市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「知らん顔」をしているのは誰か

本日の中日新聞市民版「内堀外堀」に「接戦の理由」と題した名古屋市市長選挙の総括記事が載っていた。署名記述者は池内琢記者、市政担当記者である。

少々引っかかる内容だったが、正直何が引っかかるのか判らなかった。しかしその後に社説として掲載されている「『知らん顔』の果てに」を読んだ後、暫く考えていると、何が違和感かが判り、我慢ならずにこの文章を書いている。

まず、「接戦の理由」からかかろう。

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「内堀外堀」/「接戦の理由」

最初に「選挙活動は街頭演説が頼り」という出だし。池内記者は一般論として、選挙活動における街頭演説をそれほど重視しているのかと思っていたが、違った。これは多分この一文の前に「河村たかし名古屋市長の現職市長再選への選挙運動を総括してみると」というような文章が付いていたのだろう。囲みコラムという字数制限に合わせて、こうした省略は致し方がないだろう。

確かに河村市長の選挙活動は、あのヘンテコな名古屋弁によるいい加減な(実際に、事実誤認も多い、つまり嘘も多い)政治漫談的な街頭演説以外には何もないといって良い。これは昨日今日始まったことではない。

池内記者もそうした街頭演説頼りの選挙活動だけで「本当に票が取れるだろうか」と「半信半疑だった」ようだ。

この一文は不思議だ。河村候補にネガティブな事情として、「主な政党は軒並み相手候補の支援に回った」「大村知事のリコール運動と、その後の署名偽造問題も問題視する人は多かった」「新型コロナが猛威を振るう中、なぜリコール運動を続け、感染対策に全力を傾けないのか」などを掲げている。それであるなら考察するべきは「それでも再選の理由」ではないのだろうか。これほどネガティブな条件の中で、それでも「四万八千票差の接戦」となった「接戦の理由」・・・・正直、この一文を読んでも、その題名に掲げた「理由」が私には読み取れなかった。

そこでハタと気がついた。

そうか、池内記者は「とりあえず、無条件で河村市長再選が当然と思っていて、それが『これほど接戦になった理由』にこれらのネガティブな条件が重なった」と理解しているのだ。

つまり、こうしたネガティブな条件がなければ、①多選禁止を自ら主張していたのに、②国会議員年金について自ら受け取らないと公言しつつ、実は受け取っているにも関わらず、③日立訴訟において、手続き無視の事業停止で名古屋市が日立から訴えられ、侵害賠償を支払うこととなったにもかかわらず、④それも5年前のADRを受け入れていれば1億5千万円の支払いで済んでいたものが、グズグズと3億8千万円に支払額が膨らんでしまったにもかかわらず、⑤またその損失を誤魔化すように1億円儲かったなどと、またまた名古屋市民を惑わすような「嘘」を口にし、⑥それだけに飽き足らずその日立に優位的な立場を利用して寄付金を強要するという下請け企業の経営をやったことが有るものであればとても容認できないようなアンフェアな行為を行った事まで発覚し、⑦更に名古屋城の事業はぜんぜん進まず、⑧SL再建にしてもやりっぱなし、⑨そして名古屋市の最大の課題であろうリニア新幹線の受け入れ問題もまったく進まず、さらにさらに、⑩現下のコロナ禍についても、県市の連携が取れずに居るけれども、選挙戦で(実は、岩城副市長などが提案して形にした)教育改革を掲げた河村市政の継続が選ばれる、と思っていたということなんだろう。

つまり、①~⑩までなど、名古屋市民はほとんど問題ともしないと思われていたのだ。

そりゃそうだ。あなた方が禄に書かなかったから、名古屋市民は知りもしなければ、意識もしなかったのだろう。

市長選挙を政策議論の場ではなく、単なる有名人人気投票に堕落させているのは誰なのだろうか。

「民間企業は、何かあれば一気に傾く」そうだが、結構なことだ。「市長」という人気商売は、その人気は、ネガティブな事実を報じる者がいない限り傾かない。

しかし、私が理解するところ、確か「中日新聞」というのは「民間企業」だったのではないのかな?池内記者に告げたい。他人に「適時適切な判断に心を砕いて欲しい」なんて言っている暇があるのであれば、自分たちの報道が、「適時適切な判断に」叶っているか再考して欲しい。そうでなければ中日新聞といえども、「一気に傾く」のかもしれないね。

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社説「知らん顔」の果てに

そうしたところで、社説にかかろう。社説のタイトルは「『知らん顔』の果てに」最初に「法が終わるところ、暴政が始まる」とジョン・ロックの「統治二論」の言葉を引いている。これは検察庁法を恣意的な判断で変えようとした安倍前政権に対する松尾邦弘元検察総長らの意見書にも引かれた言葉であり、安倍前首相に成蹊大学において法学を教え、後に「首相と取り巻きは、憲法は既にないものとの認識ではないか」「ずるい政治家です」と批判している加藤節名誉教授の訳でもある。

【意見書全文】首相は「朕は国家」のルイ14世を彷彿 [検察庁法改正案]:朝日新聞デジタル

確かに、安倍前政権における法律の恣意的運用には目を覆うものがあった。私は内閣人事局が力を持ちすぎ、内閣法制局が弱体化した、首相官邸の権力が暴走している現状に危惧を持つ。行政権と立法権首相官邸においてアンバランスに集中してしまい、司法権が損なわれ、三権の分立が崩れ去っているのが今の日本の社会に見える。

しかしこうした手の届かないような大きな話ではなく、手の届く範囲、目の前に、全く同じ問題が横たわり、そうした手の届く問題も解決できないのであれば、国や社会全体の問題など議論したところで虚しい。


「暴政とは、人が、その手中に握る権力を、その権力の下にある人々の善のためではなく、自分自身の私的で単独の利益のために利用することである」


・県民の1%程度しか賛同しない知事リコールを提唱し、そうした結果が出たにもかかわらず、その県民の民意を聞かず知事に謝罪もしない権力者。


・2万人にDVDまで同封するという高価な「アンケート」を行ったにも関わらず、市長の意見に賛同する市民はたった7%であったにも関わらず、あたかも市民全体の民意であるかのように、不要不急の名古屋城木造化をすすめる私利私欲。


・そして、そうした市長の「暴政」を、伝える力を持っているにも関わらず、市長室から漏れてくる「特ダネ」にありつくために、市長批判を行わない中日新聞の市政記者たち。

人が、その手中に握る権力を自分自身の利益に使いたがるのは自然な事かもしれない、しかし、そうした視野狭窄が社会を毀損していく。

メディアは常に権力を監視し、相互に緊張感を維持しなければ腐敗する。

社説では、最後に半藤一利さんの言葉を引いている。

この言葉を私は、河村市長の再選が当然であると捉える、中日新聞の記者にこそ噛み締めて欲しい。

「戦争は、ある日突然に天から降ってくるものではなく、長い長いわれわれの『知らん顔』の道程の果てに起こるものなのです」

戦争とは、政治を担う者が、文明的な政治という仕組みを投げ捨てる行為だ。そして、それは、政治を担う者、権力者が、自らの権力のために、「権力の下にある人々」を蔑ろにする行為である。権力者が有権者を侮り、蔑ろにするところに文明は破壊され、戦争も起きる。そして民意を無視した「暴政」が大手を振って歩いていくのだ。

市政記者の君たちが「知らん顔」をしていれば、そうした乖離は起きる。

そして、現に起きている。ある人は市長が県知事にリコールを突きつける行為は、これが国家間であれば開戦と同じではないかと語った、実際に一昔前のヨーロッパや中国の歴史に見る国家間戦争など、こうした開戦理由は散見される。

民意を無視し、権力者の虚栄心のためだけに行われる戦争。
構図として全く同じではないのか。

事実、法、民意を無視した権力者に適切な批判をメディアが行わなければ、権力者はどこまでも暴走する。なぜ名古屋でだけ大多数の市民には利益にもならない「河村流減税政策」が続けられ、28%もの有権者がこんな政策を支持しているのだろうか。君たち「中日新聞の市政記者」が、こうした事実に「知らん顔」しているからではないのか。

百歩譲って、減税はいい、名古屋城やSLもいいだろう。しかし、仄聞するところ、名古屋市内における高齢者に対するワクチン接種の予約について、年齢などで区切って案内状を送るなどすべきところ、全対象者、61万人に一気に案内を送り大混乱を引き起こした。その理由は、河村市長が、市長選挙の間に「名古屋市長・河村たかし」名で案内状を送付したかったために、現場の意見を無視して案内状を送ったからであるという話が流れている。

コロナ禍対策まで、こうした自らの選挙利用を行うとしたら。こうした事実無視、民意無視の施策が続けられたとしたら、どれほどの人々が困惑し、実害が生まれるだろうか。

法を無視し、手続きを無視し、そして権力の下にある人々のためを無視する市長など要らない。そして、それを伝えないメディアも要らない。

「知らん顔」をしているのは誰か。



追記:
本文に入り切らなかったが、ツイッター上で、有る方が指摘していた「早速」の河村市長公約破り、市政記者諸氏に志が有るのであれば、記事に書けとは言わない、せめて河村市長に直接聞いて欲しい。「どういうつもりだ」と。

1.河村*1は公約で「市長自ら毎日在庫、接種状況を確認」と明記している。

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河村公約(部分)

2.河村は5月6日までまともな公務がない。

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市長の1日(5月1日~6日)

3.毎日新聞の候補者アンケートにも「休みはにゃあがや」と答えている。

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毎日新聞の候補者アンケート

1で市民に約束した在庫、及び摂取状況の確認を怠ったのであれば、その怠業を詫びよ。



追記:
中日新聞は、こうした嘘が蔓延ることをどう思っているのだろうか。

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安藤のぶあき 「南京大虐殺の大嘘」

日本において南京事件を否定するものは、約束をしておいて、その利益だけ享受し、責任については後出しジャンケンのように、逃れようとする卑怯者であると思っている。

卑怯者

なぜなら、日本はサンフランシスコ講和条約第十一条において、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」と明言しており、この条件によって主権回復を果たしたからだ。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

また、よく知りもしないくせに「大嘘」と決めつけるバカには、偕行社の方々の苦渋や責任、人としての在り方を問い続けた誠意など理解できない、誠意なき者たちなのだろう。つまり、(自粛)だ。

減税日本がこの度、名古屋市会議員南区補選に候補として選択した者は、この卑怯者で、(自粛)の類だ。そして、そんな文化を名古屋市に根付かせようとしているのは、河村たかしとそれを肯定し続ける中日新聞だ。


*1:市民に嘘をつく公職者には敬称を付けない

政治の有効性を再建し、市政を市民の手に取り戻すために

前回の追記で5月2日「中日新聞を読んで」という投稿欄に掲載された名古屋学院大学の江口忍教授の「市長選 勝負の分かれ目」について触れた。

江口教授の価値観はさておき、横井候補の「2万円商品券」に対抗する河村の「30%キャッシュバック」が公約として優れていると有権者が思ったという主張だったが、その理由として、河村案は「2万円✕4年間で最大8万円の還元が受け取れ、それにかかる経費も200億円で済む」という、ちょっと考えれば明白な矛盾を、「横井案よりも儲かる」「横井案よりも公費の支出が少ない」と解説する。

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「市長選 勝負の分かれ目」江口忍教授

これを私は単に江口教授の考察の浅さと批判したわけだが、江口教授自身がこうした矛盾を受容した背景には、それを報じた中日新聞の報道があるのではないかという意見を頂いた。つまり、中日新聞の報じ方、または河村自身の説明が曖昧でいい加減なものだったために、江口教授は誤認してしまったのではないかということだ。奇しくもこれは「中日新聞を読んで」という読者からの受け止めを紙面に反映させる企画であり、そうした意味ではこの誤認を吐露している江口教授の一文こそが、まさしく中日新聞の報道の歪みを表していることになるだろう。


さて、今回の名古屋市市長選挙においても40歳代の河村投票率が高いという傾向が示された。

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年代別投票傾向(中日新聞Web)

また、ある人からは「なぜ、今の『若者*1』は政治に関心がないのか」という問いを投げかけられた。

少し前にNHKが「AI」に日本社会の問題を聞いてみるという番組を作り、その中で「40代ひとり暮らしが日本を滅ぼす」という「提言」が示され議論になった。

diamond.jp


早い話が、この場合「AI」というのは、いわゆる傾向性の関連を探るものであって、「Aという事象が増減すると、Bに影響が出る」事を言っているだけのようだった。つまり「健康になりたければ病院を減らせ」という「提言」も提示されたが、これは因果関係が逆で、「病院が少ない地域は、健康な人が多い」という傾向を言っているだけで、もっと突き詰めると「病院の少ない地域では、健康を害している人は暮らしにくいために、結果として健康な人だけが残る」に過ぎないのではないかと考えられる。この傾向を誤認し「病院が少ない地域は、健康な人が多いらしいぞ」などと、地域の医療システムをガタガタにすれば、確かに住民の健康度は上がるだろう。それは、そんな地域では暮らしていけない、病気を持った人々が転出していった結果でしかなく。健康を害している者に暮らしにくい地域は健常者にとっても安心な暮らしを維持する地域とはなりにくい。

「40代~」の問題も同様で、確かに40代になっても結婚もせず、一人暮らしを続けていれば、子どもは生まれず人口自体が減ってしまう。更に子育てや家庭を構成するための消費も減退するだろう。しかし、それは結果を原因と見誤る議論にほかならず、「なぜ、40代ひとり暮らし」がこれほど増えたのかという本当の原因を追求しなければ、いま、明白に日本を覆う亡国の失政は見直されないだろう。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

すなわち、「縮小均衡論」「財政再建論」こそがこの日本を滅ぼす亡国の暴論なのである。


しかし、呆れたことに、その被害者であるだろう40代の人々が「縮小均衡論」「財政再建論」を信じ、今回の市長選挙においても河村に最も高い比率で票を入れている。

最近「肉屋を熱烈に支持するブタたち」という表現があるようだが、まさにこれを想起させられる図式だ。40代の市民が河村を支持すれば、名古屋市において「縮小均衡論」「財政再建論」に準じた政策が続けられ、「病院が少ない地域は、健康な人が多い」的に医療リソースも削られていくだろう。(実際に、「市民病院」は全てなくなった)そうした社会は、子育てを担う40代には負担の大きな社会となり、より一層結婚、出産へのハードルが上がり、婚姻可能収入が高騰し、結婚の為の条件も厳しくなる。非正規では結婚できないという条件になりながら、公共セクタ、各企業は雇用を減らし、非正規雇用の比率を上げていく、そのためにこの条件をクリアできる対象者はいよいよ減少し、結果として「40代ひとり暮らし」が増える。そして子どもが減り、名古屋は病院の少ない、健康な人だけの社会となるのだろう。

なぜ、40代の人々は有効な政治的指向*2を持てないのだろうか。その一つの原因は、この年代は政治に可能性を見いだせていないのではないかという推測が立つ。政治に可能性を見出だせない者は、真剣に政治的選択を行うことはない。

(ここで、小泉・竹中構造改革路線を継承してしまった民主党政権の失敗を見た40歳代というセンテンスを書いたが、迂遠なのでカットした。大衆全般が政治への不全感を持つ中で、特に40歳代にその傾向が強いのは、この政変の影響ではと推測する)

政治に可能性を見いだせない。それは40代の世代だけに限ったことではないだろう。日本の社会を構成する「大衆」全般が、政治を信頼せず、可能性を見いだせていない。

日本社会に政治的可能性は有るのか、もう少し簡単にいうと、「日本社会は政治によって、より良くすることができるのか」。大衆には懐疑が有る。大衆が政治に可能性を見いだせていない、大衆から政治が「見限られた」ならば、民主主義は成立しない。なぜならば、民主主義において、政治に力を与え、政治の可能性を実現するのは、大衆の信任である。大衆において政治への信任が無い状態では、政治に可能性はない。

大衆が政治を信じず、政治に力が無いからこそ、政治は国民と乖離し政治は国民を裏切る。そして、さらに政治は大衆の信任を失う。

これでは、国民と政治/政治を担う者たちの間で相互不信が生まれ、それが解消されず、その溝が徐々に巨大になっていくだけだ。

果たして、政治を担う者たちの裏切りが、この不信を呼んだのか、または大衆の無関心が、相互不信の原因か。どちらが原因で、どちらが結果かは判らない。しかし、政治を担う者である以上、政治の可能性を信じ、国民を信じ、語りかけ続ける必要はあるだろう。政治を志しつつ、国民、大衆を信じられないとするのであれば、それは不幸な事だ。単なる私利私欲を満たすためだけに、議員という職を得、安楽に禄を喰むためだけに政治の世界に居るのだとすれば、社会にぶら下がり続ける寄生虫に過ぎない。

同時に、国民、有権者も信じる事のできる、有効な政治を模索すべきだろう。政治とは主観的願望を、ただ唱えるだけの虚しい行為などではない。生きるための方法を模索する手段であり、具体的に生活を、そして社会を変えていける道具だ。

もしあなたが、市場の中で生きていけるのであれば市場原理に身を委ねて、金を稼げばいい。しかし、そうした市場の中でも正当な配分を維持しようというのであれば、政治的模索は必要だ。現に現在の日本では正当な配分がなされているとは思えない。また、市場では、個々人の能力、努力とともに、資本の力が影響を及ぼしている。資産を持っている者は、能力、努力がなくとも生活が成立し、貯蓄でき、更に資産を増やすことができる。デフレ、そして安定的な下落傾向に有る日本社会においては、個々人の労働や努力より、資産が産む資産の再生産のほうが有効となってしまう。そして、資産を持つ層は、よりデフレを進行させ、安定的な下落傾向を望み、政治的な誘導を行い、実際に日本はその様になっている。

いわゆる、霞ケ関エスタブリッシュメント、及びマスコミの上層にいる人々、つまり今の日本における「上位層の人々」は、同時に資産家の子息であり、その閨閥に連なる者たちが多い。そうした層が持て囃すのは、縮小均衡論であり、財政再建論、自己責任論だ。河村たかしが国民の支持を得たのも、某民法放送局のプロデューサーに気に入られ、準レギュラーとして政治バラエティに出演したからだ。河村たかし、さらに竹中平蔵、今でいうと橋下徹。こうした存在はこの「上位層」を固定化させるアジテーターであったのだろう。

ここで最近出会ったある事例を紹介しよう。高齢の親が大村知事リコール運動に熱心に参加された。心配したその方が大村知事の行為を擁護すると「パヨク*3」と認定され、縁を切られた。というものである。こうした体験は、様々な機会で見聞きする。高齢の親がガラケーからスマホに替えたところ、インターネットコンテンツに触れ、いわゆる「ネトウヨ言論」に嵌り、それを頭から信じてしまい生活や人間関係に支障を来したという事例は幾つも有る。実は、こうした事は「ネトウヨ」だけに限らない、「左翼方面」でも似たような「症例」はあるし、政治だけに限らず宗教や、連鎖販売商法などでも同じような事例はある。つまり、「ネトウヨ」に嵌る高齢者の問題は、昨今の「右傾化」が原因とだけは言い難い。元々ある「高齢者が嵌り、生活や人間関係に問題が出る傾向」に、政治的言説とインターネットコンテンツが加わったということなんだろう。

では、なぜ彼らは家族やリアルな人間関係を破綻させてまで、こうした政治的言説、宗教、または連鎖販売商法にこだわり続けるのか。それは、そうした言説や宗教的人間関係、連鎖販売商法の現場における自分への評価が「心地良い」からだ。その言説の論理的整合性や、事実の根拠など関係ない。その宗教の来歴や社会的評価も関係ない。連鎖販売商法における商品価格の適正さや、販売員がかける労力の異常さも目に入らない。それらに触れている時、自分が重要視され、必要とされ、濃密な人間関係の中に居られる。それが心地良いのだ。

宗教などの場合、社会の評価が酷ければ酷いほど、そうした批判に耳を貸さなくなり、その世界に閉じこもる傾向がある。連鎖販売商法などで言えば、販売員が夜中まで家に押しかけてくるような事例ですら、「熱心」とみなしてしまう。当然、販売員がそれほど「熱心」なのは、その商品に高い販売コミッションが掛かっているからで、販売員が熱心に惹かれているのは、当事者ではなく販売の結果のお金なのだが、当事者にはそれは判らない。そして、周囲の家族や人間関係がそれを告げても、一旦この「心地良い」空間に嵌ってしまうと、その空間を否定するものとして、関係は断ち切られる。

そもそも各メディアというものは、その受容者を心地良くしようとする。テレビであれ、ユーチューブであれ、そしてこんな長ったらしい文章が並ぶだけのブログであれ、受容者は心地良いからそれを見、聞き、読もうとする。最近では Google などの仕組みによって、その当人の視聴傾向に合わせて、心地良いコンテンツが提示される。それは少しでも視聴者をメディアの中に居続けさせることが、視聴率やPV(ページビュー:インターネットコンテンツの視聴量)を稼ぐことに繋がるからに過ぎない。ヒトは心地良いメディアが提示されれば、ついつい見入ってしまう、聞いてしまう。そして Google などの事業者は、見入ったり聞き入っている者に対して、広告を ー不快を与えないようにー 提示し、広告料を手に入れる。

地上波における各テレビ番組、ユーチューブ、更にはインターネットのコンテンツ(フェイスブックツイッター、各まとめサイト等々)に至るまで、視聴者の好みや傾向を研究し、各個人の視聴傾向に合わせた心地良いコンテンツを提示しようとする。そのため、例えば「大村知事リコール運動」に注目をしている人々には、それに準じたコンテンツが提示され、さらにそれに対して肯定的な者には、いわゆる「ネトウヨ」的なコンテンツが提案され、否定的な者には、左翼的なコンテンツが提示される。こうした仕組みに不慣れなものは、「世界のすべてが、自分の考える*4主張に同調的ではないか」と思ってしまう。つまり、ネトウヨ人士がよく口にする「普通の日本人なら」「みんな」そう思うというのは、こうした仕組みによって、彼/彼女の前に提示されるコンテンツに一定の傾向(バイアス)が掛かっているからに過ぎない。

Google などが行う、こうしたバイアスがなかったとしても、元々人間には「自分の好むコンテンツに対しては、その存在を意識するが、好まないコンテンツに対しては意識しない」という傾向があるために、あたかも自分の考えが、「みなと同じ普通の考え」に思えてしまう。

ここで悲しいのは、こうしたコンテンツ、特にSNSの「グループ」などに所属すると、そこが自分の帰属する先であると誤認してしまう。自分はそのグループに確固たる存在であると思いこんでしまう。そうなると、そのグループからはなかなか離れられなくなる。「自分が今離れたら、そのグループはどうなるんだ」などと変な使命感まで持ってしまう。参加者はそれほどの帰属意識を持っていても、グループ自体は大抵の場合、一般の参加者にそれほど意識は傾けてなど居ない。もし、あなたがどこかのグループに参加していて、そのような負担を感じているのであれば、それは単なる誤解であって、あなたが居なくなってもそのグループは存続を続ける事に気がつくべきだろう。

ここで、こうしたグループが参加者をスポイルするもの(その究極が「カルト」)になるか、単なるグループに留まるかは、次のような傾向によるものではと思われる。

どのようなグループでも、「ボス」がいる。それは創始者で有ることも多いが、そうでない場合もありうる。そのグループを存続させる権限を持っている。そして、そのグループはその「ボス」が心地良くなる空間として維持されていく。「ボス」にとって心地の良いものでなくなれば、存続を停止するか、「ボス」自体が離れ、別の者が「ボス」となり、空間を維持していく。こうしたグループが形成されていくと、そこで参加者の中には様々な形で負担を求められ、スポイルされる者が出てくる。グループがそうした負担をあたかも当然のものと認識し、負担すること自体が「心地良い」自己犠牲と認識され始めると、その負担が拡大し、さらに「今までこのグループにこれだけの犠牲を払ってきたのだから」と逆に引くに引けなくなる。こうなると「カルト」が形成される。

人によって心地良さの基準は違う。今の苦痛より将来の報酬を期待し、心地良いと思えば、今の苦痛も甘受する。

これは、こうしたグループだけに限ったことではないし、当事者の知性すら関係ない。企業における「やりがい搾取」と呼ばれるものもこの一亜種に過ぎないし、日本の官僚機構に蔓延る違法労働は、こうした人間における認知の歪みに依存している。ちょっと横道にそれるが、霞ケ関官僚などは、日本社会のためや、正しい行政のために動いているものなどほとんど居ない。そんな高邁な理想はスポイルされ、すり潰されてしまう。一般には組織の、つまりは、省の、局の、部の、課の。小さなグループの利益を優先するために自己犠牲を強いられているように見受けられる。

こうした空間においては、「常に上ばかりを見ている」いわゆる「ヒラメ人間」が幅をきかせる。全体の合目的性など失われ、上の人間が面子を潰さないように、時には命がけでどんなことでもしてしまう。それは最早労働とはいえない。


つまり、こうした閉ざされた空間の中で、上だけを見ている者は、そのまた上は上を見、最後には「上位層」の動向を気にかけ、「上位層」のお気に召すように、自身の行動傾向を修正していく。「上位層」のお気に止まり、引き上げていただければ自身の将来の利益に繋がると期待している。しかしこれは誤認にすぎないのだが、これが「肉屋を熱烈に支持するブタたち」の誕生の秘密であるように思える。

「上位層」のお気に召す行動に自身を変容させている間に、あたかも自身も「上位層」に存在しているかのように誤認してしまう。別にそんな義務もないのに、企業や店舗に強い帰属意識を持ってしまう「バイトリーダー」の存在は、様々な形で戯画化されているが、街角のラーメン店から、霞ケ関の中央省庁まで、「ヒラメ人間」となって、自身がスポイルされ、自身の行動の目的性さえ見失った人間が溢れているのだろう。

そして、そうした者たちが口にする「自己責任」「財政健全化」自分に子どもは居ないのにも関わらず、口にする「子どもたちにツケを負わせない」などの言葉は「借りてきた言葉」でしかなく、回り回って自分自身に負担を強い、スポイルする論理であることに気が付かない。

彼ら「ヒラメ人間」が、「借りてきた言葉」で誰かを「自己責任」であると批判するとしたら、彼ら「ヒラメ人間」が裏切られ、組織から捨てられて「自己責任」という言葉で批判されても受容できるのだろうか。(減税日本の田山市議から見た則竹元団長の姿というものは、こうした観点から興味深い示唆を与えてくれるだろう)

「借りてきた言葉」を口にする「言葉の自動機械」(C宮台真司)は、自分自身をも攻撃する論理に力を与えてしまう。

今回の知事リコール問題をもう一度よく考えてみて欲しい。そもそも「市長」という存在は、不偏不党、全体の奉仕者であるべきで、230万名古屋市民の付託を受けた存在だ。その名古屋市長が、230万名古屋市民の意志として、愛知県知事の解職を求めるなどということが有れば、それは余程の事態だ。事実として、リコール署名を行った、有効な署名者は1%に満たない。つまり、約2万人程度の名古屋市民だけが、河村市長の解職の趣旨に賛同して、知事リコールを求めたに過ぎない。よしんば、愛知県知事に、名古屋市民に対して不当な施策が見られたとしても、河村市長も政治家であるなら、大村知事と交渉をし、または、あいトリ会長代行として働きかけることもできただろう。こうしてみると、河村市長は、名古屋市長としての職責を十分果たしているとは言えず、230万人名古屋市民の民意の代行者としてどう有るかではなく、自身の主観を押し付けていたに過ぎない。

合目的的という観点からすれば、名古屋市と愛知県という行政の在り方にとって、大村愛知県知事を名古屋市長が解職しなければならないような理由は、あの解職の趣旨にはない。

単に私怨、大村愛知県知事に対する河村名古屋市長の歪んだ私怨が、あの知事リコール運動であり、その行動は明らかに一般の名古屋市民の利益を侵害している。

本来であれば、この段階でアウトだ。名古屋市長としての座を、私怨で利用した。そして自らの市長選挙を睨んだ、事前運動として知事リコールを企図した。このような異常な政治的行動は、これだけで十分名古屋市長解任の理由になりそうだが、そうはならなかった。こんな議論はまったく成り立たない。市長が全体の奉仕者たるを尊重せず、私怨による行動であると批判しても、あたかも左派、右派の主観的好みの押し付け合いに見えてしまう。

健全な政治的言論が失われている。

署名偽造問題がなければ、知事リコール運動自体は不問に付されてしまっただろう。そもそも市長が自身の主観的主張から、知事をリコールするという、行政組織の立て付けを揺るがす、異常な行動について、正当性があったかのように扱われてしまっている。

さらに、この一連のあいトリ問題がなければ、河村は長期安定政権を築いていた。東京都においては、石原慎太郎は逃げ切った。首都銀行問題、首都大学問題、どちらも明白な失政で、莫大な損害を東京、及び日本に与えたにも関わらず、その声は大きくならず、本人にもそのような反省は見られない。政治的文脈の中で、議論によってそれを論破しきることはできないのか。論理的に誤っていても、そしてその主張が容れられれば、日本の社会に大いなる損失が生まれることが明白であろうとも、この石原の行動は批判を受けず、河村や橋下の言葉は今日も、そして明日も大きくメディアに取り上げられるだろう。

健全な政治的言論が力を失う原因である。

大衆、有権者はそれらの言葉をうまく評価できない。テレビやユーチューブで語られる言葉が、それらを肯定すれば、肯定し、否定すれば否定するだけだ。

そして、最終的に選挙では、マスコミに現れる回数の多いものを、結果としてその是非を考慮せず、選んでいるに過ぎない結果が生まれる。

政策の中身など関係ない、気にもしていない。そもそも有権者の大部分には、評価基準がない。(「人柄」という評価基準には失望しか無い。ヒトにとって家族や職場の人間、学校の同級生ですら、その「人柄」など本当のところはわからないだろう、ましてや市長候補の「人柄」など、触れられるのは一部の人に限られる。メディアが振りまく幻影を「人柄」として誤認しているに過ぎない。それを選択の基準であるとしているのは、評価基準が無いと言っているに等しい。そしてそうした傾向を、マスコミがあたかも当たり前の行動として取り上げる時、有権者の思考停止は肯定されてしまう。こうした思考に依らない「無責任な投票行動」が広がり、国民と政治の乖離は広がる)

有権者は選挙で選んでおしまいではない。選んでから、何をするのか、何をしないのか。じっくりと見極める義務がある。メディアも、選挙が終われば、「民意が示された」と投げっぱなしにせず、選ばれたものの評価をし続けなければならない。その責務が有る。

伝えない、報じない事で、国民は理解せず、知らないままだ。国民は理解せず、知らないことには興味を持てない。興味が持てないために記事を読まない、ニュースを見ない。読まれない記事は紙面に載らない、紙面に載らないために伝えられない、報じない。そして、ループが完成する。

このループの中で、国民は政治的言論を失い、安易な「言葉の自動機械」に成り下がり、「ヒラメ人間」となって、構造を支え、スポイルされ続ける。こうして30年余りが過ぎ、(コロナ・ワクチンすら手に入れられない)下層国に成り下がったのが、この日本だ。それを打破するには、声を上げ続け、おかしなことには「おかしい!」と言う。権力者には尻尾を振るより前に、とりあえず歯向かう*5。健全な言論が必要だ。

声を上げよう。我慢することなど無い。
社会は、あなたのためにあるのだから。


*1:この時に捉えていた『若者』とは、20代や30代ではなく、40代ぐらいの人を想定しているように思えた

*2:自身に有利な政治的主張

*3:ネトウヨが左翼を揶揄する際に使う呼称

*4:実は、自分で考えたわけではなく、自分が聞いて納得がいき、心地よいと思ったに過ぎない他人の考えでしか無い

*5:こうした対抗言論に向き合うことが、民主主義における権力者の責任だ

河村流電子決済地域キャッシュバックシステムをハック

はじめに。

河村市政の問題点を追求したい方。
あいちトリエンナーレについて、ご意見のある方。
そして、大村知事リコール問題と、そのリコール署名簿偽造問題に興味のある方のための、リンク集を作ってみました。

まだ、事象は流動的ですので、このリンク集も修正をして行く必要があると思います。
このリンク集作成の段階で見落としているものもあるとおもいます。(幾つか、興味深く見ていたサイトが見つかっていません)

なので、不足分については、自薦他薦をコメント欄などにご投稿ください。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

さあ、今日は儲け話をしましょう。

河村たかし市長選挙の当初、対立候補の掲げた「2万円商品券」を「愚民政治」と腐したにも関わらず、減勢日本所属の大村光子市議が「魅力を感じる」と言ったことを受けて、対抗政策として提案したとか、特別秘書(元ソフトバンクに居たのか?)が提案をしてきたとか、思いつきのようにマニフェストに、「電子決済地域キャッシュバック」を公約に掲げてきた。

ひと呼んで「マネ・フェスト」

しかし、こうした自治体における地域限定キャンペーンは Paypay などでは、すでにアチラコチラで展開されている。

paypay.ne.jp

ここで、重要なのは、このキャンペーンは、その地域の商店など、事業者救済が目的で、キャッシュバック対象者を地域限定にすることはできないということだ。つまり、名古屋市が市税でキャンペーンを行おうとしても、名古屋市民に限定して展開することはできない。もう、この段階で、名古屋市民だけに配布される「2万円商品券」の方が優位であることがわかる。下手をすると、下手な制度設計をすると、名古屋市民は消費者として、この「30%キャッシュバック」の恩恵を全く受けずに終わる可能性もある。

それは後述するとして「スマホなど全員が使えるわけではない」「高齢者は電子決済など利用しない」などの批判に、本人自ら使って見せている。

公約であり、市民が選択したからには、どんなバカなことであろうと一度実行してみるべきだとも思う。そこで、以下に述べるような「ハッキング」をかけると、うまくすると大儲けができる。

「ハッキング」といえば、コンピューター(または、そのネットワーク)に対する不正利用と思われているが、元々はコンピューターとは関係なく、一般的な社会資本の不正利用を指す言葉であった。現在ではそうしたものは「ソーシャル・ハッキング」と呼ばれるようになっている。

ある人は河村たかしの行動を「ソーシャル・ハッキング」であると指摘した。

確かに、リコール運動における「ネットワーク河村市長」の受任者名簿をリコール事務局に提供した問題に対して「政治団体の政治目的であれば、個人情報保護法に抵触しない」というような主張や、名古屋城の木造化における「文化財の復元であれば建築基準法の適用除外を受けられる」という言い立てなど「法律に反していなければ、その法律の立法目的を犯しても良い」という考え方は「ソーシャル・ハッキング」の一種である「脱法行為」そのものだろう。

そもそも、政治家河村たかしの存在そのものが「ソーシャル・ハッキング」である。

https://www.hit-u.ac.jp/hq-mag/pick_up/pdf/hq24.pdf

これは一橋大学の雑誌のようだが「値下げをすれば売上が伸びる。商売も政治も大学も基本は同じです」だって。大丈夫かね一橋。商売を「売上」で捉える時点で「商人*1」失格、素人そのものだけれど。プライスレースで、そうした表面的な成功らしきものをもって満足するかのような誤認を、学生に喧伝するとしたら、学校(大学どころか、小学校としても)として落第だ。

一橋大学と言えば、その設立にはあの渋沢栄一が関わっている、商法講習所が前身であるはずなのに、そうした商いの基本が失われているのであれば、日本が衰退するのは当然の帰結だろう。

河村たかしの人生はすべてこの「値下げをすれば売上が伸びる。商売も政治も大学も基本は同じです」なんだろうね、古紙回収業でこれをやって商売を大きくしようとした、しかし、父親に怒られて画廊を始めたり、司法試験を受けようとしたり。名古屋市長として「市税10%減税」として、「行政の安売り」をうたってみたり。「日本一安い市長」と、文字通り自分を安売り(それでも十分高いと思うけど)してみたり。全てプライスレース。

愚鈍の極み。としか言いようがない。

商売に戦略は必要ない。価格にせよ、商品開発にせよ、競争は疲弊する。そもそも競争の必要のない分野、モノを模索すべきである。他の誰かが提供できるようなモノなら、任せてしまえばいい。誰もできないから仕事として意味があるし、会社としても存続できる。そして付加価値も高い。

日本ではこのところ、誰かが成功した後を、巨大な資本で追ってその成功を奪うような経営者ばかりが注目され、もてはやされているように思える。それらは企業家でも起業家でもない。そんな行為は単なる作業であって、企業運営ではない。企みを逞しくするところに詩心があったのではないのか。

こうした社会そのものを切り拓ける経営者が居ないから、イノベーションが起きず、生産性は低い。

上記のインタビューにおいて、河村たかし

「人生の土俵際でうっちゃるには、選挙はええんですよ。なにしろ、一発通ってまやええんだで。(略)ロクでもにゃあ奴でも通ってまう。(略)議員になりさえすればメシが食える」と言っている。これはジャクソン流民主主義において議論された「猟官運動」をそのまま肯定しているだけで、何も新しい考え方でもなく、正しい考え方*2でもない。そして、これこそが「社会資本の不正利用」という意味での「ソーシャル・ハック」そのものである。

世に「オピニオン」を自認する者は多いはずなのに、これほど明白に社会を毀損しようとする発言に異を唱えず、はしなくも学問の府である大学が、称揚するかのような態度で居るとは、将に「牝雞之晨*3」亡国の鶏が鳴く姿だ。

ということで、私は、その河村たかしを「ハック」してかかります。小賢しく、ヒトを出し抜いたつもりでいる者を出し抜くって、面白いでしょう。

この「河村流電子決済地域キャッシュバックシステム」には幾つか問題がります。その一つを提示することで、より歪みのない制度設計がされんことを願います。

さて、私の提唱する「河村流電子決済地域キャッシュバックシステムをハック」は次のような仕組みです。

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ハックプラン

①顧客はマクガフィンを¥16,666で買う

まず、名古屋市内に古物取引可能な事業所を構え、30%キャッシュバック対象業者になります。そして、「マクガフィン」を30%キャッシュバックの限度額、5,000円に合わせた販売価格(16,666円)に設定しておきます。この「マクガフィン」とは、作劇理論などで使われる言葉で、物語を回す事物で、その内容は関係のないものです。この場合もこのハッキングを回すためだけの事物で、具体的には商品券でも最近流行りのトレーディングカードなどでも構わないでしょう。

ネット上に販売、購入窓口を設定し、「1クリックで約2,000円のお小遣いを提供」とうたい、顧客を呼び込む。

②30%キャッシュバック¥5000が支払われる

まず、 16,666円の「マクガフィン」購入で、顧客には30%キャッシュバックの限度額、5,000円が支払われます。

③即座にマクガフィンを中古販売 買取比率85%

16,666円の「マクガフィン」を買取比率85% 14,166円で買い取ります。この代金を「本人限定現金書留郵便」*4で送ると、送料が550円かかりますので、その経費を引いた 13,616円を顧客は手に入れることになります。

実際には顧客は「マクガフィン」に触れる必要はありません。実態的に物が存在しなくても、誰も損はしません。(正確には、名古屋市民は損をしている)しかし、それが違法行為であるか合法かは私には判断できない。商道徳からすればアウトに決まっている。(商道徳から言うと、この行為は単に名古屋市という地方自治体から、個人がお金を抜き取る行為だ。しかし合法だ、なぜなら、その責任者である市長が勧めているのだから。実は、これに似た行為がすでに現実に起きている)

④顧客損益

16,666円の支払いで、キャッシュバック5,000円と買取金額13,616円の計18,616円が手に入ります。インターネット上であれば、購入と販売を一連の操作で行うよう作ることも可能ですから、いわゆる「1クリックで約2000円のお小遣いを提供」が実現されます。顧客は、名古屋市内にいる必要はありません。決済が可能であれば海外でも構わないでしょう。

※買取比率に郵送費を引いて提示する事は、違法ではないかという指摘があった。その場合は、13,616円(買取比率81.7%)+郵送費550円とすればいいだろう。

⑤業者損益

では、この仕組を設定した業者の損益を見てみよう。
業者は電子決済業者にも手数料を支払わなければならない、これを Paypay などの一般的な上限、7%と設定すると、16,666円販売には、1,167円の手数料がかかる。

売上金16,666円に、買取支払い 13,616円と、「本人限定現金書留郵便」の郵送費550円、更に決済手数料1,167円を引くと、1,333円の粗利となる。

作業としては、システムから打ち出される送金先に、 13,616円の入った「本人限定現金書留郵便」を毎日郵送するだけだ。

視点を変えて、全体を整理すると、1回の取引で、5,000円の補助金が出るとされている。それを4年続けて2万円とうたっていた。(対立候補に張り合うために、意味があるのか不明ながら4年と期間を設けたわけだ)

その5,000円は、顧客(名古屋市民とは限らない)へ1,930円(39.9%)分配され、業者(これは名古屋市が認定する)へは1,333円(26.6%)の粗利が配分される。そして、電子決済業者には1,167円(23.3%)が配分され、郵便費としての550円(11%)がかかることになる。

顧客と業者の配分比率は、それぞれの業者の設定で変わるだろう。この例の場合は、1回の取引で、2,000円というそれなりに纏まった金額にならなければ顧客は動かないだろうという想定で、買取比率を85%に設定したためにこの比率になった。問題は電子決済業者の取り分だ。また、取り分として顧客の比率が大きくても、この顧客の中の名古屋市民の比率は大きいとは考えにくい。

世の中にはこうしたサイトが有り。(電子決済のポイント還元、キャンペーンの情報をまとめたサイトなんて、山ほどあるので、一例だけ)

kakakumag.com

こんな人物まで居る。

news.yahoo.co.jp

スマホを7台駆使してクーポン爆取り三昧
「食費にお金は使ってないです」


 無職の(略)さん(39歳)は、自前のスマホ7台を駆使し、無料サービスをこれでもかと活用している。

この人物の行為を云々言うつもりはない、社会がこのようにあるのであれば、それに合わせて生きる生き方もうまれるというだけに過ぎないだろう。問題は、こうした「情報による格差」が歴然とあり、公平であるべき行政施策が不公平な形で展開されるということだ。

推測するに、名古屋市における5,000円キャッシュバック、30%キャッシュバック、この施策も全国のこうした「ハンター」たちに瞬殺されるだろう。1週間ともたないのではないだろうか。それ以降は全国からかかってくるクレーム電話に、名古屋市職員は追われることになるのだろうか。

この施策に100億円使うのであれば、一度実施してみればいいと思う。その四分の一、25億円は名古屋市内の事業者に恩恵を与えるだろう。しかし、大部分の名古屋市民にとっては「騙された」みたいなものに留まるだろう。実際、騙されているんだけれど。

そして、有権者は知るべきだ。こうした施策は、有権者のためなどではない。大阪の維新が、子どもの為に「学習塾バウチャー」を配布すると打ち出したが、あれを純粋に「子どものため」と思っているのであれば、知恵が足りない。(「値下げをすれば売上が伸びる」を喜ぶのと同程度の愚か者である)

ありゃあ、学習塾の為の制度であって、本当に子どものためを思うのであれば、現行制度である学校や、教育委員会を通した施策に予算を配分したほうが、より効果が期待できるかもしれない、その議論を満足にしないまま、まったく新規のものに金を流して、評価確認もしないのであれば、単なる浪費だろう。現行の学校や、教育委員会が、自身の組織防衛に血道を上げ、本来の目的である子どもの育成をおざなりにしているという批判は、確かにある。*5けれども、民間の学習塾が、自身の組織維持よりも子どもの育成を優先するなどという保証はない、更に言うと学習塾の定義する「子どもの育成」の評価項目が、より高い偏差値や、上位校への合格であるとするならば、それは社会の硬直化を生み、有為な子どもの可能性をスポイルするに過ぎず、「ひとの育成」や「ひとによるよりよい社会の成立」には叶ってなど居ない。

同様に、この「河村流電子決済地域キャッシュバックシステム」は電子決済業者を潤わせる結果になっている。上記の想定は、単なる単純化でしかないが、どんなに複雑な仕組みになろうとも、結果、全体のロットとしては、約23%程度の利益配分を電子決済業者が受けるのであろうし、そこから、電子決済事業者のキックバックを引き出したとしても、それを「消費者還元」などと捉えるのは、「商人」ではない。そのキックバックは、電子決済という峻烈な市場競争の中でのシェア争いの為の餌でしかない。企業は最終的には確実に収益を目指す存在であり、施しを行うために存在するのではないのだから。



追記:
河村市長は「マイナンバー」や「住基ネット」に反対するほど、「個人情報保護にはうるさい()」と自認している。しかし、Paypay は大問題を起こしたばかりだ。

news.mynavi.jp

アレの頭の中では、どう整合性が取れているのだろうか。
さらに、「ウーブンシティ」がどうとか言っている。愚鈍の極み。



追記:
本日、5月2日の中日新聞に「市長選 勝敗の分かれ目」という一文が載っている。名古屋学院大学の江口忍教授が書いたということになっているが、大丈夫か? 名古屋大学名古屋学院大学。酷い誤認だ。
ある意味、こういうバカが河村を支持したのだとすれば、仕方がない。

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江口教授のバカコラム

河村氏の案は、二万円✕四年間で最大八万円の還元が得られ、評価しない層には、河村氏の案は横井氏の案より”無駄遣い”が半分以下で済む分、多少ましに見える。

まず、「河村氏の案は、二万円✕四年間で最大八万円の還元が得られ」という理解は、完全な誤解だ。5000円を4年実施することで、2万円(横井案と同等)を行う。
1年あたりの1人への限度額が5000円なので、1年間の施策予算が50億円で収まり、4年分積算しても200億円で済むという話でしょう。

横井案はシンプルで、230万市民に1人2万円の商品券を配るのだから、施策予算は460億円となる。河村案は200億円で済むから「”無駄遣い”が半分以下で済む」ってね。
笑えますね。

お花畑、江口教授の頭の中を敷衍すると、8万円の還元を受けても、200億円の施策予算で済むと思われているんだ。なら、200億円を8万円で割ると25万人になるけど、還元を受けられるのはたったの25万人なんすか?

名古屋学院大学の学生の皆さんに同情します。まず、何事においても、「A案、B案があって、どちらにしてもA案が有利」というような時には、何かがおかしいと思ったほうが良い。上でいうと「バラマキと批判的な層には、河村案は8万円もばらまく案に見え、肯定的な層には、4年がかりで200億円を出動させるよりも、一気に460億円出動させる横井案の方がインパクトが高い」と理解しても良いはずだ。これも、誤認が含まれていますが。つまり、江口教授様の論考は浅く、こういうヒトの言葉をそのまま真に受けていると、浅い論考のまま過ごしてしまうことになる。

さあ、江口教授様、「ディスカッション」であれば、いくらでもお相手いたしますので、反論があればコメント欄にでもご投稿ください。


*1:「あきんど」と読んどくれ

*2:正しくないとするには2つ理由がある。1つはそもそも社会的な目的を阻害する。2つ目は持続可能性がない。道徳的云々以前に、社会制度を毀損する行為でしか無い

*3:男尊女卑を肯定しているわけではなく、ただの慣用句だからね

*4:古物営業規則第15条第3項第3号に基づく

*5:というか、全ての官僚組織は、その目的よりも、組織そのものの自己防衛が優先目的になるのは、制度的性質であり、それを勘案して制度設計を行い、修正を行うのも政治の責任だろう

Wag the Dog

Why does a dog wag its tail?
Because a dog is smarter than its tail.
If the tail were smarter, the tail would wag the dog.

・・・嘘に振り回されるののは愚かなことだ。
自分のついた嘘に振り回されるのは、もっと愚かなことだ。

前回、「掃けば散り、払えばまたも塵積もる 人のこころも 庭の落ち葉も」なんて抹香臭い言葉を引用して、ちょっとは落ち着いて「淡々と、社会を歪める嘘や不合理を洗い清めていく」なんて事を言ったけれども、こう次から次へと嘘や誤魔化しを投げかけてこられては、淡々となんて構えていられない。もう、いい加減に嘘を付くのは止めなさい。というか、名古屋市民をミスリードするのは止めていただきたい。中日新聞

ひょっとすると、君たちは、自分たちのついた嘘を言い募るうちに本当にその嘘を信じ込んでしまったのか?


2021年4月26日 社説
「河村名古屋市長 おごらず、地に足つけ」


 名古屋市民は「庶民革命の総仕上げ」を掲げた河村たかし市長の続投を支持した。戦後初めて四期目を担う市長となる。仕上げの任期は、多選によるおごりを戒め、地に足をつけた市政を求めたい。
 投票前の本社世論調査で、河村氏の市民税減税と市長給与八百万円の公約を「評価できる」とした回答はそれぞれ約28%、25%で、「評価できない」を大きく上回った。
 初当選時から掲げてきた庶民目線の政策を武器に、議会や役所などの既得権益打破に切り込む行動力への評価は、いまだに色あせていなかったといえる。


(略)

河村名古屋市長 おごらず、地に足つけ:中日新聞Web

「河村氏の市民税減税」を評価する市民が「約28%」いるということは、次の3つしか考えられない。

1.河村流市民税減税の恩恵を受ける相当な高額所得者か資産家など、世論調査の対象者が極端に偏っていた。
2.経済学的無知から国の行う「減税」と区別がつかないために評価した。
3.「経済効果が1128億円」とぶち上げた中日新聞誤報を真に受けている市民がまだ28%も残っている。

さあ、どれだ。
まともな知性を持っていれば、河村流減税など、評価できるわけがない。

その話の前に、さて皆さん。「河村流減税」は何パーセントの減税政策でしたか?

5%?

「当初の公約は10%だったじゃないか!」と、そうした議論をしたいわけではない。明白な事実として、「河村流減税政策」は、日本広しといえども、この名古屋だけで行われている。なぜだ?河村市長や中日新聞が言うように、減税をしたほうがその地域の経済に良い効果があるのであれば、全国各地から減税政策を追従する地域が出てきても良いじゃないか。実際に河村市長が誕生して、しばらくの間は、あちこちで減税政策が実施された。しかし、いまやそれを継続している地域はいない、この名古屋以外には。なぜだ?

先ず「河村流減税」の正しい減税率をお伝えしておこう。

0.3%です。

もう一度言っておきます。5%減税ではありません。0.3%減税です。

大切なことなので、もう一度いいます。「0.3%の減税です」


所得割 7.7%


(注)市民税の減税後の税率です。


所得割については、従来の5%減税後の税率5.7%(標準税率6%×0.95)に税源移譲による2%を加えた税率となります。

名古屋市:個人の市民税の減税について(暮らしの情報)

当初の公約は、地方税(市民税分)6%を、5.4%にするということで、0.6%の減税政策を「10%減税」と言った。
この名古屋市中日新聞のスタンスが正しいのであれば、国において消費税が5%から8%に引き上げられた際には「消費税率、60%引き上げ」と表現すべきだった。しかし、消費税率の5%から8%への増税が、「3%増税」と言われるのであれば、市民税の6%を5.4%に引き下げる減税は、「市民税0.6%減税」と言うべきではないのか?

これは嘘では無いかも知れないが、「まぎらわしい表現」といえる。

ところが、この「0.6%減税」は1年で取りやめになって、紆余曲折(減税日本の市議の、無能を表す大騒ぎ)があって「0.3%減税」に落ち着いた。つまり、所得割が「6%」から「5.7%」に引き下げられた。ほとんどの給与所得者は気もつかないような金額で、一部の高額所得者には、それでも一人で500万円とかの減税が行われている。

追記:
上に言う「減税日本の市議の、無能を表す大騒ぎ」とはこれ
ichi-nagoyajin.hatenablog.com

ここで、市立高校の負担移行に伴う、税源移譲が行われる。それまでは市立高校について、人事権は名古屋にあったが、経費は愛知県とクロスしていたものを、経費も名古屋が負担することで、運営を市に移管し、その負担増を補うために、地方税の市、県の割合を、6対4から、8対2に移譲した。つまり、「税源移譲による2%」とは、これのことで、名古屋市の本来の市民税所得割率は「8%」である。
「8%」を「7.7%」に「0.3%減税」を続けている。これを河村市長や減税日本は「5%減税継続中」と言っている。

河村たかし減税日本の関係者は、バカとは知っていたが、こんな計算もできないほどバカなの。

「8%」を「7.7%」にするのなら、「0.3%減税」というべきだけど、百歩譲って、河村たかし中日新聞の言う方式に準じたとしても、「0.3÷8」なら「3.75%減税」ですよね。

「5%減税」なんて、実態はありませんし、フェアに、正確に、分かり易く表現するなら「0.3%減税」です。

中日新聞世論調査で、「河村市長のすすめる0.3%減税については評価しますか」と聞いたら、「5%減税を評価する」と答えた人たちはどう判断しただろうね。


次、2番について。

そもそも経済学的に赤点、落第。けれども落ち込む必要はない、中日新聞の記者でも間違っているんだから。

いいですか、通貨発行権のある国が、不況時(デフレ時=流動性が減退している時)に行う減税政策に効果があるのは、税として市中の通貨を吸い上げることなく、歳出は維持(または、財政出動で拡大)させることによって、市中の通貨流通量を増やすからなんだ。デフレという経済が収縮している局面においては、通貨(流動性)の拡大は直接効果がある。こんなのは、中学校の公民で習う話だと思う。
「河村流減税」の異常なところは、減税を行うにあたり、その原資は歳出削減、つまり、名古屋市の行う事業の縮小、取りやめで賄うとしていることだ。市中から税としてお金を吸い上げない事は上と同じだが、その同額を歳出削減してしまったら、その分市中の経済を収縮させるだけだ。名古屋市が事業を縮小、取りやめてしまえば、その事業を請け負っていた事業者は売上を失う。市中経済は縮小する。さらに、例えば消費税率を引き下げるような減税であれば、国民にまんべんなく減税の恩恵を与えられるが、「河村流減税」の制度設計のまずさは、定率減税にしたことで、お金持ちに減税の恩恵が偏重することだ。(これに対して河村は「国の制度だからどうにもならない」と応えているが、逆進性が高く、それが国の制度だから仕方がないのであれば、やらなければいいだけだ。こうした問題があるから、他の地域では行われておらず、名古屋でだけ続けられる異常事態になっている)お金持ちは元々フローとしての通貨よりも、ストックとしての通貨を多く持っていることは明白で、「河村流減税」の減税財源は、このストックに組み入れられてしまう。つまり、乗数効果が低い経済政策となってしまう。

よって、そうした経済学的常識のない方々が賛成しているだけであって、こうした情報を中日新聞が市民に伝えていたならば、この世論調査の28%という数字はどうなっていただろうか。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

そして、3つ目がいよいよ中日新聞の大誤報「1128億円の経済効果」だ。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

名古屋市の財政局が、「積み上げる値には意味はない」と諌めたのに、当時の市政記者(市長室の住人)は聞かなかったそうだ。
その後のシミュレーションで、国や県の補助金を引き出す現実的な試算を行ったら、やはり、減税政策には経済効果など無いという結果になった。というか、このシミュレーターは、大都市における人口流入が結果に過剰に出る設計になっているので、それも信憑性にかける。上に、そのまた前のシミュレーターでは「まともな算出」すら行われていない。

まともな算出が行われていない事実を書くのではなく、その異常な計算に乗って、更に異常な数字「1128億円」を謳ったのは、中日新聞ですからね。こうした歪んだ報道が行われた結果、少なくない名古屋市民は「河村流減税政策」が何か意味のあるものだと誤解してしまっている。(多分、自分がこの減税政策でいくら恩恵を受けているのかも知らない)

中日新聞が、以上のような偏った報道をしていなければ、この名古屋で「河村流減税政策」なんて歪んだ市税の浪費は既に止まっており、小学校の給食は完全無料化に踏み切り、内容ももっと充実したものにできたかも知れない。市中の医療従事者に手厚い支援を行い、コロナ禍で危惧される医療崩壊にも万全の体制で望めたかも知れない。1000億円からの市税が、市長の人気取りのためだけに、経済効果もなく大部分の市民には恩恵もないまま、そして、まともな議論もないまま、続けられている。

追記:
ombuds.exblog.jp

そうした現実がある上に、まだ、中日新聞は「河村流減税政策」に対して、市民の支持が28%あると、尻尾に振り回された犬のような報道を続けていくのだろうか。

それは市民の公正な判断だろうか。

名古屋はまだまだ様々なものを失っていくんだろう。


この選挙結果を受けて判った事、その2

この選挙結果を受けて判った事


市井の人々は、政治家に嘘をつかれても
たいていの場合は気がつかない。


やはり、権威のある人。肩書きのある人の言葉を信じるのであって、
それに対して否定的な意見というのは、
偏りがあると思われるか、そちらこそ嘘であると思ってしまう。


自分に実害がない限り、言葉と言葉のやりとり、議論には耳を傾けない。


特に、市民、有権者自身が選択した市長であれば、
その権威や肩書は自分たちが与えたものであって、
その言葉を信じることは自分を肯定することにつながり、
自身が選択した市長を否定する言葉は、
自分を否定する事につながる。
ヒトは自分を否定する言葉を受け入れがたい。


つまり、今、河村市長を否定する言葉は、45万人の選択を否定する行為であって、この45万人が易々とそのような言葉を受け入れるとは思えない。


ならば諦めるのかというと、私は一層このブログの価値を確かめる事が出来たように思える。この選挙期間中、当ブログの過去ログがあちらこちらで参照された。そして話題になった。私にできる事は、市民が自分の問題として疑問を感じた時に、その疑問に応える情報を積み上げ、待っている事だけだ。しかし、そうした機会は確実に来ると信じている。


そして、ここに提示されている情報を、そのまま信じるのではなく、自分で検証してもらえば、ここの情報の信憑性はご理解いただけるだろうし、このブログが指し示している事柄が何を意味するか、ご理解いただけるだろう。そして、その事実は非常に興味深いものであるはずだ。


以上は、2017年、前回の市長選挙の際、河村再選が決まった後に書いた文章だ。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

この内容に、いささかも揺らぐところはない。

敢えて言えば、45万人の内5万人は、今回気がついたのであり、当時書いたように、このブログや、横井候補のブログに書かれている事柄を参考に、河村市政の虚偽性を検証しようという方々が増え、「自分の問題として疑問を感じ」る人々が増えている。

現在、そうしたサイトを収集している。知事リコール運動の問題を指摘する様々な意見とともに、リンク集を作ろうと思っている。


古い歌に次のようなものがあるそうだ。

掃けば散り、払えばまたも塵積もる  人のこころも 庭の落ち葉も

自分の心の中に、驕慢心や、執着心というものは常に降り注ぐ。
上の文章でも指摘しているように、疑問を持っても、あいかわらず河村に一票を入れてしまう有権者の判断というものは、この「執着心」、それも「己への執着心」に他ならない。また、今回の結果を「残念」と感じるのは、やはり私個人の執着心であり、こうした有権者の判断を批判する心は、驕慢心だろう。選挙における人の心を読みきれなかった。人の心を読み切れなければ、その人が形作る社会を云々しようなどとは、奢りであり、驕慢にすぎる。

そうした自身の中の表面的な情動に突き動かされ、短絡的な行動を行うのではなく、落ち葉があれば掃き清め、埃が積もれば拭い去るように、淡々と、社会を歪める嘘や不合理を洗い清めていく。そうした営為は人の当たり前の営為であり、その成果を定めるのも自分ではない。


そうした中でも、こうした結論が出れば、自分なりに考えることはある。考え直さなければならないという事柄もある。

私は、折りに触れ「実は自分が間違っているのであり、自分が批判している人々の考え方が正しいのではないか」と考え直すようにしている。常に自問自答し、時にある自分の考えの誤り、や、他の可能性への気付き。というものは、自分の人生をいくらか広げてくれるささやかな喜びでもある。

次の事についても、自分なりに「自分の考えが間違っているのではないか」と幾度か問い直してみたが、やはり自分の考えには誤りがなく、こうした考え方は誤っていると思える事例だ。

ある方が、横井候補の過去の文章をひいて批判をされていた。

横井利明オフィシャルブログ(名古屋市会):本会議質問「知事解職請求について」

昨年実施された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ表現の不自由展」では、昭和天皇の御影を燃やしたかのような映像や、慰安婦像とされる展示が行われたことに関し、私自身は極めて不愉快であり、この愛知で展示がなされたこと自体、残念なことだと感じている。昭和天皇の御影を燃やしたかのような映像は「天皇陛下の戦争責任を問う」といった政治的な主張に過ぎず、芸術であるとも到底思えない。

そしてその批判者は次のように締めくくる。

有権者の選択によってもしも名古屋市長になられたら、文中にある「不愉快」といった個人的感慨にとどまらず、文末にあるようにフェアな議論をなさり、二度と、公金を支出した事業において問題が生じないよう努力なさることを、望みます。

こういうバカな議論が、この問題の根底を歪めている。「公金を支出した事業」というのは、プラットフォームである。道路であり公園である。公共セクタが行うことは、こうした「場」を整備することであって、その中で行われていることに介入すべきではない。もちろん、違法行為であるとか、専有によって他者の利用を阻害するような場合を除いてだ。

道路や公園にどのような者が居ても自由であり、国民はそこで自由に行動できる。くどいようだが、違法行為は除く。

図書館は、当然公金の支出によって維持されている。そこにはどのような思想のどのような主張も置かれており、置かれるべきである。

表現の自由、様々な国民の意見の表明を促すことは、その社会に多様性を与える行為であり、その社会の持続可能性を高める。表現行為と、その表現行為が公共空間にどうあるべきかについては議論が必要となる。例えばポルノグラフィーや性的刺激の高い表現は、どんどん生産されるべきであると、個人的には思うが、そんな物が街に溢れかえっても良いとは思わない。却って一般には目に触れることができないために、秘すれば秘するほど、ポルノグラフィーには力が生まれる。宗教的権威に対する揶揄であるとか、ヘイトスピーチもなんの事前警告もなく、一般に触れられるような形で放置されるべきではない。天皇という存在が、一方では公的存在であり、もう一方では宗教的存在であることは、この国の未成熟な部分、議論が足りていない部分だが、宗教的存在であるとするならば、その取り扱いに一定の配慮が必要であろうとは理解できる。~なので、その画像が損傷されたような状態のイメージを、チラシに刷って撒く行為も、あってはならない行為だろう。

特定の表現行為に対して、その内容を俎上にして「公金を支出した事業」であるからと問題にする考え方は、決定的に間違えている。こんな者が少なくないマス・メディアで意見を吐き、「オピニオン」とされているから、この社会は歪んでいるのである。

さらに、横井候補のこうした意見(一市会議員としての意見、市会議員、議員は自身の主張を行っていい、行うべきだ。様々な意見が議会という場に提示されることは、やはり意見の多様性を涵養することである、推奨されるべきことだ)を捉えて、市長候補、市長として云々と議論することは間違っている。

ここが、あいちトリエンナーレにおける大村愛知県知事と、河村名古屋市長の議論の最も根幹で、最も重要であり、そして最も単純な、民主主義社会であれば全ての国民が心得ておくべき要諦である。

つまり、「公務員は全体の奉仕者であり、首長も当然ながら、全体の奉仕者であらねばならない」ということだ。公務員は住民を差別してはならない、特定の人々の意見を聞かないとか、逆に特定の人々の意見だけを受け入れるというような態度をとってはならない。河村市長が決定的に間違えていることは、こうした全体の市民の意見よりも、自身の主観を優先させていることだ。その他の事柄でもそうで、名古屋城の問題でも、SLの問題でも、自分と、自分を中心に据えた一部の市民の意見だけを優先して、全体の意見には耳を傾けない。翻って、大村知事は、自身の価値判断は表明もしていない、自身の価値観はさておいて、客観的なキュレーターや学芸員、更には展示会の監督者の意見を尊重し、そうした意見が実現化できるプラットフォームの構築、維持に腐心したと言うだけのことであり、これは「全体の奉仕者」たる知事としては当然の態度だろう。原則に忠実な大村知事と、その原則を大きく踏み外している河村市長、どちらが社会の成立、持続可能性に期するものか、議論も要らないぐらいに明白ではないだろうか。

そして、横井候補。当然ながら横井候補には横井候補の価値観、ものの考え方はある。しかし、そうした主観よりも、市長としての職責、全体の奉仕者としての立場を重要視するのであれば、その行動は自ずと導かれる。立場の違う、市議の頃の個人的感想を捉えて、云々と議論する態度は大きく誤っている。

その個人の主観と、職務的見解のケジメが必要だということである。

河村たかしには、無責任な野党的批判しかできない。

無責任というのは、自ら議員特権と批判した国会議員年金を受け取っていたように、そして、野党的批判しかできないとは、あれほど力を入れている「名古屋城木造化事業」一つ、まともに前にすすめることができないように。河村たかしの主観、個人的な好き嫌いを、あたかも名古屋市民や愛知県民の意見でもあるかのように押し付けることしかできず、そうした得手勝手が、国会議員年金の問題となっているのであり、名古屋城事業が文化庁に対して、説得的でない理由でもある。

河村たかしにはまともな「施策」などできるわけがなく、今回表明されたマニフェストも、ほとんど何も実現しないだろう。その中でも極めつけに面白いのは「ウーブンシティ」構想と「(「愚民政策」と河村たかし自身が評価した)30%キャッシュバック(年間5000円を4年間)」だろう。これらのマニフェストの進捗については、特に注目していきたいと考えている。


メモ棚卸し

さて本日は令和3年(2021年)4月24日土曜日、明日は名古屋市長選挙であり、名古屋市長が替わるか、つまりは、名古屋市政、名古屋という地域社会が民主的な社会に戻るのか、あいも変わらず歪んだ市長の下でパターナルな、介入主義的な息苦しく、嘘と歪んだ情報が飛び交う社会であり続けるのか、市民の審判が下ります。

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さらば、12年間の河村市政。

@loot さんの作品を使わせていただきました。

firestorage.jp


今日のうちに書いておかなければならないような事柄が沢山残っていますので、それをすべて吐き出しておこうと思います。構成などは二の次で、今、目の前にあるメモを全て書き出しておきます。

なので、私の事実誤認や書き間違い、また、いつも以上に説明足らずで、訳がわからない所も多いと思いますが、そうした箇所についてはぜひ、コメント欄でご指摘いただければ、補完させていただきたいと思います。

最初に告知を、次のようなイベントが開催されますので、興味がある方はご参加ください。

名古屋市長選挙 しみん開票速報所開設します‼️■


と き:4月25日 日曜日午後8時から。
ところ:ソーネおおぞね ソーネホール
https://sone-ozone.com/


4/7 『名古屋市長選候補者お二人と市民が語る会』と4/17よこい利明 『市民が主役条例」及び「市民会議」政策立案ワークショップ』では多くの市民、NPOのみなさんに支えられて無事開催ができました。ありがとうございます。


いよいよ、4月25日は開票日。これからの4年間を決める時がきました。この大事な瞬間をこの間お集まり頂いたみなさん方と時を共有したく、急遽『しみん開票速報所』を開設することにしました。


この2回の集会を共有した皆さん方と今後の名古屋市について語り合いながら開票を見守りましょう。是非、お仲間をお誘い合わせの上お越しください。


◆呼びかけ人
 斎藤縣三(わっぱの会代表)
 萩原喜之(中部リサイクル運動市民の会設立者)
 山田昭義(AJU自立の家創業顧問)
 濱野剣(日本福祉協議機構代表)

sone-ozone.com

開票結果は12時近くになる可能性もあります。現地は大曽根駅からも若干距離がありますので、お帰りの方法については各自ご確認の上ご参加ください。

・河村市長のHPがリニューアルされた。
takashi-kawamura.com


ヨコイ候補のHPを意識したものであることは明白だろう。
yokoi-t.net

しかし、もはや明日は投開票日であるというこの時期にリニューアルって、なんとも泥縄。マニフェストの策定も、告示に間に合っていなかった。これって昨年の知事リコールにおいて、リコール事務局の能力不足から8月1日収集開始が25日に延期され、それでもまだ間に合っていなかった事を想起させる。

知事リコール事務局の田中事務局長というのは、発言の信憑性が疑われ、行動が泥縄で、口からでまかせが多く、実務能力に欠けると批判されているが、実は河村たかしにそっくりなんだと思える。田中事務局長の実家がそこそこの資産家で、生まれがもう少し早く、日本新党結党騒動の際に代議士になっていたら、河村たかしと田中孝博は入れ替わっていたかもしれない。

そんな事を想起させる。

河村たかしHPについては、ツッコミどころは山程あり、まるで間違い探しの様相を呈しているが、それは皆様にお任せ致します。


今回は、構成も何も考えず、書き残しておくべきことを書き残すので、ここで話が変わって、例えば、この河村たかしHPに対して、間違い探しを行うのは、当ブログの専売特許だったわけだが、ツイッター上では幾人かの人が既にそれを行っている。少なくない人々が河村たかしの虚偽性に気が付き、その言動をチェックしている。もし、よしんば、不運にも、考えたくはないが、明日河村たかし名古屋市長に再選されたとしたら、こうした人々の少なくないヒトは、市長としての河村たかしの言動をチェックし続けるだろう。つまり、一名古屋人が二人、三人、十人と生まれている。

政治を健全に保つのは選挙だけではない。選挙は結果、終了ではなく。始まりだ。有権者は選挙で信任し、当選した候補者に仕事を押し付けたら終了ではなく、選挙によって選ばれた公職者を観察し、掲げた公約の実現性、実現方法についてしっかりと確認を行う義務がある。有権者のこの義務が果たされていない状態が、民主主義を毀損している。有権者の公職者に対する観察こそが民主主義を健全に保つ。有権者が市長としての河村たかしの言動を厳しく観察するなら、果たして河村たかしは4年間、市長としてやっていけるのだろうか。(状況によると、もっと早く、驚くほど早く、市長の座を失うかもしれない)

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ゴヤが、変わる。

・次のメモに移る(これは既にブログ記事に加えているよな)。

天皇の写真を燃やして、足で踏みつける行為はよろしくない(大浦作品が、そうであるわけではないが)/ 天皇制の是非はともかく、誰かが敬愛する対象を、貶める行為はすべきではない。/ では、現名古屋城天守建物を解体し、その部材を売るというような行為、発言は、誰かの敬愛する対象を貶める言動ではないのか」


・さて、この辺りからリコール署名簿偽造問題について

言った言わないの中心に居るのは誰か。

A,B,Cが居て、AとBの間で言った言わないの諍いが起きる。その後にAとCの間で言った言わないの諍いが起きる。そうした場合、怪しいのは誰か。

現在の市長選挙においても、横井候補からの回答を、減勢日本の田山市議が受け取っているにも関わらず、受け取っていないかのように相手をなじる。

www.youtube.com


文藝春秋では大村愛知県知事が、河村市長の主張の欺瞞性を指摘している。

高須克弥河村たかしの間で、どちらが知事リコールを言い出したのかという諍いが起きている。

いったい、嘘つきは誰なんだろうか。

河村たかしと田中孝博事務局長の間では、様々な事柄で言った言わないの諍いが起きている。しかし、河村たかしは多分、酒に酔っていたのだろう、内容について「覚えていない」という発言をしているのであって、それに対して田中事務局長は明白に主張している。どちらの発言を取るべきだろうか。私は、両者とも保留でいいと思っている。どちらの言い分も取ることはできない。

しかし、河村たかしは内容について「覚えていない」と主張しているにも関わらず、田中事務局長の主張に対して否定して係るというのは、根拠なく自己の正当性を主張しているにすぎず、その主張の信憑性はない。

根拠なく、自己弁護を強弁する者の発言など聞いては居られない。

明白な根拠なく否定するという行為は、それ自体がウソだ。

知事リコール事務局+河村たかしは8月25日の段階で、次のような事柄を知らなかった。
 ・86万人の署名を集めるという困難さ、重さを知らなかった
 ・縦覧という制度を知らなかった
 ・請求代表者の意味を理解せずいたずらに37名もの代表者を置いた
 ・受任者の意味を理解しておらず、説明会も開かなかった
 ・署名簿を県選管にまとめて提出しようとしていた
 ・ナンバリングの必要性を知らなかった

・仮説(あくまで推測、憶測、ゲスの勘ぐりである)

前提として、高須、田中、河村の三者で企図していることが異なった。

高須 ー 本気で知事リコールを考えており、可能と考えていた。86万筆の署名が収集できると思っていた。あくまで推測だが、高須本人が愛知県知事となり、天皇陛下の伊勢御参拝の際の名古屋駅エスコートをしたかった、旭日章を手に入れたかったとも思われる。

田中 ー 維新愛知5区支部長として衆議院議員選挙の準備をする中で、リコール運動をてこに高須マネーを手に入れ、活動組織を作ろうとしていた。
署名については、集まろうと集まるまいと知ったことではなかった。

河村 ー 翌年(2021年)に控えた自身の市長選挙に向けた支持者の掘り起こし、自身の売名行為(月刊Hanada、WILL、夕刊フジ虎ノ門ニュース及び、それらに関連するいわゆる「ネトウヨ・メディア」における自身の露出)を企図した。
署名については、集まろうと集まるまいと知ったことではなかった。

つまり、この知事リコール運動において、署名が86万に達し、知事解職住民投票が実現すると思っていたのは、高須とそれに賛同する「ネトウヨ」だけであって、田中や河村においては充足数に足りるなどとは考えていなかった。


9月中旬(9月14日)
高須に田中が署名収集数を報告、とても86万人に届かない。

高須は河村にクレームを入れる、河村は驚いて、街宣を展開し始める(街宣などで、86万人の署名が集まるわけがないが)「ネットワーク河村市長」の受任者に、知事リコール運動への参加呼びかけDMを提案する。

田中は、署名数増大のために業者に偽造を依頼する。

この時、次のような前提があった。

テレビ報道に新たな受任者が出現し「10本の指を真っ赤にして指印を押した」と暴露していたが、その受任者はいわゆる「佐賀物件」の前、9月の段階でこうした行為を行っていたとしている。

漏れ聞くところでは、リコール事務局内に「補正」という言葉が流通していて、署名簿に生年月日や記入日が記載されていない、捺印がないような場合、それを書き込み、捺印し「補正」することは、「知事リコールに賛同して頂いた善良な県民の民意を有効にする良いこと」と思われていたフシがある。

こうした考え方が拡大して、選挙区が混在している署名簿を選挙区ごとに書き直す行為が拡大解釈されて「補正」とされたようだ。

因みに、10年前の名古屋市議会リコール署名においても、問題となったのは、こうした選挙区混在の署名簿や、受任者欄未記入の署名簿で、結果としてそれら署名は請求代表者が収集したものとされ、無理やり有効にされていた。およそ11万筆の署名について、このような解釈がされ、結果として請求代表者は一人あたり1万筆程度の署名を収集したことになっている。

河村たかしが、市議リコールの際、縦覧で本人が確認し有効になったなどと言っているが、そんなものはレアケースで、大多数は上記のような交渉によって有効化された。


こうした「補正」行為について田中は河村に確認したようだ。河村は(事件が表面化してから発言したように)「署名が充足数に達していない、署名としての形式を整えていないものについては、署名とは言えず、地方自治法に言う違法行為でもない」と田中に説明したと推測される。

つまり、佐賀に発注する際、形式を整えてしまうと違法行為になるが、日付が無効な日付であったり、捺印がされていないならば、署名ではなく違法でもないと認識していた可能性がある。

「選管が判断すること」「選管が署名簿としない」のであれば、検査にもかからず、地方自治法違反ともならない。署名収集、提出数は43万筆あり、大村知事を否定する県民の民意はこれだけある。にもかかわらず、選管が認めない。といえばいい。実際に河村たかしは43万筆の署名を引いて大村知事を批判した文書について、訂正も取り下げもしていない。言った言わないが発生する玉虫色、不明確、そして極めて無責任な主張の構成である。

・ソーシャルハッカ的振る舞い(その1)

→ 名古屋城木造化、文化財の復元であれば、建築基準法の制限を受けない、バリアフリーを満たさなくても建設できる。

→ 政治団体の行う政治活動であれば個人情報保護法の適応は受けない、「ネットワーク河村市長」の受任者個人情報を第三者提供しても違法とはならない。

→ 署名充足数に足らなければ、署名を偽造しても違法行為にはならない。


報道によれば佐賀における署名作成者が8時間で250人分の署名を作成。(後の報道で、倍の500人という報告がある)20人✕10日(200人日)で約10万筆の署名。時給950円とすると 約150万円。これを1ユニットと考える。

約36万筆の偽造があるとすると、3.6ユニットで約500万円。例の約400万円の領収書と符合するのではないか。偽造の元ネタとなった名簿については、その出処、かかった経費等不明のままで、こちらはドガチャカで闇に消えたままになるかもしれない。

しかし、佐賀における作業というのは、果たして違法性があるのか不明。作業者はもちろん、それを署名偽造とは認識していなかっただろうし、業者にしても「本当に提出するとは思っていなかった、聞いていなかった」などとすれば、触法性を阻却できるかもしれない。

ともかく、これだけ大量の偽造署名があったわけだが、それらには押印がされていなかった。これに指印を押す作業が必要だった。2月に行われた不正を摘発した請求代表者、受任者たちの会見で、すでに「公開開票」の会場となったKKRホテルにおいて、指印偽造作業は示唆されていた。

しかし、36万筆もの署名簿にKKRだけで指印偽造作業ができるだろうか。

なぜ、田中は、佐賀で署名作成する際に、捺印までしておかなかったのか。それは、捺印をしないことで、「署名」にしなかったという意図があったのだろう。

田中、河村の意向*1としては、佐賀の偽造署名は「署名」として完成させないことで、触法性を阻却する意図があった。

「公開開票」の直前に、田中は高須に80万筆集まっていると報告しているようだ。高須はこれを真に受けて、本当にリコールが成立すると思い込んだ可能性がある。そうでなければガンに罹患して余命幾ばくもない人()があれほど必死に各選管への提出、ナンバリング作業を行った理由がわからない。本当に、自分が知事になれると思っていたのではないか。

「公開開票」の直前に、高須が佐賀から来ている署名簿を見て、全部に捺印がされていないことを見咎めて、早急に「補正」することを指示したとしたら。田中は業者等に声をかけ、指印偽造作業を組織的に行った可能性がある。

こう考えると、KKRだけで36万筆の指印偽造作業が可能だったのかという疑問に回答が得られる。もう少し前の段階でその作業は開始され、場所も別の会場で行われたと考えられる。

また、この指印偽造作業を行う場所を「別の偽造作業」と言い伝える中で、河村も口にした「別に一箇所ある」という偽造工場の存在が示唆されたのかもしれない。

山田豪元市議の証言によると、10月26日の午後7時、中川区の中川生涯学習センターで「指印偽造作業」が行われたようだが、例えば、皆さんおなじみのアスクルのコピー用紙、A3(署名簿と同じ)であれば、あれ一箱で2500枚が入る。36万筆の署名、1枚に平均で5筆あったとすると、7万2千枚の署名簿が必要で約30箱程度の嵩になる。生涯学習センターに30箱もの箱を持ち込むのは無理がありそうだ。

佐賀の署名簿偽造作業は、違法性の立証が迂遠で難しそうだが、「公開開票」以降、「指印偽造作業」に関わったものには、それが各地選挙管理委員会に提出されていることを十分認識できたわけで、触法性が高い、更に犯罪史上たぶん、日本初だろうが、違法書類に自らの指紋をキッチリ残したのである。誰が何をしたかは、愛知県警には筒抜けなのだろう。

河村たかしの違法性

更にこの間、「ネットワーク河村市長」が知事リコール事務局に提供した「受任者個人情報」について、河村たかしの主張とは異なって「ネットワーク河村市長」は政治団体ではないので、個人情報保護法違反は明白であるが、河村たかしはこの行為を「私がしたこと」と横井候補への質問状に書いている。河村たかし本人が任意団体である「ネットワーク河村市長」の活動として、「政治的活動/政治的意図を持ってした行動」について、郵送費について知事リコール事務局の負担としている。知事リコール事務局はその郵送費の「貸付金」返還を求めるようだが、これにたいして答えないとすると、政治資金規正法に抵触する恐れがあるのではないかと考える。(条文を明示すると、河村たかしを助けることになるので、それぐらいは自分で調べなさいと、敢えて書かない。以下同じ)

・ソーシャルハッカ的振る舞い(その2)

→ 「ネットワーク河村市長」にまつわる個人情報保護法違反、または、政治資金規正法違反

→ 日立訴訟における優位的地位を利用した寄付の強要、独占禁止法違反

→ 国会議員年金受け取り問題に伴う、寄付予約の公言による、公職選挙法、事後買収の疑い


河村たかしが行っている事は「全て」選挙目的である

河村たかしが4年間、市長として何を行っているのかと言えば、全て選挙目的の選挙運動、売名行為でしかない。

そこには名古屋市の将来像や、名古屋市民の生活の利便や、公平性、公正性の実現など考慮されない。そうしたことが一票につながるのであれば行うだけだろう。

例えば、今回の選挙で「敬老パスの回数制限についての緩和」という「公約」がある。敬老パスについては、約140億円の予算枠という(河村たかしが設定した)「プライスキャップ」があるため、利用回数があまりに多くなると、この予算枠を超えてしまう恐れがある、そのため(河村たかしが市長として)利用回数の制限を設けたわけだが、乗り継ぎを行った場合、それを1回とカウントして、この利用制限を緩和しようというのだ。これについて市当局内での議論は行われていない。(単に、河村たかしの周辺、お友達の間で思いつきのように提案された事柄をマニフェストに盛り込んだってだけだ)それ故、いったいどの程度の予算拡大になるか不明であり、上記の「プライスキャップ」との整合性も取れていない。

市長として、財政再建をと言われて、「プライスキャップ」と言い出し、敬老パスの経費拡大を指摘され「利用回数制限」を言い出し、選挙で敬老パス利用者層の票獲得のため、「 利用回数制限の緩和」を言い出しているに過ぎない。マッチポンプとは言うが、これでは予め水をかけた紙に火をつけようとして、更にその火にポンプで水をかける仕草をしているぐらいにしか見えない。やっていることがチグハグ、統合性がない。

そりゃあ、肝いり政策(そもそも政策なのかという話があるが)である名古屋城木造化も進展しないし、科学館にあったB6機関車は、バラバラのまま放置されるし、1000メータータワーだの、名古屋市*2の話題がバカの寝言にしか聞こえない話で溢れかえり、なおかつそうした話が現れては消え、消えては現れる。グランドデザインも政治哲学も何も感じられない。そりゃそうだ、ソンな物は河村たかしの足を掴んで逆さに振っても出てこない。

・あれにあるのは、猟官運動、自分達が税金で食って飲んで楽して生活するために選挙に当選することだけである。



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#新しい名古屋市長を選択します

・テレビメディアは足し算のメディアである、演者が演じる上に、音を付け照明で演出し、音楽をつけ、セリフに字幕まで補完する。さらに、編集でより理解しやすいように調理する。まるで「離乳食」だ。

・しかし、素材を生のままかじる味わいというものがあるように、夾雑物を削っていかなければわからない事柄はある。

・クローニーキャピタリズム縁故主義)というのは、パターナリスト+提灯持ち で成立する。

・(このメモは、自分でも再考しないとよくわからない部分がある)
パターナル → 人権を侵害する(介入主義)

パターナリストの主観は、容易に他に漏出する。親があたかも子どもを自分の一部であるかのように扱う、支配するのは、パターナリズムである。

つまり、パターナリズム自体、成熟していない幼い自我の現れでしかないものが、脆弱な関係性の中で固着化することで、それが真っ当なものであると誤認されているだけだ。

河村たかしが少女像を見て「心を踏みにじられる」と思っても、第三者も同様に思うかは不明であり「日本人の」と大きな主語を使った段階で、彼は単に、自身の主観を「日本人」に投射してごまかしただけだ。自分が嫌だから嫌、こうした3才児程度の言明でしか無い。


パターナル → 生命力がギラギラ → 時間の流れ ← ドラッカー思想
何かを信じれば、道は開けるという確信

エッセ ~ キリスト教 スコラ哲学における「存在性」
 → ザイン(ヘーゲル 、 ハイデガー) 「存在する」

河村たかしツイッターにおける固定ツイートが変わったようだ。コロナ対策について述べているようなので、ヨコイ候補におけるコロナ対策、ワクチン接種についてのプランを引いてから、河村たかしのコロナ対策とやらを聞いてみよう。

www.youtube.com



・次のメモに移る。

「全てのレントシーカーは知らねばならない。全て盗んで得られたものは、また盗まれるのだ。幸運によって手に入れたものは、手元にとどめておく事はできない。それは常に不運によって失われ、知恵も力もそれを押し留めておくことはできない」


*1:仮説ね、あくまで可能性の追求

*2:だから、こんなものが政策なのか?こどもがダダをこねるおもちゃのリストぐらいにしか見えない

遵法・利他・保守思想

法律は自分自身を守るもの

 名古屋の人は車の運転免許を取るのが早い。たいてい高校を卒業すると同時に車の免許を取って、私の世代など車が無ければ遊びにもいけないし、人間扱いしてもらえなかったりもしたものだった。私は、その年代に、ちょっとした事情があって、車の免許を取得せず、ずっと遅くなってから車の免許を取得した。免許を取得した直後に父親が、運転の様子を見ると言って私の運転する車に同乗してきた。自宅の回りを適当に流して、なんとか及第点をもらって、駐車場に帰ろうとした時に、私は幹線道路から少し早めに裏道に入った。それを見咎めた父親が、なぜこんな手前から裏道に入ったと聞いてきたので、「信号がないから」と答えると。「信号は自分自身を守るものだぞ」とポツリと言った。

 若い頃、特にちょっと小賢しいような若者は、すぐに「ショートカット」や「手抜き」を覚え、「楽ちんだ」などと、他人を出し抜いたつもりになる。ちょうど、信号のある幹線道路を回避して、信号のない裏道を走るようなものだ。しかし、幹線道路の信号は、「自分が守らなければならない義務」であると同時に「自分自身を守ってくれる規則」でもある。

 それまでも色々な場面で、「ショートカット」や「他人を出し抜く方法」などを鼻にかけていた私は、この一言で「規則の重要性」を知ったような気がする。

 先日、東京の新宿で地下駐車場の作業員が二酸化炭素の消火装置に巻かれて亡くなった。それを受けて関係先の家宅捜索が入ったそうだ。その前には販売した薬品に誤った薬剤を混入させてしまったジェネリック薬品の製造業者が、事故の詳細報告を公開している。

https://www.kobayashikako.co.jp/news/2021/210416_surveyreport.pdf

 規則を守る、決まり、手順に沿って作業を進めていくということは、他者に迷惑をかけないための義務であると同時に、何よりも作業者自身を守ることになる。利益を追求する私企業においても、近視眼的に「ショートカット」や「手抜き」を行うよりも、こうして決められた規則や手順を守ることは重要な自己防衛と言える。

 河村たかしは小賢しく、法律や規則の抜け穴を突いているようにみえる。名古屋城の木造化において現行法が要求するバリアフリーなどの設備は、文化財の復元においては建築基準法の除外規定が適応されると言う。しかし、除外規定が適応されようが、その建物に火が付けば人が死ぬ事に変わりはなく、避難するための方法は備えねばならない。建築基準法を逃れられても、物理的な条件は誤魔化すことはできない。こうした設備もなく不特定多数の人を入れる高層建築を造るのであれば、人命軽視も甚だしい。時折起こる、違法建築による店舗火災における大量の死亡事故。そうした施設のオーナーなどと同じような人命を軽視し、危機意識に欠けた無責任な考え方だろう。

 また、今般の知事リコール運動においても、自らの団体「ネットワーク河村市長」の持つ受任者情報を、リコール推進団体に提供した。政治団体の政治活動であれば個人情報保護法の規定は除外されると言っているが、そもそも「ネットワーク河村市長」は政治団体ではないし、同様に法律の抜け穴を利用したように見えて、その実、個人情報のコントロール権は当事者本人にあり、侵されるべきではないという、立法の趣旨に反している。そもそも宗教団体や政治団体がこの法律から除外されているのは、宗教団体や政治団体が信者や支援者に対して、そのような人権侵害を行えば存続自体が危うくなるため、高度な倫理観を持って個人情報を扱うとみなされていたものであって、それを逆手に取り、自分だけは乱雑な扱いを許容される特権階級であるというのなら、その考え方自体が歪んでいる。

 さらに、この知事リコールにおける偽造署名問題でも、偽造を指示したとされる田中事務局長が「充足数に足りていない署名は、署名ではないので、(押印をおこなって、偽造をしても)地方自治法に違反しない」と説明していたようだが、この発言は偽造問題が発覚し、県選管が調査を始めた際の河村たかしの見解(「充足数に足りていない署名は、署名ではない」)と同じであり、リコール運動のノウハウを持っていると、リコール事務局を指導した、河村たかしの歪んだ遵法意識が、この大量の偽造署名を生んだとは言えないだろうか。

 その関連性、法的責任は、まだ事実関係の解明を待たなければならないだろうが、この発言の付合は、気になるところだ。

三方良し

 日本の伝統的な商売の教えに「三方良し」という言葉がある。「売り手よし・買い手よし・世間よし」の謂で、自分の利益を追求するだけでなく、買い手の利益に配慮し、世間の利益も阻害していないか目を配らなければならないという教えだ。買い手の足元を見たり、商品を誤魔化して暴利を貪ろうとしても、そんな商売は長くは続かない。また、世間、社会全体の利益を阻害するような商売も、やがて行きづまるのは目に見えている。買い手や社会が、己の商売、己の提供する商品やサービスを継続的に望むものか、しっかりと判断し、そうした期待に応えられるよう、常に商品やサービスの品質を維持する必要がある。

 そうした際にも、法律や規則、決められた手続きというものは、単に守らなければならない義務などではなく、自分自身を守ってくれる武器となる。不幸にして事故が起きた場合でも、こうした規則や法律に準じた行動を守っていれば、提供者自身が法律に守られる。

 私は、「大阪維新の会」の主張に反対である。橋下徹の主張などは、短期的な利益を追求するような主張であって、目先の損得という意味では整合しているように見えて、実は長期的には利益になっていない。「今だけ、金だけ、自分だけ」と言われる態度では、持続可能性がないのである。

 河村たかしには「他を利する行為が、自分自身を利する」という発想がない。(そもそも、彼には他者が理解できていない)

 河村たかしが減税政策を掲げた時、名古屋の市民税を減税することで、「人も企業も名古屋に呼び込む」と言っていたが、税を安くすることで、人や企業を名古屋に呼び込むということは、取りも直さず、周辺地域から人や企業を奪うということに他ならず、名古屋だけ儲ければ周辺地域はどうなってもいいという態度でしかない。結果として減税政策自体が小さなものになったために、こんな移動は発生しなかったが、このような呼びかけを行うこと自体が倫理的に誤っているだろう。

 2つほど余計なことを言うと、河村たかしの家業である古紙回収業「河村商事」は、春日井にある。そうはいっても名古屋とは隣接しているのだから、減税で企業が名古屋に移るのだとすると、「河村商事」は真っ先に名古屋に移ってきても良さそうなものなのに結局動かなかった。つまり、河村たかし自身、「減税で人も企業も呼び込む」とは言うものの、そんな効果は最初から期待していなかったということだ。口から出任せで言ったまでで、本気で受け取っていたひとを、河村たかし自身バカにしていたのではないのか。(そういう時、あの怪しい名古屋弁もどきで話す)

もう一つは、河村たかしが商売など知らない、できない事を論証しよう。

今回の河村たかしマニフェスト2021を読んで、奇異に思った項目の一つに「(10)昇龍道とは別の新たな観光の創設」というものがある。昇龍道とは名古屋をハブに、中部、東海地方の各観光地をつなぐ観光プロジェクトだ。

https://shoryudo.go-centraljapan.jp/ja/

 これについてまだ充分展開されているとは思えないし、項目の中で書かれている事柄も具体性にかけ理解不能だ。ある人の解説によると、「昇龍道プロジェクト」の推進者たちと意見が合わず、協力が得られないために、河村たかしは疎ましく思っているようだ。そのためにわざわざネガティブな項目を加えたらしい。逆に「犬山、郡上、木曽、裏木曽の市町村」を持ち上げているのは、名古屋城木造化に伴う木材調達で、それらの地域が河村を接遇し、機嫌を良くしたために、取り上げたのではとのことだった。つまり、自分を肯定的に見る「味方」には気さくでやさしく、自分に意見を言う「敵」には冷たい。まったく子どもじみた態度が現れているのではないかとのことだ。

 これだけではない。河村たかしは、あおなみ線SL走行に伴って、笹島ライブエリアに「鉄道博物館」の構想をぶち上げた。金城ふ頭に、JR東海が運営する「リニア・鉄道館」がすでにあるというのにだ。この「リニア・鉄道館」はいわゆる「宝塚開発方式」とでもいうものだろう。あおなみ線という旅客鉄道を設置したところで、利用者は知れている、その終点駅に観光スポットを設置することで、旅客線の利用を少しでも促進しようというJR東海の企業戦略は商売をやっているものであれば、誰だって理解できる。で、あるのにも関わらず、そのあおなみ線の始発側の笹島ライブ駅に、同様の施設を作ってしまっては意味がない。

 河村たかしの経歴を見ていくと、大学を卒業して、就活を一切せず家業に入り、その家業も力を入れず、窯業学校に通ってみたり、画廊をやってみたり、書家を気取ってみたり、挙句の果ては法律学校に通って司法試験を9年連続で落ちてみたり。禄に自力で稼いでいない。たまたま日本新党という「風」で衆議院議員に当選したまでだ。自力で金を稼いでいない人間には、自力で金を稼ぐ苦労も、面白さも判らないのだろう。

 そのために、利他の心がなく、私利私欲一辺倒の行動を取ってしまうのだろう。

保守主義・伝統主義

 保守主義は革命思想に対峙する形で形式化された。
 フランス革命に対するバーグの論考が保守主義、保守思想の先駆とされている。

 革命思想というものは、デカルト的世界観、つまりは「この世のすべてを要素還元することで、人間はこの世界のすべて理解することができる。人間の理性が理解したこの各要素を、合目的的に再構成することで、人間に最適な社会を構成することができる」という「要素還元論」を基盤としている。産業革命以降の工業技術において大成功を収めたこの思想は、やがて社会や経済にまで演繹され、人間の英知による社会変革を信じる人々によってフランス革命が起こり、共産主義思想が確立し、共産主義社会主義を掲げる国家が誕生した。(ナチス国家社会主義や、日本における維新革命、明治政府も同じデカルト的世界観に立っている)

 産業革命の立役者となった蒸気機関であれば、確かに各部品という要素に還元してやれば、その全てを理解する事ができる。うまく動かない、機能しない場合には一度ばらして、機能を阻害する部品を治すなり、調整を施し、再度適切に組み上げれば機能を果たす。しかし、経済や社会はどうなんだろうか。一つの部品を取り外したり、作り直すことで機能を上げられるものだろうか。

 メアリー・シェリーの小説「フランケンシュタイン」は、こうした要素還元論を人間の体、生体に適応した様子を描いた空想小説である。生体に要素還元論を当てはめた名もない存在は、やがてその創造主であるフランケンシュタイン*1自体を滅ぼす。

 このメアリー・シェリーの示唆は優れて予言的で、経済や社会に要素還元論を当てはめた人工国家たるソ連ナチス・ドイツ、そして大日本帝国はその後滅びる。要素還元論の誤りは、要素間の関係性というものが、その全体の性質を左右するという事に無自覚であったことだ。そして、事物は決定論的ではない。ラプラスは、ある瞬間の全ての物質の力学的状態を知ることができたなら、全ての物質の将来の有り様を見渡せるとして、「ラプラスの悪魔」を提唱したが、残念ながらこの世はこうした決定論的には存在しておらず、それゆえに私達も存在できているようだ。

 事物は決定論的に存在せず、さらにそうした事物を総合して取り扱う際には、より複雑な事物間の関係性によって性質が左右されてしまうのであり、結果として、知性によって全てを理解し、全てを再設計することはできない。つまり、社会や経済を決定論的に語ることは本質的に誤りであり、革命思想、設計思想には運命的に錯誤が生じる。

 革命を唱える社会改革論者は、常に立証責任を持つ。社会になにか問題があった場合、この世には、国会の中から、新橋のガード下まで、何らかの「解決策」を提唱する者で溢れかえっている。しかし、そうした者たちの口車に乗って、社会を改造しようとするのであれば、そこには効果を証す証拠が必要となる。それを提示せず、ただ単に、思いつきのまま改革を唱えるものに、社会の舵取りを任せてはならない。

 革命思想、設計主義とは以上のような弱点を持っている。ではそれに対峙する「保守主義、保守思想」こそが、人類が身を委ねるべき考え方であり、思想だろうか。保守思想は、「否」と答えるはずだ。一つの思想に対して、全幅の信頼を寄せて、それに全てを委ねる。その考え方そのものが、革命思想、設計主義と同じであり、真の保守思想は、保守思想自体をも懐疑する。

 真の保守思想は、伝統に答えを求める。それも、今、日本の社会を席巻するような、視野の狭い右翼思想とは異なり、人間の本質を理解するための歴史的視野、伝統を尊重する。それはなにか、明治に生まれたような伝統ではない、武士道などという架空の事柄でもない。神ながらの道などという捏造臭い代物でもない。十八史略に代表されるような、中国の歴史書には確かに様々な人間の在り様が描かれていて、参照に耐え、何よりも読んで面白いが、それすらも深く読み込んでいくと「人間というのは色々ある」と思わせるだけで、答えを得るには少々迂遠だ。

 私は、人間の本質的有り様は、群生であると考えている。

 人間の以前、猿類は、群れを形成して生活していた。人間の本質的行動は、この頃すでに形作られていたと見られている。では、その根源はどこか、猿類の更に前、穴蔵の中で群れをなして生活していた弱小の哺乳類。彼らの在り様が人の在り様を決定づけ、人の本質を形成している。

 群生する動物は、利己的な行動だけを取らない。時に利他的な行動を取る。そうした利他的な行動を反射的に取ってしまう個体が、結果的に生き残り、こうした特性が世代間を受け継がれてきたとされている。人間は短期的には不合理な、利他的行動、自己犠牲の行動をみせる。現代の様々な社会学的シミュレーションが、功利的個体による集団よりも、利他的行動を取りうる集団のほうが、集団的生存可能性の高いことを示しているようだ。ここでも注意が必要で、常に集団を主に考え、個よりも全体を優先する全体主義を選択すべきと言っているのではない。それも単なる決定論である。

 全体の中に、個の生きるすべがあり、
 個の中に、全体の存続可能性がある。

youtu.be

 個人が尊重されるとともに、個々人が周囲と、そして全体と調和の取れた在り様が、500万年以上続く、哺乳類の種としての人類のもっとも存続可能性の高い、「伝統的な在り方」であろうと推測される。(そして、それは演繹されるように、朱子学や神ながらの道にも通じるものである)

 簡単に言うならば、保守思想・伝統主義の要諦は、人間を知ることに尽きるのであり、その人間が生きやすい社会を形成していくことである。
 そこで、生きにくいと感じる個々人に対して、その個々人に働きかけると同時に、原因となる社会の在り方を再検討していく。こうした斬新的な態度が保守主義である。

 生きにくいと感じる個人が声を上げ、その声を拾い、社会の斬新的な修正につなげる。これこそが民主主義の存在意義であり、個人にも、社会にも、そして、その社会にこれから参加する、次の世代にも有意義な在り方だろう。故に、為政者は常に個々人の声*2に耳を傾けなければならないし、そうした声を社会に反映する方法を模索することに、心を砕かなければならない。更に、そうして得られた知見を広く説明し、合議し、社会をより良いものにしていく情熱を持たねばならない。

それが保守思想に立つ政治家の姿である。


*1:いわゆる「フランケンシュタイン」と思われている、あの人造人間、怪物に原作では固有名はない、それを作り出した創造主が「フランケンシュタイン」となっている

*2:社会全体への警告音