市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

政治の有効性を再建し、市政を市民の手に取り戻すために

前回の追記で5月2日「中日新聞を読んで」という投稿欄に掲載された名古屋学院大学の江口忍教授の「市長選 勝負の分かれ目」について触れた。

江口教授の価値観はさておき、横井候補の「2万円商品券」に対抗する河村の「30%キャッシュバック」が公約として優れていると有権者が思ったという主張だったが、その理由として、河村案は「2万円✕4年間で最大8万円の還元が受け取れ、それにかかる経費も200億円で済む」という、ちょっと考えれば明白な矛盾を、「横井案よりも儲かる」「横井案よりも公費の支出が少ない」と解説する。

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「市長選 勝負の分かれ目」江口忍教授

これを私は単に江口教授の考察の浅さと批判したわけだが、江口教授自身がこうした矛盾を受容した背景には、それを報じた中日新聞の報道があるのではないかという意見を頂いた。つまり、中日新聞の報じ方、または河村自身の説明が曖昧でいい加減なものだったために、江口教授は誤認してしまったのではないかということだ。奇しくもこれは「中日新聞を読んで」という読者からの受け止めを紙面に反映させる企画であり、そうした意味ではこの誤認を吐露している江口教授の一文こそが、まさしく中日新聞の報道の歪みを表していることになるだろう。


さて、今回の名古屋市市長選挙においても40歳代の河村投票率が高いという傾向が示された。

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年代別投票傾向(中日新聞Web)

また、ある人からは「なぜ、今の『若者*1』は政治に関心がないのか」という問いを投げかけられた。

少し前にNHKが「AI」に日本社会の問題を聞いてみるという番組を作り、その中で「40代ひとり暮らしが日本を滅ぼす」という「提言」が示され議論になった。

diamond.jp


早い話が、この場合「AI」というのは、いわゆる傾向性の関連を探るものであって、「Aという事象が増減すると、Bに影響が出る」事を言っているだけのようだった。つまり「健康になりたければ病院を減らせ」という「提言」も提示されたが、これは因果関係が逆で、「病院が少ない地域は、健康な人が多い」という傾向を言っているだけで、もっと突き詰めると「病院の少ない地域では、健康を害している人は暮らしにくいために、結果として健康な人だけが残る」に過ぎないのではないかと考えられる。この傾向を誤認し「病院が少ない地域は、健康な人が多いらしいぞ」などと、地域の医療システムをガタガタにすれば、確かに住民の健康度は上がるだろう。それは、そんな地域では暮らしていけない、病気を持った人々が転出していった結果でしかなく。健康を害している者に暮らしにくい地域は健常者にとっても安心な暮らしを維持する地域とはなりにくい。

「40代~」の問題も同様で、確かに40代になっても結婚もせず、一人暮らしを続けていれば、子どもは生まれず人口自体が減ってしまう。更に子育てや家庭を構成するための消費も減退するだろう。しかし、それは結果を原因と見誤る議論にほかならず、「なぜ、40代ひとり暮らし」がこれほど増えたのかという本当の原因を追求しなければ、いま、明白に日本を覆う亡国の失政は見直されないだろう。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

すなわち、「縮小均衡論」「財政再建論」こそがこの日本を滅ぼす亡国の暴論なのである。


しかし、呆れたことに、その被害者であるだろう40代の人々が「縮小均衡論」「財政再建論」を信じ、今回の市長選挙においても河村に最も高い比率で票を入れている。

最近「肉屋を熱烈に支持するブタたち」という表現があるようだが、まさにこれを想起させられる図式だ。40代の市民が河村を支持すれば、名古屋市において「縮小均衡論」「財政再建論」に準じた政策が続けられ、「病院が少ない地域は、健康な人が多い」的に医療リソースも削られていくだろう。(実際に、「市民病院」は全てなくなった)そうした社会は、子育てを担う40代には負担の大きな社会となり、より一層結婚、出産へのハードルが上がり、婚姻可能収入が高騰し、結婚の為の条件も厳しくなる。非正規では結婚できないという条件になりながら、公共セクタ、各企業は雇用を減らし、非正規雇用の比率を上げていく、そのためにこの条件をクリアできる対象者はいよいよ減少し、結果として「40代ひとり暮らし」が増える。そして子どもが減り、名古屋は病院の少ない、健康な人だけの社会となるのだろう。

なぜ、40代の人々は有効な政治的指向*2を持てないのだろうか。その一つの原因は、この年代は政治に可能性を見いだせていないのではないかという推測が立つ。政治に可能性を見出だせない者は、真剣に政治的選択を行うことはない。

(ここで、小泉・竹中構造改革路線を継承してしまった民主党政権の失敗を見た40歳代というセンテンスを書いたが、迂遠なのでカットした。大衆全般が政治への不全感を持つ中で、特に40歳代にその傾向が強いのは、この政変の影響ではと推測する)

政治に可能性を見いだせない。それは40代の世代だけに限ったことではないだろう。日本の社会を構成する「大衆」全般が、政治を信頼せず、可能性を見いだせていない。

日本社会に政治的可能性は有るのか、もう少し簡単にいうと、「日本社会は政治によって、より良くすることができるのか」。大衆には懐疑が有る。大衆が政治に可能性を見いだせていない、大衆から政治が「見限られた」ならば、民主主義は成立しない。なぜならば、民主主義において、政治に力を与え、政治の可能性を実現するのは、大衆の信任である。大衆において政治への信任が無い状態では、政治に可能性はない。

大衆が政治を信じず、政治に力が無いからこそ、政治は国民と乖離し政治は国民を裏切る。そして、さらに政治は大衆の信任を失う。

これでは、国民と政治/政治を担う者たちの間で相互不信が生まれ、それが解消されず、その溝が徐々に巨大になっていくだけだ。

果たして、政治を担う者たちの裏切りが、この不信を呼んだのか、または大衆の無関心が、相互不信の原因か。どちらが原因で、どちらが結果かは判らない。しかし、政治を担う者である以上、政治の可能性を信じ、国民を信じ、語りかけ続ける必要はあるだろう。政治を志しつつ、国民、大衆を信じられないとするのであれば、それは不幸な事だ。単なる私利私欲を満たすためだけに、議員という職を得、安楽に禄を喰むためだけに政治の世界に居るのだとすれば、社会にぶら下がり続ける寄生虫に過ぎない。

同時に、国民、有権者も信じる事のできる、有効な政治を模索すべきだろう。政治とは主観的願望を、ただ唱えるだけの虚しい行為などではない。生きるための方法を模索する手段であり、具体的に生活を、そして社会を変えていける道具だ。

もしあなたが、市場の中で生きていけるのであれば市場原理に身を委ねて、金を稼げばいい。しかし、そうした市場の中でも正当な配分を維持しようというのであれば、政治的模索は必要だ。現に現在の日本では正当な配分がなされているとは思えない。また、市場では、個々人の能力、努力とともに、資本の力が影響を及ぼしている。資産を持っている者は、能力、努力がなくとも生活が成立し、貯蓄でき、更に資産を増やすことができる。デフレ、そして安定的な下落傾向に有る日本社会においては、個々人の労働や努力より、資産が産む資産の再生産のほうが有効となってしまう。そして、資産を持つ層は、よりデフレを進行させ、安定的な下落傾向を望み、政治的な誘導を行い、実際に日本はその様になっている。

いわゆる、霞ケ関エスタブリッシュメント、及びマスコミの上層にいる人々、つまり今の日本における「上位層の人々」は、同時に資産家の子息であり、その閨閥に連なる者たちが多い。そうした層が持て囃すのは、縮小均衡論であり、財政再建論、自己責任論だ。河村たかしが国民の支持を得たのも、某民法放送局のプロデューサーに気に入られ、準レギュラーとして政治バラエティに出演したからだ。河村たかし、さらに竹中平蔵、今でいうと橋下徹。こうした存在はこの「上位層」を固定化させるアジテーターであったのだろう。

ここで最近出会ったある事例を紹介しよう。高齢の親が大村知事リコール運動に熱心に参加された。心配したその方が大村知事の行為を擁護すると「パヨク*3」と認定され、縁を切られた。というものである。こうした体験は、様々な機会で見聞きする。高齢の親がガラケーからスマホに替えたところ、インターネットコンテンツに触れ、いわゆる「ネトウヨ言論」に嵌り、それを頭から信じてしまい生活や人間関係に支障を来したという事例は幾つも有る。実は、こうした事は「ネトウヨ」だけに限らない、「左翼方面」でも似たような「症例」はあるし、政治だけに限らず宗教や、連鎖販売商法などでも同じような事例はある。つまり、「ネトウヨ」に嵌る高齢者の問題は、昨今の「右傾化」が原因とだけは言い難い。元々ある「高齢者が嵌り、生活や人間関係に問題が出る傾向」に、政治的言説とインターネットコンテンツが加わったということなんだろう。

では、なぜ彼らは家族やリアルな人間関係を破綻させてまで、こうした政治的言説、宗教、または連鎖販売商法にこだわり続けるのか。それは、そうした言説や宗教的人間関係、連鎖販売商法の現場における自分への評価が「心地良い」からだ。その言説の論理的整合性や、事実の根拠など関係ない。その宗教の来歴や社会的評価も関係ない。連鎖販売商法における商品価格の適正さや、販売員がかける労力の異常さも目に入らない。それらに触れている時、自分が重要視され、必要とされ、濃密な人間関係の中に居られる。それが心地良いのだ。

宗教などの場合、社会の評価が酷ければ酷いほど、そうした批判に耳を貸さなくなり、その世界に閉じこもる傾向がある。連鎖販売商法などで言えば、販売員が夜中まで家に押しかけてくるような事例ですら、「熱心」とみなしてしまう。当然、販売員がそれほど「熱心」なのは、その商品に高い販売コミッションが掛かっているからで、販売員が熱心に惹かれているのは、当事者ではなく販売の結果のお金なのだが、当事者にはそれは判らない。そして、周囲の家族や人間関係がそれを告げても、一旦この「心地良い」空間に嵌ってしまうと、その空間を否定するものとして、関係は断ち切られる。

そもそも各メディアというものは、その受容者を心地良くしようとする。テレビであれ、ユーチューブであれ、そしてこんな長ったらしい文章が並ぶだけのブログであれ、受容者は心地良いからそれを見、聞き、読もうとする。最近では Google などの仕組みによって、その当人の視聴傾向に合わせて、心地良いコンテンツが提示される。それは少しでも視聴者をメディアの中に居続けさせることが、視聴率やPV(ページビュー:インターネットコンテンツの視聴量)を稼ぐことに繋がるからに過ぎない。ヒトは心地良いメディアが提示されれば、ついつい見入ってしまう、聞いてしまう。そして Google などの事業者は、見入ったり聞き入っている者に対して、広告を ー不快を与えないようにー 提示し、広告料を手に入れる。

地上波における各テレビ番組、ユーチューブ、更にはインターネットのコンテンツ(フェイスブックツイッター、各まとめサイト等々)に至るまで、視聴者の好みや傾向を研究し、各個人の視聴傾向に合わせた心地良いコンテンツを提示しようとする。そのため、例えば「大村知事リコール運動」に注目をしている人々には、それに準じたコンテンツが提示され、さらにそれに対して肯定的な者には、いわゆる「ネトウヨ」的なコンテンツが提案され、否定的な者には、左翼的なコンテンツが提示される。こうした仕組みに不慣れなものは、「世界のすべてが、自分の考える*4主張に同調的ではないか」と思ってしまう。つまり、ネトウヨ人士がよく口にする「普通の日本人なら」「みんな」そう思うというのは、こうした仕組みによって、彼/彼女の前に提示されるコンテンツに一定の傾向(バイアス)が掛かっているからに過ぎない。

Google などが行う、こうしたバイアスがなかったとしても、元々人間には「自分の好むコンテンツに対しては、その存在を意識するが、好まないコンテンツに対しては意識しない」という傾向があるために、あたかも自分の考えが、「みなと同じ普通の考え」に思えてしまう。

ここで悲しいのは、こうしたコンテンツ、特にSNSの「グループ」などに所属すると、そこが自分の帰属する先であると誤認してしまう。自分はそのグループに確固たる存在であると思いこんでしまう。そうなると、そのグループからはなかなか離れられなくなる。「自分が今離れたら、そのグループはどうなるんだ」などと変な使命感まで持ってしまう。参加者はそれほどの帰属意識を持っていても、グループ自体は大抵の場合、一般の参加者にそれほど意識は傾けてなど居ない。もし、あなたがどこかのグループに参加していて、そのような負担を感じているのであれば、それは単なる誤解であって、あなたが居なくなってもそのグループは存続を続ける事に気がつくべきだろう。

ここで、こうしたグループが参加者をスポイルするもの(その究極が「カルト」)になるか、単なるグループに留まるかは、次のような傾向によるものではと思われる。

どのようなグループでも、「ボス」がいる。それは創始者で有ることも多いが、そうでない場合もありうる。そのグループを存続させる権限を持っている。そして、そのグループはその「ボス」が心地良くなる空間として維持されていく。「ボス」にとって心地の良いものでなくなれば、存続を停止するか、「ボス」自体が離れ、別の者が「ボス」となり、空間を維持していく。こうしたグループが形成されていくと、そこで参加者の中には様々な形で負担を求められ、スポイルされる者が出てくる。グループがそうした負担をあたかも当然のものと認識し、負担すること自体が「心地良い」自己犠牲と認識され始めると、その負担が拡大し、さらに「今までこのグループにこれだけの犠牲を払ってきたのだから」と逆に引くに引けなくなる。こうなると「カルト」が形成される。

人によって心地良さの基準は違う。今の苦痛より将来の報酬を期待し、心地良いと思えば、今の苦痛も甘受する。

これは、こうしたグループだけに限ったことではないし、当事者の知性すら関係ない。企業における「やりがい搾取」と呼ばれるものもこの一亜種に過ぎないし、日本の官僚機構に蔓延る違法労働は、こうした人間における認知の歪みに依存している。ちょっと横道にそれるが、霞ケ関官僚などは、日本社会のためや、正しい行政のために動いているものなどほとんど居ない。そんな高邁な理想はスポイルされ、すり潰されてしまう。一般には組織の、つまりは、省の、局の、部の、課の。小さなグループの利益を優先するために自己犠牲を強いられているように見受けられる。

こうした空間においては、「常に上ばかりを見ている」いわゆる「ヒラメ人間」が幅をきかせる。全体の合目的性など失われ、上の人間が面子を潰さないように、時には命がけでどんなことでもしてしまう。それは最早労働とはいえない。


つまり、こうした閉ざされた空間の中で、上だけを見ている者は、そのまた上は上を見、最後には「上位層」の動向を気にかけ、「上位層」のお気に召すように、自身の行動傾向を修正していく。「上位層」のお気に止まり、引き上げていただければ自身の将来の利益に繋がると期待している。しかしこれは誤認にすぎないのだが、これが「肉屋を熱烈に支持するブタたち」の誕生の秘密であるように思える。

「上位層」のお気に召す行動に自身を変容させている間に、あたかも自身も「上位層」に存在しているかのように誤認してしまう。別にそんな義務もないのに、企業や店舗に強い帰属意識を持ってしまう「バイトリーダー」の存在は、様々な形で戯画化されているが、街角のラーメン店から、霞ケ関の中央省庁まで、「ヒラメ人間」となって、自身がスポイルされ、自身の行動の目的性さえ見失った人間が溢れているのだろう。

そして、そうした者たちが口にする「自己責任」「財政健全化」自分に子どもは居ないのにも関わらず、口にする「子どもたちにツケを負わせない」などの言葉は「借りてきた言葉」でしかなく、回り回って自分自身に負担を強い、スポイルする論理であることに気が付かない。

彼ら「ヒラメ人間」が、「借りてきた言葉」で誰かを「自己責任」であると批判するとしたら、彼ら「ヒラメ人間」が裏切られ、組織から捨てられて「自己責任」という言葉で批判されても受容できるのだろうか。(減税日本の田山市議から見た則竹元団長の姿というものは、こうした観点から興味深い示唆を与えてくれるだろう)

「借りてきた言葉」を口にする「言葉の自動機械」(C宮台真司)は、自分自身をも攻撃する論理に力を与えてしまう。

今回の知事リコール問題をもう一度よく考えてみて欲しい。そもそも「市長」という存在は、不偏不党、全体の奉仕者であるべきで、230万名古屋市民の付託を受けた存在だ。その名古屋市長が、230万名古屋市民の意志として、愛知県知事の解職を求めるなどということが有れば、それは余程の事態だ。事実として、リコール署名を行った、有効な署名者は1%に満たない。つまり、約2万人程度の名古屋市民だけが、河村市長の解職の趣旨に賛同して、知事リコールを求めたに過ぎない。よしんば、愛知県知事に、名古屋市民に対して不当な施策が見られたとしても、河村市長も政治家であるなら、大村知事と交渉をし、または、あいトリ会長代行として働きかけることもできただろう。こうしてみると、河村市長は、名古屋市長としての職責を十分果たしているとは言えず、230万人名古屋市民の民意の代行者としてどう有るかではなく、自身の主観を押し付けていたに過ぎない。

合目的的という観点からすれば、名古屋市と愛知県という行政の在り方にとって、大村愛知県知事を名古屋市長が解職しなければならないような理由は、あの解職の趣旨にはない。

単に私怨、大村愛知県知事に対する河村名古屋市長の歪んだ私怨が、あの知事リコール運動であり、その行動は明らかに一般の名古屋市民の利益を侵害している。

本来であれば、この段階でアウトだ。名古屋市長としての座を、私怨で利用した。そして自らの市長選挙を睨んだ、事前運動として知事リコールを企図した。このような異常な政治的行動は、これだけで十分名古屋市長解任の理由になりそうだが、そうはならなかった。こんな議論はまったく成り立たない。市長が全体の奉仕者たるを尊重せず、私怨による行動であると批判しても、あたかも左派、右派の主観的好みの押し付け合いに見えてしまう。

健全な政治的言論が失われている。

署名偽造問題がなければ、知事リコール運動自体は不問に付されてしまっただろう。そもそも市長が自身の主観的主張から、知事をリコールするという、行政組織の立て付けを揺るがす、異常な行動について、正当性があったかのように扱われてしまっている。

さらに、この一連のあいトリ問題がなければ、河村は長期安定政権を築いていた。東京都においては、石原慎太郎は逃げ切った。首都銀行問題、首都大学問題、どちらも明白な失政で、莫大な損害を東京、及び日本に与えたにも関わらず、その声は大きくならず、本人にもそのような反省は見られない。政治的文脈の中で、議論によってそれを論破しきることはできないのか。論理的に誤っていても、そしてその主張が容れられれば、日本の社会に大いなる損失が生まれることが明白であろうとも、この石原の行動は批判を受けず、河村や橋下の言葉は今日も、そして明日も大きくメディアに取り上げられるだろう。

健全な政治的言論が力を失う原因である。

大衆、有権者はそれらの言葉をうまく評価できない。テレビやユーチューブで語られる言葉が、それらを肯定すれば、肯定し、否定すれば否定するだけだ。

そして、最終的に選挙では、マスコミに現れる回数の多いものを、結果としてその是非を考慮せず、選んでいるに過ぎない結果が生まれる。

政策の中身など関係ない、気にもしていない。そもそも有権者の大部分には、評価基準がない。(「人柄」という評価基準には失望しか無い。ヒトにとって家族や職場の人間、学校の同級生ですら、その「人柄」など本当のところはわからないだろう、ましてや市長候補の「人柄」など、触れられるのは一部の人に限られる。メディアが振りまく幻影を「人柄」として誤認しているに過ぎない。それを選択の基準であるとしているのは、評価基準が無いと言っているに等しい。そしてそうした傾向を、マスコミがあたかも当たり前の行動として取り上げる時、有権者の思考停止は肯定されてしまう。こうした思考に依らない「無責任な投票行動」が広がり、国民と政治の乖離は広がる)

有権者は選挙で選んでおしまいではない。選んでから、何をするのか、何をしないのか。じっくりと見極める義務がある。メディアも、選挙が終われば、「民意が示された」と投げっぱなしにせず、選ばれたものの評価をし続けなければならない。その責務が有る。

伝えない、報じない事で、国民は理解せず、知らないままだ。国民は理解せず、知らないことには興味を持てない。興味が持てないために記事を読まない、ニュースを見ない。読まれない記事は紙面に載らない、紙面に載らないために伝えられない、報じない。そして、ループが完成する。

このループの中で、国民は政治的言論を失い、安易な「言葉の自動機械」に成り下がり、「ヒラメ人間」となって、構造を支え、スポイルされ続ける。こうして30年余りが過ぎ、(コロナ・ワクチンすら手に入れられない)下層国に成り下がったのが、この日本だ。それを打破するには、声を上げ続け、おかしなことには「おかしい!」と言う。権力者には尻尾を振るより前に、とりあえず歯向かう*5。健全な言論が必要だ。

声を上げよう。我慢することなど無い。
社会は、あなたのためにあるのだから。


*1:この時に捉えていた『若者』とは、20代や30代ではなく、40代ぐらいの人を想定しているように思えた

*2:自身に有利な政治的主張

*3:ネトウヨが左翼を揶揄する際に使う呼称

*4:実は、自分で考えたわけではなく、自分が聞いて納得がいき、心地よいと思ったに過ぎない他人の考えでしか無い

*5:こうした対抗言論に向き合うことが、民主主義における権力者の責任だ