市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

現代的因果論

 今日は具体的な話ではなく、考え方と言った抽象的な話題を整理したいと思います。とは言っても、最後には具体的な「河村たかしの発言の傾向」についての考察を加えます。

「保留」の大切さ

 その前に、ツイッターでは既に展開しましたが、知事リコール騒動とそれ以降のリコール推進派内の内部分裂に伴って、様々な憶測や嘘、明らかなデマが飛び交っているようで、そうした中で「何が正しいのか判らない」「考えるのも面倒」との発言を聞きました。このように混乱した議論の中で、政治に対して距離を置きたくなるということは理解できます。そうした場合に対応する方法を若干書き記しておきます。

 今も菅元総理の「ヒトラー発言」に絡んで、それを否定する人、肯定する人、更に「ヒトラーと例える行為は国際的にどうなのか」という議論で、様々な意見が飛び交い、「何が正しいか判断がつかない」という人が多いように思う。まだ、こうした「判断がつかない」という態度は理性的なものだと思うが、様々な意見を聞いていると、元々菅元総理に親和的な人は肯定し、橋下氏や維新に親和的な人は否定するというポジショントークに陥っているだけにも思える。

 こうした様々な言説が飛び交う際に、「あれもあり、これもあり」という態度が価値相対化であり、これは形を変えた思考停止に他ならない。また、何でもかんでも頭から否定してかかるというのも思考停止だろうし、例えば主張している人や肩書を見て容易に真に受けるという態度も知恵がない。「嘘を嘘と見抜けないとだめ、自分は見抜くことができる」というようなことを言っている者が、最も詐欺の被害に遭いやすいのだろうと思われる。

 様々な情報に対して、頭から否定するのも間違いなら、容易に真に受けることも誤りだ。正しい態度は、頭の中に「保留」と書かれた箱を置いておいて、すべてはその箱にとりあえず入れておく。信じるには相応の根拠がなければ信じないし、否定するのもやはり根拠を必要とする。多くのことは「保留」の中に入れたままでも生活には支障はない。信じるに足る根拠のないまま信じてしまったり、否定したりという態度が誤りであり、確定できる根拠がないものについては「保留中」として扱うことが重要だ。

 様々な情報を「保留」の箱から取り出して、自分なりに検証し信じるに足る事柄が段々と増えてくると、それがやがて蜘蛛の巣のように関連しあい、自分なりの社会観、世界観になってくる。そういった社会観、世界観を構成する関連性の中に信憑性の怪しいものが含まれていたり、信憑性の乏しいもので社会観や世界観を形成すると容易に社会を見誤る事になってしまう。自分自身の社会観や世界観を形成する事柄の採用には慎重さが必要になる。

 逆に「保留」の箱から取り出して検証し、信じるに足りないと断定できた場合、その情報をもたらしたメディア、人に対しては今後警戒すべきだろう。あやふやなこと、デマ、嘘を自身にもたらした情報源については距離を置くべきだ。

 日頃から自身で検証する癖をつけないと、容易に騙されることになる。また、「どっちもどっち」などと思考停止に慣れてしまうと判断ができなくなる。結果として躓く元となる。「保留」を置く、そして自身で検証する。この癖をつけて社会や世界に当たるべきだろう。

因果律」への懐疑

 「因果律」という概念がある。「すべての出来事/結果(果)には、原因(因)がある」という考え方だ。後に述べる深い仏教の知見は、単純な「因果律」を言っていないのだが、簡易的と言うか、人口に膾炙している大衆的な仏教の解説では、「結果には原因がある」という概念は絶対であるように説かれる。

 西洋哲学においても17世紀のデカルトなどは「因果律」を確信していた。様々な事物を要素に分解し、その原因と結果を追っていけば、この世界のすべての出来事は理解できる。そう思われていた。「ラプラスの悪魔」と呼ばれる想像上の存在が、ある瞬間のありとあらゆる事物の力学的、物理的状態を完全に把握できるのなら、その将来に渡る変化も確定的に予想できると思われていた。(星野之宣の初期の短編で、これを敷衍したAIが描かれていた)
 こうした考え方は、「要素還元主義」と呼ばれ、機械において各部品(要素)に分解して(還元)して考えれば、その機械の挙動がすべて理解できるだろうと一挙に機械文明を推進した原動力にもなっている。機械文明、産業革命を後押しした「要素還元主義」は、やがて生物や人間にも当てはまるのではないかと考えられ、ラ・メトリによる「人間機械論」が著され、こうした考え方を敷衍したのがメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」である。つまり人間の体ですら、その要素(臓器)を結合してゆけば再構成可能なのではと思われていたわけだ。

 こうした「要素還元主義」を社会に当てはめると「設計主義」になる。社会における規則の整合性は、個々人の人間を要素として当てはめて再設計可能であり、優れた設計を行えば、優れた社会が成立する。であるとか、経済の各要素について優秀な知性がコントロールを行えば(または、プロレタリアートが独裁すれば)素晴らしい社会がもたらされる。という考え方が、「設計主義」となる。官僚制度や寡頭政治、共産主義国家社会主義などはこの具体的な例だ。

 この「要素還元主義」や「因果律」というのは飲み込みやすい。また悪用もされやすい。「因果律」の「悪用」の例は、「業病」という概念だ。私はこういう言葉を使う人間の知性を疑う。

f:id:ichi-nagoyajin:20220208012652j:plain
石原「業病」ツイート

(石原「業病」発言)

 最近でも、某宗教団体は先天性の難病を持って生まれてきた人は「前世の業」によるものであって、社会が対応(ケア)する必要はないというような教示をしているようで、なんとも「業が深い」

 しかし現代の科学的知見によれば、「要素還元主義」や「因果律」は成立していない。(なので「業病」などという不条理を個人に押し付ける概念は完全に誤っている)

 と、今度はこういうと「では、何もかも不確かで不条理なのか」と解釈し、「どっちもどっち」と決定論を完全否定するヒトが出てくるわけだけれども、それも誤りだ。
 
 私はこの「要素還元主義」や「因果論」を「ニュートン力学」に似ていると感じている。四則演算可能で予想が付きやすい。しかし「ニュートン力学」が破綻し「量子力学」が必要なように、「要素還元主義」や「因果論」もアップデートされなければならない。(「要素還元主義」の一つの方向性が「テンソル」ということになるんだろう。「因果論」については後述する)

 つい最近も、そこそこ信憑性のある仏教の本を読んでいると「エネルギーが消えては無くならないように、因果の因も消えてはなくならない」と書かれていて、ちょっとがっかりしたのですが。「エネルギー保存の法則」(熱力学第一法則)は現代の知見では成立していない。

 例えば、LSIの製造現場などでは、すでに「量子力学的」な考慮がなければ電子回路の設計一つできなくなっている。そこまで微細な加工においては、完全に「ニュートン力学」では解釈不能になる。しかしだからといって家を建てるというような話題の時に、「量子力学的」な厳密さは必要ない。古典的な「ニュートン力学」で十分設計可能で、施工可能だ。

 つまり、社会などを語る際には、思った以上に「要素還元的」で「因果論的=決定論的」にアプローチしても良いと思える。しかし、そこには常に要素分解不能な部分が含まれていたり、因果論に矛盾するような結果が生み出される可能性に開かれていなければならない。社会にあっては常に不条理は生み出され、硬直的な官僚制度が対応できない理由は、そもそも社会が設計主義では予見不可能だからだ。

 観点を変えてみてみると、公共空間においては硬直的な官僚主義法治主義、設計主義的なアプローチは成立する。そこに文化的な逸脱、アノマリーを反映させる必要がある。これが「政治」の機能になるのだろう。

 硬直化した国家行政機構を、アノマリーが予見不可能な相互作用から斬新的に改変していく。政治が社会の変化や歪に敏感であれば、こうした社会設計はうまく機能するように思える。

仏教の説く本当の「因果律

 世界は単純な原因と結果では結ばれておらず、決定論的ではない。
 「因果律」という言葉は仏教を由来としており、仏教の思想の根底には因果律が置かれているのは間違いがないが、実は仏教では原因(因)と結果(果)を直線で結んでいない。もう一つの要素として、「縁」を置く。西洋哲学にはこの「縁」という概念はない。(「テンソル」って「縁」だよなとも思うこともある)

 西洋哲学では、各要素の(因)が時間経過とともに(果)となっていくわけだが、仏教では「因」が「縁」に触れて「果」がもたらされる。

 仏教のこの考え方では同じ「因」を持っていても「縁」に触れなければ「果」に至らない。つまり同じ「悪因」を持っていても「むくい」に遭うか遭わないかは、「縁」との関係によるものとなっていく。(これを見れば「因果律」を単純に個人に押し付け、「業病」などという概念を振り回す者の知能の低さが理解できるだろう)

 さて、この話をもう少し敷衍していくと、「愚痴」という行為の愚かしさが理解できてくる。「愚痴」という言葉は、「愚(おろか)」の上に「痴(おろか)」を重ねる恐ろしい言葉で、特に「痴」という文字は、「知性」に「やまいだれ」をつけるというなんとも救いのない表現がなされている。仏教でも多くの宗派がこの「愚痴」を戒めている。

 その理由は「愚痴」という言葉は、この「(縁も含めた)因果律」を理解していないところから口をついて出てしまうことだからだ。

 どういうことかと言うと、「因果律」を表す表現として「自業自得」「自因自果」「善因善果」「悪因悪果」などの言葉がある。自らに降りかかる結果も、一旦は自らの中にある「因」によってもたらされたものとして、その悪因を探り、可能であれば改善していく。または、その悪因を顕在化させる「縁」を探り、それに近寄らないように警戒する。そうすることでヒトはより良い生を送ることができる。

 悪い結果が生じても、自分の中の「悪因」を認識し、自分自身の行い、考え方を改善していかなければ、その「悪因」はそのままなのだから次々と「悪果」が発生するだけになる。

 そうした重要な人生のアプローチ、対処法が「(縁も含めた)因果律」なのだ。ところが「愚痴」という行為。「ねたむ」「そねむ」「うらむ」「他者の責任としてにくむ」または、責任回避し逃げる。これらの行為は「他因自果」。他者の所為で自分に被害がもたらされたと考える誤りなのである。

河村たかしの発言の傾向

 「人生行き詰まったら選挙に出ろ」選挙に受かれば、税金で食って楽ちんな生活は待っているだろう。マスコミにちやほやされて、名前が売れればなんにもしなくても再選される。有権者など適当に美味しい言葉を公約にすれば、それが実行されたかどうかなど見ちゃいない。こんな楽ちんな事はない。

 しかし、「人生行き詰まった」その原因(悪因)は、体内に残ったまま、因と業を日々積み重ね、いつか結果がもたらされる。悪因からもたらされる結果が、善果になるか、悪果になるか。

 こうした口車に乗ると、重い枷を背負い込むことになるのだ。



名古屋城天守有形文化財登録を求める会」では、
一月に一回程度、
北区にある「北生涯学習センター」で月例勉強会を開きます。
  令和 4年  2月25日 (火)
        午後18時30分~
        第3集会室 

         3月30日 (水)
        午後18時30分~
        第3集会室 

 2月22日(火)は、特別企画として。
  建築士が読み解く!
  名古屋市が作成した「幻」の名古屋城天守耐震改修案

  として、建築士 の 渡邉正之 様に
  現天守の耐震改修について、お話を伺います。

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。