市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行様の経緯説明徹底批判(2)

まあ、あれこれ書いてみたんですが。すべていったん破棄してみます。

どういうことかと申しますと、「あいちトリエンナーレ問題」*1に関して、どうしても話さなければならないだろう富山県立美術館*2における「天皇コラージュ問題」と、その後の美術館側の対応、県議会の動き。そしてそれらの事を全く無視して単に「ご真影を焼いた」という歪んだプロパガンダを振りまく右派の歴史断絶性。
それと、政府見解を無視した「従軍慰安婦は無かった」という、これも歴史的事実を断絶した誤った認識から生み出された政治的主張プロパガンダ)に対する批判。すべて結局一言で片が付く。

「現実を見ろ」と。

http://www.awf.or.jp/6/statement-32.html

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20190816-00138640/


これらの明白な現実があるにもかかわらず、自身の主張に固執するという事は、それは現実や、現実社会、国家や政治がどうなっても構やしない、単に自分の思った事、思いついたことを語りたいだけであり、それを語ることによって、同じような歪んだ現状認識に陥っている人々と作る蛸壺の中で、仲間内の拍手喝さいを得たいというだけの、貧しい心の表れでしかない。・・・センテンスA

であるので、今回、「あいちトリエンナーレ」主催者に対して「ご真影を焼くな」と主張する者は、その経緯を再度確認し、本来であれば、実際にご真影を盛大に焼いた富山県立美術館か富山県議会に抗議すべきであって、その際の被害者である大浦信行さんや、その問題を具現化、抗議している嶋田美子さんに抗議をするかのような態度はまるで筋違いだ。もう一度言うが、「誰がご真影を焼いて、誰がその行為に抗議しているのか、ご真影を貶めているのは誰か」こうした理路が分からない者が、何を語っても説得力などない。そしてこうした没論理が、結果として先の大戦で国家を失わせる、文字通りの「亡国」に至った事実を知らねばならない。

こうした理路を理解しない者、理解しようとしない者こそが、「亡国の徒」なのである。


IWJが河村たかしの市長記者会見を伝えている。

https://iwj.co.jp/wj/open/archives/455640

名古屋市民の大部分は、市長記者会見や、この「あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行様の経緯説明」を知らない。

名古屋市の大ブロック紙はこうした異常性を伝えない。(ここから上のセンテンスAに続く、そしてループする)

報道は「社会の木鐸」と言われる。それは単に社会に大きな音で何かを伝えるという機能を言っているのではないだろう。木鐸とは自らの身を打つ。自らを打つことによって、社会に警鐘を鳴らす様態こそを、報道が社会の木鐸であると言われる所以であろう。自らを打たない、反省をしない、自らの過ちを認めない、その過ちすらも他の情報で覆い隠す姿勢は、木鐸とは程遠い。単なる蛸壺通信に過ぎない。

蛸壺通信が自らの過ちを糊塗しようと努めている時にも、その歪んだ市政の中で踏みつけにされている人々は居る。報道はそうした人々にこそ光を当てるべきであり、行政はこうした歪みにこそ心を砕くべきではないのだろうか。(お城のわけの分からない特集を連載している場合なのかね)

それを見ず、見ようともせず、知らせず、隠ぺいしようとする姿は、あまりに醜悪である。

IWJの伝える河村たかしの市長記者会見において、突っ込みどころは山ほどあるが、私は二点だけ指摘したい。(限がないから)

1.論点をぼかす詭弁術

先の「会長代行様の経緯説明」において、論点は「少女像」と「ご真影焼却」であったはずだが、この記者会見では「特攻隊」について言及している。これは中垣克久さんの「かまくら型」の展示物(本当の題名は「時代の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」)を指しての批判だろう。これについても「間抜けな日本人の墓」という題名であるかのように語られているが、理解が浅い。別に「特攻隊」を揶揄しようとしたのではないだろう。「特攻隊」だけではなく、先の日本人戦没者と、日本、および米国の関係を中垣氏ならではの表現方法で表したにすぎないだろう。確かに極めて政治的であるし、正直私は美術作品としても評価し辛いが(実際に見てみても違和感を禁じえなかった)。「特攻隊」を揶揄しようとした作品という理解はあまりにも偏頗だ。
と、そうした中身の議論はどうでもいい。

私が疑問に思うのは、この記者会見で問題として指摘するのであれば、なぜ「会長代行様の経緯説明」では取り上げなかったのか?または、知事への抗議の際には問題としなかったのか?という事だ。

結局、「会長代行様の経緯説明」において2点を取り上げたが説得力がないとみて新たな論点を拾ってきたという事だろう。または、蛸壺の仲間から「特攻隊」の問題も吹き込まれて適当に口にしただけなのかもしれない。

河村は「特攻隊で死んだ人たち、どう思うの? 私、間抜けだったのかと」と語っているが、誰も特攻隊で死んでいった人たちを「間抜け」だなんて言っていない。「間抜け」は「会長代行様」あなただけだ。


2.偏頗な現状認識、醜悪な社会認識、拡散する腐食

こんな発言がある。

「やっぱり芸術っていうのは非常に、反政府性が強いのもありますから。ピカソの『ゲルニカ』なんていうのはそのシンボルですけど」

これが元(現役?)画廊経営者の談話?

ピカソの「ゲルニカ」はフランコ政権に対する共和党軍に対して、フランコ政権に与し(そして侵略を企図した)ナチス・ドイツの「ゲルニカ空爆」を批判した作品で、そうした意味で「反フランコ」「反ナチス」のメッセージが「弱い」として批判された作品だ。「反政府」というメッセージが「弱い」として批判された作品なんだよ。もう一度言うよ、ピカソの「ゲルニカ」は、「反政府性が弱いと批判された作品」なんだよ。「間抜け」

しかし、作品としての「ゲルニカ」の訴えるテーマは、ゲルニカ空爆重慶空爆、そして東京大空襲、名古屋大空襲、広島・長崎への原爆投下に続く、「非戦闘員に対する無差別爆撃」という非人道的な犯罪行為に対する批判なのであって、こうした非対称な戦争=虐殺の実相は現在、今日ただ今の世界にも繋がっている。

それだけにその声は劣化していない。(ピカソ自身が及び腰ながら反フランコであったことから、「ゲルニカ」に非戦や反戦というメッセージがあるとする意見には同意できない。「ゲルニカ」の投げかけるメッセージは非戦や反戦ではなく、「非戦闘員に対する無差別爆撃は犯罪である」というメッセージであると理解する)

いやしくも絵画を生業にしよう(現役?生業にしている?)とするものが、20世紀の代表的絵画と言われるピカソの「ゲルニカ」に対して、このような、小学生なみの誤解をするとは情けない。彼の蛸壺の文化レベルが知れようというものだ。

文化や教養というものは、今日の腹を満たしてはくれない。いったい何の足しになるのかさっぱり分からないかもしれない。

しかし、文化や教養というものは、その社会の基盤として、物言わぬままその社会を支えている。先人が培ったこうした文化や教養、それが支える安定的で豊かな社会の上で、そうした床下の柱に水をかけるバカがいる。床下の柱が腐ろうとも意に介さないバカがいる。好き勝手な妄言を吐き、それを広げる。こうして文化は、その土台から腐食していき、やがて社会そのものを修復不能なまでに傾ける。

先の大戦は国を失わせた戦いであった。亡国の戦いであり、傾城の戦いであった(焼失してしまったのだから、傾城どころの騒ぎではない)。それはファナティックな「皇国史観」が、「天皇統帥権」という批判を許さない理論を打ち立ててしまった事から、思考停止が始まって、地獄の道へと繋がった。その源には、東北の冷害や世界的な恐慌という問題もあり、「ニ・二六事件」というトピックもあった。しかしそれらを繋げたレールは、「大正デモクラシー」として広められた、大衆の政治参加と、電信、新聞の復旧による大衆の情報化があるだろう。

水は低きに流れ、ヒトは安きに流れる。大衆に阿った報道は、大衆の自己肯定を慰撫するばかりとなる。そこに事実があればまだしも、極端な隠ぺいや歪んだ情報は、大衆の理解をそもそも歪める。歪んだ大衆の望みに叶う報道は、いよいよ歪んだものとなっていく。第二次世界大戦の端緒、報道は戦争翼賛の論調ばかりで溢れかえった。それは何も、いわゆる「大本営発表」だったからではない、政府や軍部が強く強制したからではないだろう。報道自体が大衆に阿り、大衆が十分な情報を、事実を持たなかったからだろう。

では、情報を持たなかった大衆が悪いのだろうか。事実を知らなかった大衆がバカだったのだろうか。

違うだろう。

オピニオンを、社会に対して主張をすべき者は、その政治的左右を超えて、虚言や自家撞着に対しては厳しく批判すべきだ。そうしなければ言論空間は無責任な発言、嘘、誤情報で溢れかえるだろう。

今現在。名古屋市はこんな「間抜け」な文章を公費で掲載している。

この文章にはこうある。

先鋭な対立関係を背景とした政治的主張を伴い、その対立関係をより先鋭化させる契機となる可能性を否定できず、現実には、多くの日本国民の国民感情を甚だ害するおそれが強くあり、この意味で「公衆に険悪の情を催させる」ものとして、公共の場所に相応しくない作品であると思いました

名古屋市:あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について(暮らしの情報)

つまり、「対立関係を背景とした政治的主張を伴い」「対立関係をより先鋭化させる契機となる可能性」があり、「多くの日本国民の国民感情を甚だ害するおそれが強く」ある場合、その表現行為は「公共の場所に相応しくない」としているが、この文章自体、特に「少女像」に象徴される*3従軍慰安婦問題」については、日本政府の公式見解とも乖離しており、「政治的主張」を含んだ「表現行為」に他ならない。

また、この名古屋市河村たかしの言動は、韓国国内においても広く報道され、「対立関係をより先鋭化させる契機となる可能性」があった。また、このような歪んだ政治的主張を、稚拙な文章で名古屋市の公式文書として掲載することは、「多くの日本国民の国民感情を甚だ害するおそれが強く」あり、この河村たかしの作文こそ「公衆に険悪の情を催させる」ものである。

まったく見事なまでの自家撞着、自己矛盾を含む文章である。

こうした文章の掲載が、はしなくも名古屋市の公費を使い公的なサイトにおいて行われている。この文化や教養をゆがめる行為を、一切の批判もなく、市民にも知らせようとしない態度は、この社会の土台を腐食させる傾城の怠惰である。



さて、8月22日に名古屋城木造化住民訴訟の第三回公判が行われました。
ここでなかなか興味深い発言も飛び出しています。

そうした報告もすべきと思いますが、なかなかこの週末は動きが取れませんでした。
(AWS万歳)

まとまり次第ご報告いたします。


*1:すでに「表現の不自由展・その後」非公開問題を超えている

*2:富山県立近代美術館

*3:と「間抜け」が主張する