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あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)

<<920河村質問>>
<<115知事回答>>
<<118河村見解>>

<<920河村質問>>


1.愛知県知事・大村秀章殿の「芸術」についての見識*1を問う。


【問1】本件企画展では、愛知芸術文化センター(公共施設)*2で、昭和天皇の肖像写真を、意図的にバーナーで燃やした上で、その灰を靴で踏みつける動画作品が展示されてありましたが(以下「肖像画・焼損映像」と言います。)、貴殿は、「一県民として」*3、このような「日本の象徴であり日本国民統合の象徴」*4である天皇の肖像写真を明らかに冒涜・陵辱する暴力的なモチーフの作品についても、「芸術性」があるとお考えか。「あり」「なし」で、端的に回答されたい。


【質問の趣旨】貴職は「大村意見」でも、「首長としての行為や発言」と「個人的な行為や発言」とは「厳に区別されるべき」であることを主張されており、当名古屋市長としても、この貴職の見解に異を唱えるものではないが、「健全な良識」をもった名古屋市民(愛知県民も同様)の圧倒的多数は、「肖像画・焼損映像」の如き暴力的な作品には激しい嫌悪感・不快感を抱き、心の深いところで傷つくことは必定であると考えられるので*5、上記作品の「芸術性」の有無・評価について、「一県民として」、すなわち「大村氏個人として」の見識を是非とも伺いたい*6。なお、上記の作品は、あくまでも例示であり、「展示物」の「芸術的な価値」を云々する以前の問題として、そもそも公的事業として、公共施設で展示する「芸術」の範疇に属する展示物であるか否かについて重大な疑義があるので、愛知県知事ご自身の公的立場を離れた「個人的見解」を問 (https://www.youtube.com/watch?v=5A4Qhr1UAfo より引用。動画の一場面を静止画像として抽出し、説明文を付加し一部黒塗り修正)うものである。*7

<<115知事回答>>


【問1】について


私の個人としての「芸術的見解」については、回答を控えさせていただきます。


なぜならば、9月10日付け「あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』について」でも述べたとおり、公権力を行使する立場にある者、特に行政権を執行する職にある者は中立性が求められます。すなわち、たとえ相手が自分の思想や信条、政治的立場と異なる立場にあっても、法に従って公正に職務を行うという職務執行上の中立性です。


こうした観点から、首長としての行為や発言と、個人的な行為や発言は厳に区別すべきです。また、多様な価値観や意見の衝突がある場合に、やむをえず個人的な意見表明を行うとしても、公私の区別を明確にして謙抑的に行われるべきです。自らの思想や信条をそのまま具体的な職務執行やその要求に直結させるべきではないと考えます。


なお、大浦氏の作品につきましては、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会(以下「検証委員会」と言います。)の『中間報告』(以下「中間報告」と言います。)」にあるとおり、新作映像は20分の動画だがSNSで流通した『昭和天皇』の肖像画を燃やす場面を見た人の一部が、天皇侮辱を目的とする作品と誤解し激しく批判しました。しかし、これは大浦氏が33年前に富山県立近代美術館(現富山県美術館)で自作の版画を展示した後に、図録から排除された版画を燃やす光景であり、天皇侮辱を目的としたものではないと評価されております。

<<118河村見解>>


【問1】 に対する回答について


【問1】は、企画展「表現の不自由展・その後」(以下「不自由展」という。)にて展示されていた、昭和天皇肖像画を、バーナーで意図的に焼損させ、その灰を靴で踏みつける作品*8(以下「天皇焼損映像」という。)の芸術的評価について、公職を離れた「大村秀章氏個人の」認識・見解を問うものでした。


「公職者」は、表現の内容について、一定の評価をくだすべきではないという貴職の見解・信条*9に配慮して、一個人としての見解を問い質したものですが、貴職は、一個人としての意見表明であっても、地方行政権の「職務執行の中立性」を楯に、回答を拒まれ、前記回答書では、「自らの思想や信条をそのまま具体的な職務執行やその要求に直結させるべきはないと考えます。」と述べておられます。


しかしながら、上記のとおり「日本国民統合の象徴」の遺影を破壊するといったモチーフの作品が、鑑賞者(特に日本国民*10)に激しい険悪感*11・不快感を抱かせることは必定であり、このような「ハラスメント(嫌がらせ)」性をもつ作品*12を公共事業で行うことの当否について、愛知県知事、あるいは公金支出の責任を負うべき役職を担うべき一個人が、しかるべき見解・見識を示されないようでは、愛知県民の理解が得られるものとは到底思われません。


また、貴職は、上記作品について、「大浦氏が33年前に富山県立近代美術館(現富山県美術館)で自作の版画を展示した後に、図録から排除された版画を燃やす光景であり、天皇侮辱を目的としたものではない」という作者の個人的・主観的・独善的な弁明*13をそのまま受容する一方で、その作品が客観的に表現するところの鑑賞者一般の評価*14を全く無視したあいちトリエンナーレのあり方検証委員会の「中間報告」の評価を援用されてみえますが、当該評価が愛知県民の理解が得るに足りるものとも思われません。

言い切ることにためらいを感じていることについて。

言い切ることにためらいを感じている。
または、断言に伴う責任を回避したい。そういった卑しい心情が伺い知れる。

また、「名古屋市民が嫌悪感を抱き、傷つく」という言明には根拠がない。自分がそう思うから、「圧倒的多数」の「名古屋市民」もそう思うだろう。という推測。つまり主観の漏出に過ぎない。

ところで、昨年の4月に、議会内の旅行における「パワハラ」「セクハラ」の告発が有った。(これも、果たしてどうなってしまったことか。結果、単なる「選挙利用」にしか見えないが)河村市長は名古屋市内の繁華な街頭で「パワハラ」や「セクハラ」の告発を街頭演説していたわけだが、昼日中、栄などの街頭で、大きな拡声器を使って「チューさせて」などの言葉を使って不真面目に演説する姿に「子どもたちが聞いているのに」や「この演説そのものがセクハラじゃないの」という意見が聞かれた。

この問題でもそうで。大村知事の回答にあるように大浦さんの作品は全部で1時間を超える作品、それが展示では20分程度に短縮されている。そしてさらにそこから「昭和天皇」と見られる(作者の大浦さんの意図は天皇の肖像ではない)部分が「焼かれる」シーンだけを切り取って紹介されていた。こうした「切り取り」のために「嫌悪感」や「不快感」が助長される。こうした「配慮」にかける傾向も、河村市長の主観の膠着を表している。

質問1、最後のセンテンスの異様性

このセンテンスを()の部分を除去して、以下のように切り分けてみると異様な論理構成が見られる。

1「「展示物」の「芸術的な価値」を云々する以前の問題として、」
2「そもそも公的事業として、公共施設で展示する「芸術」の範疇に属する展示物であるか否かについて重大な疑義がある」
3「ので、」
4「愛知県知事ご自身の公的立場を離れた「個人的見解」を問うものである。」

知事は9月10日の大村見解で以下のように述べられている。

「芸術の価値に対する評価は百人百様です。したがって、誰もが芸術的価値を認めるものだけの展示を認めることになれば、こうした展示展は成立しません。したがって、テーマや展示の選択など芸術的内容に関わる点は、芸術分野の専門家を中心としたメンバーで選ばれた芸術監督やキュレーターによる議論・検討を経て決定されています。
愛知県は、施設や財政面、事務局スタッフの人的支援といった観点で中心的な役割を担っていますが、愛知県や私が芸術的な価値について当否を判断して展示内容を決定したものはありません。
芸術的価値に対する評価については、実行委員会会長あるいは首長といえどもそれを評価・判断して決定すべきでなく、展示内容の取捨選択は最終的には芸術分野の専門家に委ねるべきで、実際にそのように進めてきました。 」

つまり、<<115知事回答>>の「問5」で触れられているように、知事は「キュレーションの自律性の尊重」に立つ。それはすでにこの「9月10日大村見解」で表明されているわけで、それを踏まえ、更にこの様に問うことは、もはや主観の膠着でもない、たんなる「ためにする言いがかり」に過ぎないだろう。


あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2における表現の自由とヘイトスピーチの誤解)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問3)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問4)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 阪口論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 奥平論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問6)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問7)


*1:この場合、「見識」という語よりも「見解」という語のほうがより適当

*2:愛知芸術文化センター(公共施設)」特に断りもなく記述記号は使わないほうが良いですね。正確に記述するのであれば「愛知県が所管する公共施設である愛知芸術文化センター」または「公共施設である愛知芸術文化センター」でよいはずです。後者であれば括弧と比べて一文字多いだけでより正確になります

*3:「一県民として」という括弧書きの部分について、「県知事ではなく、一人の県民として」の主観的判断を問うのであれば、「一県民」として。と、「一県民」だけを括弧で括るべきでしょうね。「一県民として」というセンテンスごと括弧で括った場合、このセンテンスに何らかの含意があると解釈されます

*4:文章に括弧をつけるという場合、引用など括弧で括られたセンテンスが特定の意味を含んでいると解釈されます。この場合は「天皇」に対する定義を「憲法」に求めていると解釈されるのですが、そうした場合は正確に「引用」する必要があります。憲法第一条の表現は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」です。不正確な引用は、その引用元に対する軽視か、引用者の知的怠惰を表します

*5:主観の漏出と膠着が同時に出ているために、文意が曖昧になっている。もう、70歳を過ぎた人間に言っても意味がないだろうが、河村市長の発言は曖昧である。曖昧であるために後日、責任を追求されても「言い逃れ」ができるのだが、それは狡い態度である。この「考えられる」の主語はなんだろうか?「当名古屋市長」だろうか、自身が推測するというのであれば「必定と考える」でよいのではないか?「考える」ではなく「考えられる」ということは、「可能性を排除できない」ということであって、そういった曖昧な推測であればどのような事でも主張できる。「宇宙人が居ることは必定であると考えられる」。言い切ることにためらいを感じている。については下記に続く

*6:「見識を伺いたい」・・・「見識」は伺えない。「見解」が表明されたときに、それを評価した結果として他者から「見識」が判断される

*7:この最後では「見解を問う」としている。ならば、文の題も「見解を問う」とすれば良い。このセンテンスの異様性については下記

*8: 大浦氏の作品について、知事が指摘している検証委員会の「中間報告」を完全に無視している。主観の膠着。後段で検証委員会の「中間報告」への河村市長の評価を述べているが、そうした議論の前に、自説を押し付ける態度は議論を行う態度ではない。

*9:河村市長が大村知事に「配慮」したとしているが、そもそもそんな事は言っていない

*10:話者が、自分の主張に説得力がないと感じる時、話者の使う主語は大きくなる

*11:「嫌悪感」の誤変換だろうが、どうやればこんな誤変換が起こるのか理解不能

*12:「ハラスメント(嫌がらせ)」性をもつ作品 という新たな概念が出てくる。議論を散乱させている

*13:こうした決めつけの方が独善的なのではないのだろうか。(一定の評価を受けている作者の解釈を無視して、自説を押し付ける態度は、国が実施し、外務省のホームページにも掲載されている「日中共同歴史研究」の解釈も無視し、南京事件まぼろし説を主張する姿にも似ている)初期の作品、その作品の歴史的経緯、そして作者の見解は、当然にして作品を理解する上で重要なはずだが、その全体を見ずに一部を、それもそこから更に切り取った一部を受容した「鑑賞者一般の評価」なるものが正しいとし、それによって検証委員会の「中間報告」まで否定してみせる蛮勇には恐怖すら感じる。ここになんら根拠は示されていない。更に言うと、そうして切り取られた「昭和天皇の肖像を焼いた模様を映し出した動画」というものは、知事の回答にあるように、大浦さんの作品そのものではなく、展示された短縮作品の一部を民放各局がニュースやワイドショーで取り上げた断片映像であり、それを更にSNS等に転載された動画である。大浦さんの本来の作品を見ているヒトはほんの一部であるし、今回展示された短縮作品を見たヒトも少ない(少ない理由もある)更に、実は現場に足を踏み入れた河村市長もこの作品は見ていない。見ていないという証言を当日現場に居た人物より聞いている。作者の意図を無視してこうしたエキセントリックな表現方法で「その動画」をなんの前提もなく(展覧会に於いては事前に警告が表示されている)テレビやネット上で流すことのほうがより「ハラスメント性」があるだろう。そうした問題に言及することなく、単に騒動を拡大させようとしている河村市長の姿こそ、広く国民の心を踏みにじり、「昭和天皇の肖像を焼いた模様を映し出した動画」を、自身の政治的目的のために利用していると断じざるを得ない。

*14:「鑑賞者一般」・・・正体不明の主語は、結局自論でしかなく、無自覚にこうした主張が漏れ出てくることが自我の漏出である