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一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

南京事件に対する法的に認定された事実、客観的事実

 南京事件南京大虐殺について、あれこれと山のような言葉がインターネットの中に溢れている。私自身は偕行社の「南京戦史」における見解を支持するが、その記述を再掲する事はできない*1。しかし、同様にこの問題に対して、十分客観的で信憑の高い、スタンダードな見解として「日中歴史共同研究」における南京事件南京大虐殺に対する解釈というものが有る。
 日中歴史共同研究(概要)@mofa

 この中の「第2部 第2章 日中戦争 ― 日本軍の侵略と中国の抗戦」
 の「第1節 盧溝橋事件の発生と全面戦争への拡大」
 の「4)南京攻略と南京虐殺事件」(PDFファイルとして270ページ目、第2章としては6ページ目)

 の部分を引用しておく。

4)南京攻略と南京虐殺事件
 参謀本部では河辺虎四郎作戦課長に加え多田参謀次長らが、さらなる作戦地域の拡大にたいしていた。部内では制令線を撤廃し、南京攻略に向かうか否か激論となった。結局、中支那方面軍の再三の要求が作戦部の方針を南京攻略に向けさせた*2
 11月15日、第10軍は「独断追撃」の敢行を決定し、南京進撃を開始した。松井中支那方面軍司令官もこれに同調し、軍中央を突き上げた。参謀本部では多田参謀次長や河辺作戦課長が、進行中のトラウトマン工作を念頭に、南京攻略以前に和平交渉による政治的解決を意図していたが、進撃を制止することは困難であり、12月1日、中支那方面軍に南京攻略命令が下った。12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。翌13日、南京を占領した。
 この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際安全区(「難民区」)に避難し、また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた*3
 国民政府は11月中旬の国防最高会議において重慶への遷都を決定したが、首都南京からの撤退には蒋介石が難色を示し、一定期間は固守する方針を定めた。首都衛戍司令官に任命された唐生智は、当初は南京の死守方針であり、松井司令官の開城投降勧告を拒否したが、12月11日、蒋介石から撤退の指示を受けると、12日に各所の防衛指揮官に包囲突破による撤退を命じた*4。しかし、計画通り撤退できた部隊はわずかで、揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて「難民区」に逃れた*5
 中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。しかし、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では 20 万人以上(松井司令官に対する判決文では 10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では 30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では 20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている*6。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している*7
 日本軍による暴行は、外国のメディアによって報道されるとともに、南京国際安全区委員会の日本大使館に対する抗議を通して外務省にもたらされ*8、さらに陸軍中央部にも伝えられていた。その結果、38 年 1 月 4 日には、閑院宮参謀総長名で、松井司令官宛に「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」との異例の要望が発せられたのであった*9
 虐殺などが生起した原因について、宣戦布告がなされず「事変」にとどまっていたため、日本側に、俘虜(捕虜)の取扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、また軍紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点、食糧や物資補給を無視して南京攻略を敢行した結果、略奪行為が生起し、それが軍紀弛緩をもたらし不法行為を誘発した点などが指摘されている*10。戦後、極東国際軍事裁判で松井司令官が、南京戦犯軍事法廷で谷寿夫第 6 師団長が、それぞれ責任を問われ、死刑に処せられた。一方、犠牲が拡大した副次的要因としては、中国軍の南京防衛作戦の誤りと、それにともなう指揮統制の放棄・民衆保護対策の欠如があった*11南京国際安全区委員長のジョン・ラーベは、唐司令官は「無分別にも、兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないか」と懸念し、中国国民の生命を省みない国民政府・軍首脳の無責任さを批判していた*12
 さて、首都南京の占領は「勝利者」意識を日本の朝野に広め、事変の収拾方策や和平条件に大きな影響を与えた。近衛内閣が12月末の閣議で決定した「支那事変対処要綱」にも華北や上海周辺を政治的にも、経済的にも日本の強い影響下におくという、勝利者としての意識が反映している*13

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf


蛇足1:
 南京事件南京大虐殺について、否定的な立場から様々な資料が提示されている。

 例えば百田尚樹氏は次のようなツイートをしている。
 百田尚樹 on Twitter: "南京大虐殺はあったと信じている日本人の皆さん、まずこのページを見てもらいたい。これが信じられないというなら、これを反証する資料を自ら調べて勉強してほしい。http://t.co/ZQVs6SGVuY"


 ここで示されている南京大虐殺に対する「反証」とはこのページの事であるらしい。
 「南京大虐殺」は捏造だった


 この問題について、ちょっと模式図を作ってみた。

 私は「歴史的事実」というものはこういったものだろうと考えている。
 まず全体として「歴史的に解明しきれない部分」という領域がある。これを模式図では灰色のグラデーションで示してみた。概念的にはこの領域はもっと大きいものだろうが、図の収まりとしてこの程度にしてみた。

 この中で「事実」と呼ばれる領域がある。
 模式図の中では青いグラデーションで示した領域だ。
 これとても当事者の証言があろうと、一方的な見方という側面もあろうし、その証言における表現方法に事実を伝えきれていない部分もあろうことは容易に推測できる。つい最近の事であっても「何が事実で何が事実でないか」判別する事は難しく、ましてや歴史という大きな壁を超えて、その中から事実を拾い出すのは大変な作業だろう。

 そうした中で、事柄によっては「法的に認定された事実」という物もある。

 司法や学問的な批判を乗り越えて、信憑が揺るがなかった「事実」であり、社会的には充分「客観的事実」(または「スタンダードを獲得している」)と呼ぶにふさわしいものだろう。

 この「客観的事実」に対して懐疑を呈する事は自由だ。しかし、その懐疑は信憑性を持たない。持っていない。「法的に認定された事実」「客観的事実」に対して、公的にその「事実」を否定したり「解釈変更」しようとするのであれば、そこには新たな立証と信憑の構築が必要となる。


 ここで注意したいのはこの「法的に認定された事実」「客観的事実」にしても取りこぼしている事実は有るだろうし、事実として認定するのに根拠が薄弱と捉えられるものもある。こうした司法的な、または学問的な研究、批判は常に続けられるべきで、一旦確立した「法的に認定された事実」「客観的事実」が「不磨の大典」であると言っている訳ではない。新たな批判、反論に開かれ、その評価を続ける事によって、この「法的に認定された事実」「客観的事実」の信憑は成立している。

 しかし、こうした「事実」を基盤として、そこから何かを言おうとすれば ― 歴史的教訓を学ぼうとするのであれば、または歴史的傾向を汲み取ろうとするのであれば ― 今の段階ではこの「法的に認定された事実」「客観的事実」を基盤として対話をする以外にないのではないか?

 この「法的に認定された事実」「客観的事実」を「認めない」という主観的態度は自由だが、それが客観性を持つことは無い。

 つまり、こういった部分に対して懐疑を持つことは、社会的に客観性を獲得していないのである。

 主観的信憑を持つことは各個人の自由である。しかし、各個人が持つ主観的信憑を他者に押し付ける行為は文明的な、理知的な行為とは言い難い。


 さて、南京事件南京大虐殺などという大きな事件になれば、その関係者は膨大な数になる。そうなると法的な評価を受けず、歴史学的な評価がまだ十分に為されていない「証言」や「写真」「資料」が存在する。

 それが模式図で言うところのピンク色の部分「異なる立場から見た『事実』」の部分となる。ここはまだ事実ともそうでないとも言えない部分になる。

 先ほど示した「『南京大虐殺』は捏造だった」というサイトが否定しているものはその大多数がこのピンク色の「事実、証言、写真、資料」に対する批判だ。(東中野修道氏の検証した物もだいたいはこういった事例)

 つまりこうした「新たな事実」に対して、その反証を行い、よしんばその批判が正当であって、「新たな事実」なる物に対しては懐疑的な結論に行き着いたところで、全体としての「南京事件南京大虐殺」の否定までには行き着いていない。

追記:
従軍慰安婦問題」に絡んで、いわゆる「吉田証言」を捉えて「従軍慰安婦朝日新聞の捏造」と主張する者も、この「部分の否定に依る全体の否定という誤謬」の一例である。「吉田証言」が否定されても、「従軍慰安婦問題」という全体の問題は否定されていない。


このサイトでも次のような記述がある。

 以上みてきたように、南京での「30万人大虐殺」はなかったのです。20万、あるいは千単位の虐殺もありません。
 とはいえ、南京で強姦、略奪、暴行、殺人などの非道な犯罪がなかったわけではありません。いや、実際のところ、かなりありました。その中には、日本兵たちが実際に犯した犯罪も少数あります。(略)

 共同研究に述べられている「このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している」という分析そのものではないか。


蛇足2:
 日本は先の大戦に負けた。
 そして戦勝国(連合国)の占領を受けることになったのである。

 つまり、文字通り「亡国」したのであって、先の大戦を指揮した者たちは文字通りの意味で「亡国の徒」であった。(彼等の失敗は何であったか、失敗の本質とは何であったのか。それを虚心に受け止めなくては同じ過ちを繰り返す愚に陥る。彼らの結果責任を誤魔化して「亡国」の事実さえ受け入れられないのであればそれは政治ではない。単なる妄想か宗教だ)

 この占領を解除し、日本が独立した主権国家であると国際社会が認めたのが、1951年9月に行われた「サンフランシスコ講和会議」であり、その席で日本国が各国(参加48ヶ国)に「約束」したのが「サンフランシスコ平和条約」である。

 その第十一条には次のような記述がある。

 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている物を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html

 至極簡単だ「極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾」すると「約束」したのが「サンフランシスコ平和条約」である。先の模式図で言うところの黒い枠線の中、「法的に認定された事実」「客観的事実」として、日本国は「極東国際軍事裁判」と「国外の他の連合国戦争犯罪法廷」の裁判を受諾したのだ。

 戦後の主権国家日本の存在は、この「法的に認定された事実」「客観的事実」を基盤として築き上げられている。この事実を否定するのであれば、今の講和体制自体を否定する事となる。

 いわゆる「東京裁判が事実か事実でなかったか」などという書生論や、学術的な議論は議論としてやっていただけばいい。けれども実態政治として現在の「講和体制」がある限り、それを受け入れざるを得ないという事実を無視するものは、単に今見えている明白な事実から目を背けているに過ぎない。

 それを踏まえて再度共同研究の記述を見る。

日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では 20 万人以上(松井司令官に対する判決文では 10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では 30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。

 
 「南京戦犯裁判軍事法廷」とは「サンフランシスコ平和条約」で述べられている「国外の他の連合国戦争犯罪法廷」に他ならない。


 私も個人的な見解としては偕行社の「南京戦史」に述べられた最大で一万数千人の被害ではなかろうかという推測を持つ。(願望に近い)しかし、「法的に認定された事実」「客観的事実」として日本国は「南京戦犯裁判軍事法廷(国外の他の連合国戦争犯罪法廷)」の「裁判を受諾」すると明言しているのであって、今更その「約束」を一方的に破棄する態度は「日本らしくない」「ずるい」態度であると感じる。


 戦争という異常事態において、人間が人間性を失うという事例を私は見聞きしている。正確に言うと、私自身は「戦争状態」などという異常な事態には立ち会っていない幸福な者であるので、本当の所は判らない。けれども、それに似た人間の非寛容は知っており、それが命の取り合いをするという戦場において、どのような結果を生じ得るかという事ぐらいは、(自分に対する不信も含めて)容易に想像する事ができる。

 世界には、世界史の中には様々な虐殺が記録されている。
 人間というのは事態によって虐殺を起こし得るものだ。

 1937年(昭和12年)の南京において、何が行われ、それを行った人々はどう追いつめられたのか、あるいは単にズルかったのか。それは判らない。

 しかし、その姿を無かったものとして歴史の闇に葬り去る事が「民族の誇りを保つこと」であるとはとてもではないが思えない。「日本人はどんなに苦しくても他者を虐殺などしない民族である」などという日本人に対する特殊性など信じる事はできない。

 けれども、日本人がそういった過去の過ちを認め、その過ちから教訓を汲み取り、その過ちを繰り返さないでおきたいと願っているという姿には誇りを感じることができる。

 過去を無かったものとして、素晴らしい姿だけを残しても、それは誇りにならない。
 過去のすべての姿、見苦しい姿もすべて含めて。あるがままを受け入れて、将来にその見苦しさを繰り返さないようにしようという理知的な態度には誇りを感じることができる。

 つまり、どのような精神的な障壁が有ろうとも、見るに堪えない事実であろうとも、事実を見つめ続けようとする勇気には、信頼を寄せるに足る価値があると思えるのだ。

 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。

 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。

 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

 (リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領 1985年5月8日 ドイツ連邦議会における追悼演説。「荒れ野の40年」より)



河村市政の裏表

河村市政の裏表

  • 作者:
  • 東海財界出版
Amazon

*1:あくまで紙幅の都合で こちらに詳述してある http://d.hatena.ne.jp/ichi-nagoyajin/20140304 

*2:南京戦史編集委員会編『南京戦史』(増補改訂版)偕行社、1993 年、17-20 頁。

*3:孫宅巍主編『南京大屠殺』北京出版社、1997 年、72−73、83 頁。笠原十九司南京事件岩波書店、1997 年、120 頁。米国メディアの報道(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』青木書店、1992 年、387−388、390、394、431−432、473−475 頁など)。

*4:唐生智「南京防衛の経過」(南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集?』(増補改訂版)偕行社、1993年)623−26 頁。蒋介石の南京死守作戦の強行は、ソ連の軍事的介入を期待していたため、とする指摘もある(笠原十九司「国民政府軍の構造と作戦」中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005 年、281−82 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日抗戦の第 1 年」116−18頁。前掲、楊『我尋真実的蒋介石』240−41 頁)。

*5:唐司令官は、陣地の死守を命じ揚子江の無断の渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まり、多くの兵士が徒死するにいたった(前掲、孫宅巍主編『南京大屠殺』70−71、76、78 頁。臼井勝美『新版 日中戦争中央公論社、2000 年、83−85 頁)。

*6:秦郁彦南京事件中央公論社、2007 年増補版、317−19 頁。

*7:日本で刊行された最も包括的な資料集は、南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集?、?』(増補改訂版、偕行社、1993 年)であり、第 16 師団長・中村今朝吾の日記、上海派遣軍参謀長・飯沼守の日記、歩兵第 30 旅団長・佐々木到一の手記、中支那方面軍司令官・松井石根の陣中日記などを収めている。

*8:石射猪大郎東亜局長は、38 年 1 月 6 日の日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か」と記していた(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社、1993 年、240 頁)。

*9:前掲、『南京戦史』(増補改訂版)398−99 頁。

*10:前掲、秦『南京事件』103−07 頁。捕虜の取扱いも、殺害、解放、労役と部隊により異なっていた(原剛「いわゆる『南京事件』の不法殺害」軍事史学会編『日中戦争再論』錦正社、2008 年、139−55 頁)。北博昭『日中開戦』中央公論社、1994 年、54−68 頁。笠原十九司南京難民区の百日』岩波書店、1995年、25−54 頁。

*11:孫宅巍(笠原十九司訳)「南京防衛軍と唐生智」(藤原彰ほか編著『南京事件を考える』大月書店、1987年)153−58 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日作戦の第 1 年」113−22 頁。笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」(洞富雄ほか編『南京大虐殺の研究』晩聲社、1992 年)214−41 頁。

*12:ジョン・ラーベ(平野卿子訳)『南京の真実講談社、1997 年、83−90 頁。なお、日中の「建設的対話」と「共通の理解」という観点から事件をとらえた研究として、楊大慶「南京アトロシテイズ」(劉傑ほか編『国境を越える歴史認識東京大学出版会、2006 年、139−68 頁)。

*13:臼井勝美「日中戦争と軍部」(三宅正樹編『昭和史の軍部と政治(2)』第一法規出版、1983 年)74−5頁。