市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

超巨視的感想

あいちトリエンナーレに対して名古屋市が支出する負担金について、河村名古屋市長が「支払わない」としていたものが「国はどうするのか、共同歩調を取りたい」と腰を引きおった。

しばらくの間はこの話題でグダグダとメディアに出ようとするのだろう。メディアも賢くなっている。つい先日もCBC制作のテレビ番組で、武田邦彦名古屋市経営アドバイザー ( 名古屋市:経営会議(市政情報)   )が「日本人男性も韓国人女性を襲わなければならない」などと犯罪を扇動する発言をしていたが、お友達の河村名古屋市長も、気を抜けば同程度の「炎上発言」をするかもしれない。「炎上発言」を希望されるプロデューサーはぜひ検討されたらいかがか。

あいも変わらずくだらない重箱の隅突きをしている。

名古屋市:あいちトリエンナーレ2019に係る愛知県及びあいちトリエンナーレ実行委員会との情報共有の経緯並びに愛知県(実行委員会)へ依頼及び回答について(暮らしの情報)

何も本質的議論には至っていない。

あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行様の経緯説明徹底批判(前) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

で批判を加えた「あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行様の経緯説明」について、減税日本ゴヤ市議団がHPに転載している。

genzei758.com

彼らには表現のゆらぎや文章自体がひん曲がっていることなど気にもかからないらしい。
まあ、同程度なんだから仕方がない。しかし、この市議団には「鹿島塾」という学習塾を開いている人物がいる。その学習塾ではこういった作文について、どういった学習を行っているのか、心配になるところだ。


さて、河村市長は「あいちトリエンナーレ」について負担金の支払いを渋ったはずなのに、今になって「国のでかたを見る」と責任を国に押し付けようとしている。

河村市長の言動は思いつきばかりである。いや、最早、その殆どは思いつきで根拠などないと言っても良い。例えば「南京事件否定発言」についても、発言によって「議論を喚起したい」と発言していたが、議論は喚起されただろうか。当時は歴史修正主義のお仲間が一回だけ会合を開いたが、そこでは議論など成立していない。


ichi-nagoyajin.hatenablog.com


そして、議論が成立しそうな、河村市長と意を異とする場には出られない。腰抜けだから。


ichi-nagoyajin.hatenablog.com


もう一度いう。河村市長は腰抜けだ。

この小心が、彼の保身術だ。なので70歳を過ぎて、ここまで無茶をしてきてもなんとなく生き残っている理由だ。臆病者こそ生き残る。

情けない。

河村たかしという存在は、徹頭徹尾これだ。

彼に責任ある行動など求めるのは、求めるほうが間違っているのだろう。

ここで面白い観測をお知らせする。

左派でも右派でも、政治的に先鋭化した主張というのは、必ず「崖から落ちる」
「次世代の党」が破綻したのもこれだろう。

何故か。

政治的主張などというものは、極端な左も、極端な右も正鵠を射ない。
大抵はその間のどこかが正解ということになる。

また、政治的なリーダーシップというものは、結果としてこうした進む道を正確に読み、そこに準じた手を打っているものが握る。すぐれた政治家が「風見鶏」とも呼ばれる理由は、自説に執着するのではなく、こうした現実の流れに沿った判断にいち早く舵を切り治せるものの方がイニシアチブを取れるからだ。「風見鶏」とはその姿を揶揄するやっかみに過ぎない。

しかし、左でも右でも極端な主張を行う集団の中では、「もっと左」「最右翼」という、より極端な主張をする者が得てして称賛される。まあ、一種の「カルト」なわけだ。

こうした集団が形成されると、集団は自己運動を始める。周囲や社会なんか関係ない。

彼らの中だけで「議論」が盛り上がる。結果としてより極端な意見を主張する「チキンレース」の様相をおび、先頭走者かまたは全ての構成員が「崖から落ちる」

河村たかしは途中で「芋を引く」

必ず腰を引く。それが彼の身を助けてきた。

旭ヶ丘高校校舎保存運動、名古屋拘置所問題。石井紘基問題の追求。
南京問題。それに市長になってからの様々な政策。ドレもコレもアレもソレも中途半端で形になっていない。ちょうど、この8月30日に、中部国際空港島に愛知県の国際展示場が完成したという。名古屋市の国際展示場は一体どうなったのだろうか?稲永案とはなんだったのか?金城ふ頭に「戻ってきた」国際展示場計画、それなら「レゴランド」とはなんだったのか?

また、ささしまライブに作ると言った「鉄道の聖地」ってなんだったのか?
その金城ふ頭にあるJR東海の「リニア・鉄道館」はどうなるのか?

そして「SL」は?

どれもこれも中途半端。いい加減。

私が当ブログで河村市長を「無能、怠惰」と断じたのは2011年9月だ。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


自分の「慧眼」が怖くなる。





ここでちょっと、目を名古屋から離してまたまた「大きな話」をしてみたい。

安倍首相はロシアを訪れプーチン大統領と会談するそうだ。

しかし、北方領土問題については進展は見られないのではと思われている。それどころか一時問題となった「2島先行返還」という議論も消え去ってしまい、昨今ロシアは強気な交渉を続けているそうだ。

また、日韓関係が酷く冷え込んでいる。

元々北朝鮮領域で生まれ、朝鮮半島の分断を問題と捉える「市民活動家」の文在寅と安倍首相では「食い合わせ」が悪かったのは仕方がない。

安倍首相は外交を得意と言われているようだが、彼の重要課題であったはずの「北朝鮮拉致被害者」の問題については進展はない。小泉内閣が2002年に成立させた「日朝平壌宣言」に伴う拉致被害者の「一時帰国」に付き添っていたのは当時官房副長官だった安倍氏で、それ以降この「一時帰国者」を北朝鮮に「返さない」という決定をしたことで、その後の交渉が完全に頓挫し、それ以降本質的な進展がない。そしてその内情について被害者家族である蓮池透氏から強い批判が起きているのは周知の事実だ。
この問題は蓮池氏の主張が正しいのか、安倍首相の主張が正しいのか、私は判断する材料を持っていないが、現に拉致問題は進展しておらず、日本は北朝鮮との外交チャンネルまで失っている。なぜ日本が北朝鮮と交渉する時に、米国に依頼するのだろう。北朝鮮が日本に向けてミサイルを打ってきた時に、日本政府が北朝鮮に直接働きかけるのではなく、米国に電話をするというのは、主権国として有り得べき姿なのだろうか?

この日本の進めている対北朝鮮の「外交」は多分、外交として最低のものだろう。目を瞑り、耳を塞いで「外交」をやっているように見える。

そして、今、同じような「正面衝突外交(?)」を韓国と展開しているように見える。

なんとも呆れた展開だ。*1


ここで「大きな話」として、ひょっとすると、本当に韓国は日本と、日本は韓国と国交を断絶するまで溝が深まるかもしれない。

そして、米・日・韓という、米国が展開していた東アジアの「防共同盟」は解消され、韓国は北朝鮮と「終戦協定」を結び、朝鮮半島の統一を図るかもしれない。

イムジン河が渡れるのであればそれはそれでめでたいことなんだろう。

こうした「民族の悲願」とされる朝鮮半島の統一は、やはり幾つも火種を抱えはするだろう。しかし、十分可能性があるように思われる。ようは、韓国の米国離れであり、中国への接近なのだ。韓国の立場にしてみれば、何も自分たちが「防共の壁」になる必要はない。半世紀前400万人(朝鮮半島の総人口の20%)が死亡したと言われる陰惨な戦争は、朝鮮半島の住民のためのものではない。米国とソビエト、東西の国際情勢が、たまたま朝鮮半島で衝突したに過ぎない。(第二次世界大戦におけるソビエトの日本への参戦がもう一月でも早ければ、または日本の降伏が一月遅ければ、或いはソビエト極東軍は、日本の北海道か東北に上陸を図り、日本列島が分断され、この動乱は「日本動乱」となっていたかもしれない。第二次世界大戦の末期、被害国であった朝鮮半島は、この世界大戦の歪の影響から、深刻な被害を受け、加害国であった日本は、その朝鮮動乱による「特需」によって深刻な経済的状態から浮上することができた。歴史のこの皮肉な事実は、私に、第二次世界大戦による直接的な加害より、重い責任を感じさせる)


朝鮮半島」の中で「韓国」とは米国が、ソビエト・中国に突きつけられた「ナイフ」だったのだろう。そのような役回りは韓国国民にとって利はない。なぜいつまでも「西側諸国の門番として、38度線で北を向き続ける義務」があるのか。中国が経済的な力をつけ、米国がまたまた自国第一主義と自閉していくのであれば、韓国にとっては次代の覇者である中国と手を結んだ方が利がある。

そして、それは「悲願」である「民族統一」を実現する方法でもある。


日本はロシア、中国、統一朝鮮と対峙し、太平洋の「防共の盾」となるわけだ。

おめでとう!右翼の諸君。ついに「不沈空母日本」がその底力を見せる時が来たわけだ。
さあ、力いっぱい旭日旗でも日の丸でも、ハーケンクロイツでも振り回したまえ!

まるで「グレート・ゲーム」だ。

大陸国」EUはやはり「大陸国」であるロシアと接近しているように見える。そのEUから「海洋国」の英国が離脱する。

そして、東アジアにおいては、ロシア、中国、統一朝鮮という「大陸国」と「海洋国」日本が対峙する。

そして「海洋国」の覇者は米国だ。

大陸国」(ユーラシア大陸の諸国)が相互依存を強めるのには、現代の地政学とでも言うべき理由が見える。(その昔、地政学者のカール・ハウスホーファが、レーベンスラウム ー 生存圏 ー 概念から、大陸国家を定義し、対峙する海洋国家を定義したのとは異なる機序がある)

現代において「大陸国」をつなぐ紐帯は「電力」と「パイプライン」だろう。

これらは「物理的な接続」を要する。

こうした中で、果たして「海洋国家」の選択は正しいのだろうか?

米国の覇権はテクノロジーの力だろう。(ソビエトを崩壊に導いたのは、チェルノブイリと、レーガンスターウォーズ計画だっただろう。前者の影響で「グラスノスチ」が図られ、後者のせいで軍拡競争の敗北がハッキリした)

しかし、現在。原発で足踏みを見せる*2のは「海洋国家」の日本であり、テクノロジーとしては5Gによって米国は中国の後塵を拝そうとしている。

レーベンスラウムの基盤は「電力」と「パイプライン」であって、海洋国においては輸送コストがかかるものが、大陸国においてはほとんど共有の生存圏を形成できる。

そして、もっとも心配なのは米国自体が21世紀のモンロー主義に陥らないかという心配だ。


*1:先行きの展望や、落としどころがさっぱり分からない。そうした不確定要素に左右される将来予想をさておいても、日本がプレイヤーとして掲げる「大義名分」が脆弱に過ぎる。朴正煕=軍事政権の説得力とは、彼の地においてはどの程度のものなのだろうか。本来であれば共同の価値観の下、双方がうなずける「大義名分」を提示できなければ外交/政治/交渉ではないだろう

*2:東京電力原発事故を言っているのではなく、それ以降の原子力行政の方向性の無さを言っている

増税日本(名古屋高速編)

名古屋高速道路の利用料金が、10月の消費税率引き上げに伴って値上げされる。

名古屋高速、10月から値上げ 消費税増税に合わせ
 名古屋高速道路の利用料金が、10月の消費税増税に合わせて値上げされることが分かった。都心環状線を含む名古屋線は普通車770円から10円増の780円になる。料金値上げは消費税が5%から8%に引き上げられた2014年以来。

 名古屋高速道路公社は21日に国土交通相に届け出を行い、10月1日から料金改定をする。増税相当分を現行料金に上乗せし、大型車は30円増の1570円。尾北線でも一部区間を除いて普通車360円を370円、大型車も10円増の730円になる。

 名高速は均一料金制を取り入れており、料金の割高感や不公平感への指摘がある。公社は距離によって決まる料金体系を基本として、料金見直しに取り組む方針も示している。

名古屋高速、10月から値上げ 消費税増税に合わせ:社会:中日新聞(CHUNICHI Web)

この値上げの是非については、あれこれ言わない。
しかし、「あれこれ」言うべきものがだんまりを決め込んでいるのはいかがなものか。

マニフェストの実現に反する決定。
市民との約束を違えた事実について、謝罪すべきではないのか。

少なくとも、説明ぐらい必要だろう。

国の消費税増税に諾々と従う姿。
県から移管された住民税については自ら主張する減税を適応させなかった事実。(大村知事には、その住民税について、減税すべきと迫っていた)

河村たかしの「減税政策」など、「毛ばり」にすぎない。

3.名古屋市の経済をいち早く不況から脱出させる

(6)名古屋高速道路料金値下げに挑戦 ・ まず750円を650円に。目標3割引き下げ。料金100円引き下げに伴う減収分は、道路関係の国直轄事業負担金を削減し、それを財源として充当する。

*減収分は約80億円(平成19年度実績からの試算)
名古屋市における道路整備関係の国直轄事業負担金は90億円(平成21年度)

河村たかしの名古屋政策「庶民革命・脱官僚」

楽ちんなものだ。
この国の国民は、政治家の公約など覚えていない。
エドマンド・バーグが喝破したとおり、想像力、妄想力の強い政治家が人気を博す。

国民はその実現など気にかけていない。
当然、本人も、そしてマスコミや有識者も。

評論家などというものも、
こうした事実を忘れて、次の想像、妄想、思いつきを口にしていれば良いのだ。


「どうすればより民主的な政治を実現できるのか?」

それには、どのような約束をする政治家を選ぶのかではなく、
その約束にどう向き合っている政治家を選ぶか、だ。

変えるべきは政治でも政治家でもない。
有権者であり、有権者<が>選択するメディアだ。


平成22年度の「中期戦略ビジョン」についての市民意見聴取には次のような意見が名古屋市から付されている。

 現在、名古屋高速道路では、地域の活性化を目的として土日祝日に ETC 利用の普通車が終日 3 割引となる料金割引社会実験を実施しており、この社会実験の状況や周辺の高速道路料金の動向を踏まえ、料金値下げについて関係機関とともに検討をすすめます。

中期戦略ビジョン(案)策定にあたって寄せられた市民意見の内容及び市の考え方

果たして「検討」はすすめられたのだろうか。

ちなみに、平成22年には「名古屋高速道路の料金とサービスのあり方について」ネットモニターアンケートが行われているが。

www.city.nagoya.jp

それ以降、今回の値上げ方針についても。
市民の意見を募る動きは無い。民意などどうでも良いのだろう。
公約などどうでも良いのだ。



当ブログは、名古屋市政について、様々な問題を認知している。
それらを記したカードは、そこそこの厚さになっているが、これはその数ある問題の内の一つに過ぎない。

なぜ、これほど問題が山積し、放置されているか。

それは無能なリーダーと、それを選んだ無責任な有権者
そして、そうした事実を伝えない、伝える能力の無い無能なメディアの共同構築物だろう。

数年後、これらの危惧の内、幾つかは具体的な問題として浮上するだろう。
中には深刻な被害が想定されるものもある。

しかし、当ブログはそれらに警鐘を鳴らさない。
その責務は当ブログにはない。

当ブログが下手に指摘することで、名古屋市における問題が中途半端に対策されることは、真の問題の解決に結びつかないと知ったからだ。

当ブログが把握する数々の問題について、それが後戻りができない状態になった際、その問題を指摘するかもしれない。(しないかもしれない。その責務は無いのだから)


名古屋の158日

昨日、河村たかし名古屋市長が緊急記者会見を開いたそうだ。その席上現在進めている「名古屋城天守木造化計画の2022年竣工について、遅延する」と報告したそうだ。

この結論については別に驚くには当たらない、至極当然の事であって、158日前から分かっていた。(理由は後述)

それよりも、いい加減に日本人は政治について成熟しなければならない。マッカーサー終戦直後、日本人を「12歳」と評したようだが、それから日本人は成長するどころか、退化しているように見える。さしずめ現在は、せいぜい「10歳」といったところだろうか。まあ、それでも「やれSLだ、やれお城だ」と、デパートのおもちゃ売り場の前で駄々をこねる9歳児のような、どこかの市長よりは良いかもしれないが。

ポピュリスト*1、いや、もっと実態に即していうならば「煽動家」にとって「政治的課題は解決されない方が良い」

憲法改正を求める国民運動を進める者にとっては、憲法が自分たちの主張のように改正されれば運動は終了する。
原発を全廃する運動を進める者にとっては、全電力会社が原発を全廃してしまえば活動の基盤を失う。
北朝鮮拉致問題を訴える政治家は北朝鮮との国交が困難になればなるほど、よりいっそう圧力を増やし、煽動を強くする。

どうしたことだろう、イソップの説く「北風と太陽」の寓話は、10歳程度なら理解できて当然なのだが、日本の社会は理解できていないようだ。

NHKが本当にぶっつぶれればN国は路頭に迷うだろうし、いつまでも大阪が都にならない限り、大阪維新の会は安泰という事になる。N国はNHK受信料の整合性よりも、単に課題をフレームアップして、問題がこじれてくれること*2を望んでいるように見えるし、大阪都構想も、都構想以外に同じ課題解決の方法はあるようにも見えるのだが、そうした「太陽政策」は取られず、いたずらに圧力を強めて対立を精鋭化させる者の方が人気を博すのだろう。

「煽動家」は「政治課題」を扇動し、支持を得ようとするが、その実、その「政治課題」の解決は望まない。
河村名古屋市長にとっても、名古屋城の木造化が「懸案事項」である限り、木造化を求める市民の支持が得られると喜んでいることだろう。

そもそも名古屋城天守木造化を求めている方々は、いったい自分たちが何を求めているのか分かっているのだろうか。
車いすの人々がエレベータの設置を求め、「バリアフリー」を訴え、差別的待遇の改善を求める際にも「本物の天守閣にはエレベーターはない」などと冷笑的に言っていた人々もいるようだが、では、その「本物の天守閣」なるものが、実はどのようなものか、理解している人は居るのだろうか。*3

いない筈だ。「自分は判っている」というヒトは何か誤解している。理解していると「思い込んでいる」だけに過ぎない。名古屋市民で復元される「木造天守」の実態について知っている者はいない。なぜなら、基本設計が終了した段階で、その資料はほとんどが「非開示」で真っ黒の「黒塗り」状態であるからだ。

名古屋城天守閣整備事業 基本計画書(概要編・資料編・図面編)

つまり、名古屋城天守木造化を求める人々というのは、実際には何ができるのか理解しないまま、盲目的に賛意を表しているに過ぎない。なんともおめでたい話だ。*4

今回は、名古屋城天守木造化に先立って、現天守建物を先行解体するという文化庁への申請が通らなかったわけだが、実は名古屋城を木造復元するという課題に対して、この文化庁のハードルは一番最初の、そしてもっとも容易な関門に過ぎない。法的な問題はこれ以外にもあって、その中には解決不能の課題も横たわっている。つまり、その幾つかある関門のどこかで、この計画はとん挫する。それは目に見えていた。それでいてそうした事前の検討も不十分なまま、すでに数十億円の公費が浪費されている。

なぜ、そんなバカな事が止められなかったのか、止めなかったのか。



さて、さきほど昨日の事態は「158日前から分かっていた」と書いた。158日前というのは今年の3月25日だ。

文化庁は「現天守建物の先行解体」を申請するにあたって、名古屋市に5項目の課題を提示していた。そのうちの3つは「石垣部会の意見を付すこと」とされていた。

現天守閣解体にかかる現状変更許可申請に関する留意事項について

「意見を付すこと」とはいかにもお役所的な言葉遣いだが、簡単に言えば「石垣部会の同意を得ること」であるのは明白だ。石垣部会(有識者)から見ても問題の無い申請であるのか、と聞いているわけだ。この「石垣部会の意見」が3月25日に出された。

内容は「完全否定」だ。

大人の世界で「意見を付すこと」と言われて、「完全否定の意見」が出されたら、「付すこと」ができないので、申請そのものを見合わせるのが当たり前の対応だ。「意見を付す」なんだから、否定意見であれ「意見を付して」申請を進めれば許可される。などと考えるのは、それこそ9歳児以下の知能と言われても仕方がない。鼻の下の青っ洟を拭いた方が良い。

文化庁はさぞかし驚いたことだろう。
名古屋市は先行解体の計画書を提出している。それに対する有識者の意見は完全否定だ。いったいどちらの意見を容れればいいのか。

つまり、昨日。令和元年8月29日の結論は、すでにそれに先駆ける3月25日に確定していたという事であり、名古屋城天守木造化計画はあたら貴重である筈の158日間を足踏みしていたに等しい。つまり、これを見てもわかるでしょう。河村名古屋市長にとって、名古屋城天守の木造化など重要ではない、その一刻も早い実現など微塵も考えてなどいない。この158日の間、はっきりしない結論を市民の前にぶら下げて「がんばっとるでよ、応援してちょうよ」と言っているだけだったのだ。そして、今回のコメントでも「市民の皆様には、一層の応援をお願いいたします」とくる。

市長コメント(令和元年8月29日)

「政治的課題は解決されない方が良い」のだ。

煽動家の口車は、信じる方がバカだし、相手をするだけ無駄なのだ。いい加減これぐらい当然の事を知らなければならない。


しかし、すごい文章だ。相変わらず「謝ったら死んじゃう病」にかかっているのだろうね。一切謝罪もなく、責任を感じている風もない。

そもそも5月の文化審議会に先行解体案の申請を行い、審議会において許可が出なかった段階で、やはり今日の結論は見えていたわけだが、河村市長は「文化庁において、臨時の専門部会を開催して、早急な回答を出す」意向であると市民に説明していた。

けれども実際には「臨時の専門部会」も「早急な回答」も得られていない。

果たして、文化庁名古屋市に「臨時の専門部会」を開催するという虚偽の説明をしたのだろうか。河村名古屋市長は文化庁に騙されたのだろうか。
それとも、河村名古屋市長が文化庁が言いもしていない「臨時の専門部会」やら「早急な回答」なるものを口から出まかせ、騙っていたのだろうか。

名古屋城跡の現状変更申請に係る名古屋市への確認事項に対する回答 令和元年6月19日 名古屋市


名古屋市文化庁の間で行われている意見交換は黒塗りされたままだ。市民に経過が隠されたままとなっている。*5

この6月議会に、17億円あまりの木材購入、契約について、議員より「文化庁の回答が得られるまで、予算執行を止めた方が良いのではないか」という意見が出された、それに対して名古屋市は予定通り実行すると回答した。この予算執行の根拠が「臨時の専門部会」やら「早急な回答」であったとすれば、名古屋市は虚偽によってミスミス17億円程度の予算を無駄に消費した可能性もある。

いったいどういった経緯で「臨時の専門部会」なる話が持ち上がったのか、文化庁名古屋市のやり取りについて公開すべきだし、それなりの説明責任があるのではないだろうか。名古屋市文化庁の間で行われている意見交換の黒塗りを解除し、経緯の公開が必要だ。


そもそもこの名古屋城天守木造化計画は、その当初から嘘が蔓延している。

実は、名古屋城天守木造化計画を誰も「決定」していないし、名古屋市民も推進などしていない。

名古屋城天守木造化計画について、名古屋市民の意見を聞いた具体的な行動とは、いわゆる「2万人アンケート」だが、これは名古屋城天守について、現在の天守建物の改修か木造かを市民に問うたものではない。「アンケート」とは名ばかりで、内容はカラー刷りの豪華な「名古屋城天守木造化案」の提案書と、やはり豪華な完成予想CGを収めたDVDを同封した、「名古屋城木造化計画」の広報だった。

そして挙句の果ては「現天守については耐震改修をしても40年しかもたない」という虚偽の説明だ。

当ブログではすでに幾度も指摘しているが、「耐震改修」とは建物の寿命を長期化させる改修ではない。建物の寿命を長期化させる改修というものは、別にあって、大阪城の平成大改修などで実際に行われている。そして、大阪城天守建物が「40年しかもたない」などという人は居ない。

文化庁文化財の復元に関する基準*6を設けているが、そこでは様々な整備手法の検討を求めているのであって、名古屋市においてこの長寿命化改修について検討していないという事実は、文化庁の基準に違反している。(こんな単純な事を、名古屋城天守閣部会は見落としており、どこが有識者かと呆れかえる)

2.基準
歴史的建造物の復元が適当であるか否かは、具体的な復元の計画・設計の内容が次の各項目に合致するか否かにより、総合的に判断する。
(1)基本的事項
ウ.復元以外の整備手法との比較衡量の結果、国民の当該史跡等の理解・活用にとって適切かつ積極的意味をもつと考えられること。

http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/shiseki_working/01/pdf/r1411437_04.pdf

豪華本によって木造化を売り込み、DVDで美麗なCGを訴える。
ここまでして、2万人に木造化を売り込んで、それで市長案に賛成したのは、1553人に過ぎない。

2万人中、市長案に賛成したのは1553人だ。

たった7.7%

この「アンケート」は上記のように虚偽の設問によって回答が歪められている。

なので、集計結果など意味をなさないが、それでも私が注目したいのは、2万人中、回答を返した市民が7224人にとどまったという事実だ。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


つまり、大多数の名古屋市民にとって、名古屋城天守木造化など重要課題ではなく、他に行うべき課題はあるという事なんだ。

また、議会においてもそうだ。議会は名古屋城天守木造化など「決定」していない。

名古屋市会が審議している名古屋城関連の予算等について、その根拠は「特別史跡名古屋城跡保存活用計画」という事になる。
この「保存活用計画」においても、名古屋城天守木造化は決定事項ではない。

保存計画には次のように書かれている。

木造復元は、特別史跡内の建造物として本質的価値の理解を促進するという点において優位性が高く、また、現天守閣が有する価値の保存、継承といった木造復元における様々な課題も、それぞれの方策によって克服することが可能であると考えられるため、今後、現天守閣の価値を超える木造復元の意義を丁寧に説明することを前提として、整備方針は木造復元とし、検討を進める

つまり、この保存計画の中では木造復元の方が優位性があるので、整備方針として木造復元をすえ、検討を進める。とされているわけだ。

結果として、現在進められている設計業務においても、この「検討」のためであるとも言える。

現在名古屋市竹中工務店と結んでいる事業の基本協定は、技術提案交渉方式と呼ばれるものであり、これは実現が困難な事業について、民間事業者の技術を取り入れ、その提案によって実現をはかるという方式であって、名古屋城天守木造化においては、2020年竣工という工期の短さが大きな課題だった。(つまり、すでにこの事業契約の基盤自体無くなっている。工期の条件がなくなったのであれば、まともな競争入札に切り替えるべきだろう)

この技術提案交渉方式では、その提案が正当なものであるか、提案後の評価、審査が重要であるとされている。
なので、本来であれば基本設計が終了した段階で、その設計結果、仕様について広く公開し、提案の正当性を審査すべきであるにもかかわらず、それがなされていない。このような隠ぺいされた状態でこの技術提案交渉方式を進めることは、その制度の趣旨を歪める行為であろう。



さらにすごい問題もある。上記の「保存活用計画」は名古屋城の整備についての基本的な方針であるが、様々な問題がある。

当ブログも、その一部について記述した。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

こうした基本計画については、市民からの意見を反映させるために、パブリックコメントが実施されるが、この結果が隠ぺいされている。

名古屋市オンブズマンが保存していた。

特別史跡名古屋城跡保存活用計画(案)に対する 市民意見の内容及び市の考え方 平成30年5月 名古屋市


全体の意見、227件の内、
特別史跡名古屋城跡の整備に関する意見」が196件あり、その中でも「天守閣木造復元に否定的な意見」は140件。「天守閣木造復元に肯定的な意見」は9件である。「天守閣整備におけるバリアフリーに関する意見」も27件にのぼる。

名古屋市にとって、木造復元を進めたい河村市長にとって「不都合な市民意見は隠ぺいしている」ととられても仕方があるまい。

まことに狡い対応だ。


ここまで隠ぺいや嘘が蔓延していれば、もういいだろう。これでも河村たかし名古屋市長を信じ、名古屋城天守木造化に期待するというのであれば、そのような愚行に対して反論は述べない。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

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NPO法人フリースクール全国ネットワークなどが、夏休み明け居場所を無くした方たちの場所を提案しています。

cocoaru.org

また、2015年に鎌倉市の図書館が次のようなツイートを掲載しました。

この鎌倉市の図書館だけではなく、すべての図書館は皆さんの為にあります。
ぜひ、困ったら、どんなことでも、お近くの図書館を訪ねてみましょう。

すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。

図書館の自由に関する宣言

私には悩みは無い、
あるのはただ、解決すべき課題である。


*1:ポピュリストであれば、大衆に迎合する、有権者の意見を容れる姿だが、これは違う、後述のように民意すら意に介していない。私的な欲求を実現させようとするだけなら、ポピュリストでもないし、そこで虚言や隠ぺいを恥じないのであれば単なる煽動家だ

*2:とそれに伴って、YouTUBEの視聴数が伸びること

*3:冷笑するものを冷笑するのは気分がいい。本当に私はヒトが悪いのだ

*4:おめでたい!

*5:何が「民主主義発祥の地、ナゴヤ」だか

*6:「史跡等における歴史的建造物の復元に関する基準」 平成27年3月30日

(仮題)日韓関係を考えるその基盤

今日はちょっと大きいお話をしてみたい。

本論に入る前に、今週が終わると8月が終わります。つまり、今週が終わると「夏休み」が終わるという事で、毎年のように夏休みの終わりがけや、夏休み明けにはいろいろと悲しい出来事が起こります。

特に、夏休み明けに学校がつらいという方には、学校だけでは無いよという提案をお示ししたい。

NPO法人フリースクール全国ネットワークなどが、夏休み明け居場所を無くした方たちの場所を提案しています。

cocoaru.org

また、2015年に鎌倉市の図書館が次のようなツイートを掲載しました。

この鎌倉市の図書館だけではなく、すべての図書館は皆さんの為にあります。
ぜひ、困ったら、どんなことでも、お近くの図書館を訪ねてみましょう。

すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。

図書館の自由に関する宣言

私には悩みは無い、
あるのはただ、解決すべき課題である。


このブログは名古屋市政の、つまりは現河村たかし名古屋市長の問題を指摘するブログです。(もともとは、彼の提案した(過去形)「地域委員会」について、自分なりに研究していこうというブログだったのですが、調べていくうちに河村市長自身の嘘や、彼の主催する私党、減税日本の酷さが露になり、それらを報告するブログのようになってしまいました)

ここで重要なのは、名古屋市政について私があれこれ述べるというブログではないという事です。
私には名古屋市政全般に意見を差しはさむような広範な見識があるわけではありませんし、その中で様々な価値観がある意見について、私の個人的主観を主張するつもりもあまりないからです。つまり、価値観が様々許されていることについては、それぞれ主張されればいいと思うわけです。


しかし、現実の政治、政治的議論において、「嘘」は許容できません。それは何故かというと。


人間というものは有限な存在です。必ず個々人の視野には死角があり、自分に見えていない事柄については知りえません。自分がすべてを知っていると思う事は傲慢です。

しかし、そうした不完全な情報しか与えられていない中で、人間は生きていかなければなりませんし、仕事や生活の中で判断を下していかなければなりません。そうした判断は、時に、政治的判断でもあるでしょう。そうした時に、自分なりに意見を述べ、主張をする。自分が見えている物はどのようなもので、これについてどう思うか主張をする。すると、時には別の立場から、異なる意見を聞くことができる。つまり、自分にとって見ることができなかった位置からの風景を報告してもらえ、意見をもらえる。

自分の視野には限界があるのだから、こうした意見は貴重で、そうした意見も含めて自分なりに新たに社会の成り立ちを理解することは、非常に興味深い事でもある。自分のそれまでの知見と、こうした新たな意見、これらを足し合わせて社会の姿を描き直し、こうやって描かれた社会像から、また新たに自分なりの判断を下したり、意見や感想を述べる。

つまり、議論というものは、自分の視野を広げるためにあるのであって、議論の結果自分の意見が全く変わらないという事は、その議論が無駄であったという事に他ならない。もちろん、議論の結果、自分の描いていた社会像に変化がない事はある。それゆえ、議論を経ても判断が変わらず、意見が変わらないことは往々にある。しかし、それは何も変わらなかったという事ではない。その判断や意見を支える基盤となる社会像については、自分の視野とは異なる部分についても知見を加えたという事であって、判断や意見を支える現状認識においては議論後はそれ以前よりも頑強になっていると言える。

議論とは、誰かを言い負かすとか、そうした言い合いの結果、自身のポジションを得ようというような、そのようなものではない。

私についていえば、議論における敗北とは、議論の結果、自身の知見が広がらなかったという場合を言うのであり、議論によって自己変革がなされなかったのであれば、それはその議論が無駄に終わったと思えるのである。

それだけに、議論において「嘘」を言われることは心外であり、最も忌避したいこととなる。
いったい、議論において「嘘」を言うという理由が分からない。もちろん、話者自身が誤認しているために「嘘」を言うことはあるだろう。また、その「虚言」によって何かを得ようとすることもあるだろう。しかし、それは「議論」ではない。

(自分を含めて)誰かを守るために、助けるために事実を隠す、または嘘を言う。これは個人的な「思惑の空間」であって、公的な場ではない。
家庭やプライバシーという領域で行われる、こうした「思惑の空間」を個人が構成するのは自由な事だ。その「思惑の空間」の利益もリスクも個々人が持つのであって、その中ではどのような嘘や妄想も自由に許されるだろう。

しかし、公共空間に個人の「思惑の空間」を持ち込んではいけない。他者に対して、自分の「思惑の空間」を押し付ける行為は異常な行為だ。
もちろん、特定の人々が、それぞれの自由意思で特定の「思惑の空間」を共有することはある。恋人同士の会話であるとか、劇場空間における演者と観客の共通認識などはこの好例だろう。

困ったことに、ある者たちは公共空間と「思惑の空間」の境界線が曖昧になっている。

その昔、上岡龍太郎は「テレビに映るものはすべて芸能になってしまう」と喝破した。

大衆社会は、(日本においては大正デモクラシー分水嶺として)すべての物事を「マスメディア」の俎上に載せ、それを消費してきた。

・・・「大正デモクラシー」の頃、印刷と電信技術による情報の拡散が日本全土に行きわたったという意味で、ここが分水嶺と思えるが、それ以前にも、事実によって構成されるべき公共空間と、大衆が受容し消費する「思惑の空間」の並立、対立という例はある。一つの例が「赤穂浪士の物語」となるだろう。赤穂藩の取り潰し騒動と、吉良上野介の存在は、史実であるが、そこに様々な脚色が重なり合って「赤穂浪士の物語」が成立し、印刷物や演劇として共有された。それは事実など無視した「思惑の空間」であり、そこで「敵役」とされた「吉良上野介」にとっては甚だ迷惑な事だっただろう。

特に、名古屋の人間にとっては、三河、吉良家というものを、名家として承知しているだけに、事実と「思惑の空間」のズレには違和感を持つ。

・・・そうか、ここまで考えてみると、もっと遡れるし、本質が見えてくる。
どういうことかというと、「赤穂浪士の物語」のように、史実を元に構成された物語というものはもっと古くから存在する。中国の古典と呼ばれる書物、史料は、こうした歴史的事物を記したものであり、そうした史料から人々は物語を紡ぎ出し、「思惑の空間」として消費していく。例えば、「三国志」といったものもそうであるし、「史記」に記された故事もそうなる。(さらに「三国志」の中に、韓の成立を成した「史記」の記述を物語として消費する場面も出てくる多重構造も見て取れる。張良の故事を聞かされる呂布の事績から現代の私たちが何かを得るように)

こうなってくると、「テレビに映るものはすべて芸能になってしまう」という言葉はもう少し一般的に敷衍できる。

「すべての事実は、物語として受容可能である」

すべての事物は物語として消費され、物語が人々に社会や人間を理解させ、行動の基盤となる。そしてその行動がまた新たな物語となっていく。

これは、少々懐かしい次の言葉と同じだ。「すべてはネタ」

価値観が相対化される中で、すべての価値や権威、確固とした存在が、「脱構築」されて、結果として何も言えなくなる様相かもしれない。

すべてが正しく、すべてが間違っている。または、正しいとか間違っているとか言うこと自体が意味を失う。

こうした文化的ペンペン草状況で発生したのが「オウム事件」だったように思われる。彼らは結局「ヴァジラヤーナ」を夢想し、それを実体化させてしまった。同時期に社会の表舞台に立った「幸福の科学」は「幸福実現党」という「夢想」で足踏みを続け、結果として教祖一家の家庭内争議に矮小化してる*1

オウム事件」に見られた現代型劇場の劣化コピーは、今も至る所に見られる。ジャーニーズ事務所の騒動や、NGT48における騒動、吉本興業を巡る騒ぎや、N国立花とマツコ・デラックスの騒動。*2

www.youtube.com


「すべてはネタ」で良いのだろうし、結局この世は「邯鄲の夢」でしかない。
しかし、そう言っていられるためには、盤石な社会基盤が必要となる。
社会基盤がない状態では、「邯鄲の夢」を見ていることもできないのだ。社会においてどうしようもなく虐げられている者は居るのであって、そうした存在を無視して、それをも「すべてはネタ」と「消費」できるほどの心性は持ち合わせていない。


どこかで誰かが、ゆるぎない社会基盤、事実を打ち立てなければならない。


それを誰が行うのか、それが「三権を担う者」である。

国家を構成する、三つの権力、司法、立法、行政を担う者は、「全体の奉仕者」として、自身の「思惑の空間」から離れ、誰でもが共有できる公共空間を構成しなければならない。この公共空間を構成できるもの、客観的事実を打ち立てられる者が、公職者であり、「公禄を食む」ことができる。

映画「千と千尋の神隠し」において、千尋の両親は「神の食べる肉を食った」
つまり、その職責を果たすことができぬまま、「公禄」を食んだ。

公禄を食み、社会基盤を打ち立てようとしない者は、千尋の両親のように豚となって神の食べる肉となる。

政治とは「思惑の空間」である。

政治家とはそれぞれが偏った「思惑の空間」から生み出された存在である。
しかし、「公禄を食む」立場では「思惑の空間」から離脱できなければならない。自身の主観から離れて、公共性、客観性を維持できなければならない。これができないのであればバカの極みだ。神の食う肉である「豚」にしかなれない。


例えば、自由民主党が独自の憲法草案をまとめるのは政治的主張であり「思惑の空間」である。
しかし、それが憲法としての基本機能(「憲法」とは「国民」を縛るものではなく「国家」を縛るものである)を満たしていないのであれば、それを公共空間に持ち出してはならない。(憲法には国民の権利ばかり書かれていて義務が書かれていない。という中二病のような事を言っていてはだめだ。元々憲法は国民を縛るためのモノではないのだから、国民が目的語となる言葉は少ない。その代わり民法や刑法といった一般の法律にはバカバカしいほどの国民の義務が書かれている。生まれてすぐ役所に書類を提出して、出産の報告をするという義務から、死んでその報告を役所にするまで、日本国民は山ほどの義務を負っている。それをわざわざ憲法に持ち込む必要はないし、そもそも「家庭の在り方」などという極めて「思惑の空間」に親和的な事柄を憲法という硬直した文言に塗り固めて固定化させてはならない。今後、社会や国家、国際情勢がどのように流動化していくかもしれない中で、このような事柄を固定化させることは百害あって一利なしと即断できるだろう)


ここまで論考を続けてきてやっと、入り口までたどり着いたが。
つまり、政治においては客観的な事実が必要なのであり、そこでは嘘は許されない。

個人的主観も政治的主張としては許されえるかもしれないが、その主張を現実に着地させる際には、事実の裏付けが必要となる。
「民意」などという鵺のような存在だけではなく、クリアすべき事実が必要となるのだ。

河村たかし名古屋市長において、決定的に誤っているのは、この自己の主張、自由な政治的主張と、それを政策化するにおいて必要な事実や法的根拠の脆弱さだ。その客観性の見識の低さだ。こうした「わきまえ」が脆弱なので、先の文書のような一般性、客観性を持ちえない、相矛盾した文章が書けてしまうし、それを公的な名古屋市のホームページに、あたかも公的な文書のように公表することができてしまう。これを社会が容認するという事は、この社会が論理的統合性を失うという事である。

まだまだ、続くことになるのかな。


さて、私には分からないことがある。

なぜ、「不自由展」で展示された「少女像」に、それほど過剰な反応を示すのだろう。

peace3appeal.jimdo.com

CIMAM(国際美術館会議)が「表現の不自由展・その後」について声明文を発表。「表現の自由が完全に損なわれている」(美術手帖) - Yahoo!ニュース

韓国が仕掛ける「国際世論戦」で現代日本の誇りを守る方法(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース

姉妹都市「一方的に解消できない」 サンフランシスコ市長が声明 - 産経ニュース



追記:
表現を抑え込んでも、それは漏れ出てくる。
抑え込まれれば抑え込まれるほど、それは漏れ出てくる。

www.youtube.com


*1:コンニャクは温めるそうだ

*2:マツコ・デラックスの立花に対する対応など、「無視は究極の対抗策」という高いメディアリテラシーの結果だと思われるのだが、それを批判する人々というのは、こうしたメディア対策を知らないリテラシーの低さを投影したモノか、はたまたそうした批判によってマツコのリアクションを引き出そうとする、つまりは死にかけたセミを突いて動かそうとする悪戯なのか。どちらにしても「思惑の空間」を構成して消費しようとしていることには代わりはない

あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行様の経緯説明徹底批判(2)

まあ、あれこれ書いてみたんですが。すべていったん破棄してみます。

どういうことかと申しますと、「あいちトリエンナーレ問題」*1に関して、どうしても話さなければならないだろう富山県立美術館*2における「天皇コラージュ問題」と、その後の美術館側の対応、県議会の動き。そしてそれらの事を全く無視して単に「ご真影を焼いた」という歪んだプロパガンダを振りまく右派の歴史断絶性。
それと、政府見解を無視した「従軍慰安婦は無かった」という、これも歴史的事実を断絶した誤った認識から生み出された政治的主張プロパガンダ)に対する批判。すべて結局一言で片が付く。

「現実を見ろ」と。

http://www.awf.or.jp/6/statement-32.html

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20190816-00138640/


これらの明白な現実があるにもかかわらず、自身の主張に固執するという事は、それは現実や、現実社会、国家や政治がどうなっても構やしない、単に自分の思った事、思いついたことを語りたいだけであり、それを語ることによって、同じような歪んだ現状認識に陥っている人々と作る蛸壺の中で、仲間内の拍手喝さいを得たいというだけの、貧しい心の表れでしかない。・・・センテンスA

であるので、今回、「あいちトリエンナーレ」主催者に対して「ご真影を焼くな」と主張する者は、その経緯を再度確認し、本来であれば、実際にご真影を盛大に焼いた富山県立美術館か富山県議会に抗議すべきであって、その際の被害者である大浦信行さんや、その問題を具現化、抗議している嶋田美子さんに抗議をするかのような態度はまるで筋違いだ。もう一度言うが、「誰がご真影を焼いて、誰がその行為に抗議しているのか、ご真影を貶めているのは誰か」こうした理路が分からない者が、何を語っても説得力などない。そしてこうした没論理が、結果として先の大戦で国家を失わせる、文字通りの「亡国」に至った事実を知らねばならない。

こうした理路を理解しない者、理解しようとしない者こそが、「亡国の徒」なのである。


IWJが河村たかしの市長記者会見を伝えている。

https://iwj.co.jp/wj/open/archives/455640

名古屋市民の大部分は、市長記者会見や、この「あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行様の経緯説明」を知らない。

名古屋市の大ブロック紙はこうした異常性を伝えない。(ここから上のセンテンスAに続く、そしてループする)

報道は「社会の木鐸」と言われる。それは単に社会に大きな音で何かを伝えるという機能を言っているのではないだろう。木鐸とは自らの身を打つ。自らを打つことによって、社会に警鐘を鳴らす様態こそを、報道が社会の木鐸であると言われる所以であろう。自らを打たない、反省をしない、自らの過ちを認めない、その過ちすらも他の情報で覆い隠す姿勢は、木鐸とは程遠い。単なる蛸壺通信に過ぎない。

蛸壺通信が自らの過ちを糊塗しようと努めている時にも、その歪んだ市政の中で踏みつけにされている人々は居る。報道はそうした人々にこそ光を当てるべきであり、行政はこうした歪みにこそ心を砕くべきではないのだろうか。(お城のわけの分からない特集を連載している場合なのかね)

それを見ず、見ようともせず、知らせず、隠ぺいしようとする姿は、あまりに醜悪である。

IWJの伝える河村たかしの市長記者会見において、突っ込みどころは山ほどあるが、私は二点だけ指摘したい。(限がないから)

1.論点をぼかす詭弁術

先の「会長代行様の経緯説明」において、論点は「少女像」と「ご真影焼却」であったはずだが、この記者会見では「特攻隊」について言及している。これは中垣克久さんの「かまくら型」の展示物(本当の題名は「時代の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」)を指しての批判だろう。これについても「間抜けな日本人の墓」という題名であるかのように語られているが、理解が浅い。別に「特攻隊」を揶揄しようとしたのではないだろう。「特攻隊」だけではなく、先の日本人戦没者と、日本、および米国の関係を中垣氏ならではの表現方法で表したにすぎないだろう。確かに極めて政治的であるし、正直私は美術作品としても評価し辛いが(実際に見てみても違和感を禁じえなかった)。「特攻隊」を揶揄しようとした作品という理解はあまりにも偏頗だ。
と、そうした中身の議論はどうでもいい。

私が疑問に思うのは、この記者会見で問題として指摘するのであれば、なぜ「会長代行様の経緯説明」では取り上げなかったのか?または、知事への抗議の際には問題としなかったのか?という事だ。

結局、「会長代行様の経緯説明」において2点を取り上げたが説得力がないとみて新たな論点を拾ってきたという事だろう。または、蛸壺の仲間から「特攻隊」の問題も吹き込まれて適当に口にしただけなのかもしれない。

河村は「特攻隊で死んだ人たち、どう思うの? 私、間抜けだったのかと」と語っているが、誰も特攻隊で死んでいった人たちを「間抜け」だなんて言っていない。「間抜け」は「会長代行様」あなただけだ。


2.偏頗な現状認識、醜悪な社会認識、拡散する腐食

こんな発言がある。

「やっぱり芸術っていうのは非常に、反政府性が強いのもありますから。ピカソの『ゲルニカ』なんていうのはそのシンボルですけど」

これが元(現役?)画廊経営者の談話?

ピカソの「ゲルニカ」はフランコ政権に対する共和党軍に対して、フランコ政権に与し(そして侵略を企図した)ナチス・ドイツの「ゲルニカ空爆」を批判した作品で、そうした意味で「反フランコ」「反ナチス」のメッセージが「弱い」として批判された作品だ。「反政府」というメッセージが「弱い」として批判された作品なんだよ。もう一度言うよ、ピカソの「ゲルニカ」は、「反政府性が弱いと批判された作品」なんだよ。「間抜け」

しかし、作品としての「ゲルニカ」の訴えるテーマは、ゲルニカ空爆重慶空爆、そして東京大空襲、名古屋大空襲、広島・長崎への原爆投下に続く、「非戦闘員に対する無差別爆撃」という非人道的な犯罪行為に対する批判なのであって、こうした非対称な戦争=虐殺の実相は現在、今日ただ今の世界にも繋がっている。

それだけにその声は劣化していない。(ピカソ自身が及び腰ながら反フランコであったことから、「ゲルニカ」に非戦や反戦というメッセージがあるとする意見には同意できない。「ゲルニカ」の投げかけるメッセージは非戦や反戦ではなく、「非戦闘員に対する無差別爆撃は犯罪である」というメッセージであると理解する)

いやしくも絵画を生業にしよう(現役?生業にしている?)とするものが、20世紀の代表的絵画と言われるピカソの「ゲルニカ」に対して、このような、小学生なみの誤解をするとは情けない。彼の蛸壺の文化レベルが知れようというものだ。

文化や教養というものは、今日の腹を満たしてはくれない。いったい何の足しになるのかさっぱり分からないかもしれない。

しかし、文化や教養というものは、その社会の基盤として、物言わぬままその社会を支えている。先人が培ったこうした文化や教養、それが支える安定的で豊かな社会の上で、そうした床下の柱に水をかけるバカがいる。床下の柱が腐ろうとも意に介さないバカがいる。好き勝手な妄言を吐き、それを広げる。こうして文化は、その土台から腐食していき、やがて社会そのものを修復不能なまでに傾ける。

先の大戦は国を失わせた戦いであった。亡国の戦いであり、傾城の戦いであった(焼失してしまったのだから、傾城どころの騒ぎではない)。それはファナティックな「皇国史観」が、「天皇統帥権」という批判を許さない理論を打ち立ててしまった事から、思考停止が始まって、地獄の道へと繋がった。その源には、東北の冷害や世界的な恐慌という問題もあり、「ニ・二六事件」というトピックもあった。しかしそれらを繋げたレールは、「大正デモクラシー」として広められた、大衆の政治参加と、電信、新聞の復旧による大衆の情報化があるだろう。

水は低きに流れ、ヒトは安きに流れる。大衆に阿った報道は、大衆の自己肯定を慰撫するばかりとなる。そこに事実があればまだしも、極端な隠ぺいや歪んだ情報は、大衆の理解をそもそも歪める。歪んだ大衆の望みに叶う報道は、いよいよ歪んだものとなっていく。第二次世界大戦の端緒、報道は戦争翼賛の論調ばかりで溢れかえった。それは何も、いわゆる「大本営発表」だったからではない、政府や軍部が強く強制したからではないだろう。報道自体が大衆に阿り、大衆が十分な情報を、事実を持たなかったからだろう。

では、情報を持たなかった大衆が悪いのだろうか。事実を知らなかった大衆がバカだったのだろうか。

違うだろう。

オピニオンを、社会に対して主張をすべき者は、その政治的左右を超えて、虚言や自家撞着に対しては厳しく批判すべきだ。そうしなければ言論空間は無責任な発言、嘘、誤情報で溢れかえるだろう。

今現在。名古屋市はこんな「間抜け」な文章を公費で掲載している。

この文章にはこうある。

先鋭な対立関係を背景とした政治的主張を伴い、その対立関係をより先鋭化させる契機となる可能性を否定できず、現実には、多くの日本国民の国民感情を甚だ害するおそれが強くあり、この意味で「公衆に険悪の情を催させる」ものとして、公共の場所に相応しくない作品であると思いました

名古屋市:あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について(暮らしの情報)

つまり、「対立関係を背景とした政治的主張を伴い」「対立関係をより先鋭化させる契機となる可能性」があり、「多くの日本国民の国民感情を甚だ害するおそれが強く」ある場合、その表現行為は「公共の場所に相応しくない」としているが、この文章自体、特に「少女像」に象徴される*3従軍慰安婦問題」については、日本政府の公式見解とも乖離しており、「政治的主張」を含んだ「表現行為」に他ならない。

また、この名古屋市河村たかしの言動は、韓国国内においても広く報道され、「対立関係をより先鋭化させる契機となる可能性」があった。また、このような歪んだ政治的主張を、稚拙な文章で名古屋市の公式文書として掲載することは、「多くの日本国民の国民感情を甚だ害するおそれが強く」あり、この河村たかしの作文こそ「公衆に険悪の情を催させる」ものである。

まったく見事なまでの自家撞着、自己矛盾を含む文章である。

こうした文章の掲載が、はしなくも名古屋市の公費を使い公的なサイトにおいて行われている。この文化や教養をゆがめる行為を、一切の批判もなく、市民にも知らせようとしない態度は、この社会の土台を腐食させる傾城の怠惰である。



さて、8月22日に名古屋城木造化住民訴訟の第三回公判が行われました。
ここでなかなか興味深い発言も飛び出しています。

そうした報告もすべきと思いますが、なかなかこの週末は動きが取れませんでした。
(AWS万歳)

まとまり次第ご報告いたします。


*1:すでに「表現の不自由展・その後」非公開問題を超えている

*2:富山県立近代美術館

*3:と「間抜け」が主張する

あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行様の経緯説明徹底批判(前)

あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行様が「表現の不自由展・その後」に対して中止を求めた経緯について「公費を使って」説明文書を掲載している。

www.city.nagoya.jp

全文は末尾に引用しているが、一読した感想を一言でいえば。


下手クソな文章


の一言だ。
これは、額に入れて「トリエンナーレ」のどこかに掲示する価値がある。十分笑える。

なんだよ、この「便益供与」と「便宜供与」の表現の揺れは。

なんだよ、この「外国国章損壊罪(刑法92条)」の無茶苦茶な解釈は。
本気で正気を疑うよ。

自民党が「国旗損壊罪」を新設しようとして、その際にも「外国の国旗は損壊すれば罪になるのに、自国の日の丸を損壊しても罪にならないのはおかしい!日本の国旗は外国の国旗よりも地位が低いという事か!」と血管を浮き上がらせて訴えるネトウヨに対して。
「おじさん、落ち着いてください。この刑法92条というのは、国が外交関係を保持するために立法したもので、自国民が自国の国旗をどう扱おうと、外交的には意味が無いので特に法律を設けていないだけですよ。誰も日の丸と外国の国旗の地位がどうとか言っていませんよ」とかって話があってだね。
この会長代行様がおっしゃるような「トンでも拡張」したような解釈は誰もしていない。

正気を疑う。

なんだろうな~、
名古屋市がね。
政令指定都市名古屋市がだよ。
日本でも有数の歴史と伝統と、規模を誇る。
政令指定都市の市長が、その公式なホームページに、この文章を掲載するかね。笑いが止まらないよ。

パロディーってのは、(いかん、本当に腹が痛くなってきた)
パロディーってのは、厳然とした権威が存在してくれるから、パロディーとして成り立つのであって、本来、キチっとした権威を備えることもできるはずの市長が、こんな文章を書いていては、笑われるだけでございますよ。

市の職員はまともに読んでもいないんだろうなぁ。みんな「プックス」てなもんでね。

プレーンな文章と、サイン付きってのがありますけど。
「お花畑付き」ってのも良いんじゃないのかな。

直筆!
見てみたいね。あの自称書道家の、下手くそな文字で、この下手くそな文書。
街で見かける「電波文書」に近しいものがある。

と、「徹底批判」と書いてみたが
本文に入る前にこれだけになった。

とりあえずまず項目だけを並べてみよう。

・「検閲」に当たるか否か

・申し入れは「『表現の自由』の『規制』そのものを目的としたものではなく、『公共施設』の管理・利用方法が不適切である旨を指摘」したものか。

・自費で、個別に作品を公表することが自由であれば特定作品を「後述のような理由」から排除することは「検閲」に当たらないか?

・「従軍慰安婦」の存否が「政治的問題」となっているか?

・そもそもこう主張する根拠は?(そういえば、百田の「日本国紀」も参考文献がないんだけど、この文章も根っこがないね、ここ重要)

・「作品自体が、先鋭な対立関係を背景とした政治的主張を伴い、その対立関係をより先鋭化させる契機となる可能性を否定でき」ないのか?

ちなみに、今回の展示を中止させた「犯人」であるFAX送信者は「少女像の展示が気に入らなかった」と主張し、FAXにも「史実でもねえ人形展示」などと記述していたそうだ。

・「多くの日本国民の国民感情を甚だ害するおそれが強くあり」「公衆に険悪の情を催させる」ものであり「公衆の嫌悪感を覚えさせる作品」なのか。(この言葉には、「怒り」を覚えるが、こんなバカに怒っても仕方がない。しかし、この言葉は特に記録に残しておきたい。名古屋市河村たかしは、「少女像」の展示を「多くの日本国民の国民感情を害し」「公衆の嫌悪感を覚えさせる」と表現した。本当にこんな人物が「画廊」を経営しようとしたってのは勇気がある)

・「天皇コラージュ」問題については、富山県立美術館における経緯を無視した、「歴史を切り取る歴史修正主義者らしい、視野狭窄」としか言いようがない。

・「本件事業の会長である大村知事が、その一存で、本件事情(ママ)に係る企画を主宰・独断専行・推進した」という認識は正しいのだろうか?

・そして最後、ここ笑うところです。河村市長の文章にありがちな事ですが、出だしと結論で話が変わっている。私が彼を「無能」というのは、根拠がない話ではない。たぶん彼は何をやらせても、こうやって思考の出だしと、結論がずれるんだろうね。目的意識を持続できないんだろう。

この文章の場合ね、出だしは「名古屋市民の皆様へ」と呼び掛けていますね。でさ、文章の末尾どうなっています?「大村知事の一存で撤回した経緯・理由について明らかにするよう強く求めます」となっています。

書き出しの呼びかけに対応させるのであればここは。
「・・・といった事情から、大村知事に~を求めたものであります」となりますね。

まあ、結構な傾向です。この10年でいよいよ酷くなっているけれども。他者とまともな対話、議論をしていなんだろうね。可哀そうに。

ミダス王の伝説。触れたものがすべて金に代わっていく。権力を持ち、自身の周りにはお追従を語るものだけになる。触れる言葉は称賛と賛意だけ。まるで金に囲まれたかのように。しかしそれは、真の孤独の姿。

名古屋市民の皆様へ

あいちトリエンナーレ 2019「表現の不自由展・その後」について

あいちトリエンナーレ 2019「表現の不自由展・その後」(以下「本件事業」と申します。)について、実行委員会会長代行として、あいちトリエンナーレ実行委員会会長に対し抗議の申し入れを行った経緯等につき、以下のとおりご説明します。


1 対象事業

あいちトリエンナーレ 2019「表現の不自由展・その後」
主催:あいちトリエンナーレ実行委員会(会長:愛知県知事大村秀章
構成:愛知県、名古屋市名古屋商工会議所、一般社団法人中部経済連合会中日新聞社日本放送協会名古屋放送局、独立行政法人国際交流基金愛知県立芸術大学愛知芸術文化センター、公益財団法人愛知県文化振興事業団、公益財団法人名古屋市文化振興事業団 等


憲法 21 条が保障する「表現の自由」に関する見解

憲法 21 条が保障する「表現の自由」が問題となる典型的な場面は、公権力(本件事業の場合、愛知県・名古屋市等)が、私人の「表現」を「規制」(=侵害)する場面です。これに対し、本件事業で問題となった「表現」と公権力(特に愛知県)との関わりは、企画者・作者(表現主体)に「表現」の場として「公共施設」(愛知県立芸術文化センター)を提供し、かつ、「表現」のために必要となる経費を「公金から支出」するといった形での「便益供与」です。

したがって、私からあいちトリエンナーレ実行委員会会長である大村知事に対して抗議を申入れた趣旨は、「表現の自由」の「規制」そのものを目的としたものではなく、「公共施設」の管理・利用方法(「便宜供与」の対象基準)が不適切である旨を指摘するものです。

なお、特定の作品を後述のような理由から「本件事業」の対象から外したとしても(「便宜供与」を撤回しても)、その作者は、自費で、個別に私営の個人ギャラリー等で作品を公表(「表現」)することは自由であり可能ですから、地方公共団体(大村知事)が、公共事業として相応しくない作品への「便益供与」を中止することは、憲法が禁止する「検閲」とは全く関係ございません。


3 問題と思われた主たる展示物

愛知芸術文化センターで、私、名古屋市河村たかしが、直接、目視・確認した、展示物のうち、特に問題があると判断した展示物は、次のとおりです。


(1)「平和の少女像」
この作品は、韓国民の政治的主張を目的として、世界各地に置かれている「従軍慰安婦像」と全く同じポーズ・衣装を纏った人形です。「従軍慰安婦」の問題自体が、その存否・評価を含め、高度にセンシティブな政治的な問題を含むと同時に、このような作品自体が、先鋭な対立関係を背景とした政治的主張を伴い、その対立関係をより先鋭化させる契機となる可能性を否定できず、現実には、多くの日本国民の国民感情を甚だ害するおそれが強くあり、この意味で「公衆に険悪の情を催させる」ものとして、公共の場所に相応しくない作品であると思いました。したがって、愛知県が主宰者として、愛知芸術文化センターという公共の場所を提供し、かつ、公衆の嫌悪感を覚えさせる作品の展示に住民の税金を拠出するといった、「便益供与」を行うことは、行政(愛知県・名古屋市)に求められる政治的中立性と、それに対する社会の信頼を著しく損なうものと考えられます。


(2)「焼かれるべき絵」および「遠近を抱えて」
昭和天皇と推察される写真の顔の部分が切り取られ一部が焼かれているように見える作品(「焼かれるべき絵」)と、昭和天皇の写真が炎に包まれているような場面を含む映像作品(「遠近を抱えて」)が、鑑賞者の前後に連続的に配置されていました。もとより、天皇は、「日本国の象徴」であり、かつ、「日本国民統合の象徴」(憲法1条)でありまして、戦後の復興に果たした昭和天皇の偉業に対して畏敬の念を抱く日本国民も少なくないものと思われます。

このような「象徴」的存在である昭和天皇の「肖像写真」が意図的に燃やされているように見える状況を描いた作品は、その主題自体が甚だ礼を失する遺憾なものであり、日本国民・社会公衆の多くに著しい侮辱感・嫌悪感を与えるものだと思われます。そして、このような国家の象徴的存在の形見を燃やすことは、国家の統合の象徴である「国旗」を燃やす所業に類するものとしてパラレルに考えられますので、例えば、刑法上も外国国章損壊罪(刑法 92 条)等で処罰対象としていることに示されるとおり、健全な社会通念に照らし、許容限度を完全に逸脱しているものと理解されます。

もっとも、このような作品であっても、「表現」としては、もちろん十分に尊重すべきものであるという理解もありえますが私としては、地方公共団体が「便益供与」の対象とするに相応しい「芸術作品」であるとは到底思えません。


4 結論

本件事業の対象作品の中には、上記のごとき重大な問題を含むものが散見されていたにも関わらず、本件事業の会長である大村知事が、その一存で、本件事情(ママ)に係る企画を主宰・独断専行・推進したことに対して、私、名古屋市河村たかしは、「会長代行」として、遺憾の意を表すとともに、大村知事に対しては、速やかに、本件事業の実行委員会会長としての責任において、運営会議を開催して、本件事業を開催するに至った経緯と、大村知事の一存で撤回した経緯・理由について明らかにするよう強く求めます(もとより、私は、暴力・脅迫によって言論・表現を抑圧する一切の行動に対しては、行政として、断固たる対応・態度をとるべきものと考えております。)

令和元年8月8日
名古屋市長・あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行


トリエンナーレ抗議行動の呼びかけ

aitoritekkyohantai.blogspot.com
あいトリ署名 Petition Campaign



北区にある「北生涯学習センター」で「名古屋城有形文化財登録を求める会」の月例勉強会を開きます。

8月12日(月・振休) 13:30~15:30 第1集会室
9月11日(水) 18:30~20:30 第3集会室

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。

www.suisin.city.nagoya.jp


平成30年9月21日(金曜日)午後3時に名古屋市監査委員に対し、「名古屋城天守閣整備事業」について、その基本設計業務において違法性が疑われる事から、当該違法行為の是正と、本件事業の停止を求める住民監査を請求いたしました。

住民監査の結果は、「合議に至らず」という名古屋市政でも初の結果となりました。
結果として主張の適否が得られませんでしたので、現在訴訟となっています。

peraichi.com

次回、第三回公判は8月22日(木)午後2時より
名古屋地方裁判所 第1102法廷 です。

正式な被告よりの答弁書が提出されます。
名古屋市側の主張が行われます。


両国関係にたかって飯のタネにしている奴らから仕事を奪え

前座:
河村市長は古紙回収業を営んでいたと思われるかもしれませんが、それ以外に陶芸家、書家、画廊経営をやっていました。

「画廊経営者」だったんですよ!
という話。

木造化がセメントになっちゃった話 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0


某所で今般の「表現の不自由展・その後」閉鎖問題について、閉鎖肯定派の方から次の2点、ご意見を拝見した。

1.日韓合意に反する展示を行う問題
2.公的資金で政治的な展示を行う問題

公的資金で政治的な展示を行う問題

まず、2から考えてみたい。

日本の社会は自由な社会だ。いわゆる「リベラル」な社会であると考える。
国民には思想及び良心の自由、信教の自由、そしてそれらを表明する表現の自由が認められている。(日本国憲法19~21条)

こうした自由を人々に認めることを「リベラル」とはいうのだろうが、その思想はウェストファリア条約の成立を起点とする。

17世紀、ヨーロッパはカソリックプロテスタントの宗教的対立、思想的対立が先鋭化し、更に各国、各有力者の思惑も錯綜して30年戦争と呼ばれる長い戦乱の時代に突入した。こうした対立の末、当時のヨーロッパの人々は、争いによって価値観(宗教/思想)の対立は解決できない。と理解した。その結果、おおよそ次のような考えを国際的(全ヨーロッパ的)な合意とすることにした。つまり。

「私にとって、どのような虫唾が走る考え方であっても、その存在を認め、容認する。
けれどもその代わり、私自身がどのような考え方を持っていようとも、その自由を認めてくれ」

つまり、前段で表す「寛容」の姿勢を他者に向けることによって、後段で示す「自由」の保障を求める。

これが「リベラル」の起点であり、そこでは「寛容」と「自由」がコインの裏と表のように重要とされる。

こうした考え方が日本国憲法にも反映されて、思想信条の自由、表現の自由が認められている。
国民の表現行為には政府は介入すべきではない、行政は国民の表現行為については中立であるべきだ。

国民の活動、表現活動の中身について、行政が選別をすることは、この日本国憲法の規定と反している。

こうした表現行為というものには教育も含まれる。なので、国においても各自治体においても、政治が直接教育の内容について選別を行わないように、(形だけでも)教育委員会といったような政治的に中立な存在に、内容の審査を行わせている。

(現行憲法はよく練られている文章で、憲法22条に定められている「居住、移転及び職業選択の自由」についてはわざわざ「公共の福祉に反しない限り」という制限が加えられているが、19条から21条までに定められている「思想及び良心の自由」「信教の自由」「表現の自由」にはこうした制限すらない。本来は表現の自由は公共の福祉すらも超越している。ともとれる)

表現行為自体は自由に為されるべきだ。

しかし、社会としてその受容に一定の配慮がいることは理解できる。
つまり、性的表現であるとか、宗教的象徴を批判的に扱っているようなものが、昼日中、不特定多数の人々の前で、何の前提もなく提示されることは問題だろう。
こうしたモノについて、予め警告を表示するなど、接触をしないように計らう必要はあるだろう。
ここで重要なのは、表現行為は自由に認めるべきで、一般の公衆がそれを受け止める際に、一定の配慮を設ける事は必要だろうという事だ。表現行為自体に制限を加えるべきではない。

また、国民の表現行為が自由であるのだから、公人のそれも自由であるとは言える。
どのような表現行為に対する批判でも、それもまた表現行為なのであるから自由だ。

しかし、上で表現行為にアクセスするについて一定の配慮が必要であると言っているように、社会的影響力のある公人の発言は、広くマスコミに掲載され、不特定多数の者に事前警告もなく届くのであるから、発言の前に一定程度の配慮がなければならない。それが公人の責任である。

また、公権を持つ者が表現の場を提供して、そこに政治的選別を施すのであれば、それは「検閲」であり、表現の自由とは言わない。
そしてそうした行為を行っている国というのは、中華人民共和国であるとか、朝鮮民主主義人民共和国であるとか、今は無きソビエト連邦社会主義共和国であるとか、ナチス・ドイツなどの全体主義国家の姿なのではないのか?

どのような表現行為であろうとも、少なからず社会性、政治性を持ちうる。一方でその政治性を受け入れられない人がおり、一方でその政治性を受容したい人がいる。そうした場合、受け入れられない人に対して一定の配慮を設けて、受容したい人たちや表現者に対して、公的な場を提供することは公益に叶うと考える。こうした社会的主張、政治的主張のどこまでを公的に容認するか、または排除するか、それを一方の政治家が恣意的に決定できる社会とは全体主義国の姿であり、日本の在り方、現行憲法の規定とは容れない。

日韓合意に反する展示を行う問題

つづいて1は少々厄介だ。

「少女像」を巡る日韓関係に踏み込まなければならない。

ここで先に一言言っておくと、私はこの問題について本当に大雑把に言うと。日本国内において、日韓関係をこじれさせたい、こじれさせた方が何らかの利益につながるというヒト、人たちが居ると認識している。その逆に日韓関係を平穏にしたい、平穏にすることで利益を得る人たちもいる。また、同時に、韓国においても韓日関係をこじらせた方が良いと思っている人もいれば、正常化することで利益につながる人もいるようだ。

こうした中で、様々なフェイク、偽情報も飛び交って、まったく不健全な議論、水掛け論が続いている印象を受ける。

実際、この少女像が世界中にばらまかれている状態には異常なものを感じるし、韓国国内においても少女像の設置に、現地の大学や商店街が反対したって話も聞く。つまり、日本国内で議論があるように、韓国国内にも議論がある。お互いがお互いの自論を補強するような情報だけにしがみついて、相互に主観を押し付けているのであれば議論なんぞいくらしても溝が深まるだけだ。

まず、起点となったのはいわゆる「従軍慰安婦問題」であって。こちらについては「慰安婦問題日韓合意」が最終的な到達地点で、そこではこの合意が「最終的かつ不可逆的な解決」であるとされている。その中で尹外交部長官の表明として「韓国政府は、日本政府が在韓国日本大使館前の少女像に対し、公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し、韓国政府としても、可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて、適切に解決されるよう努力する」としている。

つまり、韓国内でも韓国政府は撤去の意思はあるが、設置した団体等の協議を通じてしか「適切に解決される」道がないので、結果については明言できないとしている。これは韓国の国内事情というものだろう。さらに事実としてソウル市が日本国大使館前の少女像を特別公共物に指定して移設を阻んでいるという。ここでも、ソウル市の首長なり議会多数派を構成する政治勢力が日本との外交状態を「正常化」に向かうように働きかける以外に解決策があるとは思えない。

韓国国内においてもこの「日韓合意」自体にも批判がある中で、日本政府が韓国政府に「少女像」について「合意」の履行を求めても、韓国政府は「約束通り、適切に解決されるよう努力している」と言われればそれ以上追及はできないだろう。

次に、それにさかのぼる

従軍慰安婦問題」に関する日本政府のオフィシャルな見解を公的な文章で追いかけてみる。

www.mofa.go.jp

www.mofa.go.jp

www.awf.or.jp

www.mofa.go.jp

まず、確認したいことは。いわゆる「従軍慰安婦問題」について、日本政府は国の関与は認めて謝罪もしているという事だ。
ただ、日本政府は日韓請求権協定によって、協定以上の賠償を国家として行う事はできないとして、アジア女性基金を経由して賠償を行ったというのが私の理解だ。日本政府には日本国内の事情があり、韓国政府にも韓国国内の事情があり、こうした結論に達したのだろう。

しかし、韓国国内ではこのアジア女性基金を軸とした賠償合意について批判があり、結果として先の「慰安婦問題日韓合意」につながる再協議が行われたという事だろう。

これを捉えて日本国内に「いったい何度謝罪すれば良いんだ」という議論がある事は承知している。

韓国の政治史として、前政権を批判して次の政権が構築されるという歴史があり、そうした前政権への批判の中で、前政権が行った日韓合意についても批判、再考して次の政権が全く異なる要求をしてくるという傾向はあった。また、それを自身の政治的基盤にしている韓国国内の政治勢力もいるようだ。

こうした傾向に、日本国内でイラついたような主張が噴き出すのは理解できる。しかし、この韓国の一部政治勢力の煽動に、日本国内の世論が単純なリアクションを起こし、韓国に対抗する煽動を行うというのは、韓国内のこの困った政治勢力と、日本国内の、やはり困った政治勢力との、この見事なまでのカウンター・パートナー関係、プロレスの相方に力を与えているだけに見える。あまりに不健全であり、非生産的だろう。

「韓国が悪い」「日本が悪い」こうした「政治屋」はお互いの国でこの5文字を言うだけで(ハングルでは何文字か知らないけど)飯が食えるわけだ。当然こうした輩は、日韓の問題を解決しようなんて毛ほども思ってはいない。

こうした煽動に乗るのはバカのやる事だ。

いままた、文在寅大統領は「両国政府が条件をやり取りする方法で被害者を排除し、解決を図ったこと自体が間違った方法だった」と「慰安婦問題日韓合意」に否定的な意見を言っている。つまりこのまま他っておけば、また韓国内の「日本批判派」を力づける事にもなりかねない。実際、韓国国内では今回の「表現の不自由展・その後」の展示中止を大々的に報じているようだし、河村市長のコメントも繰り返し伝えられているようだ。つまり、こういうバカが韓国内の「反日勢力」を助けているという事だ。

文在寅大統領は言っている「日本が心をこめて謝罪してこそ(被害者の)おばあさんたちも日本を許すことができ、それが完全な慰安婦問題の解決だと思う」

戦争の加害責任の解消法。
それも、前世代の戦争責任について、後に続く国民がどういった態度で居るべきか。

同じように第二次世界大戦における「加害国」であるドイツのヴァイツゼッカー大統領の「荒れ野の40年」が一つの指針を示してくれる。

(同演説については、当ブログの「南京問題」のページに引用されている)

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります

戦争における責任、犯罪行為は一民族、一国家が引き受けるべきものではない。あくまで個々人にある。

今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません

実際にその残虐行為を行っていない国民、またはそれ以降に生まれた国民には、当然ながら罪の自覚はありませんし、罰を受けなければならないという事もない、それを強要することは誤っている。

罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります

しかしながら、すべての人々は、こうした過去からの繋がりによって存在しているのであり、過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされている。

特に、日本という国家や、民族に誇りを持つ者であるならば、その過去に対して毅然とした態度で向き合うべきだ。

問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません

過去を変えようとしたり、起こらなかったと胡麻化すことは最も卑しい行為だ。

過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります

歴史的な立脚点を持たない者は、人間を理解できない。人間が時にどのように残虐で、どのように冷酷になれるか理解できない。

この「少女像」を見ると、「心が締め付けられる」というのは、現実に数十年前の日本人が行った行為に恐怖を感じ、それを受け入れられないからだろうか。「日本人の、国民の心を踏みにじる」というのは、上記で述べたように外務省が認めている従軍慰安婦の国家的関与を国民は忘れているのに、その過去の事実を突きつけるからだろうか。

そういえばたかし君は「少女像」の存在が日韓で議論がある事を認めてしまうこと繋がると言っていたが、それって「従軍慰安婦問題」自体を日本政府が認めていないと誤認しているのかな?

上にあるような外務省の(日本政府の)公式見解を知らないのだろうか?
アジア女性基金のサイトにあるトンちゃんの謝罪文も「日本人の、国民の心を踏みにじる」ものだというのだろうか?

このまま、たかし君はこうした過去に目を閉ざし、従軍慰安婦なんていなかったし、南京虐殺もなかったと思い込んでいたいのだろうか。

非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです

なぜ彼が十分な議論もなく、区政協力委員を否定し、「地域委員会制度」を導入しようとしたのか。
名古屋市会の議員が「2400万円の報酬を得ている」という誤った情報を喧伝し、あたかも私利私欲の亡者であるかのように語って、市議会リコールができたのか。なぜ、政治的対立者の人権を踏みにじるような嘘、酷薄な発言ができるのか。

彼自身が非人間的な行為を心に刻もうとしないために、非人間的な行為に陥ってしまっているのだ。

いかんいかん、論点がずれた。それにヴァイツゼッカー氏の言葉を河村なんぞに向けるのは失礼な行為だろう。


「日韓合意に反する展示を行う問題」

まず、「日韓合意」の中で、「少女像の国内展示を行わない」などという合意事項は無いし、韓国政府と日本政府を拘束するだけの「日韓合意」に市民や芸術家が束縛されるいわれはない。

それに私は思います。

先に書いたように、この「少女像」はすでに「従軍慰安婦」であるとか、それへの旧日本軍の関与問題を超えているだろうと。
戦争における弱者、女性への暴虐の表現だろうと。であるならば、日本も、日本政府も積極的に「少女像」の展開をすればいいじゃないですか。

隠すから議論になり、政治的マターとなって、韓国内の「反日派」の飯のタネになるんでね。日本や日本政府が積極的に「謝罪の意も込めて、平和の像を展開いたします」とやれば彼ら韓国内の「反日派」の立脚点は失われるんですよ。韓国与党の秋美愛代表は「少女像は全世界に、国を失った国家の少女を性的奴隷にした日本を平和的な方法で告発するもの」と言っているわけで、この事実関係については日本政府はすでに認めてしまっているのですから、日本自身が展開すればよいと思いますがね。

それともこのまま、単純な感情論に任せて、韓国内の「反日派」と日本国内の「嫌韓派」の飯のタネを与え続けますか?

追記:

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8月12日(月・振休) 13:30~15:30 第1集会室
9月11日(水) 18:30~20:30 第3集会室

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。

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平成30年9月21日(金曜日)午後3時に名古屋市監査委員に対し、「名古屋城天守閣整備事業」について、その基本設計業務において違法性が疑われる事から、当該違法行為の是正と、本件事業の停止を求める住民監査を請求いたしました。

住民監査の結果は、「合議に至らず」という名古屋市政でも初の結果となりました。
結果として主張の適否が得られませんでしたので、現在訴訟となっています。

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次回、第三回公判は8月22日(木)午後2時より
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