のための芸術祭あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」(以下「特定表現自由展」という。)が企画・実施された際、その中の展示物に、在日韓国・朝鮮人の方々に対する民族的偏見から、その人々の心を深く傷つける作品や、貴職を揶揄する作品が展示されていたことについて、激昂して、「明確にヘイトにあたる」、「(展示内容が)分かった時点で、中止を指示すべきであった。」などと記者会見で公言されています。

しかしながら、そのような貴職のコメントは、「作品の表現内容に内在する『暴力性』、『反社会性』等の害悪を客観的に評価することは非常に困難」であるといった貴職の前記見解と正面から矛盾しますし、「『芸術性』の評価だけにとどまらず、思想、信条、良心に立ち入っての評価に直結する危険性を有しています」という貴職ご自身の前記ご見解がそのまま妥当することになるのではないでしょうか。*8

私自身も、公共施設での如上のヘイト表現については、これを許容すべきではないという考えですが、名古屋市長の公開質問状【問2】に対する貴職の回答では、少なくとも論理的には、如上の「明確にヘイトにあたる」展示物を含む特定表現自由展を野放しにするに等しく、公共施設の管理責任者でもある、地方自治体の長のコメントとして、著しく不適切かつ無責任なものと考えます。

「一元的内在制約説」について

「(表現の自由に)「内在的な制約」があることは異論のないところである」ということもない。
現在のスタンダードな解釈は宮沢俊義教授により主張された「一元的内在制約説」ということになる。

「①公共の福祉とは人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理である。
②この意味での公共の福祉は、憲法規定にかかわらずすべての人権に論理必然的に内在している。
③この原理は、自由権を各人に公平に保障するための制約を根拠づける場合には、必要最小限度の規制のみを認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保障するために自由権の規制を根拠づける場合には、必要な限度の規制を認めるもの(社会国家的公共の福祉)としてはたらく。」

しかしこういった「一元的内在制約説」に対しても

「人権の具体的限界についての判断基準として、「必要最小限度」ないしは「必要な限度」という抽象的な原則しか示されず、人権を制約する立法の合憲性を具体的にどのように判定していくのか、必ずしも明らかではない」

「具体的な基準は何かという基本的課題に対する解答を判例の集積に委ねてしまうのでは、内在的制約の意味が明確を欠くだけに、実質的には、外在的制約説と大差のない結果となるおそれも生じる。」

という批判がある。

ところで、河村市長の立論はこの「一元的内在制約説」つまり、憲法における表現の自由の制限について議論していない。

彼が主張しているのは「『県立美術館の安心・安全な管理運営』の面から規制」すべきであり、こうした危惧は

「当該作品の表現内容に内在する『暴力性』、『反社会性』等の害悪の面に向けられた『作品評価』は、当該作品の『芸術性』評価と全く関係のない別次元の評価であ」ると議論を展開している。

つまり、作品に「暴力性」「反社会性」があるために、作品に対する批判が巻き起こり、ひいては「県立美術館の安心・安全な管理運営」が脅かされると主張しているようだが、これでは作品の展示に対して「ガソリンを携行してお邪魔します」と業務妨害の脅しを行った行為まで「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理」で勘案すべきと言っているに等しい。

「表現内容に内在する『暴力性』、『反社会性』等の害悪」という表現を使っているが、ひょっとすると、表現の自由に対する「一元的内在制約説」の「内在」という言葉の意味を誤って理解しているのだろうか。


表現の自由を制限する「公共の福祉」とは憲法規定にかかわらずすべての人権に論理必然的に内在しており、人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理を実現するための制限である。

ということであって、この場合当然のこととして表現行為者である大浦さんの表現の自由という人権と矛盾・衝突するのは、
その肖像を焼かれたという「昭和天皇」ということになるが。(そもそも、絵を焼いたのは美術館と富山県議会である)

法的には天皇には肖像権が認められていない。(というか、人権が認められていない)
更に言うと、大浦さん自身「昭和天皇」の肖像を焼いたわけではない。

中止に至った経緯における「嘘」とは

ここではあたかも、この肖像消失映像が、展示会を中止に追い込んだ理由であるかのように語っているが、これは欺瞞である。

中止直前に、河村市長は表現の不自由展会場に足を踏み入れているが、その際問題としたのは、いわゆる「少女像」であって、その展示を問題としていたに過ぎない。

大浦さんの作品については、会場入口に有ったわけだが、そこを完全にスルーし、通り過ぎていた。

河村市長はこの際、大浦さんの作品については一瞥も与えていない。



はしがき
問1
問2
問2における表現の自由ヘイトスピーチの誤解
問3
問4
問5
問6
問7


*1:適用条文を示さないまま「法的判断」を求めている

*2:「法的判断」という言葉を覚えたばかりの小学生が口喧嘩をしているようにしか見えない

*3:「一元的内在制約説」について下記詳述

*4:ここには嘘がある。下記詳述

*5:定義した用語を守るべき

*6:触法条文が示されていない

*7:日本第一党、あの在特会代表であった桜井誠の政党

*8:ならない、これについては別項で説明する

あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)

<<920河村質問>>
<<115知事回答>>
<<118河村見解>>

<<920河村質問>>

1.愛知県知事・大村秀章殿の「芸術」についての見識*1を問う。

【問1】本件企画展では、愛知芸術文化センター(公共施設)*2で、昭和天皇の肖像写真を、意図的にバーナーで燃やした上で、その灰を靴で踏みつける動画作品が展示されてありましたが(以下「肖像画・焼損映像」と言います。)、貴殿は、「一県民として」*3、このような「日本の象徴であり日本国民統合の象徴」*4である天皇の肖像写真を明らかに冒涜・陵辱する暴力的なモチーフの作品についても、「芸術性」があるとお考えか。「あり」「なし」で、端的に回答されたい。

【質問の趣旨】貴職は「大村意見」でも、「首長としての行為や発言」と「個人的な行為や発言」とは「厳に区別されるべき」であることを主張されており、当名古屋市長としても、この貴職の見解に異を唱えるものではないが、「健全な良識」をもった名古屋市民(愛知県民も同様)の圧倒的多数は、「肖像画・焼損映像」の如き暴力的な作品には激しい嫌悪感・不快感を抱き、心の深いところで傷つくことは必定であると考えられるので*5、上記作品の「芸術性」の有無・評価について、「一県民として」、すなわち「大村氏個人として」の見識を是非とも伺いたい*6。なお、上記の作品は、あくまでも例示であり、「展示物」の「芸術的な価値」を云々する以前の問題として、そもそも公的事業として、公共施設で展示する「芸術」の範疇に属する展示物であるか否かについて重大な疑義があるので、愛知県知事ご自身の公的立場を離れた「個人的見解」を問 (https://www.youtube.com/watch?v=5A4Qhr1UAfo より引用。動画の一場面を静止画像として抽出し、説明文を付加し一部黒塗り修正)うものである。*7

<<115知事回答>>

【問1】について

私の個人としての「芸術的見解」については、回答を控えさせていただきます。

なぜならば、9月10日付け「あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』について」でも述べたとおり、公権力を行使する立場にある者、特に行政権を執行する職にある者は中立性が求められます。すなわち、たとえ相手が自分の思想や信条、政治的立場と異なる立場にあっても、法に従って公正に職務を行うという職務執行上の中立性です。

こうした観点から、首長としての行為や発言と、個人的な行為や発言は厳に区別すべきです。また、多様な価値観や意見の衝突がある場合に、やむをえず個人的な意見表明を行うとしても、公私の区別を明確にして謙抑的に行われるべきです。自らの思想や信条をそのまま具体的な職務執行やその要求に直結させるべきではないと考えます。

なお、大浦氏の作品につきましては、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会(以下「検証委員会」と言います。)の『中間報告』(以下「中間報告」と言います。)」にあるとおり、新作映像は20分の動画だがSNSで流通した『昭和天皇』の肖像画を燃やす場面を見た人の一部が、天皇侮辱を目的とする作品と誤解し激しく批判しました。しかし、これは大浦氏が33年前に富山県立近代美術館(現富山県美術館)で自作の版画を展示した後に、図録から排除された版画を燃やす光景であり、天皇侮辱を目的としたものではないと評価されております。

<<118河村見解>>

【問1】 に対する回答について

【問1】は、企画展「表現の不自由展・その後」(以下「不自由展」という。)にて展示されていた、昭和天皇肖像画を、バーナーで意図的に焼損させ、その灰を靴で踏みつける作品*8(以下「天皇焼損映像」という。)の芸術的評価について、公職を離れた「大村秀章氏個人の」認識・見解を問うものでした。

「公職者」は、表現の内容について、一定の評価をくだすべきではないという貴職の見解・信条*9に配慮して、一個人としての見解を問い質したものですが、貴職は、一個人としての意見表明であっても、地方行政権の「職務執行の中立性」を楯に、回答を拒まれ、前記回答書では、「自らの思想や信条をそのまま具体的な職務執行やその要求に直結させるべきはないと考えます。」と述べておられます。

しかしながら、上記のとおり「日本国民統合の象徴」の遺影を破壊するといったモチーフの作品が、鑑賞者(特に日本国民*10)に激しい険悪感*11・不快感を抱かせることは必定であり、このような「ハラスメント(嫌がらせ)」性をもつ作品*12を公共事業で行うことの当否について、愛知県知事、あるいは公金支出の責任を負うべき役職を担うべき一個人が、しかるべき見解・見識を示されないようでは、愛知県民の理解が得られるものとは到底思われません。

また、貴職は、上記作品について、「大浦氏が33年前に富山県立近代美術館(現富山県美術館)で自作の版画を展示した後に、図録から排除された版画を燃やす光景であり、天皇侮辱を目的としたものではない」という作者の個人的・主観的・独善的な弁明*13をそのまま受容する一方で、その作品が客観的に表現するところの鑑賞者一般の評価*14を全く無視したあいちトリエンナーレのあり方検証委員会の「中間報告」の評価を援用されてみえますが、当該評価が愛知県民の理解が得るに足りるものとも思われません。

言い切ることにためらいを感じていることについて。

言い切ることにためらいを感じている。
または、断言に伴う責任を回避したい。そういった卑しい心情が伺い知れる。

また、「名古屋市民が嫌悪感を抱き、傷つく」という言明には根拠がない。自分がそう思うから、「圧倒的多数」の「名古屋市民」もそう思うだろう。という推測。つまり主観の漏出に過ぎない。

ところで、昨年の4月に、議会内の旅行における「パワハラ」「セクハラ」の告発が有った。(これも、果たしてどうなってしまったことか。結果、単なる「選挙利用」にしか見えないが)河村市長は名古屋市内の繁華な街頭で「パワハラ」や「セクハラ」の告発を街頭演説していたわけだが、昼日中、栄などの街頭で、大きな拡声器を使って「チューさせて」などの言葉を使って不真面目に演説する姿に「子どもたちが聞いているのに」や「この演説そのものがセクハラじゃないの」という意見が聞かれた。

この問題でもそうで。大村知事の回答にあるように大浦さんの作品は全部で1時間を超える作品、それが展示では20分程度に短縮されている。そしてさらにそこから「昭和天皇」と見られる(作者の大浦さんの意図は天皇の肖像ではない)部分が「焼かれる」シーンだけを切り取って紹介されていた。こうした「切り取り」のために「嫌悪感」や「不快感」が助長される。こうした「配慮」にかける傾向も、河村市長の主観の膠着を表している

質問1、最後のセンテンスの異様性

このセンテンスを()の部分を除去して、以下のように切り分けてみると異様な論理構成が見られる。

1「「展示物」の「芸術的な価値」を云々する以前の問題として、」
2「そもそも公的事業として、公共施設で展示する「芸術」の範疇に属する展示物であるか否かについて重大な疑義がある」
3「ので、」
4「愛知県知事ご自身の公的立場を離れた「個人的見解」を問うものである。」

知事は9月10日の大村見解で以下のように述べられている。

「芸術の価値に対する評価は百人百様です。したがって、誰もが芸術的価値を認めるものだけの展示を認めることになれば、こうした展示展は成立しません。したがって、テーマや展示の選択など芸術的内容に関わる点は、芸術分野の専門家を中心としたメンバーで選ばれた芸術監督やキュレーターによる議論・検討を経て決定されています。
愛知県は、施設や財政面、事務局スタッフの人的支援といった観点で中心的な役割を担っていますが、愛知県や私が芸術的な価値について当否を判断して展示内容を決定したものはありません。
芸術的価値に対する評価については、実行委員会会長あるいは首長といえどもそれを評価・判断して決定すべきでなく、展示内容の取捨選択は最終的には芸術分野の専門家に委ねるべきで、実際にそのように進めてきました。 」

つまり、<<115知事回答>>の「問5」で触れられているように、知事は「キュレーションの自律性の尊重」に立つ。それはすでにこの「9月10日大村見解」で表明されているわけで、それを踏まえ、更にこの様に問うことは、もはや主観の膠着でもない、たんなる「ためにする言いがかり」に過ぎないだろう。


はしがき
問1
問2
問2における表現の自由ヘイトスピーチの誤解
問3
問4
問5
問6
問7


*1:この場合、「見識」という語よりも「見解」という語のほうがより適当

*2:愛知芸術文化センター(公共施設)」特に断りもなく記述記号は使わないほうが良いですね。正確に記述するのであれば「愛知県が所管する公共施設である愛知芸術文化センター」または「公共施設である愛知芸術文化センター」でよいはずです。後者であれば括弧と比べて一文字多いだけでより正確になります

*3:「一県民として」という括弧書きの部分について、「県知事ではなく、一人の県民として」の主観的判断を問うのであれば、「一県民」として。と、「一県民」だけを括弧で括るべきでしょうね。「一県民として」というセンテンスごと括弧で括った場合、このセンテンスに何らかの含意があると解釈されます

*4:「日本の象徴であり日本国民統合の象徴」文章に括弧をつけるという場合、引用など括弧で括られたセンテンスが特定の意味を含んでいると解釈されます。この場合は「天皇」に対する解釈を「憲法」に求めていると解釈されるのですが、そうした場合は正確に「引用」する必要があります。憲法第一条の表現は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」です

*5:主観の漏出と膠着が同時に出ているために、文意が曖昧になっている。もう、70歳を過ぎた人間に言っても意味がないだろうが、河村市長の発言は曖昧である。曖昧であるために後日、責任を追求されても「言い逃れ」ができるのだが、それは狡い態度である。この「考えられる」の主語はなんだろうか?「当名古屋市長」だろうか、自身が推測するというのであれば「必定と考える」でよいのではないか?「考える」ではなく「考えられる」ということは、「可能性を排除できない」ということであって、そういった曖昧な推測であればどのような事でも主張できる。「宇宙人が居ることは必定であると考えられる」。言い切ることにためらいを感じている。については下記に続く

*6:「見識を伺いたい」・・・「見識」は伺えない。「見解」が表明されたときに、それを評価した結果として他者から「見識」が判断される

*7:この最後では「見解を問う」としている。ならば、文の題も「見解を問う」とすれば良い。このセンテンスの異様性については下記

*8: 大浦氏の作品について、知事が指摘している検証委員会の「中間報告」を完全に無視している。主観の膠着。後段で検証委員会の「中間報告」への河村市長の評価を述べているが、そうした議論の前に、自説を押し付ける態度は議論を行う態度ではない。

*9:河村市長が大村知事に「配慮」したとしているが、そもそもそんな事は言っていない

*10:話者が、自分の主張に説得力がないと感じる時、話者の使う主語は大きくなる

*11:「嫌悪感」の誤変換だろうが、どうやればこんな誤変換が起こるのか理解不能

*12:「ハラスメント(嫌がらせ)」性をもつ作品 という新たな概念が出てくる。議論を散乱させている

*13:こうした決めつけの方が独善的なのではないのだろうか。(一定の評価を受けている作者の解釈を無視して、自説を押し付ける態度は、国が実施し、外務省のホームページにも掲載されている「日中共同歴史研究」の解釈も無視し、南京事件まぼろし説を主張する姿にも似ている)初期の作品、その作品の歴史的経緯、そして作者の見解は、当然にして作品を理解する上で重要なはずだが、その全体を見ずに一部を、それもそこから更に切り取った一部を受容した「鑑賞者一般の評価」なるものが正しいとし、それによって検証委員会の「中間報告」まで否定してみせる蛮勇には恐怖すら感じる。ここになんら根拠は示されていない。更に言うと、そうして切り取られた「昭和天皇の肖像を焼いた模様を映し出した動画」というものは、知事の回答にあるように、大浦さんの作品そのものではなく、展示された短縮作品の一部を民放各局がニュースやワイドショーで取り上げた断片映像であり、それを更にSNS等に転載された動画である。大浦さんの本来の作品を見ているヒトはほんの一部であるし、今回展示された短縮作品を見たヒトも少ない(少ない理由もある)更に、実は現場に足を踏み入れた河村市長もこの作品は見ていない。見ていないという証言を当日現場に居た人物より聞いている。作者の意図を無視してこうしたエキセントリックな表現方法で「その動画」をなんの前提もなく(展覧会に於いては事前に警告が表示されている)テレビやネット上で流すことのほうがより「ハラスメント性」があるだろう。そうした問題に言及することなく、単に騒動を拡大させようとしている河村市長の姿こそ、広く国民の心を踏みにじり、「昭和天皇の肖像を焼いた模様を映し出した動画」を、自身の政治的目的のために利用していると断じざるを得ない。

*14:「鑑賞者一般」・・・正体不明の主語は、結局自論でしかなく、無自覚にこうした主張が漏れ出てくることが自我の漏出である

あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき)

昨年、8月に開催された「あいちトリエンナーレ」における騒動は全国的なニュースとなり、注目を浴びた。
この問題について、河村たかし名古屋市長と、大村秀章愛知県知事の間で、いくつか書簡がやり取りされた。

その中で9月20日に提示された河村たかし名古屋市長の「公開質問状」に関わるやり取りについて、仔細に検討してみたい。当ブログではすでに9月20日の「公開質問状」については若干触れている。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


9月20日の河村たかし名古屋市長による「公開質問状」(以下[920河村質問」とする)

http://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/cmsfiles/contents/0000121/121114/190920.pdf

11月5日の大村秀章愛知県知事による「回答」(以下「115知事回答」とする)

https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/262858_902511_misc.pdf

並びに、11月8日の河村たかし名古屋市長による「見解書」(以下「118河村見解」とする)

http://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/cmsfiles/contents/0000123/123556/22.pdf

の3つの文書について検討してみる。(他の文書-河村市長の抗議行動における違法性追求など-については、とりあえず置く)また、以下に各文書の「頭書き」を引き、文書を構成する1~7の論点について、3つの文書からの引用を並べる。
(各論点について、ブログのエントリー1日分に区分けしておく)最後に私が「ちゃちゃ」を入れておく。(その他、ちゃちゃを入れたいヒトは、コメントはご自由に)

つまり、各文書を論点ごとに平行に整理してみる。

この作業で私が示したいことは3つに分かれる。
1つは、もちろん各論点である。しかしこれについては大村知事の見解が常識であり、正解であろうと思われる。こういった当たり前の意見に何が不満があるのか、興味がある。

2つ目は、その河村市長名義の文章だ。まず、酷い。
文章というのは自分が言いたいことを押し付ける行為なのだから、伝えようと思うのであれば、表現の方法にも気を配るべきであろうし、記述に於いてもまず読むヒトの立場にたって考えるべきものだろう。つまり、アドラー心理学にいう「共同体感覚」の有無、簡単に言うと、「他人の立場に立ったモノの考え方」ができるか否かが現れる。当ブログでも、河村市長には「主観の膠着*1」が見られると指摘しているが、こうした文書でもそれが至るところに見られる。

ただでさえ、主観的な価値観が分かれる問題について、自身の主観を「正」と見、相対する者の意見を「否」と見れば、議論は噛み合わない。更にここに主観の漏出*2が合わさると、議論は一気に成立しなくなる。その上に、その主観が膠着していては、そういった主体から紡ぎ出される言葉は、意味をなす主張として捉えることすら危うくなる。

こうした作文上の問題については、文中に ※n とアンカーを置いて、欄外に「解説」を書いてみた。

3つ目は、いわゆる「ヘイト・スピーチ」「ヘイト」という言葉、概念に対する、現代日本に広がる誤解に基づく問題だ。これについては、文中に上記のアンカーを置くとともに、別エントリーで詳細に述べる。

リンク

問1
問2
問2における表現の自由ヘイトスピーチの誤解
問3
問4
問5
問6
問7

各文章の頭書き引用

<<920河村質問>>頭書き

公開質問状

令和元年9月20日

あいちトリエンナーレ実行委員会会長
愛知県知事 大村 秀章 殿

名古屋市長 河村 たかし
(あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行)*3

貴職は、2019年9月10日付けで、「あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』について」と題する文書(以下「大村意見」といいます。)において、当名古屋市長の見解を公表した文書に対し、「日本国憲法を解釈する上でいくつかの疑義が散見されました。」と述べた上で、「このような間違った情報を市民に発信されている」などと聞き捨てならない、著しく不穏当な誹謗記事を公表されております。

しかしながら、当名古屋市長の方では、貴職の日本国憲法の解釈の方こそが、その趣旨を明らかに曲解されており、「あいちトリエンナーレ実行委員会」(以下「実行委員会」といいます。)の会長として、また、愛知県知事としての職権を適正に発動せずして、これを懈怠し、現時点でも、あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」(以下「本件企画展」といいます。)の適正な運用を懈怠し続けている疑いがあるものと考えております。

ついては、「実行委員会会長代行」として、また、名古屋市長として、貴職に対し、後記の諸事項について質問いたします。速やかに書面での回答を賜りたい。

<<115知事回答>>頭書き

令和元(2019)年 11 月5日

あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行
名古屋市河村たかし殿

あいちトリエンナーレ実行委員会会長
愛知県知事 大村秀章

貴職より拝受しました令和元年9月 20 日付け公開質問状につきまして、下記のとおり回答いたします。

<<118河村見解>>頭書き

見解書

令和元年11月8日

あいちトリエンナーレ実行委員会会長
愛知県知事 大 村 秀 章 殿

名古屋市長 河村 たかし
(あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行)*4

名古屋市*5は、貴職・大村愛知県知事に対し、令和元年9月20日付けで、公開質問状を出しましたが、同年10月2日付けの督促状にもかかわらず、速やかな回答をいただけず、およそ愛知県民が期待する迅速な回答*6をされる意思がないのではないかと疑念を抱いておりましたところ、今般、ようやく令和元年11月5日付けで、貴職から、上記公開質問状に対する回答をいただきました。*7

もっとも、貴職の回答を通覧しましたところ、各質問の殆どについて、遺憾ながら質問の趣旨が正当かつ真摯に受け止め*8られておらず、あるいは論点をはぐらかされ、あるいは論理矛盾が随所で認められ*9ました。私*10としては、貴職が公共事業の主催者として、また、公金支出の執行責任を負うべき地方自治体の長として、責任ある態度を正しく理解されていないように見受けられますことから、貴職の回答では、愛知県民の信頼を失いかねないものと危惧しているところです。

ご回答につきましては、名古屋市が設置を準備している検証委員会において貴重な参考資料として活用させていただく予定ですが、せっかくご多用のところ回答をいただきましたので、貴職の各回答に対する名古屋市長(あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行)としての見解・感想*11の要旨を次に申し述べておきます。

次:問1


*1:自身の主観的見解から離れることができず、相対者の主張が理解できなくなること。議論において、一旦、相対者の主張に耳を傾け、それを咀嚼、解釈した後に、その考え方の矛盾や無理、無駄を指摘するなど、自説との比較評価を行うべきだが、こうした経過を経ず相対者の意見を「自分はそうは思わない」と切り捨てるのならば、単なる主観の押付け合いにしかならない

*2:自分の主観的判断は、誰もが同様に判断すると、なんの前提もなく確信する傾向

*3:なぜ、「あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行」を括弧で括っているんでしょうね?

*4:なぜ、「あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行」を括弧で括っているんでしょうね?

*5:「920河村質問」では「当名古屋市長」という表現でしたが、ここでは「私名古屋市長」になっていますね

*6:「およそ愛知県民が期待する迅速な回答」主観の漏出の例、迅速な回答を期待していたのは「当名古屋市長」であって、「愛知県民が期待する」ものであるかは不明だろう

*7:「920河村質問」では回答期限が設けられていなかった。「迅速」とは何をもって「迅速」となるのか不明、曖昧。こうした経緯や督促について記載する意味があるのだろうか?曖昧で身勝手な主張をしているのは、河村市長側であるにも関わらず、河村市長支持のポジションを取っている人々は、こうした文章に触れると、大村知事は約束に遅れ、愛知県民の期待に応えていないように映るということなんだろう

*8:質問の趣旨を正当に受け止められていない場合、質問が曖昧、不明確であるとういうことは無いのだろうか?「主観の膠着」とみなせる

*9:以下の文章でその「論理矛盾」なるものの指摘があるのでしょう。楽しみです

*10:誰? 皆さんも文章を書く際に、自分を表す言葉は慎重に選んで統一するように心がけましょう。公職者が公的文書に一人称を書くのであれば「当職」が適当でしょう(役職は敬称ともなりますので不適当です)

*11:文書名が「見解書」であるなら、ここは「見解」だけにした方が宜しいでしょう

「木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針」に見る齟齬

1月25日のシンポジウムの概要を名古屋市オンブズマンが掲載している。

名古屋市民オンブズマン・タイアップグループ

私も現場に居たが、おおよそ同じ意見だ。


この中でバリアフリー担当の森本主幹が「バイブル」と紹介した「木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針」
これが全くとんでもない文章なので、今日はこれを血祭りに上げる。こんな文章を「バイブル」にしてはダメだ。

木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針
(各センテンスの末尾に付番した)


1. 基本的な考え方

・本事業は、歴史時代の建築物等の遺跡に基づき、当時の規模・構造等により再現する「歴史的建造物の復元」を行うものである。・・・(1)

木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針

(1)文化庁は平成27年「史跡等における歴史的建造物の復元に関する基準」を定めているが、この事業はこの基準を満たしていない。

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/shiseki_working/01/pdf/r1411437_04.pdf

「2.基準」
「(1)基本的事項
ウ.復元以外の整備手法との比較衡量の結果、国民の当該史跡等の理解・活用にとって適切かつ積極的意味をもつと考えられること」

名古屋市は木造復元にあたって、現在の鉄筋鉄骨コンクリート製の天守建物について、耐震補強についての検討は行っているが、コンクリートの再アルカリ化工事等の長寿命化改修を考慮していない。つまり、「復元以外の整備手法との比較衡量」は十分に行われていない。この再アルカリ化工事による長寿命化は、大阪城において実績のある改修手法であり、これを考慮していない名古屋市の計画には重大な懈怠がある。

名古屋城天守閣は、法隆寺のころから始まった日本の木造建築のひとつの到達点、究極の木造建築とも言われ、豊富な歴史資料をもとに外観の再現に留まらない史実に忠実な完全な復元を行うことの選択を議会、行政における検討や市長選挙での市民の信託を得て推し進めることとしたものである。・・・(2)

木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針

(2)「史実に忠実な完全な復元を行う」事はできない。なぜなら、残された資料には内部構造を示す資料はない。つまり、柱や梁の組み方、壁の内部構造などは全て推測でしか無い。これらを「史実に忠実な完全な復元」と喧伝することは木造建築史を伝える上で大いなる過誤となる。

また、議会や「市長選挙での市民の信託」を得た計画は、独立採算制を持って、名古屋市に財政上の負担をかけない復元計画であるが、その収益計画は曖昧であり、後述するような追加経費については考慮されておらず、市民は同意していない。

・市民の皆さまの中には、「一旦は焼失しているので復元しても本物の天守閣ではない」との意見もあるが、名古屋城天守閣は城郭として国宝第一号であったものが、大戦中多くの市民の命とともに昭和20年5月14日に空襲で焼失してしまったものの、残された石垣には空襲による傷跡も残っており、焼失中の写真も残されている。
その上で、市民の精神的基柱であり、誇りである名古屋城天守閣を、悲しい歴史的史実を経て、昭和実測図や金城温古録等、豊富な歴史資料に基づき、戦災で焼失する前の本物の姿に復元すると世界に主張するものである。したがって、過去の天守閣と今回の木造復元の同一性について、歴史的な分断を感じさせない復元を成し遂げる事が、事業の価値を決定づける大きな要素となる。・・・(3)

木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針

(3)まず、この下手くそな文章について、検討したい。文章の書き出しは以下のようなものである。

「市民の皆さまの中には、『一旦は焼失しているので復元しても本物の天守閣ではない』との意見もあるが」

つまり、市民の中にある「復元建造物は本物の天守閣ではない」という疑問について、答える文章であるはずだが、この疑問に答えていない。

いままでも散々「本物復元」と言ってきたのであるから、復元建造物ではあっても、本物と言える根拠を示さなければならないが、それを示していない。

もう一つの解は、本物ではないが、復元建造物にも価値があるという主張だろう。この文章の最後にそう解することができる主張がある。

「事業の価値を決定づける大きな要素となる」

決定づける要素とはなにかと問われれば「過去の天守閣と今回の木造復元の同一性について、歴史的な分断を感じさせない復元を成し遂げる事」であるということになる。

それは何故かといえば「戦災で焼失する前の本物の姿に復元すると世界に主張するものである」からだ。

しかし、この場合主語は誰だろうか?

河村市長自身が、「本物の姿に復元すると世界に主張するものである」から「歴史的な分断を感じさせない復元を成し遂げる事」が「事業の価値を決定づける大きな要素となる」のであって、それが「本物」であるかどうかは二の次ということなのではないだろうか。つまり、市民の当初の疑問「復元建造物は本物の天守閣ではない」という疑問には答えずに、それ以上に「歴史的な分断を感じさせない復元を成し遂げる事」に価値があると言っているに過ぎない。

これは「本物」を求めているものに対して、「本物ではないが価値がある(と主観的に考える)」と言っているだけであって、回答になっていない。

また、この主張はとんでもない主張である。「戦災で焼失する前の本物の姿に復元」し「過去の天守閣と今回の木造復元」が「同一性」をもち「歴史的な分断を感じさせない復元」を行うということは、昭和20年の戦災による消失と、昭和34年の市民による復興という歴史的事実を隠蔽してしまうことであり、歴史修正主義的主張だろう。

歴史的事実を超克し、復元を果たし、評価を得ている遺構として、世界遺産であるワルシャワ歴史地区が挙げられるだろうが、これにしてもナチス・ドイツによる蹂躙という歴史を超克するワルシャワ市民の意志が、その遺構に価値を与えられるのであって、そうした文脈では、戦後復興期の昭和34年に、現名古屋城天守を再現した名古屋市民こそ、このワルシャワ市民と並べ称されるべき存在だろう。現代においては金さえ積めば木造5層の建造物は建てられる。安全性を無視し、建築基準法も無視すれば、それは技術的には可能だ。しかし、そのような木造模型に価値があるのだろうか。戦争の痛手から立ち上がろうとした名古屋市民の建築した昭和遺構を破壊し、単に市長の個人的思い入れだけで歴史改竄の建物を建てるとすれば、それは名古屋の歴史に永遠に消えない傷を残すことになるだろう。

4.再現された歴史的建造物について
(1)再現された歴史的建造物の価値について

史跡等において再現された歴史的建造物は文化財保護法上直ちに文化財として扱われるわけではなく、史跡等の文化財に準じた、価値を伝えるための手段(プレゼンテーション)としての複製品(レプリカ)と捉えられる。
(略)

「天守等の復元の在り方について(取りまとめ)」pp.9

「本物復元」ではないのであるから、この事を市民に説明し、謝罪すべきだろう。

・50~100年で再度「国宝」になることを目指す。・・・(4)

木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針

(4)「50~100年で再度「国宝」になることを目指す」これも虚言だ。50~100年で再度「国宝」になった事例など無いのであるから、なんら根拠ない主張だ。京都の「金閣寺」(鹿苑寺舎利殿)は昭和4年「国宝」に指定されていたが、昭和25年、放火により消失し、昭和30年に再建された。現在再建後65年が経過しているが、国からの文化財指定はなされていない。(鹿苑寺を含む2県3市に点在する構成資産17件が「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。しかし、建築物そのものではない。逆に、周辺をこのような文化的価値あるものと認めても、復元建造物への文化的評価は上がっていない)

・ゆえに、史実に忠実な復元を確保した上で、まず、2022年の完成時期に、その先においても世界の模範とされるべき改善を重ね、観覧、体験、バリアフリー環境を整備するための付加設備とする。・・・(5)

木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針


(5)下手くそな文章だ。「まず、2022年の完成時期に」・・・何をしたいのだろう。

2022年の完成時期にバリアフリー環境を整備するための付加設備を設置し、その先においても世界の模範とされるべき改善を重ねると言いたいのだろうか。

ここには2つの誤魔化しがある。

つまり、完成時期までに代替設備の設置は不可能であるということの言明だ。つまり、バリアフリーを満たすという条件は守れませんよと、ゼロ回答をしていることになる。それが行政文書としてはありえない、この尻切れトンボの正体だ。
明白に「2022年までには間に合いません」というのであれば潔い。そのうえで謝罪があってしかるべきだろう。
しかし、そうした結論を誤魔化して、却って胸を張るかのようなこの文章はあまりに異様だ。

そして、もう一つ。2022年の完成以降も「世界の模範とされるべき改善を重ねる」というのだろうか?
その経費は誰が出すのだろうか、そのような支出について、議会や市民はいつ合意したのだろうか。


2. 現天守閣の現状

・現天守閣は5階までエレベーターで上がれるが、内部は博物館施設であり、本来の木造天守閣の内観を観覧することはできない。また、展望については、1階の東側及び北側の一部と7階の展望室からに限られているが、7階へは階段でなければ行くことができないため、車いすの方は展望ができない状況である。・・・(6)

木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針

(6)言い訳臭い文章だ。

小学生が叱られた際に「○○君もやっている」というようなものだ。あまりに幼稚な構成だ。


3. 内部エレベーター

・内部エレベーターについては、柱、梁を傷めないものとして、史実に忠実に復元する天守閣とするためには、乗員が4人程度、かご(乗用部分)の大きさが幅80cm、奥行き100cm 程度となり、乗ることができる車いすも小型なものに限定され、よく使用されている幅65cm、長さ100cm程度(電動車いすは幅65cm、長さ105cm 程度)のものは利用できない。したがって、バリアフリー法の建築物移動円滑化基準に対応するエレベーターは設置できない。・・・(7)

木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針

(7)「内部エレベーター・・・は、柱、梁を傷めないものとして、史実に忠実に復元する天守閣・・・は設置できない」「バリアフリー法の建築物移動円滑化基準に対応するエレベーターは設置できない」と言っている。

なら簡単だろう。史実に忠実に復元する天守閣など作らなければ、この矛盾は解決する。

SDGsの先駆である経済学者のエルンスト・シューマッハ
「愚か者は物事を大きく、複雑にする。しかし賢いものは小さく、単純にする」と語ったそうだ。

なにも私は自分が賢いとは思わないが、この文章のように必要以上に大きく(なんで「世界」に模範を示したり、主張したりしなけりゃならないんだ?)複雑にする必要がない事は即座にわかる。

4. 外部エレベーター

・都市景観条例を定めて、すぐれた都市景観の形成を進めている中で、景観計画により名古屋城の眺望景観の保全を図ることとしている。・・・(8)

・その眺望の対象である天守閣の歴史的な外観を損なうことから、外部エレベーターは設置しない。・・・(9)

木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針


(8)(9)はい、終了。外階段を設置しないのであれば、建物はおよそ10数メートルの石垣の上にポツンと建つことになり、避難路が確保できないことになる。そのような建築物に建築許可を出した建築審査や防災評定は、いざ発災の際にはどう責任を取るのだろうか。そもそも違法で危険な建築物だし。(建築基準法の除外規定は、法律を無視してなんでもやって良いわけではない。法律を無視しても、物理条件は変えられない。結果として災害に遭う人が出れば、その責任は負わなければならないだろう/だから、文化庁のヒトは「1分の1模型」と言ったんだろう。ヒトが入らなければ被害者は生まれない)

5. 基本方針

・史実に忠実に復元するためエレベーターを設置せず、新技術の開発などを通してバリアフリーに最善の努力をする。・・・(10)

木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針

(10)基本方針は「努力する」ですからね。

・今回、木造復元に伴い、本来の天守閣の内部空間を観覧できるようにする。また、電動か否かによらず、車いすの方が見ることのできる眺望としては、現状1階フロアまでだが、様々な工夫により、可能な限り上層階まで昇ることができるよう目指し、現状よりも天守閣のすばらしさや眺望を楽しめることを保証する。・・・(11)

・例えば、昇降装置を有する特殊車両を応用し、外部から直接出入りすることや、ロボット技術を活用し、内部階段を昇降することなどが挙げられる。併せてVR技術を活用した体感施設の設置を行う。・・・(12)

・ 新技術の開発には、国内外から幅広く提案を募る。・・・(13)

・また、協議会を新たに設置し、障害者団体等当事者の意見を丁寧に聞くことにより、誰もが利用できる付加設備の開発を行う。・・・(14)

・姫路城や松本城など現存する木造天守にも転用可能な新技術の開発に努力する。・・・(15)

・再建後は元来の姿を見ることができるようになり、介助要員、補助具を配置することなどにより、今より、快適に観覧できるようにする。 ・・・(16)

木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針


(11)以降はもう良いだろう。十分だ。

単なる空理空論のお題目に過ぎない。「努力」すれば良いんだから。

シンポジウムで谷口さんが話していたが、義手や義足、パワードスーツや車椅子に代わる技術。
これらはすでに何十年も、産業界や大学、身障者団体などが協働で様々な提案を行っている。

その中にはすでに形になっているものもあるが、こうした「思いつき」のような提案ではない。一日一日の技術者の積み上げや、莫大な投資資金によって形になってきたものだろう。それとても水平移動に限定されており、危険を伴う垂直移動を行えるものはまだ出てきていない。(垂直移動に伴う、「落ちる」「重なってしまう」という物理条件は、乗り越えるのが非常に困難な条件であることは容易に理解できる)

名古屋市天守木造化に支出するとした505億円をこの協働に投げ出せば、幾ばくかは助けになるのだろうが、幾ばくかでしか無い。

そもそも、「姫路城や松本城など・・・にも転用可能な新技術」をなぜ、名古屋が作らなければならないのか?
そんな事、誰かが同意したのだろうか?

そして決定的な事は、この(11)以降の「原価意識」のなさ。いったい幾ら掛かるのだろうか。

新入社員の決意作文みたいだ。

ヒトは言語で思考する。ヒトは母国語の枠組みでしか思考できないとも言われている。
こうした言い訳や没論理に逃げ込んだような文章を「バイブル」にしていると、言い訳や論理破綻に免疫ができてしまう。やがて思考そのものが散漫になり、行動においても責任が脆弱となる。結果としてその人物が作り出すものは、具体的な事物でも、無形物である制度でも、チグハグで使い物にならない代物となってしまう。

こんな文章を起点とした事業は、先行きで矛盾が露出し、破綻することは見えている。


シンポジウムの様子は、中日プラスのこの記事でも取り上げられている。

chuplus.jp


Nihil enim honestum esse potest, quod justitia vacat.


名古屋城天守木造化事業、もはや名古屋市の「恥」である

1月30日 末尾に追記あり

1月25日(土曜日)に名古屋城木造化天守にエレベータ設置を求める障碍者団体によるシンポジウムがあった。

復元天守閣にEV設置は当然 障害者団体が名古屋市を批判
 名古屋市が木造復元を目指す名古屋城天守閣にエレベーター(EV)を設けるよう求める愛知県の障害者団体は25日、名古屋市でシンポジウムを開き、「設置は当然だ。代替する技術などない」と新技術で対応する方針の市を批判した。

 複数の障害者団体などでつくる「名古屋城木造天守にエレベーター設置を実現する実行委員会」が主催。斎藤県三共同代表はパネルディスカッションで、市名古屋城総合事務所の森本章夫主幹に「新技術の開発には時間がかかる。新天守とエレベーターが調和できる方法を考えるべきだ」と訴えた。

(共同)

復元天守閣にEV設置は当然 障害者団体が名古屋市を批判:社会:中日新聞(CHUNICHI Web)

翌日の26日(日曜日)に中日新聞にこの催しが取り上げられていなかったので、またぞろ市長のご機嫌を伺って、「無かったこと」にする気か。と憤っていたら、翌日27日(月曜日)に市民版でちゃんと取り上げられていたので安心した。


この問題の根本は、名古屋市河村たかしにおける「主観の固着」である。

ジョン・ロールズは「無知のヴェール」を提示して社会正義の確立を訴えた。
つまり、各個人が自分の属性を知らないと前提するなら(各個人が自分の属性を見ることができない「無知のヴェール」に覆われているとするなら)各個人は最も恵まれないものの利益に配慮して社会を設計するだろう。

逆を言うならば、自己の属性に囚われたまま、自己の属性に有利な社会制度設計を企てるものは、利己的であり、社会正義を確立することはできない。

もちろん、全くの個人/私人が、常に社会の公平を配慮して暮らす必要はない。そんな事はできるわけがない。なので、社会が、様々な形で公平性を担保できるような制度を制定している。

公務員が「全体の奉仕者」とされるのは、公的な事業に従事する公務員は、自己の属性を離れて、全ての国民の為に業務を進めるべきであり、ロールズ的な観点からすれば、その中でも特に恵まれない立場に置かれた人々にこそ心を砕く必要がある。それができなければ公務員たる資格はない。(公務員は、広く国民の、それも恵まれない、公助の必要のある国民の為にあるのであって、人事権や予算権を持った者のために居るのではない。人事権や予算権を持ったものが、こうした社会的弱者を蔑ろにする行政事務や、私利私欲のための権力行使を行うのであれば、それを告発し、是正しなければならない。それができなくなった国家は衰退するであろうし、そうした権力は腐敗する)*1

もしも、名古屋市河村たかしが、足腰に障碍を持って、車椅子を使っていたとしたら、果たして現在の名古屋城天守を取り壊して、木造化しようと思っただろうか、また、その木造化天守からエレベーターを取り除こうとするだろうか。

前回の論考で分析したように、名古屋市河村たかしは自らの主観に固着し、自我を離れた地点からの考慮ができなくなっている。先日も給食に「名古屋メシ」である「台湾ラーメン」を出すという施策(?)が発表されたようだが、大阪維新が行った「学習塾バウチャー」でもそうだが、こうした施策は、子どものためのものではない。子どもを「ダシ」に使った予算のバラマキ(レントシーキング/つまり「既得権打破」という掛け声は「既得権を俺たちによこせ」の謂だったわけだ。大阪維新の会における学習塾関係者の比率に注目し、この「学習塾バウチャー」に着目すると、このあからさまなレントシーキングに鼻白む物がある)でしかない。この名古屋における「台湾ラーメン」も子どもよりも、真っ先に事業者が喜んでいることだろう。

そもそも、本当に子どもたちの事を考え、学校給食の改善を考えるのであれば、こうした散発的な施策(?)ではなく「スチームコンベクションオーブン」を導入することなどに前向きになってもいいだろうに、同じ「スチーム」でも「蒸気機関車B6の動態展示」に巨額の予算を投じて恥じないのであるから、笑うしか無い。このような視野狭窄、無定見。恥という言葉を知らないのだろうか。(恥を知るには、視点を主観から離す必要がある。視点が自我に固着しているヒトには「恥」という概念は成立しない)
まあ、あまりこうした事を繰り返していると「人格攻撃だ!」と「勘違い」されかねないのでこれぐらいにしておく。前回の論考にしても、こうした分析にしても「人格攻撃」ではない。公務員に求められる全体の奉仕者としての資質についての疑義の表明であり、明らかに公益性のある論評である。(それとも、「国家機密漏洩罪」でしょっ引かれるのだろうか)


話は戻って、この会に参加して、会としては「木造化される名古屋城にエレベータ設置を求める」という趣旨なのだが、私は違和感を持った。元々木造化、建て替え自体に反対であるので、そこに「エレベータ設置を求める」というのは、主張としてズレを感じずには居られない。

特に、3点気がついたことがある。(その内の1点はここでは書かない)

2.情報公開がされていない

住民訴訟の為にも、様々な文書の情報公開を求めているが、黒塗りされた情報が多すぎる。

名古屋市は基本設計が完成したと公言しているが、実は、名古屋市民はどのような木造天守ができるのか、その正確な姿を知らない。(なにせ、黒塗りなので)

シンポジウムに於いても、行政や専門家だけで事業をすすめるような時代ではなく、広く市民の意見を取り入れて、様々な議論の中から事業は進められるべきという意見が述べられていたが、そうした議論のベースとなる情報が、黒塗りのままでは議論が成立しない。

特に、名古屋市の宝、市民の誇りであると自ら言っている名古屋城の建て替えについて、なぜこれほどまでに市民に情報を秘匿する必要があるのか、理解できない。また、そのように隠蔽された議論の中から建築される建物が、歴史的評価に耐えうる事業とは思えない。

昨年春に持ち上がった「現天守先行解体案」などは、文化的、技術的意図ではなく、市長の政治的思惑からの方針変更*2であり、事業自体が大きく歪められていると考える以外なく、それであれば名古屋市河村たかし名古屋市の宝、名古屋市民の誇りである名古屋城を、自らの政治的意図から利用していることになる。

そして、そんな私利私欲にまみれた事業に、提灯を付ける有識者、マスコミの情けない姿。
10年後、20年後、100年後の名古屋市民、日本国民からの批判に耐えられるのだろうか。本当に「恥」という言葉を知るべきだろう。


3.果たして、市民の合意は得られているのか?

名古屋市は木造化事業は「市民の意向」と主張している。平成28年に行われた「2万人アンケート」がその根拠になっているのだろう。

当ブログや基本設計代金の訴訟に於いて、その問題点を指摘している。


準備書面(2)
drive.google.com

甲第27号証 名古屋城天守閣整備検討「名古屋城天守閣の整備 2万人アンケート」報告書
甲第27号証 - Google ドライブ

「6. 平成28年度実施の2万人アンケートの問題について」で問題点を指摘している。


このアンケートや市議会における市民や議会の合意事項は「名古屋城天守木造化」ではないと考える。

市民や議会が認めた事業というのは「独立採算性のある名古屋城天守木造化」であって、税負担のない事業でなければならない。

しかし、市の収益性シミュレーションによる「年間360万人が50年訪れる」という推計にはあまりに説得力がない。

また、先日天守閣部会に報告されたように、大天守に滞留する来場者の上限を2500人とするとした場合、いよいよ年間360万人の来場者受け入れは現実的ではないように思える。

また更に、事業の遅延による経費の増大、ステップ名古屋の設置費、名古屋城調査センターの開設。現在の名古屋城内に展示されていた品目を展示する新たな博物館の新設(現在の天守を耐震改修+長寿命化すれば、別に博物館を建設する必要はない)これら周辺の費用は果たして505億円に含まれているのか。更に、収益性シミュレーションには、ランニング・コストは考慮されていない。果たして独立採算は守られるのか?

「独立採算性のない、市民に税負担を求める名古屋城天守木造化」については、再度、市民や議会において議論が必要だろう。このまま、あやふやな収支計画や手前勝手な経費算出で事業をすすめるのだろうか。今までも、そして、名古屋だけではないだろうが、国や地方自治体に於いて、こうした収益性のある事業と謳われたものが、膨大な赤字、経費負担を生み出す事例には枚挙にいとまがない。それでも地域の要請や、住民の為であれば事業の価値は有っただろう。

しかし、名古屋市民の中で、本当に名古屋城天守を木造化したいと、願う市民はどの程度居るものだろうか。

・・・名古屋城天守の木造化を願う市民は、しかし、本当はどのような天守ができるのか、知らないままなわけだ。

そして、木造化を願う方々のモチベーションはどこにある?なんの為に、木造化建て替えを願うのだろう?市長の言うように「威張るため」ですか?


このように情報隠蔽と、没論理の嘘や虚飾に塗れた事業を、これ以上すすめるのは、もはや、名古屋の恥であると断言できる。



追記(1月30日):
この文章を書き始めた大切なポイントがあったんだった。
多分、当ブログぐらいしかこの問題は扱っていないだろう。

名古屋市には「市長特別秘書」という役職がある。
他の政令指定都市には無いし、名古屋市においても河村市長以前にはなかったポストだ。

市長の「特別秘書」で、年間の人件費も馬鹿にならない。
河村市長は「日本で一番安い市長」というが、ご本人の価値は確かに日本で一番安いのだろうが、経費としてはこうした余分な周辺経費がかかっているために高く付いている。

さて、その「特別秘書」氏だが

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

ombuds.exblog.jp

田中克和 株式会社クルーズコーポレーション | Eight プロフィール

一宮市議会議員選挙 - 2015年4月26日投票 | 候補者一覧 | 政治山


誰も気づいていないのか、彼は元々「バリアフリー担当」だったはずだ。

r.nikkei.com

http://archive.is/MHyAG

www.asahi.com

http://archive.is/QwzPa

しかし、名古屋城に関する市の会合でも「バリアフリー担当」として対応する姿を見たことはないし、
このシンポジウムにおいても別の新設ポストの主幹が「担当」として対応していた。

つまり、市当局の正式なポストにも「バリアフリー担当」が新設されたことになる。
・・・私は知らないのだけれども、この「バリアフリー担当市長特別秘書」氏は辞職でもされたのか?

それともまったく活動していないのだろうか?
活動していないとしたら、その経費はどこに消えているのだろうか?

これも名古屋城をめぐる505億円の内に入っているのだろうか。
河村市政ではこういった「行方不明の話」が多すぎる。

そして、そうした問題をメディアが取り上げない。市民に問題意識が届かない。


*1:私企業というのは、自己の利益、自社の利益の為にあるのであって、組織は「上」の為にある。企業の責任は、オーナーであったり経営責任を持つ幹部に帰属するのだから、それらの差配に従うべきであり、「下」は「上」に従う必要がある。しかし、公務、行政に於いては、組織の形は取ってはいても、各個人が従うべきは「法」であり「上」ではない。行政におけるオーナーとは市民、国民なのだから

*2:思いつき

「褒め」の心理

先日、ある方と話していて、「現代社会における自己肯定感の欠如」という話題に行き着いた。
ヘイト・スピーチなどに見られる「排外主義」や事実に基づかない、ムードに流される「政治的ブーム」の根底に、現代の社会が個々人の「自己肯定感」を満足させられていないという問題があるのではないかという議論だ。

(この概念は、ひょっとすると、20世紀、19世紀には「社会における個人の疎外」というような解釈がなされていたのではないかという気もする。つまり、昨日今日始まった問題ではないのかもしれない)

そこから話はアドラー心理学における「共同体感覚」に移り、「自己受容」できない個体の傾向という話になり、E.H.エリクソンの「基本的信頼(Basic trust)」がテーマとなった。

「基本的信頼」とは「無条件で自分はOKだ」という感覚で、最近の言葉で言うのなら「ありのままの、姿見せるのよ、ありのままの、自分になるの~♪」という事だ。こうした「なんでもあり」の自己肯定感が一般化し、外に向けば「他者一般に対する基本的信頼」ということになり、どのような特性を持ったヒトとも共存可能となるのであって、社会における多様性(Diversity)の基盤となる。

これの対立概念が、他者や事物に対して、損得を計る態度や、有用性を求める考え方となるだろう。

ちょっと、話が回り道に入るが、

「公費で行われる芸術祭であるなら、国民全員が受け入れられるものでなければならない」というような、およそ的を外した考え方を振り回す態度はこれに当たるだろう。芸術なんて代物が、国民全員に受け入れられるのであれば、そんなものは芸術ではないだろう。真綿にくるまれた無価値な何かでしか無い。表現行為は、それを見るものに向けて変容を求めるようなものでなければ意味がないし、そのような力を持った存在は、少なからぬ反発を受けて当然だ。

また、そもそも人間には2種類の要求がある。
一つは、誰しも満たされて当然の衣、食、住や、文化的に生活できるだけの事物に対する要求であり、日本において国は、これをすべての国民に与えると憲法によって宣言している。つまりは、基本的人権の範疇にあるモノであって、これを宇沢弘文神野直彦さんは「需要」と呼んだ。
もう一つは、そうした必須の要求を超える「欲望」であって、これも適正であれば社会を豊かにするものではあるが、その欲求が過剰となれば社会は不安定ともなる。こうした個々人の「欲望」と社会における供給を調整するには、市場の原理が有効に働くのであって、こうした事柄は「市場原理」に任せれば適正に*1配分される。

国や地方は、こうしたヒトの持つ要求の内、「需要」に着目すべきで、「欲望」についてはほかっておけばいい。

「需要」以上にヒトが欲求するのであれば、誰かがその欲求に応える方策(これを「生業を企む=企業」という)を取り、市場が生まれ、配分が始まる。ここに公的な介在は必要ない。(もちろん、薬物や売買春、ギャンブルのように社会の安定のために、「欲望」を一定の法で規制する必要がある場合はあるだろう)ここで、ギャンブル=IRに絡んで、余計な事を書きたくなった。回り道の回り道になるので、欄外で書く。*2

国や地方が賄うべき「需要」については、市場原理主義は働かない。必要なヒトには無条件に配分しなければならないのだから、市場原理の介在する隙など無い。民主的な制度設計と、公平な行政運営が必要なだけだ。

つまり、行政における「市場原理の導入」なんて、語義矛盾であり、誤りなのだ。

それよりも、行政における「効率の良い公費の投入」やら「効果の高い税の利用」などという言葉は、「効率の悪い公共事業の縮小/切り捨て」「効果が見えない福祉の切り捨て」を生み出すだけだ。

これらが、ナチス・ドイツの行った「T4作戦」の基本原理であり、相模原障害者施設殺傷事件を起こしたドグマだ。

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税の投入に「効果」も「効率」もない。「適正」か否かがあるだけだ。くだらない蒸気機関車の動態展示よりも、そのお金で給食施設にスチームコンベクションオーブンを設置する方が「適正」であろうことは明白だろうし、いつ建つともしれない木造天守の木材を買い付ける予算を、子どもたちの給食費に助成すれば一定の無償化すら実現できる。-こうした価値相反を争う場が政治であるはずだが、争い(=議論)すら成立しないというのであれば、名古屋には政治もなければ、民主主義もない。

公費を投入する施策に対して「損得」を考慮する態度は誤っている。公共事業はそもそも利益を生み出さない(利益を生み出すのであれば、私企業がすでに行っている)また「有用性を求める考え方」も誤っている。公共事業、福祉政策について国民誰もが「有用」と思えるような条件は必要ない。当事者が必要であり、その実施が憲法の要請であれば「適正」に行われればいい。

また、こうした考え方は「人間」にも当てはまる。

社会において、誰かの存在が「得」であったり、「有用」である必要はない。
社会や国家のために個人が居るのではない、個人が居て、その乗り物として社会や国家があるのであって、逆ではない。

「無条件で自分はOKだ」と思える、「自己受容」が、他者をも無条件で受け入れる基本的信頼に繋がり、こうした他者信頼が他者貢献につながり、他者貢献の機会が、「他者に貢献できている感覚」を生み出し、ヒトに「自己肯定感」をもたらす。

こうしたアドラー心理学についての話をしている時に、「他者を無条件に受け入れる」逆が「他者を条件付きでしか受け入れられない態度」であるという話になった。他者を「敵と味方」に選り分ける態度もここにつながる。そして、「他者を条件付きでしか受け入れられない者」は「自分をも条件付きでしか承認できない」と展開され「自分を条件付きでしか承認できない者」は「褒めてもらいたがる」傾向がある。という指摘に行き着いた。

ここに至って、ハタと気がついた。

私は、河村市長の記者会見など、発言を追っているが、いくつか普通の政治家の談話や会見で出てこない単語に引っかかっていた。その内の一つがこの「褒め」だ。

小学生でもあるまいに、大の大人が「褒める」「褒めない」という単語を振り回す姿が、正直理解できなかった。
(もっと、理解できない単語に「威張れる」がある。なんでも名古屋城天守木造化は、名古屋市民が「威張れる」為に作るんだそうな。多分、この「威張れる」も「褒め」の変奏に過ぎないのだろう。「名古屋市民が威張れる」というのも、主語を名古屋市民一般に仮託しているだけで、実は「自分が威張れる」ことが重要なのだろう。こうした事物に頼らざるを得ないほど、自我が脆弱であるという事なのだ。本当に哀れだ)

河村たかし名古屋市長の市長記者会見で、引っかかり続けた「褒め」という単語の正体がわかった。

河村たかし名古屋市長自身が、共同体感覚を得られておらず、ここから得られる自己受容が不全となっている。なぜ、すぐにヒトを「敵と味方」に分別するのかといえば、他者を条件付きでしか受け入れることができないからだ。

名古屋城の市民説明会などでも市民から意見が投げられたときに「自分はそうは思わない」という反論を行う。
全体の奉仕者として、市民意見を聞く場であるのなら、自分と異なる意見が出た際には、こうした異論が出た理由や、異論による自論の再評価であるとか、こうした異論についても考慮していたかなど、考えるべき事柄はいくつかあるはずだ。しかし、彼にとっては「自分はそう思わない」から自論を語り、それを理解しろと迫るだけだ。そして河村たかしの自論に異を唱えるものは、「敵」なので、考慮しない。(地域委員会の議論でもこうだったわけだ)

こうした態度では「他者との共存」は計れない。「共存」すべき本質的な「他者」とは、自分とは意見や考え方を異とし、即座には理解できない存在でなければならない。物理的に自分を取り巻く周辺者は、自分を(表面的でも)肯定する自我の写像でしかなく、他者ではない。自分が理解できないような他者からの承認が、自己承認要求には必要であるが、「他者との共存」ができない者には、そもそもその機会すら得られない。こうなると、自己承認要求は枯渇する。その渇望の結果が、「褒め」という言葉につながるのだろう。

つまり、河村たかし名古屋市長というのは、齢70歳を超え、国会議員年金まで受け取っているにも関わらず、自我の形成に於いてはE.H.エリクソンのみなす「学童期」にも至っていないということになる。

河村たかし名古屋市長の市長記者会見における「褒め」という単語の出現回数は、平成22年から10年間で、65回にのぼる。その出現機会と、出現例については本文末尾に掲載する。


追記1:
この人物の行動原理というのは、これなのかもしれない。
実は、この人物の行動原理の目的語に他者がいない。

「総理を目指す」と言っていたが、それは何の為だったのだろう。
誰の為だったのだろう。

国民や有権者の為ではない。
結局、自分の為でしか無い。

総理になるという自己承認を得たい、
そして、総理になって威張りたい。

それだけが行動原理だったのかもしれない。

追記2:
つまり、あれだなぁ。市長室でバンバンこの人物を褒めれば、
いくらでもスクープをモノにすることができる。

何度でも「あおなみ線中部国際空港まで延伸する」計画を紙面に載せられるし、
(追記:最近は、IRを誘致する長島リゾートまで延伸するそうだ)
国交省財務省がどう思っていようとも、農水庁舎跡地に観光センターを建てるスクープで紙面を飾れる。

追記3:
行動原理の3分類という話は人口に膾炙しているだろう。
好悪の判断は、子供の判断基準であり、
損得の判断は、大人の基準である。
君子であれば善悪によって行動を決定せねばならない。

後に、「真善美」という3段階も出会った。
真偽、
善悪、
美醜
こちらはより感覚に寄っている。

しかし、褒め/貶すという基準はなんだろうか。
この判断基準では、自我がない。



「褒め」という単語の出現する、
河村たかし名古屋市長の市長記者会見


<<平成22年度>>

  平成22年5月6日,5月31日,7月26日,12月13日

    ex.平成22年12月13日「誰も褒めてくれんで自分で言いますけれど」

<<平成23年度>>

  平成23年5月9日,5月23日,8月1日,12月28日

    ex.平成23年5月9日「手前みそですけれど、名古屋の諸改革については、大変に褒めておられました」

<<平成24年度>>

  平成24年7月9日,7月17日,8月20日,10月2日,
  10月9日,10月22日,12月10日,12月17日
  平成25年1月21日,2月18日,2月25日

    ex.平成25年1月21日「誰も褒めてくれんでいかんけれど」

<<平成25年度>>

  平成25年4月30日,5月13日,5月20日,
  8月1日,8月26日,11月18日
  平成26年2月17日,2月24日,4月28日

    ex.平成26年2月17日「誰も褒めてくれんでしようがないで自分で言っていますけれど、
    これはやっぱり河村さんの長年やってきました感性の鋭さで、誰も褒めてくれんでね」

<<平成26年度>>

  平成26年5月12日,6月16日,8月4日,
  9月16日,10月14日,11月17日
  平成27年3月30日

    ex.平成26年9月16日「誰も褒めてくれんでいかんですけれど」

<<平成27年度>>

  平成27年4月20日,5月11日,5月25日,7月21日,
  8月10日,8月17日,8月24日,9月28日,12月14日
  平成28年1月12日,2月22日

    ex.平成27年8月10日「なかなか誰も褒めてくれんけれど
    (略)誰も褒めてくれえせんですけれど
    (略)誰も褒めてくれやせんということで、酒を飲まないとやっとれんと。
    やけくそというのは、そういう意味です。(略)
    誰も褒めてくれんで。わしも自分でこんなことは言いたくないけれど」

<<平成28年度>>

  平成28年5月30日,10月31日

    ex.平成28年5月30日「それはありがたいですね。褒めてもらったことあれせんもんでよ」

<<平成29年度>>

  平成29年6月12日,7月24日
  平成30年1月29日

    ex.平成29年7月24日「誰も褒めてくれへんけど」

<<平成30年度>>

  平成30年4月9日,5月28日,7月2日,10月22日
  平成31年1月4日

    ex.平成30年7月2日「褒めてもらわなあかんで、これ。」

<<令和元年度>>

  平成31年4月8日
  令和元年5月7日,5月27日,7月8日,8月26日,
  9月30日,10月15日,10月21日

    平成31年4月8日「誰も褒めてくれんけど」
    令和元年5月7日「誰も褒めてくれへんけど」
    5月27日「誰も褒めてくれませんので」
    7月8日「これは文部科学省からも褒められておりますけども」
    9月30日「なかなか誰も褒めてくれんけど(略)
    ほとんど誰も褒めてくれんということでございます」
    10月15日「誰も褒めてくれませんけど、これね。」
    10月21日「これは、誰も褒めてくれへんで、自分で褒めないかん。
    (略)誰も褒めてくれへんけど」


*1:経済学的に、という意味であって倫理的に適合するかは別の問題だ

*2:私は、こうした非社会的な事物(薬物、売買春、ギャンブル)について、法規制はしない方が良いだろうという立場に立つ。ここは、全くのリバタリアンだ。私自身がギャンブルを(ほとんど)行わない理由に、子どもの頃からギャンブルの実相を見てきたからという理由があるのだろう。こうしたモノは隠せば隠すほど、価値(バリュー)が上がり、その隠蔽が実体を歪める気がする。中南米における薬物の存在など、こうした歪みの究極の姿と言っても良いかもしれない。そういう立場に立つと、昨今話題のIRなど、実現しようが、実現しまいが関係ない。ああしたものが有ろうが無かろうが、嵌って身を持ち崩す者は持ち崩すだろう。私の子どもの頃の下町では、立呑の酒屋の前に縁台やムシロがあって、そこで丼にサイコロを投げていた人々が普通に居た。サイコロが無いときにはジャンケンやマッチ棒までネタになっていたようだ。大の大人が、くしゃくしゃになったお金を真ん中において、血走った目でジャンケンをしていたり、互いにマッチ棒を持って折り合っている姿は鬼気迫った。ところで、名古屋市は、このIR対象候補に名乗りを上げるようだ。しかし、市内に適当な場所が無いために、三重県(愛知県内でもない!)の長島リゾートを候補地に据える考えとか。もちろん、三重県からはクレームが入っているが、河村たかし名古屋市長は、我関せずの態度のようだ。これ、最低の態度であるはずだが、マスコミにおいて真っ当な批判が起きていないのはどうしたことだ?まず、三重県桑名市に対する自治権の侵害だろう。または、「迷惑施設」を他の自治体に作って、その収益だけ名古屋が得ようというのだろうか?名古屋市名古屋市民というのはこうした卑しい自治体なのだろうか。更に、こうやって口だけで参加すれば(それでも、市職員は無駄な労力を割くことになるが)メディアに名前が載る。無責任なエントリーが、政治屋河村たかし」にとって、数百万、数千万円の効果を持つパブリシティとなる。メディアは面白がっている場合ではないだろう。こうした無責任な行動には、キッチリとした批判とともに報じるべきではないのか