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あいトリ 知事ー市長意見交換 (問5)  補足 <後編>

あいトリにおける、河村たかし名古屋市長と大村秀章愛知県知事の間の往復書簡の問5の中で引用元とされた一橋大学の阪口正二郎さんが、その論文の中で先行研究として奥平康弘さんの2つの論文を挙げてみえる。

あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)

福祉国家における表現の不自由➖富山県立近代美術館のばあい」(法時60巻2号75頁)(1988)「法ってなんだ」184頁(大蔵省印刷局、1995)

「”自由”と不連続関係の文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化➖最近の美術館運営問題を素材として(上)(中)(下)」法セミ547号80頁、548号82頁、549号77頁


奥平康弘さんの書籍に収録されているようで、購入させていただいた。

憲法の想像力(日本評論社 2003年)

www.nippyo.co.jp
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同書142ページより「”自由”と不連続関係に在る文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化/最近の美術館運営問題を素材にして」と、阪口さんが参照している論文が掲載されている。(初出:「法学セミナー」2000年7・8・9月号)

 『天皇コラージュ』事件とは、1986年3月、富山県立近代美術館が催した『’86富山の美術』展で展示されていた大浦信行作品『遠近を抱えて』を、数十日後に県議会において県議二名が『不快だ』と非難し、さらにそれをきっかけに右翼団体が大規模な反対・抗議運動を組織化し、大きな騒ぎになったとこに、端を発する。県の美術館はこうした動きに動転し、問題の作品を早速非公開とする措置を講じた。県側の対応はまことに徹底したものであって、問題作品を館外に売り払い、同展覧会のための図録も一切焼却してしまった


 県議たちにより『不快だ』として『展示するチャンス』=『表現の自由』を奪われた作品は、当時存命中であった昭和天皇の写真を題材にし、その周辺にヨーロッパで名画として知られているボッティチェリの裸婦像の部分などを組み合わせて作られた連作コラージュ版画である。県議らは、これを『天皇のプライヴァシー』『天皇の肖像権』を侵した不敬作品であるときめつけたのであった。『天皇中心の”神の国”』を信じる(あるいは信ずる振りをする)ことによって人びとの注目をひこうとした地方政治家の思惑は、ものの見事に当たった。また、なにかことを起こすことによって、勢力の維持・拡大をはかろうとしていた右翼団体にとっては、これは物怪の幸いであった。全国のあちらこちらから拡声器を積んだ自動車をもって、続々と富山市に集結。喜々として抗議運動を展開した(富山県立近代美術館問題を考える会編『全記録 裁かれた天皇コラージュ』桂書房、2001年、参照)


憲法の想像力 p.145 太字引用者)

事実として明白なように「昭和天皇御真影」を焼いたのは、大浦さんの作品を収めた図録を焼いた富山県立近代美術館なのであって、そう追い込んだのは、「不快だ」として大浦作品を否定した県議や右翼団体である。

こうした出来事に出会い、その心情を映像作品にしたのが、今回あいトリで展示された大浦作品の「オリジナル作品*1」であり、本来は1時間を超える映像作品*2となっている。それを会場では20分程度のダイジェストにまとめて展示していた。そうした切り取り作品から、更に「天皇焼損シーン」だけを切り取って繰り返しテレビ、ネットに掲示された。

あまりに歪められた事実経過と言わねばならない。

その後、富山県では大浦作品の再展示を求める訴訟が起こされ、いわゆる「天皇コラージュ問題」として取り上げられることになるが、再展示は認められなかった。

 公の施設としての美術館は、従来からの実定法システム(およびそれを前提とした行政法論理)に守られて、美術館経営に関して非常に広い --ほとんど不当といいたくなるほど広い-- 裁量が授権されていると考えられてきている。富山県立近代美術館が『天皇コラージュ』作品に対しておこなった非公開措置も、これの当否を訴訟という形式をもって争うことは、たいへんに難しい。誰が、いかなる権利にもとづいて、美術館のどんな行為を、違法として争うことができるのだろうか。要するにいままでは、県が配分する予算の範囲内で美術館は、作品の購入・売却・展示・その差し替えなど、経営の根幹にかかわる部分において、裁量、すなわち『法から自由』の行動余地を与えられてきている。館の措置によって利害・損害を受ける者があるにしても、そのすべては『法と無関係』な事実上の(反射的な)利得に過ぎないのであって、裁判上の救済その他の法の対象たりえない --そういう建前で制度が作られ運用されてきている。


憲法の想像力 p.147 太字引用者)

つまり<前編>で阪口さんが指摘されたように、「『政府が過度に政治化させないようにすること』であり、制度それ自体の自律性を確保」されているがために、美術館が「非公開」と決めてしまえば、それを覆すことはできない。

これは翻って言えば、正当な法的観点から見た場合、今回のようにあいトリ実行委員会や、その個別展示である「表現の不自由展」のキュレーターなど、展示主体が公開を決めた以上、政治が介入する事は不当であるということだ。(作品に対する意見や批判は自由に行えばいいが、政治的に介入すれば不当な事となる)

もう、もう当たり前過ぎて、繰り返すのもバカバカしいが、河村たかし名古屋市長の判断が、不当であり、間違っている。

そうした当たり前の結論を伝えるだけでは面白くない。奥平さんは同書で非常に示唆に富む事例を報告されており、それはまるで今日の予言であり、その出来事を聞けば、昨年の「あいトリ騒動」はデジャヴとして扱われていただろう。それが「ニューヨーク市ブルックリン美術館」における騒動の顛末である。


ブルックリン美術館(ニューヨーク市ブルックリン区)をめぐる騒動

 まず、ブルックリン美術館をめぐる話である。ことのありようはこうである。ブルックリン美術館は、1999年10月はじめに、ある大規模な特別展を開く予定で計画を進めていた。ところが、この展覧会で展示されることになっていたいくつかの作品の内容がよろしくないという理由で、開幕間際、9月半ば過ぎになって、当該美術館の親元であるニューヨーク市の市長R・W・ジュリアーニが、美術館側に計画の変更を求めるという事態へと発展した。しかし美術館はこれに応じなかったため、ジュリアーニ市長は、毎月公費で支払われる美術館運営費(月額49万7554ドル)の打ち切りを決定するとともに、美術館に対する土地建物の貸与契約の破棄を通告するという、異例の強硬な挙に出たのである。すなわち、いまや美術館は、ひとつの展覧会計画を実行しようとしたために、それに異議を挟む市長によって、美術館の存立そのものを葬り去られる瀬戸際に立たされるにいたったのである。


憲法の想像力 p.150)

https://newsbyl-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20180507-00084876-roupeiro-000-54-view.jpg?w=800
トランプ大統領ジュリアーニ市長

追記(2020/11/8):

笑える
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 この騒ぎがどんなふうに結着がついたかというと、 (略) 散々のケチにもかかわらず美術館は当初の計画を全く変えること無く、予定どおり (略) 難なく終幕を迎えた。 (略) 暫定推定での入場者数18万人にのぼり、現代物としては美術館はじまって以来最多の観客を集めたという。 (略) この現象の背後にはジュリアーニ市長の馬鹿騒ぎがあったのであって、展覧会成功はこの市長の愚行の功績によるところが大きかったという皮肉的な見方が成り立つかもしれない。


憲法の想像力 p.151)

あいトリ2019においても、来場者数が67万人を超え、過去最多となった。「市長の愚行の功績によるところが大きかった」というところまで同じとなった。


問題の作品展とは「センセイション――サーチ・コレクションのなかのイギリス若手芸術家たちの作品群」と題するもの。

 市長(ジュリアーニニューヨーク市長:引用者補足)が本件展覧会『センセイション』開催反対理由として挙げたのは、まずC・オフィリ「聖なる処女マリア」である。この、ケニア出身の画家が描くマリア像では、一方の乳房に象の糞を素材に用いており、その背景には臀部や女性器の写真小片が散りばめられているという構図の、いってみれば独特にアフリカ調が強くうかがわれる作品である。ジュリアーニ市長は、この作品をつかまえて「私を不快にする」「むかつく」と酷評し、さらに公金支出打ち切り決定を次のように説明した。「あなた方は、政府の補助金をもらって、他のだれかの宗教を冒涜する権利など持っていないのだ。だから、われわれ市当局としては、美術館長がまともな分別を取り戻すようになるまで、美術館への公金支出を中止するなど、やれることはすべてやる意向である。美術館としては、自分たちが政府から補助してもらっている施設である以上は、社会に在る人びとがもっとも個人的に深く抱懐する信条を傷つけるようなことがあってはならない、と悟るべきなのである。」と語り、


 返す刀で市長はまた、動物の肉片等をフォルマリン漬けにしたものを素材にしたハーストの作品にも言及し、これにも「むかつく」と評して打ち棄てた。爾来、この騒動のなかでは、「むかつく」(sick)というジュリアーニ市長の評言が流行を見ることになる。


憲法の想像力 p.157)


サーチ・コレクション
artscape.jp


クリス・オフィリ「聖なる処女 マリア」
https://www.moma.org/media/W1siZiIsIjQzMTIzMyJdLFsicCIsImNvbnZlcnQiLCItcXVhbGl0eSA5MCAtcmVzaXplIDIwMDB4MjAwMFx1MDAzZSJdXQ.jpg?sha=a5303206ceee4f62

www.moma.org


クリス・オフィリ@ニューミュージアム
www.amepuru.com


ダミアン・ハースト「金と死」
www.artpedia.asia

 ジュリアーニ市長は宗教感情に訴えたが、かれ自身カトリック教徒であるのは公知の事実であり、従来からそれを売り物にもしてきたところでもあって、かれのこの訴えはニューヨークに少なくはない同宗派の面々の支持を見込んだうえでのことである。


憲法の想像力 p.158)

つまり、今回のあいトリ騒動では日本国内の「天皇崇拝者」の宗教的シンボルが「穢された」のであろうし、ブルックリン美術館での騒動では、カソリックの宗教的シンボルである「マリア像」が「穢された」ということなんだろう。

 ジュリアーニ市長からみれば、この作品(C・オフィリ「聖なる処女マリア」:引用者補足)は反カトリック的であるがゆえに「むかつく」のであるが、じつをいえば、これを作ったオフィリもまたカトリック教徒なのであって、この作品にはなんの神聖冒涜・反カトリック的な意味合いをこめていないのだ。と抗弁する。象の糞を使ったのが侮辱的証拠だという非難に対しても、オフィリの出身地アフリカのある地域では、民族宗教のうえで象の糞は豊穣神のシンボルとしてむしろ神聖視され、かかるものとして象徴的に用いられてさえいるという話もあるのである(オフィリは、本件展覧会で展示されるかれの他の作品のいくつかでも、同じく象の糞を素材に用いている)。


 作品の美醜をめぐる美学的な判断というものは、なかなかに微妙なものがある。そうだから、公金を扱う権力者は極力この判断世界に入るのを避けねばならないということになるのだが、ジュリアーニ市長はそうは考えなかったようである。


憲法の想像力 p.158)

つまり、ジュリアーニ市長の無理解がこの騒動の発端なのであり、異なるエスニシティに対する不寛容が問題だったわけだ。

このブルックリン美術館での騒動、ジュリアーニ市長の騒動、または「センセイション/サーチ・コレクション」の騒動は、美術に詳しい人々の中では有名だそうだが、昨年からのあいトリ騒動では、そうした意見は聞かれなかった。

また、河村市長というのは、画廊を経営していた「画商」だった筈なのだが、こうした事例について、ご存じなかったのだろうか?

 80年代 (略) 芸術家たちの作品評価をめぐり大論争が生じた。こうしたばあい、議論の場は、けっしてただ単に芸術家同士あるいは芸術愛好者とか鑑賞市民とかいった、諸個人間の芸術論争という形で展開するのではない。きわめてしばしば、公金支出という契機を媒介として公権力主体が出てきて、芸術論争にある種独特な公的裁断をくだすという構造というかしくみになっている。そこに現代社会の特徴のひとつを見いだす、とさえ言える。


憲法の想像力 p.174)

今回、このニューヨークにおける騒動と教訓を理解しないものが、この愛知県において同工異曲の騒動を引き起こしている。

ビスマルクの警句「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは将にこのことだろう。

奥平康弘さんは同書で次のようにも述べてみえる。

 シフリン *3 は、ある書物 *4 によって「なぜ表現の自由は保証されねばならないのか」という問題に独創的な考察を加えているのであるが、それは結果において、さっきから言っている「想像力」ということと通底するところがある。
 シフリンは言う。表現の自由なるものは、一九世紀中葉以降の詩人R・W・エマソンウォルト・ホイットマンなど個人主義的・反抗的・反権威主義的な人たちに象徴されるような性格のロマンティックな傾向を持つ者たちにこそ保障されるべきなのだ、と。どうしてそうなのか。


 こういった人たちの言説は、反体制的・革新的・創造的であって、少数派であるがゆえに、政府や社会によって抑圧されるのが常である。けれども、こうした思潮こそが、社会に活力を与え、人びとを生き生きとさせ、民主主義を推し進めるものなのであって、そうだから、こういった傾向の意思表明を自由闊達に行わせるためにこそ、表現の自由憲法保障はあるのだ(あるべきなのだ)、とシフリンは言う。ここにはまさに、「想像力」をはたらかせ憲法憲法たらしめようというぼくの主張しているところと、オーバー・ラップしているところがあるのではないだろうか。


憲法の想像力 p.22)

名古屋市河村たかしとは、将に自由を尊重し、個人主義的であり、反抗的であり、反権威主義的な者だったはずだ。

そうした者が、自ら権力を握り、狭隘な思い込みから他者を批判し、他者の思想を排除し、聞く耳を持とうとしない。文化や価値観といったものの多様性を理解せず、他者の主張に対する「想像力」を失う。

権力が腐敗するとは、この「想像力」を失ったとき、思想の空間がよどみ、腐敗が始まるのだろう。

追記:
ある方から、昨年の県検証委員会 河村市長へのヒアリングでニューヨーク美術館の話が出ていると聞いた。それでも残念ながらこのジュリアーニ市長の件、サーチ・コレクションの件は参照されていない。
先行事例に当たれないということは残念なことだ。
まあ、それ以上に「議論」は浅いが。

(このPDFの最後が、そのヒアリング議事録になっている)
https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/268580_935071_misc.pdf



あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2における表現の自由とヘイトスピーチの誤解)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問3)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問4)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 阪口論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 奥平論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問6)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問7)


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注意喚起

*1:「遠近を抱えて PartⅡ」

*2:「遠近を抱えた女」

*3: Steven H. Shiffrin(Cornell Law School ) チャールズ・フランク・リービス法学部名誉教授 https://www.lawschool.cornell.edu/faculty/bio.cfm?id=72

*4: The First Amendment, Democracy, and Romance, Harvard Univ. Press, 1990 https://www.hup.harvard.edu/catalog.php?isbn=9780674418646