市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

パターナリズムは文明の嬰退である

映画「主戦場」を観た。
ドキュメント映画は、その扱う事柄以上に、登場するヒトが浮き出ていたほうが面白い、そうした意味ではよくできたドキュメンタリー映画だった。杉田水脈櫻井よしこ(名称については、敬称略とします)等々、面白い表情を垣間見させてくれて興味深かった。

映画の最後に(別にオチというわけではないから良いでしょう)「オーバートーク」を諫める監督のコメントがあった、つまり例えば被害女性の悲惨さを語る際に、年齢などを研究結果から導き出された以上に若い年齢を話してしまうと、そうした齟齬を元に、発言自体も否定されてしまうというような指摘だが、そう言っているこの映画自体が、両論併記とは言い難く「従軍慰安婦の存在否定派(以下単に「否定派」)」の後に「従軍慰安婦の存在肯定派(以下単に「肯定派」)」の主張を持ってくるというような構成になっていて、公平じゃないだろうという気にもなった。まあしかし、「肯定派」を否定する根拠を示せる「否定派」は居ないので、こうした構成にならざるをえないだろうとは思うけれども。

そういう意味では、中立的な報道を志した作品ではない。逆に、「否定派」に対する嫌悪を明確に感じるが、抑制は効いているとも思った。被害女性にとっては、本当に語りたくない事柄を語っているにも係わらず、そうしたヒトの心情を無視して幼稚な「否定論」を振り回す論者の非人間的な振る舞いには侮蔑を禁じえない。本当にこの世の中には「恥知らず」と面罵されても当然の人々、その上、そうした評価に無自覚な「厚顔無恥」な輩がいることと思えてしまった。

そんな事を考えながら、帰りの電車でふと「人間はいつ頃から文明を築いてきたんだろうか、その文明の基盤は何だっただろうか」などと考えてしまった。それはやはりルネッサンス以降で、それ以前と以降では文明の有り様は大きく異る。

この両者を隔てるものは、「論理実証主義」というようなものだ。

ルネッサンス以前では、「神」やら「神話」「言い伝え」といったものが人々を拘束し、宗教的指導者や長老、権威を持ったものの言葉は、論理的な実証を経なくても人々に強い力を持った。

そこでは「相関関係」と「因果関係」といったものの混同が起きていた。(と言ってみても、過去形ではなく、現在でもこれは起きている)

この両者をつなげるちょっと面白い「例え話」があったのだけれども、正確なセンテンスを思い出せないので、概要を書き記しておく。

「アフリカの大地に日食が起こると、●●族の太鼓の音が響き渡る。
太鼓の音が響き渡ると、しばらくして太陽はまた輝きを取り戻す。
これは●●族が何千年と伝えてきた太陽を取り戻す儀式である」

●●族にとっては、輝く力を失った太陽に、太鼓によって力を与える儀式があり、そこには「因果関係」があると誤認してしまっているというわけだ。しかし、人間にとってこの「相関関係」と「因果関係」の混同は抜き難い弱点のようだ。

2017年、NHKが「AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン」(キャスターがマツコ・デラックスだったので、彼女の口調になっている)という番組を作って、その中で「40代ひとり暮らし率」が、「日本の未来を動かすカギ」と示され、「40代ひとり暮らし」が増えると、「自殺者数」「餓死者数」「空き家数」「救急出動件数」などが増え、「合計特殊出生率」「老人クラブ会員数」などが減ると報告された。

www.huffingtonpost.jp

「ひとり暮らしの40代が日本を滅ぼす」これを聞いて、あたかも「40代ひとり暮らし」が「自殺者数」等の原因であるかのように捉えられたが、これは単純な「因果関係」ではなく、同じ原因が2つの事象を導き出している「相関関係」を表しているのではないかとも考える。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

つまり、日本における貧富の格差やぶっ壊れた雇用法制が「40代ひとり暮らし」を増やし、同時に「自殺者数」も増やしているのではないのか。


日本人は「穢れ」の意識が強く、穢れた存在を共同体から排除しようとする傾向が高い。

「穢れ」とは何らかの出来事による「結果」であって、「原因」に成り得るかどうかはわからない、それでも「結果」である「穢れ」を「原因」と誤認し、排除することによって、次なる「穢れ」の発生を抑制しようとするのであれば、それは「原因」と「結果」を取り違えていることになる。

逆に、「権威者」という者がいる。何らかの成功を収めた者は、その事柄の「権威者」として、追従者はその「権威者」の託言をありがたがる。その者が成功したことは間違いがない「結果」だが、その者の託言はその成功の「原因」である保証はない。そして、たいてい間違っている。面白いのは、ある特定の「成功者」の存在は、この「追従者」によって成立しているという事例も散見される。「追従者」がいるから「成功者」が成功しているように見え、その成功の幻想が「権威」を生み出し、次なる「追従者」を引き付ける。そこにはなんの根拠も、当然ながら保証もない。見事なまでの再帰関係だ。遠くから眺めている私には、崖に向かって進行しているハーメルンの笛吹か、自分の頭にできた池に身投げする姿に見える。合掌。

日食を自分たちの太鼓で解決したと思うアフリカの●●族を笑えない。今日も新聞の一面には「成功の方法」を語る「権威者」の託言を収めた新刊ビジネス書の広告が踊る。その肩には「何十万部増刷」などと書かれている。こうした人々が知るべきは、「相関関係」と「因果関係」の意味であったり、論理実証主義という現実の見つめ方ではないだろうか。

論理実証主義」に準じ、事実と根拠を元に、論理的な思考を高めていく考え方が、リベラリズムであり、それに反して「権威者」のご託宣をありがたがるあり方を「権威主義パターナリズムという。リベラルな場面ではどのような権威者であろうとも、主張は平等に評価され、論理的に成立していなければ破棄される。

アインシュタインニールス・ボーアの論争は有名であり、当時の最高権威者アインシュタインと論争を繰り広げたボーアたちの存在が、量子力学の扉を開け、現代の物理学の基礎となった。かといって論争に敗れたアインシュタインの批判(思考実験)は決して無駄ではなく、それら批判が量子論の信憑性を上げ強度を高めた。このように、批判とは、批判される対象の強度を増す。ボーアたちがアインシュタインの権威に傅いていたなら、量子論の進展は遅れていただろう。また、アインシュタインの提示した批判(思考実験)がなければ、他者によってその検討が行われるまで、やはり進展は遅れていた。批判にさらされ、開かれた議論を経なければ、信憑は得られない。これが論理実証主義の立場だ。

ルネサンス以降、人類は論理実証主義によって、様々な権威ある言辞を打破し、人類の可能性を広げ、現代の文明を築き上げてきた。丹念に事実を積み上げ、誠意を持って評価し、誤りは破棄し、論理的整合性のある主張を組み上げていく。

先入観や偏見を乗り越える勇気が、文明を高めていく。

ところがどうだろうか、この映画に出てくる「否定派」の先入観、偏見、そして自らの思い込みに固執する醜悪な態度。

加瀬英明なんて、本当か、わざとかは知らないが、「吉見義明を知らない」とまで言い放つ。従軍慰安婦問題で、様々な史料を報告している人物の著作を読まないと言っている。このような論理実証主義に背を向けた態度は学問とはいえない。「否定派」に立つものは、文明的な手法に立っていない。これでは様々な「歴史戦」に敗北するのは当然だ。論理的な整合性を維持できない。

それなのになぜこうした「否定派」「歴史修正主義」に一定程度の支持が集まり、市場が成立しているのか。

地下鉄の中でボーっと考えていると「道」という言葉が浮かんだ。

「茶道」や「華道」日本では様々な物事が「道」になる。「道」とは主観的判断の尊重で、先達の主観的判断に近づくを由とする。様々な「道」の中で、その道を極めていくことは、主観的には結構なことだろう。趣味としては理解できる。しかしそれはやはり広がりを持たない。特に閉ざされたサークルの中で、その小宇宙の権威者が、主観を押し付けているだけでは、客観的には全く理解不能だろう。加瀬英明の主張などこれ以外の何ものでもないし、杉田水脈やら藤木俊一の語る底の浅い発言など聞いていると、なんとも恥ずかしくなる。「歴史の真実を求める世界連合会」などの活動が、却って問題をこじらせ、日本という国の国柄を貶めている理由もこれだ。

パターナリズムは永続性を持たない、持ち得ない。「否定派」「歴史修正主義者」はオピニオンリーダーとして短命だ。こうした集団の中で「新しい歴史教科書をつくる会」といえば、そこそこ先駆だろうが、その会長の遷移を見てみると、西尾幹二田中英道八木秀次種子島経高池勝彦→小林正→藤岡信勝→杉原誠四郎→高池勝彦と目まぐるしい*1。権威をもってもてはやされても、どこかで論理破綻したり、金枝篇よろしく磔や火あぶり(喩えだよ、喩え)になってみたり、追い落とされて安楽な道ではない。(何人かは、逆に安楽な道が見つかったので、そっちに身を寄せるすべを覚えて逃げたのかもしれないが)

歴史修正主義に足をかけて論理破綻しないようにごまかし続けるなんてできない。加瀬のように「他人のものは読まない」と、自分のファンクラブむけにリサイタルでもやる以外無い。広がりも生産性もない。だって、他人を貶めて食っていこうってソリューションなんだから。長くは続かないし、他人を貶め続けて幸せになれるものでもない。

そうした先人の姿を見れば歴史修正主義になんか足を踏み入れないだろう。しかし、そうした先人の教訓を学ばないのが歴史修正主義なのだから、先人に学べ、歴史に学べというのは、矛盾する指摘ということになるだろう。


*1:wikipedia 調べ

河村市政4期目1年を経過して

 昨日、4月8日 午後8時39分に河村たかし名古屋市長が次のような投稿をツイッター上に掲載した。


(証拠隠滅?アクセスが不安定)

キャッシュ
https://archive.ph/JaW3f

スクリーンショット(一部画像にモザイクを掛けています))
f:id:ichi-nagoyajin:20220409115106j:plain

追記:
 阿呆としか言いようが無い.
 それなりに恩もあっただろうお店の閉店について誤情報を流されて,最後に訪れようとしていた人が誤解して最後の機会を逃す恐れもあった.河村自身はマジメに企業経営などしたこともないので,こうした情報の重要性,誤情報の重大さが判っていないんだろう.


 愛知県のまん延防止措置の解除を受けた3月22日の定例記者会見において、「感染リスクの高い行動を見直すとともに基本的な感染防止対策の徹底をご協力ください」と呼びかけていた。

「わかりやすく言えば、どんちゃん騒ぎは引き続き、避けてくださいよ」
と市民に呼びかけていたのである。

 4月2日には不幸にも「濃厚接触者」となり(それ自体は不可抗力なので批判はしないが)5日まで公務を休んでいた。公務復帰して4日めの8日(金曜日)の夜に、この姿である。


 この模様をまとめてくださっている人が居た。

追記:
上記追記分追加!


 この投稿を私がリツートすると、途端に電話がかかってきて、「ありゃなんだ」と怒っている方が居た。(別に、私が悪いわけではないのに)それから色々とお話をし、自分なりに考えた事柄を書き残しておきたい。

 河村たかしのこの投稿は、河村たかし自身が市長という職、公職者という立場、または政治家というものがどういったものであると理解しているか、それをよく表している。

 上記のように感染状況が芳しく無く、市民に自制を呼びかけているさなか、その呼びかけをしている市長本人が自ら「どんちゃん騒ぎ」をするなどという事は、それ自体が非常識な行為だ。この投稿に対する様々な意見の中には「こっちはコロナ耐えてんだよ。弟もコロナになって、学校に行きたくても行けなくて、なのになんで名古屋市長がマスクもせずに遊び散らかしてんだよ。ふざけんな」との意見もあった。

 河村自身口にする「パブリック・サーバント」の謂は、社会の中で最も恵まれない人に寄り添うという意思であって、それはロールズの「社会正義」とも合致する。そのような意識もなく「マスクもせずに遊び散らかして」いる姿は、「パブリック・サーバント」などではないし、公職者であるに値しない。

 もう一歩踏み込んで考えてみよう。上記のようにこの行為自体公職者として恥ずかしい行為であるが、それをわざわざ自分でSNS上に投稿し、広く名古屋市民などに告知したいと思う感覚のズレ、これを生み出したのが河村の心に根付く傲慢である。

 投稿の趣旨は、地域の(選挙区の)支援者であった居酒屋が閉店するので、その経営者に感謝して「きさく」に記念撮影しているというものである。河村の立場から見れば「僕はこんなにきさくだよ、他の皆も気軽に声をかけてくれれば記念撮影に応じるよ、選挙でも票を入れてね」とでも言うものだろう。自身がテレビタレントの有名人であるから、セクハラ講習もものかわ、このように女性に抱きついて(お互い、ノーマスクで)も容認されるし、喜ばれる。そしてその模様を広く告知することで、自身の支持も増える。

 実際に、河村たかしの支持層というのは、こうした投稿で喜ぶ層なんだろう。

 私に言わせれば、そういった者たちこそ唾棄すべき民主主義の「おり」ともいうべきものだが。

 完全にテレビタレントのふるまいである。ではなぜテレビタレントに成れたかというと、衆議院議員であったからだ。「朝まで生テレビ」のようなクロストーク番組が流行る中で、非常識な発言を繰り返す ”odd man” *1として、同じテレビ朝日の「たけしのTVタックル」で重用され、テレビタレントとしての人気を得た。しかしこの番組における発言を仔細に評価してみても、何も難しいことは言っていない。本当に ”odd man”(半端者)として、非常識な発言を繰り返し、それを評論家の故三宅久之にツッコまれ、ビートたけしが頭を傾げて笑いに変えるという「ボケ役」をしていただけで、それ以上ではない。
 ちょっと上等に言うと、「国会議員」という権威を「相対化していた」にすぎない。一説にはこの番組のプロデューサーが河村を気に入り、河村が原口一博大村秀章などをプロデューサーに紹介し、河村はこの番組への紹介を民主党内の影響力拡大に利用していたとも言われている。民主党代表選挙の際には原口などが推薦人になるよう要請されたが、それでも20人の推薦人は集まらなかった。後に河村が名古屋市長となり、減税条例を総務省に届け出た際に、ちょうど民主党政権総務大臣を努めていた原口は「これでおっさんを東京に戻さないでくださいよ」と告げたという。また、自民党に所属していた大村が愛知県知事に出馬した背景にもこの番組の影響がある。

 政治家として、社会のリーダーとしては、全くの虚像でしか無い。

 普通の人物(”odd man”仮説のオッドマン)でも、「思いやり」であるとか「社会常識」などがあるならまだ有用だ。知識や能力に欠けているリーダーでも、こうした人に秀でた要素によって「愛される人物」はいる。しかし、そうした「人間力」という意味でも欠けている。結局、人間としてできている人たちの集団においては、こうした「人間力」によって「愛される人物」は生まれもするだろうが、そうした人間を見る目、見識に欠けた者たちが選ぶリーダーとは、その人々のレベルにしかならない。河村にたかる周囲の人物を見ていて本当に、つくづく思う。河村はただの無能だが、こうした周囲にたかって河村を利用しようとする者たちは、どれもこれも唾棄すべき者だらけだ。その昔、辻村ジュサブローの人形劇で有名だった「南総里見八犬伝」という番組があったが、あの物語で出てくる敵役の玉梓の怨霊の下僕、「さもしい浪人・網乾左母二郎」(あぼし・さもじろう)だらけだ。「減税日本」が「減税維新」と名前を代えるようだが、元々「さもしい日本」で良かったのだろうと思う。

 もうすでに名古屋市長としての河村たかしの無効性は明白だ。居ても役に立たないどころか、居ないほうが行政がはかどり、口を出しては却って混乱を招くだけだ。保健行政に口を出させなかったから、なんとか名古屋市の保健行政として感染症対策を維持している。十分とはいえないが、ろくな予算措置や県や国との連携もない中で維持しきっているといえる。逆に教育行政に突然口を出して、教育長人事を混乱に陥れて、結局教育長不在という結果を招いた。まず自身が推進したい人事があるのであれば、その名分を示すべきだろう、こんな交渉もできないのは政治家として無能だ。そして人事という政治的闘争に破れても、人間として「子どもたちの教育の重要性」を思うのであれば、教育委員会や議会の意向を汲んだ人事を容れるべきだ。そうできないのは、教育行政の重要性よりも自身の自尊心を重く見る、人間としての狭量だ、人間として最低と言わざるをえない。

 その無効な人物が、更に市長として辞任に値する不祥事を起こしている。次に挙げる3点は、1つでも十分辞任に値するが、それをスリーアウトを数えても、打席に立とうとする。

1.メダル事件・・・説明する必要もない不祥事だろう。市民に対しては結局ろくな説明、謝罪もしていない。パワーハラスメントセクシャルハラスメントモラルハラスメントの迷惑行為を、公衆の面前で一瞬にして3つ重ねた不見識極まりない「犯罪」である。(最近、電車の中で女性の私物を突然なめた男性が警察に捕まっていたが、触法性としては同じかより重い)

2.署名偽造・・・これも説明の必要もない事件だ。自身も被害者だと無責任極まりない。10月に入ると、自分は排除されていたなどと言っているが、感染症対策が言われている時期に、田中事務局長と毎日のように飲み歩いていた事は明白で、その際どのようなことが話し合われていたのか。そして知事に対して、43万筆の不信任、恥ずかしい。などと、偽造署名を根拠として誹謗した事への釈明もない。
 デマに始まり、偽造に終わる。破廉恥極まりない、民主主義を踏みにじる行為の首謀者であるとの反省も無い。

3.南京発言・・・これについては「南京否定派」こそ、河村を断罪すべきだろう。(一部は実際に断罪している)なぜなら河村はこの発言を「議論を起こすためにした」と言っているが、それ以降河村がこの問題で議論をしたことも、議論をしようとしたこともない。あいとり騒動でも、右派は河村に利用されているだけと気が付かないのであればバカだ。
 市民団体が、何度も河村に対して「議論をしよう」と呼びかけているが、コソコソと逃げ回る卑劣。虐殺の歴史的事実を否定する行為は、被害者を歴史の中で殺す行為と言われる。河村たかしの行った、根拠ない否定論はまさにこれであり、虐殺を行った者と同等に断罪されるべき行為だ。
 また、河村たかしは2012年2月27日の市長会見において「『いわゆる南京事件というのはなかったんじゃないか』と私があえて『いわゆる』と南京事件をもうしあげたのは」とマスコミの「切り取り報道」であると釈明し、責任回避を計ったが、これは嘘であった。無責任で幼稚な、責任回避の嘘であったのだ。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 議論をするためと嘘を言い、その釈明においても嘘を重ねる。
 これは、政治的詐欺*2*3行為であり、河村たかしはその政治的詐欺を繰り返している。
これ以上見逃すべきとは思えない。

 4月25日は市長選挙から1年となる。上のカウントもいよいよ一桁に近づいてきた。

河村たかし名古屋市長リコール可能までのカウントダウン

 しかし、徳島市の事例もあり、「コロナ禍の中でもある」ことから、リコールの実行には私は懐疑的である。けれども、マスコミはこの1年の河村市政の在り方を問い直さなければならないだろう。

 市民の耳となり、目となるべき地元のマスコミが、この河村の欺瞞を暴かず、それどころか「反ワクチン」を掲げてチョウチンまでつける始末だ。東京では反ワクチンを掲げる者が建造物侵入の罪で逮捕されたようだが、非科学的、反社会的な報道は慎むべきだし、謙虚になるべきだろう。

 去年の市長選挙の際に「中日新聞を読んで」いた。江口忍名古屋学院大学教授(現代経済分析、地域経済論)は、河村の突如掲げた「30%キャッシュバック政策」を「200億円の支出(横井候補の半分以下の負担)で2万円✕4年で最大8万円の還元が得られる」と理解したそうだ。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 この錯誤は、江口教授の責任ではないだろう*4。なにせ「中日新聞を読んで」の理解であって、更にその小論を中日新聞は紙面に載せていたのだから、中日新聞自身が理解できなかったのか、掲載時にも誤解していたままと理解すべきだろう。つまり「善意でかつ過失がない第三者」であるということだ。そうした「欺罔」を見抜けなかったほどバカであったということだ。反省とともに、この10年以上にわたる、または少なくとも1年の河村市政を検証すべきだろう。




*1:マイケル・クライトンの小説「アンドロメダ病原体」において創作された仮説

*2:民法における詐欺とは「他人を欺罔してして錯誤に陥れること」である。明らかに河村たかしは「欺罔」し「錯誤に陥れ」ている

*3:民法96条の3では「詐欺による意思表示の取消しは、善意でかつ過失がない第三者に対抗することができない」とされている。これを政治的詐欺に敷衍すると、河村の発言を報道し、「欺罔」を市民に広めたマスコミの責任は「過失がない」つまり、その「欺罔」を見抜けないほどバカであれば、追求されないということになるだろう

*4:かもね

名古屋市の「ワクチン後遺症」相談窓口

名古屋市が「ワクチン後遺症」についての相談窓口を「全国初」設置すると報道されている。
(といっても、報道しているのは CBC だけのようだが)

news.yahoo.co.jp

CBCの大石キャスターと河村たかし名古屋市長が二人三脚で進めているように見える。

この中で「ワクチン副反応/後遺症の相談窓口が今まで無かった」かのように報じられているが、本当だろうか。

まず、愛知県にはこのようなサイトが有り、「ワクチン接種後の副反応等に対応する医療体制について」明示している。

www.pref.aichi.jp

接種者が不安を覚えたようなら、接種医か、かかりつけ医に相談するか、県の窓口も設けられ、「専門的な医療機関」への紹介が可能となっている。

https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/372770_1600172_misc.pdf

なにも昨日今日始まった事ではなく、2021年3月に当サイトは開設されている。

CBCの報道では、「ワクチン後遺症の重要性」を伝えていたのだが、名古屋市が窓口を開設する、準備するとは言っていても、すでに有る愛知県の医療体制や相談窓口について触れていないように思える。これでは現に今、後遺症や副反応に悩むヒトのためになっているのだろうか。(現にある県の相談窓口の紹介をした方が有意ではないのか)

さらに CBC の報道では「国が認めるワクチンの副反応は、原則接種4時間以内に起きた急性アレルギー反応に限られ、慢性的な体調不良などは含まれません。」とされているが厚労省の「新型コロナワクチンの副反応疑い報告について」を見ると。

www.mhlw.go.jp

新型コロナウイルスSARS-CoV-2)ワクチン評価に関する考え方(概要)
(略)
安全性評価(抜粋)
・有害事象については、SARS-CoV-2 ワクチン接種から少なくとも7日間に認められた特定の局所反応(腫脹、発赤、硬結、疼痛等)及び特定の全身反応(発熱、頭痛、倦怠感、筋肉痛等)並びに少なくとも28日間に認められた有害事象を収集することが求められる。

https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000739054.pdf

としている。

https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000760489.pdf

こちらの発生事象の振り分けでも「副反応疑い報告の対象」として。

・接種翌日に発熱した
・ワクチン接種翌日に急病になった
・ワクチン接種日の夜に持病が悪化し、死亡した

などが例示されている。

逆に「4時間以内」とする制限は見つけられなかった。


あたかも CBC の報道は、

・国、厚生省はコロナワクチンについて、後遺症、副反応の範囲を限定しており
・後遺症や副反応を疑い悩む被接種者に対する窓口も設置せず
・後遺症や副反応についての調査も行わずにいる

かのように報じているが、実態は違う。

ワクチン接種もすでに1年を迎え、いまになってこんな扇情的な報道すれば誰でも違和感を持つ。有る方が実際に名古屋市医師会に電話取材をされ、その様子をツイッター上で報告されていた、その結果をご本人の許可を得て転載させていただく。

河村市長や大石氏がいう「全国初」やあたかもワクチン後遺症の専門の外来ができるかのような表現は、「ウソ」「大げさ」「まぎらわしい」

と感じられたようだ。

私はワクチンに副反応がないとか、後遺症の可能性など無いなどというつもりはない。
また、そうした相談窓口などはいくつ有っても良い、多重化されたほうが便利だろう。だから、この施策自体を否定するつもりはない。「みつ」さんもおっしゃるように、「かかりつけ医が対応できなかった場合のセカンドオピニオン医院を紹介してもらうための窓口、程度に考えるのがよいかと思いました。」という受け止めは、私も同意できる。

しかし、現に有る国の対策や指針を無視し、またすでに設置されている県の窓口を無視して、「ワクチン後遺症」を扇情的にフレームアップする報道は、いたずらにワクチンの危険性(リスク)だけを印象づける結果になるのではないかと危惧する。

ワクチンを接種することによる利点(ベネフィット)と危険性(リスク)は、公正、正当に考慮されなければならないと思っている。後遺症/副反応にさらされたヒトにとっては「利点(ベネフィット)」など感じられないことだろうが、圧倒的多数にとっては、後遺症/副反応は軽微なものであり、「利点(ベネフィット)」が莫大であるから、科学的、合理的、理性的判断として、ワクチンの接種が勧められている。

特に、名古屋市(河村市長)は、子宮頸がんワクチン(HPVワクチン)の「名古屋スタディ」の成果を隠蔽した疑いが有り、子宮頸がんの予防を阻害したムーブメントの一端を担っていた。

この問題を追求していた村中璃子さんの「10万個の子宮」には以下の記述が有る。

 以上のとおり、名古屋市の大規模調査は、子宮頸がんワクチンが、日本人の間で「薬害」というレベルの副反応を引き起こしている可能性がないことを科学的・疫学的に証明している。薬害を主張する団体の要望に沿った解析を行っても、薬害は立証されていない。
 専門的知識を持つ人にも持たない人にももう一度考えてほしいのは、薬害を訴える人たちに対して、科学的根拠もないのに薬害だと同調することが必ずしも善ではないということだ。長年にわたる訴訟の末、薬害は認められないという結論が出た時、ワクチン被害を信じ、ワクチンを恨んで青春を過ごした少女たちは誰を恨めばいいのか。大切なのは、「子宮頸がんワクチンのせいだ」という大人たちに囲まれ、治るきっかけを失ってしまった少女たちが、1日も早く回復することである。そして、がんを予防する安全なワクチンがあったのに、そうとは知らずに接種せず、防げたはずのがんになる少女たちをひとりでも減らすことだ。

「10万個の子宮」村中璃子(pp.96)

www.heibonsha.co.jp

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


この問題は、「河村たかしの政治利用」に振り回された。

そして今また、コロナワクチンの「後遺症」をフレームアップして、感染予防、感染時の症状軽減が期待された人々の機会を奪おうとしている。

何のために?

近々始まる市長選挙の公約から1年遅れた「2万円キャッシュバック」は、230万市民の内、24万人にしか適応されない。それも7万円をポンと出せるヒトに限られる。完全な金持ち優遇施策であり、公約違反だ。

その施策をCBCは公約違反で無いように、あたかも素晴らしい施策であるように報じるんだろうか この 中日新聞のように。
ichi-nagoyajin.hatenablog.com

また、これも昨年の市長選挙で公約した「敬老パスの利用回数制限に伴う、乗り継ぎ利用時のカウントを1回にする」という約束。これも反故だ。市長選挙の際には「当局と話は付けてあるので、間違いないです」と公言していたが、また騙された。

こうした公約違反、嘘の上に、全く進まない名古屋城問題、リニアに伴う名古屋駅開発、国際展示場、笹島連絡道、未解決な金メダル問題の責任(まだまだ、上げようと思えば数十件、沙汰止みの施策、公約違反が有ります)

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

これらの問題を煙に巻く為に、新たなテーマを市民の前にぶら下げて見せているだけなのではないのか。

恥を知れ



名古屋城天守有形文化財登録を求める会」

peraichi.com

の進めてきた「名古屋城裁判」の控訴審判決言い渡しは、

   令和4年3月25日(金) 午後1時15分
   名古屋高等裁判所 10階 法廷です。

   (奇遇にも、実施設計契約期限日でもあります)

名古屋城天守有形文化財登録を求める会」では、
一月に一回程度、
北区にある「北生涯学習センター」で月例勉強会を開きます。

  令和 4年  3月30日 (水)
        午後18時30分~
        第3集会室 
         4月21日 (木)
        午後18時30分~
        第3集会室 

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。


"Winter on Fire" を日本語字幕で見る方法

"Winter on Fire" とは

Netflix オリジナルのドキュメント "Winter on Fire" が YouTube で公開されている。

www.youtube.com

ウクライナにおけるマイダン革命(2014年)を描いたドキュメントだ。
(私は今のロシア侵攻はこの時から始まっていると認識している)

2013年11月21日、親ロ派のヤヌコビッチ大統領が、大統領選挙の際に掲げた EU協調路線を反故にした。これに抗議する市民が、首都キーフの独立広場(マイダン)を中心に集まり、占拠し、政府の弾圧に抵抗した。ドキュメントでは市民の中に分け入り、93日間の反抗の模様を描く。

Netflix が公式に掲載しているのだから権利関係もクリアされているのだろう。

似たようなドキュメントとして、オリバー・ストーン監督の「ウクライナ・オン・ファイヤー」というドキュメントもある。こちらはウクライナ当局者やプーチンなどにオリバー・ストーンがインタビューを行い、まったく違う視点から、まったく違う見方を描いている。

 ・・・そして、「ウクライナはネオナチだ」とか、「ウクライナのロシアからの離反(NATO接近は)西欧の資本の陰謀だ」と言うような意見の元となっているようだ。名前も似ているので紛らわしい。

上の Netflix "Winter on Fire" を見てから「ウクライナ・オン・ファイヤー」を見ると、同じ事柄をどれだけ異なって伝えられるか、興味深いものがある。

オリバー・ストーンの「ウクライナ・オン・ファイヤー 日本語字幕」はこちらだ。

www.youtube.com

今回、 Netflix "Winter on Fire" が公開されたのに合わせて、ある人に見てほしいと伝えたところ「日本語じゃないのでわからない」と言われ、自動翻訳の方法を説明してもできないとのことなので、その方法を以下に掲載することにした。

自動翻訳なので正確ではないが、十分に伝わることと思う。

追記(2022.3.15):
有志の方が日本語字幕を付けたものを掲載されているようだ.
youtubexternalcc.netlify.app

右の方の "Select a language" をクリックして "Japanese" を選択
下の "Select version" をクリックして「日本語字幕(1)」などを選択.

再生すると,日本語字幕を付けて見れます.

"Winter on Fire" を日本語字幕で見る方法

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オリジナル(英語字幕)

まずは、オリジナルの英語字幕の様子。

画面の下に四角いマークと歯車のようなマークが有り、四角いマークの下に赤い線が表示されている。この赤い線が表示されていないようなら、四角いマークをマウスでクリックして表示されるように変更しておく。

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「字幕」マークの下が赤い
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「設定」にマウスを合わせる

次は、四角いマークの隣の歯車のようなマーク(設定)にマウスを合わせ、クリックする。

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設定項目表示→「字幕」を選ぶ

すると、「設定項目」が選択できるので「字幕」を選択する(マウスでクリックする)

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字幕選択→自動翻訳

すると、「オフ」、「英語」、「自動翻訳」が選べるので「自動翻訳」を選択

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翻訳言語選択

今度は自動翻訳する言語の選択になるが、たくさんある。日本語は一番下なので。
1.「マウスホイール」が使えるならこれを使って選ぶ

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/ichi-nagoyajin/20141029/20141029140345.jpg

2.または、右側のスクロールバーで下に下げる

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「日本語」を選択

「日本語」が表示されたらマウスを「日本語」に合わせクリックして選択。

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日本語字幕表示

先程の表示が日本語に自動翻訳される。

追記:
ちなみに,この彼が着ているマフラーにプリントされている男性は,ステファン・バンデーラ(ステパン・バンデーラ)で,ウクライナ民族主義者組織(OUN)の指導者だ.独ソ戦の前にナチス・ドイツに協力をし,ウクライナの脱ロシア(脱ソビエト)を画策.結果的にドイツ,ソビエトの双方を敵に回した.
第二次世界大戦後,ウクライナを併合したソビエト連邦政府は,OUNがナチス・ドイツに協力し,ソビエトに反抗したとしてOUNとバンデーラを「ナチス」と認定し,そう教育した.(日本国内でも「OUNはナチズム」とする人は居るようだ)1991年ウクライナの分離独立後,バンデーラの自主独立路線が再評価され,ウクライナ政府によりキーフの「モスクワ通り」は「ステファン・バンデーラ通り」と改名され,ウクライナにおいては脱ロシア,自主独立の英雄と見直されている.
しかし,「OUN,バンデーラはナチズム」と見る人はこのシャツを着ている彼も「ネオナチ」とか言うのかも知れない.


現代的因果論

 今日は具体的な話ではなく、考え方と言った抽象的な話題を整理したいと思います。とは言っても、最後には具体的な「河村たかしの発言の傾向」についての考察を加えます。

「保留」の大切さ

 その前に、ツイッターでは既に展開しましたが、知事リコール騒動とそれ以降のリコール推進派内の内部分裂に伴って、様々な憶測や嘘、明らかなデマが飛び交っているようで、そうした中で「何が正しいのか判らない」「考えるのも面倒」との発言を聞きました。このように混乱した議論の中で、政治に対して距離を置きたくなるということは理解できます。そうした場合に対応する方法を若干書き記しておきます。

 今も菅元総理の「ヒトラー発言」に絡んで、それを否定する人、肯定する人、更に「ヒトラーと例える行為は国際的にどうなのか」という議論で、様々な意見が飛び交い、「何が正しいか判断がつかない」という人が多いように思う。まだ、こうした「判断がつかない」という態度は理性的なものだと思うが、様々な意見を聞いていると、元々菅元総理に親和的な人は肯定し、橋下氏や維新に親和的な人は否定するというポジショントークに陥っているだけにも思える。

 こうした様々な言説が飛び交う際に、「あれもあり、これもあり」という態度が価値相対化であり、これは形を変えた思考停止に他ならない。また、何でもかんでも頭から否定してかかるというのも思考停止だろうし、例えば主張している人や肩書を見て容易に真に受けるという態度も知恵がない。「嘘を嘘と見抜けないとだめ、自分は見抜くことができる」というようなことを言っている者が、最も詐欺の被害に遭いやすいのだろうと思われる。

 様々な情報に対して、頭から否定するのも間違いなら、容易に真に受けることも誤りだ。正しい態度は、頭の中に「保留」と書かれた箱を置いておいて、すべてはその箱にとりあえず入れておく。信じるには相応の根拠がなければ信じないし、否定するのもやはり根拠を必要とする。多くのことは「保留」の中に入れたままでも生活には支障はない。信じるに足る根拠のないまま信じてしまったり、否定したりという態度が誤りであり、確定できる根拠がないものについては「保留中」として扱うことが重要だ。

 様々な情報を「保留」の箱から取り出して、自分なりに検証し信じるに足る事柄が段々と増えてくると、それがやがて蜘蛛の巣のように関連しあい、自分なりの社会観、世界観になってくる。そういった社会観、世界観を構成する関連性の中に信憑性の怪しいものが含まれていたり、信憑性の乏しいもので社会観や世界観を形成すると容易に社会を見誤る事になってしまう。自分自身の社会観や世界観を形成する事柄の採用には慎重さが必要になる。

 逆に「保留」の箱から取り出して検証し、信じるに足りないと断定できた場合、その情報をもたらしたメディア、人に対しては今後警戒すべきだろう。あやふやなこと、デマ、嘘を自身にもたらした情報源については距離を置くべきだ。

 日頃から自身で検証する癖をつけないと、容易に騙されることになる。また、「どっちもどっち」などと思考停止に慣れてしまうと判断ができなくなる。結果として躓く元となる。「保留」を置く、そして自身で検証する。この癖をつけて社会や世界に当たるべきだろう。

因果律」への懐疑

 「因果律」という概念がある。「すべての出来事/結果(果)には、原因(因)がある」という考え方だ。後に述べる深い仏教の知見は、単純な「因果律」を言っていないのだが、簡易的と言うか、人口に膾炙している大衆的な仏教の解説では、「結果には原因がある」という概念は絶対であるように説かれる。

 西洋哲学においても17世紀のデカルトなどは「因果律」を確信していた。様々な事物を要素に分解し、その原因と結果を追っていけば、この世界のすべての出来事は理解できる。そう思われていた。「ラプラスの悪魔」と呼ばれる想像上の存在が、ある瞬間のありとあらゆる事物の力学的、物理的状態を完全に把握できるのなら、その将来に渡る変化も確定的に予想できると思われていた。(星野之宣の初期の短編で、これを敷衍したAIが描かれていた)
 こうした考え方は、「要素還元主義」と呼ばれ、機械において各部品(要素)に分解して(還元)して考えれば、その機械の挙動がすべて理解できるだろうと一挙に機械文明を推進した原動力にもなっている。機械文明、産業革命を後押しした「要素還元主義」は、やがて生物や人間にも当てはまるのではないかと考えられ、ラ・メトリによる「人間機械論」が著され、こうした考え方を敷衍したのがメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」である。つまり人間の体ですら、その要素(臓器)を結合してゆけば再構成可能なのではと思われていたわけだ。

 こうした「要素還元主義」を社会に当てはめると「設計主義」になる。社会における規則の整合性は、個々人の人間を要素として当てはめて再設計可能であり、優れた設計を行えば、優れた社会が成立する。であるとか、経済の各要素について優秀な知性がコントロールを行えば(または、プロレタリアートが独裁すれば)素晴らしい社会がもたらされる。という考え方が、「設計主義」となる。官僚制度や寡頭政治、共産主義国家社会主義などはこの具体的な例だ。

 この「要素還元主義」や「因果律」というのは飲み込みやすい。また悪用もされやすい。「因果律」の「悪用」の例は、「業病」という概念だ。私はこういう言葉を使う人間の知性を疑う。

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石原「業病」ツイート

(石原「業病」発言)

 最近でも、某宗教団体は先天性の難病を持って生まれてきた人は「前世の業」によるものであって、社会が対応(ケア)する必要はないというような教示をしているようで、なんとも「業が深い」

 しかし現代の科学的知見によれば、「要素還元主義」や「因果律」は成立していない。(なので「業病」などという不条理を個人に押し付ける概念は完全に誤っている)

 と、今度はこういうと「では、何もかも不確かで不条理なのか」と解釈し、「どっちもどっち」と決定論を完全否定するヒトが出てくるわけだけれども、それも誤りだ。
 
 私はこの「要素還元主義」や「因果論」を「ニュートン力学」に似ていると感じている。四則演算可能で予想が付きやすい。しかし「ニュートン力学」が破綻し「量子力学」が必要なように、「要素還元主義」や「因果論」もアップデートされなければならない。(「要素還元主義」の一つの方向性が「テンソル」ということになるんだろう。「因果論」については後述する)

 つい最近も、そこそこ信憑性のある仏教の本を読んでいると「エネルギーが消えては無くならないように、因果の因も消えてはなくならない」と書かれていて、ちょっとがっかりしたのですが。「エネルギー保存の法則」(熱力学第一法則)は現代の知見では成立していない。

 例えば、LSIの製造現場などでは、すでに「量子力学的」な考慮がなければ電子回路の設計一つできなくなっている。そこまで微細な加工においては、完全に「ニュートン力学」では解釈不能になる。しかしだからといって家を建てるというような話題の時に、「量子力学的」な厳密さは必要ない。古典的な「ニュートン力学」で十分設計可能で、施工可能だ。

 つまり、社会などを語る際には、思った以上に「要素還元的」で「因果論的=決定論的」にアプローチしても良いと思える。しかし、そこには常に要素分解不能な部分が含まれていたり、因果論に矛盾するような結果が生み出される可能性に開かれていなければならない。社会にあっては常に不条理は生み出され、硬直的な官僚制度が対応できない理由は、そもそも社会が設計主義では予見不可能だからだ。

 観点を変えてみてみると、公共空間においては硬直的な官僚主義法治主義、設計主義的なアプローチは成立する。そこに文化的な逸脱、アノマリーを反映させる必要がある。これが「政治」の機能になるのだろう。

 硬直化した国家行政機構を、アノマリーが予見不可能な相互作用から斬新的に改変していく。政治が社会の変化や歪に敏感であれば、こうした社会設計はうまく機能するように思える。

仏教の説く本当の「因果律

 世界は単純な原因と結果では結ばれておらず、決定論的ではない。
 「因果律」という言葉は仏教を由来としており、仏教の思想の根底には因果律が置かれているのは間違いがないが、実は仏教では原因(因)と結果(果)を直線で結んでいない。もう一つの要素として、「縁」を置く。西洋哲学にはこの「縁」という概念はない。(「テンソル」って「縁」だよなとも思うこともある)

 西洋哲学では、各要素の(因)が時間経過とともに(果)となっていくわけだが、仏教では「因」が「縁」に触れて「果」がもたらされる。

 仏教のこの考え方では同じ「因」を持っていても「縁」に触れなければ「果」に至らない。つまり同じ「悪因」を持っていても「むくい」に遭うか遭わないかは、「縁」との関係によるものとなっていく。(これを見れば「因果律」を単純に個人に押し付け、「業病」などという概念を振り回す者の知能の低さが理解できるだろう)

 さて、この話をもう少し敷衍していくと、「愚痴」という行為の愚かしさが理解できてくる。「愚痴」という言葉は、「愚(おろか)」の上に「痴(おろか)」を重ねる恐ろしい言葉で、特に「痴」という文字は、「知性」に「やまいだれ」をつけるというなんとも救いのない表現がなされている。仏教でも多くの宗派がこの「愚痴」を戒めている。

 その理由は「愚痴」という言葉は、この「(縁も含めた)因果律」を理解していないところから口をついて出てしまうことだからだ。

 どういうことかと言うと、「因果律」を表す表現として「自業自得」「自因自果」「善因善果」「悪因悪果」などの言葉がある。自らに降りかかる結果も、一旦は自らの中にある「因」によってもたらされたものとして、その悪因を探り、可能であれば改善していく。または、その悪因を顕在化させる「縁」を探り、それに近寄らないように警戒する。そうすることでヒトはより良い生を送ることができる。

 悪い結果が生じても、自分の中の「悪因」を認識し、自分自身の行い、考え方を改善していかなければ、その「悪因」はそのままなのだから次々と「悪果」が発生するだけになる。

 そうした重要な人生のアプローチ、対処法が「(縁も含めた)因果律」なのだ。ところが「愚痴」という行為。「ねたむ」「そねむ」「うらむ」「他者の責任としてにくむ」または、責任回避し逃げる。これらの行為は「他因自果」。他者の所為で自分に被害がもたらされたと考える誤りなのである。

河村たかしの発言の傾向

 「人生行き詰まったら選挙に出ろ」選挙に受かれば、税金で食って楽ちんな生活は待っているだろう。マスコミにちやほやされて、名前が売れればなんにもしなくても再選される。有権者など適当に美味しい言葉を公約にすれば、それが実行されたかどうかなど見ちゃいない。こんな楽ちんな事はない。

 しかし、「人生行き詰まった」その原因(悪因)は、体内に残ったまま、因と業を日々積み重ね、いつか結果がもたらされる。悪因からもたらされる結果が、善果になるか、悪果になるか。

 こうした口車に乗ると、重い枷を背負い込むことになるのだ。



名古屋城天守有形文化財登録を求める会」では、
一月に一回程度、
北区にある「北生涯学習センター」で月例勉強会を開きます。
  令和 4年  2月25日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

         3月30日 (水)
        午後18時30分~
        第3集会室 

 2月22日(火)は、特別企画として。
  建築士が読み解く!
  名古屋市が作成した「幻」の名古屋城天守耐震改修案

  として、建築士 の 渡邉正之 様に
  現天守の耐震改修について、お話を伺います。

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。


映画「決戦は日曜日」

映画「決戦は日曜日」を見ました。

kessen-movie.com

その映画評をさせていただきますが、ネタバレはしないようにいたします。

監督は坂下雄一郎さん。まだ36歳の若い監督さんです。
主演はシニカルな私設秘書役に窪田正孝さん、急遽父親の地盤を引き継ぐことになったお嬢様育ちの二世候補に宮沢りえさん。脇を小市慢太郎さん(途中の「清州会議」の場面での凄み演技は見もの)やすいません、ほとんど初見のような「おじさん俳優さんたち」が地方の後援会のいい感じのおじさんたちを演じていて興味深かった。注文をつけるとするなら、おじさん方は皆スーツ姿か枯れたカーディガンの年金生活風にされていたけど、ボルサリーノ(あの、麻生元総理がするような帽子)でも被って指輪をジャラジャラつけて葉巻でも吸い出しそうなオヤジってのも入れても良かったように思う。また、後援会の女性部長なんてのも描ければ面白かったのにね。昔で言えば塩沢ときさんみたいな役者さん、いまなら芸人さんクラスから美味しそうな人が大量に居そうじゃない。後援会の支部長さんクラスってのは、選挙の場が最大の社交場でここ一番の服を着てくるけど、そういったオンオフの風景までは描ききれていなかった気がする。(選挙の開票風景なんか見ると「お前は何者?」ってオジサンやオバサンがいるでしょ)

ま、それはさておき。あらすじをオフィシャルサイトから引用します。(つまり、この程度の内容紹介はネタバレにならないということで)

とある地方都市。

谷村勉(窪田正孝さん)はこの地に強い地盤を持ち当選を続ける衆議院議員・川島昌平の私設秘書。秘書として経験も積み中堅となり、仕事に特別熱い思いはないが暮らしていくには満足な仕事と思っていた。

ところがある日、川島が病に倒れてしまう。そんなタイミングで衆議院が解散。後継候補として白羽の矢が立ったのは、川島の娘・有美(宮沢りえさん)。谷村は有美の補佐役として業務にあたることになったが、自由奔放、世間知らず、だけど謎の熱意だけはある有美に振り回される日々…。

でもまあ、父・川島の地盤は盤石。よほどのことがない限り当選は確実…だったのだが、政界に蔓延る古くからの慣習に納得できない有美はある行動を起こす――それは選挙に落ちること!

前代未聞の選挙戦の行方は?

映画『決戦は日曜日』オフィシャルサイト

脚本も監督が作られていて、映画企画を立てた際に「政治業界の独特なルール」や「体制」とそれへの反発がドラマを生むような予感がしていたようです。そうした意味では監督自体は「政治業界」にドップリ浸かったわけではなく、またそうした政治的意図、問題意識をもった作品にするつもりは無かったようで。あくまで「ヒューマンコメディー」として組み立てられている。これはこれでありとは思う。

政治を舞台にしたコメディーというと、エディー・マーフィーの「ホワイトハウス狂騒曲」という映画があって、あれは詐欺師がたまたま上院議員と同じ名前であったことを利用*1して、選挙に通り金儲けのためだけに議員生活を送るうちに、国民の困窮に触れ逆に詐欺師の手法で有力議員を嵌めて国民生活を守るって話になっていて、「ヒューマンコメディー」ではなく、アメリカ人が好きな詐欺師を扱った「コンゲーム*2になっていた。

www.imdb.com

ツイッターでこの映画を見た人が、「政治に詳しい人から見たらどう見えるか」と言われたこともあって、見てみて、ツイッターで少しつぶやこうかなぐらいに思っていたんですが。ちょっと考えて、ツイッターでは収まらないと思ってこうして本腰を入れています。

私としては「残念な作品」でした。「ヒューマンコメディー」としては面白く、窪田さん、宮沢さんを始め脇を固める方々、特にお名前も存じ上げないようなあんまりおなじみでもない方々が生き生きと演じているさまは楽しい作品でしたが、決定的に大事なモノが足りない。

ネタバレはしません、それは必要ない。私が感じたこの決定的に足りないモノに行き着く前に、いくつかのエピソードに触れさせていただきたいと思います。


まず、オープニングエピソードに、秘書が代議士をおんぶしてぬかるみを歩くってシーンがあるけど、いわゆる「務台政務官騒動」だよね。(この話を知らないヒトや忘れちゃった方は、下の動画を見てから映画を見ると「クスッ」と笑える)

www.youtube.com

(ただ、監督に注文をつけるなら、この後代議士を送り出す谷村、靴が汚れていなかった)


それと、候補を批判するデモ隊に、世間知らずの候補がモノを配ってしまうシーン、少々の間をおいていい感じの「オチ」がついています。脇役の音尾さんのいい感じに抜いた演技でした。

事務所の怪しげな個室に色々な人が現れ、筆頭秘書とコソコソ打ち合わせるシーン、その中でもバッチを付けた人が「うちにも色々あるんだから」と言って封筒を受け取るシーンね。つまり、政権与党に1選挙区で2万票程度提供する、某巨大組織の方って事なんでしょうけど。封筒が薄すぎます。「仏壇が買えるぐらい」は必要なんですよ。(あくまで、フィクションのお話ですよ!)

それと、怪しげな男たちが「10万円」とか「15万円にしましょう」とか言っているシーン。あれはそんなに危険な話でもなく、例えば公示日に一斉に貼らなけりゃならない公営ポスターの手間賃(労務費)などの話じゃないかと思います。

映画では途中から「落選運動」を展開するって事になっているわけです。

上に引いた公式のあらすじでも述べられている通り。

なんだか、ここら辺からドラマが失速している気がします。

映画の途中で、わざと自分たちのスキャンダルを表に出そうとしますが、実際の選挙戦では候補のスキャンダルが報道されることはありません。(ヒトでも刺さないと無理)スキャンダルが雑誌で報道されても、余程のことがなければ警察は選挙が終わるまで動かないし、警察が動かなければマスコミは追従しない。ましてや候補の父親の違法行為疑いについて、候補が記者会見しても100%すぐには報道しない。選挙が終わってから出すでしょうね。

警察や検察が関わらないような、「動画サイトでこんなスキャンダル」がってなネタはテレビや新聞では扱えない。これも選挙が終わってからになります。最近では日曜日の開票に合わせて、各局がワイドショー的に番組作って、そこで様々な素材が一斉に提示されますが、選挙期間中の「名前」と「顔」の掲示については相当に抑制的です。

で、候補本人や秘書が一緒になって自分を落選させたいというのであれば、もっと簡単で有効な方法があるでしょうね。というか、途中までそれやっているみたいなものですけど。

途中で候補が「降りる」のを谷村が「脅す」ように翻意させるシーンがありますけど、あれも脚本として書きすぎている気がします。明らかに違法行為でしょうし、あそこまで言うならまともな関係性は築けない気がします。(あんなネタ握られた相手と握手なんかできる?)

あと、選挙運動というのは、イベント、祭りであって、いくつも人間ドラマを埋め込める「隙間」があるんだけど、惜しいなぁと思ってしまった。途中で若い秘書が「秘書って思ったより楽勝です」とか言っていたり「当選後も秘書やってくれる」と問いかけて「やらせてもらいます」と答えるシーンが有ったけれど、これって伏線と回収にするつもりだったとすると、そこに変化が無いので何故あるのか判らないシーンになってないでしょうかね?最初、「楽勝です」と思っていた若手秘書が、選挙戦に入って飛んでもない目にあって「辞めさせてもらいます」とか、選挙戦で人手が足りない中、朝出てこないとか(実際に、よくある話で、街宣車で回る途中に起こしに行くとかも聞く)エピソードを挟もうとするならいくつかあったと思うんだけど。なんだか、編集していくうちに、なんだか判らなくなっちゃったんだろうかね?と思いました。若い監督さんなら仕方ないか。

落選運動」をして、くだらない言動をとっても逆に人気が出てしまう大衆の恐ろしさとかね。これもっと掘り下げると面白いんだろうね。例えば今回の「あいちトリエンナーレ騒動」からの「知事リコール」なんてのも、デマでも走り出せば信憑を持ち出すって大衆社会の恐ろしさを見せていて。自分という存在と大衆の作り出す「自分」という虚像のギャップとかね。

さて、では「決定的に足りない大事なモノ」について触れたいのですが。この作品、監督・脚本では主人公たちが対峙する対象というものを「政界に蔓延る古くからの慣習に納得できない」ということになっていて、それで「落選運動」をするって話になっていますよね。しかしそれで「落選運動」をするっていうのであれば、それは単に「逃避」でしかない。で、真剣に逃避するならもっと効率で実効性のある手段は幾つもあって、あまりにあっけなさすぎてドラマにもならない。(一つぐらい例示するなら、重罪にならない程度の買収を行って当選無効を「勝ち取る」とか)

そもそもこの「政界に蔓延る古くからの慣習」の権化を「地方議員」におっかぶせて、旧態依然とした打開されるべき因習であるかのように描かれるのっては、ちょっと納得できない。特に、そうしたステロタイプで地方議員が見られている事に我慢がならない。これは特に地方と都市部でも事情が違うが、地域コミュニティーの在り方という問題で、そうした議論もなく、単に「利権に群がる」「既得権益」の「生活共同体」などというような批判で、地方議員を批判しても、多分、もっと酷いことにしかならない。

そういった意味ではこの社会に最適化された姿なのであって、映画が描くようなオチでは解消もされないし、一撃を加えたことにもならない。なんとなしのゴマカシになっている。・・・と、すればそれを批判しているはずの監督・脚本自身が、そのゴマカシを行ったことになっていないか?と、ある意味社会の問題を切り開くのが映像芸術であるなんて視点から眺めると、メタで成功しているのか?とも思えてしまう。

冗談はさておいて、私がこの映画に「決定的に足りない大事なモノ」(そしてそれは先に上げた「ホワイトハウス狂騒曲」では満たされていたモノ)とは「議員が持つべき、公職者の共感力」なんだね。

議員が持つべき最低限の条件というのは、国民、有権者の労苦を理解する「共感力」でしょう。国民、有権者の労苦を理解できなければその代理としての仕事などできるわけがないし、しっかりした「代議士」には、かならず国民、有権者の要望を汲み取る理解力があった。

ホワイトハウス狂騒曲」では、当初単なる私利私欲の塊である「詐欺師」が、経験を積む中で「共感力」に気付き、利他的な行動を取る。ここに「アメリカ型民主主義の健全な姿」が描き出されている。

しかし、この作品では、最後まで有美は「自分が納得いかない」事にぶつかるだけ、視点が主観に固着してしまっている。

実は、これは秘書の谷村も同様なんだね。

この有美や谷村という存在は、監督・脚本の坂下さんと同じ世代ってことだよね。いわゆる「氷河期世代」の実感なのかもしれない。しかし、こうした「共感力」を持たない個人や、そうした「乾いた砂粒のような個人」で構成される社会ってのは、なかなか困難な気がする。

そんなパサパサの社会では、地域コミュニティーなんてものは存立できず、地域社会、政治ってものも存続できないだろう。坂下監督の目に現在の政治が違和感を持つのってのは、この「共感力」に違和感を持つからなのかとも思えてしまうわけですよ。

そうすると、この作品は、いよいよ日本の社会、政治に欠けている「決定的に足りない大事なモノ」を描き出してくれているのかも知れない。

パサパサに「乾いた砂粒のような個人」が「まとめサイト」や「YouTube」で煽られて構築される政治。・・・なんとも、ディストピア

それと、
これは絶対に見ておきたい映画としては「バイス

longride.jp

これは絶対に見ておくべきです。



名古屋城天守有形文化財登録を求める会」では、
一月に一回程度、
北区にある「北生涯学習センター」で月例勉強会を開きます。
  令和 4年  1月25日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

         2月22日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

 2月22日(火)は、特別企画として。
  建築士が読み解く!
  名古屋市が作成した「幻」の名古屋城天守耐震改修案

  として、建築士 の 渡邉正之 様に
  現天守の耐震改修について、お話を伺います。

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。


*1:河村たかしはこの映画を見て、「隆男」を「たかし」にしたんじゃないか。自分が県会議員に出る時に、有名な市会議員の「たかし」という名前を利用して「市会もたかし、県会もたかし」と言うために改名したと言われている

*2:往年の名作、「マッコイと野郎ども」や「スティング」みたいなね