市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)

<<920河村質問>>
<<115知事回答>>
<<118河村見解>>

<<920河村質問>>


5.「表現の規制」と「表現の援助」との違いについての理解を問う。


【問5】私人の「表現行為」について、行政がこれを「規制」する場合と、これを「援助」する場合とを分けて考察する憲法解釈があることを御存知か。もし御存知だったとした場合、貴職は、このような見解を否定されるのか。


【質問の趣旨】「芸術活動(表現活動)」に対する国家・行政の関わり方については、外側から「規制」する場合と、これを内側から「援助」(財政的援助、展示場の提供等)する場合とがあり、後者の場合は、公共事業として、公的資金(税金)を投入することになるとともに、当該「芸術活動(表現活動)」の社会的な意味の「構築者」として行政権力が立ち現れる側面がでてくる。したがって、後者の場合(本件企画展はまさにこの場合に該当する。)は、行政資源の有効な配分の見地から、当該援助を行うか否かの問題は、住民自治に委ねられ、憲法問題(「表現の自由」の侵害の問題)は生じないという憲法的解釈も当然ありうる。例えば、アメリカ合衆国最高裁判所のスカリア判事は、「言論に対する『制限(abridging)』と言論に対する『援助(funding)』の区別は基本的なものであり、後者に対して(合衆国憲法)修正1条(注:「表現の自由」を規定し、日本国憲法21条に相当する)は適用されない。」との意見を述べておられる(阪口正二郎著「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」法律時報74巻1号参照)。貴職は、当名古屋市長が貴職に対し前掲「肖像画・焼損映像」の如き暴力的で著しく不適切な「作品」群の存在を理由に中止を求める文書を発出した際、このような憲法的解釈があることを承知されていたか。また、当名古屋市長が、上記憲法理解を前提に、8月8日付けで名古屋市民向けに当職の理解を説明した文書を名古屋市のホームページに掲載したことについて、「大村意見」では「間違った情報を市民に発信されている」と一方的に断定されているが、貴職は、上記憲法的解釈を否定される趣旨か。貴職が、上記情報について「間違った情報」と誹謗された部分とその理由について、明確に説明されたい。

「表現の不自由展」中止と「ヤジ排除」不寛容な日本社会の深刻な状況 一橋大学教授 阪口 正二郎

gendai.ismedia.jp

ここで今回の「排除」に公権力が関わっていると考えるのは、河村たかし名古屋市長が、今回の展示物に対して「日本国民の心を踏みにじる行為」だとして、展示の中止を求める抗議文を実行委員会に提出していたことによる。河村市長の行為は公権力の行為として誤っている。

「表現の不自由展」中止と「ヤジ排除」不寛容な日本社会の深刻な状況(阪口 正二郎) | 現代ビジネス | 講談社(2/5)

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

<<115知事回答>>


【問5について】


表現行為について、行政が「規制」する場合と「援助」する場合とを分けて考察する見解があることはもともと承知しており、そうした見解の存在を否定するものではありませんが、唯一の見解であるとも考えてはおりません。憲法の観点からは、表現行為を行政が「援助」する場合といえども、表現の自由だけでなく、思想・良心の自由、法の下の平等といった基本的人権が守られなければならないことは当然のことです。


中間報告では、「アートの専門家がアートの観点から決定した内容であれば、政治的な色彩があったとしても、公立美術館で、あるいは公金を使って行うことは認められる(キュレーションの自律性の尊重)。これは、国公立大学の講義で、学問的な観点からである限り、政府の批判をすることに全く問題がないことと同じである。」とされ、「作品の選定や展示の内容はアートの専門家の自律的判断を尊重した結果であり(キュレーションの自律性の尊重)、その展示をしただけでは、公立美術館やその設置者である自治体が作品から読み取れる政治的メッセージを支持したことにはならない。逆に、県や美術館がメッセージの内容を理由に介入すると、そのメッセージを否定する立場を明示することになってしまい中立性が損なわれるおそれがある。」とされたところであります。

<<118河村見解>>


【問5】に対する回答について


【問5】の質問の趣旨は、要するに、通説的な憲法学説においても、作品展示(表現行為)について、地方公共団体(行政権)がこれを「規制」する場合と、これを「援助」する場合とは理念的に区別され、憲法上の自由(表現の自由)は、行政権の「規制」からの自由として観念されていることから、公金を使った公共施設の展示物から、公共事業に相応しくないと判断される作品については公金による資金的な援助対象から外すことは、憲法で保護された「表現の自由」とは直接関係のない問題ではないか、したがって、憲法解釈を理由として、貴職が私名古屋市長の言動を批判されるのは筋違い*1ではないか、という趣旨の質問でした。


貴職は、私の上記問題意識*2に対し、正面から回答をされず、【問5】の回答との関係*3では、「キュレーションの自律性の尊重」を強調されつつ、「(特定の政治的メッセージを含む作品の)展示をしただけでは、公立美術館やその設置者である自治体が作品から読み取れる政治的メッセージを支持したことにはならない*4。」、逆に、「県や美術館がメッセージの内容を理由に加入(引用者注:「介入」の誤記と思われる)すると、そのメッセージを否定する立場を明示することになってしまい中立性が損なわれるおそれがある。」といった「中間報告」の意見を援用されています。しかしながら、上記「中間報告」の意見は、【問5】の質問の趣旨とは全く無関係の問題であって、論点のすりかえに過ぎず、回答の体をなしておりません。

問5の大村回答は、回答の体をなしていないとしているが、問5は、

行政が表現行為を「規制」することと「援助」することの意味の違いを聞いているのだろうから、「キュレーションの自律性の尊重」を軸に「援助」する事には行政の意向というものは入りにくいが、「規制」をする場合には意向(メッセージを否定する立場)を明示することになってしまうので気をつけるべきという、至極当然の話。

追記:
後に、阪口論文を直接読んだが、大村知事の解釈に近く、河村市長の誤読は明白である。
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 阪口論文

これは比較的よくある話で、公立図書館に図書を導入する際、導入された特定の図書に対して住民から何らかのアクションが起こされた際、そうした動向によって、特定の図書が公立図書館から排除(閉架送り)される事例などでも議論になる。特定の図書というのが、例えば「自由史観」系の図書のこともあるし、「左翼系」の図書ということもある。「ちびくろサンボ問題」もこうした例だろうし、その他様々な「教育的配慮」によって扱われた図書というものはある。


あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2における表現の自由とヘイトスピーチの誤解)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問3)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問4)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 阪口論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 奥平論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問6)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問7)



*1:結局、それが言いたいだけなんだね

*2:つまり、「検閲」と言われたこと

*3:だって、そういう問い立てをしていないからね

*4:当たり前だよね、名古屋市図書館にマルクスの「資本論」や毛沢東の「語録」は置いてはいけないんですか?