市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

(仮題)日韓関係を考えるその基盤

今日はちょっと大きいお話をしてみたい。

本論に入る前に、今週が終わると8月が終わります。つまり、今週が終わると「夏休み」が終わるという事で、毎年のように夏休みの終わりがけや、夏休み明けにはいろいろと悲しい出来事が起こります。

特に、夏休み明けに学校がつらいという方には、学校だけでは無いよという提案をお示ししたい。

NPO法人フリースクール全国ネットワークなどが、夏休み明け居場所を無くした方たちの場所を提案しています。

cocoaru.org

また、2015年に鎌倉市の図書館が次のようなツイートを掲載しました。

この鎌倉市の図書館だけではなく、すべての図書館は皆さんの為にあります。
ぜひ、困ったら、どんなことでも、お近くの図書館を訪ねてみましょう。

すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。

図書館の自由に関する宣言

私には悩みは無い、
あるのはただ、解決すべき課題である。


このブログは名古屋市政の、つまりは現河村たかし名古屋市長の問題を指摘するブログです。(もともとは、彼の提案した(過去形)「地域委員会」について、自分なりに研究していこうというブログだったのですが、調べていくうちに河村市長自身の嘘や、彼の主催する私党、減税日本の酷さが露になり、それらを報告するブログのようになってしまいました)

ここで重要なのは、名古屋市政について私があれこれ述べるというブログではないという事です。
私には名古屋市政全般に意見を差しはさむような広範な見識があるわけではありませんし、その中で様々な価値観がある意見について、私の個人的主観を主張するつもりもあまりないからです。つまり、価値観が様々許されていることについては、それぞれ主張されればいいと思うわけです。


しかし、現実の政治、政治的議論において、「嘘」は許容できません。それは何故かというと。


人間というものは有限な存在です。必ず個々人の視野には死角があり、自分に見えていない事柄については知りえません。自分がすべてを知っていると思う事は傲慢です。

しかし、そうした不完全な情報しか与えられていない中で、人間は生きていかなければなりませんし、仕事や生活の中で判断を下していかなければなりません。そうした判断は、時に、政治的判断でもあるでしょう。そうした時に、自分なりに意見を述べ、主張をする。自分が見えている物はどのようなもので、これについてどう思うか主張をする。すると、時には別の立場から、異なる意見を聞くことができる。つまり、自分にとって見ることができなかった位置からの風景を報告してもらえ、意見をもらえる。

自分の視野には限界があるのだから、こうした意見は貴重で、そうした意見も含めて自分なりに新たに社会の成り立ちを理解することは、非常に興味深い事でもある。自分のそれまでの知見と、こうした新たな意見、これらを足し合わせて社会の姿を描き直し、こうやって描かれた社会像から、また新たに自分なりの判断を下したり、意見や感想を述べる。

つまり、議論というものは、自分の視野を広げるためにあるのであって、議論の結果自分の意見が全く変わらないという事は、その議論が無駄であったという事に他ならない。もちろん、議論の結果、自分の描いていた社会像に変化がない事はある。それゆえ、議論を経ても判断が変わらず、意見が変わらないことは往々にある。しかし、それは何も変わらなかったという事ではない。その判断や意見を支える基盤となる社会像については、自分の視野とは異なる部分についても知見を加えたという事であって、判断や意見を支える現状認識においては議論後はそれ以前よりも頑強になっていると言える。

議論とは、誰かを言い負かすとか、そうした言い合いの結果、自身のポジションを得ようというような、そのようなものではない。

私についていえば、議論における敗北とは、議論の結果、自身の知見が広がらなかったという場合を言うのであり、議論によって自己変革がなされなかったのであれば、それはその議論が無駄に終わったと思えるのである。

それだけに、議論において「嘘」を言われることは心外であり、最も忌避したいこととなる。
いったい、議論において「嘘」を言うという理由が分からない。もちろん、話者自身が誤認しているために「嘘」を言うことはあるだろう。また、その「虚言」によって何かを得ようとすることもあるだろう。しかし、それは「議論」ではない。

(自分を含めて)誰かを守るために、助けるために事実を隠す、または嘘を言う。これは個人的な「思惑の空間」であって、公的な場ではない。
家庭やプライバシーという領域で行われる、こうした「思惑の空間」を個人が構成するのは自由な事だ。その「思惑の空間」の利益もリスクも個々人が持つのであって、その中ではどのような嘘や妄想も自由に許されるだろう。

しかし、公共空間に個人の「思惑の空間」を持ち込んではいけない。他者に対して、自分の「思惑の空間」を押し付ける行為は異常な行為だ。
もちろん、特定の人々が、それぞれの自由意思で特定の「思惑の空間」を共有することはある。恋人同士の会話であるとか、劇場空間における演者と観客の共通認識などはこの好例だろう。

困ったことに、ある者たちは公共空間と「思惑の空間」の境界線が曖昧になっている。

その昔、上岡龍太郎は「テレビに映るものはすべて芸能になってしまう」と喝破した。

大衆社会は、(日本においては大正デモクラシー分水嶺として)すべての物事を「マスメディア」の俎上に載せ、それを消費してきた。

・・・「大正デモクラシー」の頃、印刷と電信技術による情報の拡散が日本全土に行きわたったという意味で、ここが分水嶺と思えるが、それ以前にも、事実によって構成されるべき公共空間と、大衆が受容し消費する「思惑の空間」の並立、対立という例はある。一つの例が「赤穂浪士の物語」となるだろう。赤穂藩の取り潰し騒動と、吉良上野介の存在は、史実であるが、そこに様々な脚色が重なり合って「赤穂浪士の物語」が成立し、印刷物や演劇として共有された。それは事実など無視した「思惑の空間」であり、そこで「敵役」とされた「吉良上野介」にとっては甚だ迷惑な事だっただろう。

特に、名古屋の人間にとっては、三河、吉良家というものを、名家として承知しているだけに、事実と「思惑の空間」のズレには違和感を持つ。

・・・そうか、ここまで考えてみると、もっと遡れるし、本質が見えてくる。
どういうことかというと、「赤穂浪士の物語」のように、史実を元に構成された物語というものはもっと古くから存在する。中国の古典と呼ばれる書物、史料は、こうした歴史的事物を記したものであり、そうした史料から人々は物語を紡ぎ出し、「思惑の空間」として消費していく。例えば、「三国志」といったものもそうであるし、「史記」に記された故事もそうなる。(さらに「三国志」の中に、韓の成立を成した「史記」の記述を物語として消費する場面も出てくる多重構造も見て取れる。張良の故事を聞かされる呂布の事績から現代の私たちが何かを得るように)

こうなってくると、「テレビに映るものはすべて芸能になってしまう」という言葉はもう少し一般的に敷衍できる。

「すべての事実は、物語として受容可能である」

すべての事物は物語として消費され、物語が人々に社会や人間を理解させ、行動の基盤となる。そしてその行動がまた新たな物語となっていく。

これは、少々懐かしい次の言葉と同じだ。「すべてはネタ」

価値観が相対化される中で、すべての価値や権威、確固とした存在が、「脱構築」されて、結果として何も言えなくなる様相かもしれない。

すべてが正しく、すべてが間違っている。または、正しいとか間違っているとか言うこと自体が意味を失う。

こうした文化的ペンペン草状況で発生したのが「オウム事件」だったように思われる。彼らは結局「ヴァジラヤーナ」を夢想し、それを実体化させてしまった。同時期に社会の表舞台に立った「幸福の科学」は「幸福実現党」という「夢想」で足踏みを続け、結果として教祖一家の家庭内争議に矮小化してる*1

オウム事件」に見られた現代型劇場の劣化コピーは、今も至る所に見られる。ジャーニーズ事務所の騒動や、NGT48における騒動、吉本興業を巡る騒ぎや、N国立花とマツコ・デラックスの騒動。*2

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「すべてはネタ」で良いのだろうし、結局この世は「邯鄲の夢」でしかない。
しかし、そう言っていられるためには、盤石な社会基盤が必要となる。
社会基盤がない状態では、「邯鄲の夢」を見ていることもできないのだ。社会においてどうしようもなく虐げられている者は居るのであって、そうした存在を無視して、それをも「すべてはネタ」と「消費」できるほどの心性は持ち合わせていない。


どこかで誰かが、ゆるぎない社会基盤、事実を打ち立てなければならない。


それを誰が行うのか、それが「三権を担う者」である。

国家を構成する、三つの権力、司法、立法、行政を担う者は、「全体の奉仕者」として、自身の「思惑の空間」から離れ、誰でもが共有できる公共空間を構成しなければならない。この公共空間を構成できるもの、客観的事実を打ち立てられる者が、公職者であり、「公禄を食む」ことができる。

映画「千と千尋の神隠し」において、千尋の両親は「神の食べる肉を食った」
つまり、その職責を果たすことができぬまま、「公禄」を食んだ。

公禄を食み、社会基盤を打ち立てようとしない者は、千尋の両親のように豚となって神の食べる肉となる。

政治とは「思惑の空間」である。

政治家とはそれぞれが偏った「思惑の空間」から生み出された存在である。
しかし、「公禄を食む」立場では「思惑の空間」から離脱できなければならない。自身の主観から離れて、公共性、客観性を維持できなければならない。これができないのであればバカの極みだ。神の食う肉である「豚」にしかなれない。


例えば、自由民主党が独自の憲法草案をまとめるのは政治的主張であり「思惑の空間」である。
しかし、それが憲法としての基本機能(「憲法」とは「国民」を縛るものではなく「国家」を縛るものである)を満たしていないのであれば、それを公共空間に持ち出してはならない。(憲法には国民の権利ばかり書かれていて義務が書かれていない。という中二病のような事を言っていてはだめだ。元々憲法は国民を縛るためのモノではないのだから、国民が目的語となる言葉は少ない。その代わり民法や刑法といった一般の法律にはバカバカしいほどの国民の義務が書かれている。生まれてすぐ役所に書類を提出して、出産の報告をするという義務から、死んでその報告を役所にするまで、日本国民は山ほどの義務を負っている。それをわざわざ憲法に持ち込む必要はないし、そもそも「家庭の在り方」などという極めて「思惑の空間」に親和的な事柄を憲法という硬直した文言に塗り固めて固定化させてはならない。今後、社会や国家、国際情勢がどのように流動化していくかもしれない中で、このような事柄を固定化させることは百害あって一利なしと即断できるだろう)


ここまで論考を続けてきてやっと、入り口までたどり着いたが。
つまり、政治においては客観的な事実が必要なのであり、そこでは嘘は許されない。

個人的主観も政治的主張としては許されえるかもしれないが、その主張を現実に着地させる際には、事実の裏付けが必要となる。
「民意」などという鵺のような存在だけではなく、クリアすべき事実が必要となるのだ。

河村たかし名古屋市長において、決定的に誤っているのは、この自己の主張、自由な政治的主張と、それを政策化するにおいて必要な事実や法的根拠の脆弱さだ。その客観性の見識の低さだ。こうした「わきまえ」が脆弱なので、先の文書のような一般性、客観性を持ちえない、相矛盾した文章が書けてしまうし、それを公的な名古屋市のホームページに、あたかも公的な文書のように公表することができてしまう。これを社会が容認するという事は、この社会が論理的統合性を失うという事である。

まだまだ、続くことになるのかな。


さて、私には分からないことがある。

なぜ、「不自由展」で展示された「少女像」に、それほど過剰な反応を示すのだろう。

peace3appeal.jimdo.com

CIMAM(国際美術館会議)が「表現の不自由展・その後」について声明文を発表。「表現の自由が完全に損なわれている」(美術手帖) - Yahoo!ニュース

韓国が仕掛ける「国際世論戦」で現代日本の誇りを守る方法(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース

姉妹都市「一方的に解消できない」 サンフランシスコ市長が声明 - 産経ニュース



追記:
表現を抑え込んでも、それは漏れ出てくる。
抑え込まれれば抑え込まれるほど、それは漏れ出てくる。

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*1:コンニャクは温めるそうだ

*2:マツコ・デラックスの立花に対する対応など、「無視は究極の対抗策」という高いメディアリテラシーの結果だと思われるのだが、それを批判する人々というのは、こうしたメディア対策を知らないリテラシーの低さを投影したモノか、はたまたそうした批判によってマツコのリアクションを引き出そうとする、つまりは死にかけたセミを突いて動かそうとする悪戯なのか。どちらにしても「思惑の空間」を構成して消費しようとしていることには代わりはない