名古屋市長選挙の際に「減税会」という集団が現れて、河村前市長を「減税の先導者」のように扱っていたことに違和感を感じたが、市長選挙が終了すると、いわゆる「103万円の壁」を軸に、国政、税制に対して活発な発言を続けているようだ。
納税者として、税を軽減してほしい、税は安いほうが良いという主張は充分理解できる。また、例えば地方自治法第二条の14項に定めるように「地方公共団体は、その事務を処理するに当つては、住民の福祉の増進に努めるとともに、最少の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない」とされているのであって、行政施策は(後述する条件の下で)「最少の経費」で為されなければならない。
そうした考え方に異論はないし、様々な場面で私も同様の主張をしている。例を挙げるなら、名古屋市に対して行った名古屋城裁判においても、裁判の過程で地方自治法第二条の14項に依拠して、名古屋市の違法性を追求している。
しかし、「減税会」の方々の主張の中には非常に精度の低い主張が見受けられる。特に名古屋市における「河村流減税政策」は「減税会」の方々が求める「減税政策」とは異なっている。
本当に納税者の権利、国民の権利を求めていくためには、政治的主張の精度を上げて「効率的」に行動する必要があるだろう。名前に「減税」と付けばそれで良いんだというような主張は、まるで戦後民主主義の中で「平和」と名が付けばそれで良いとしたというようないい加減な「反戦平和運動」や、本稿で後述する国際協調が却って国際的な格差の拡大を引き起こした誤謬を想起させる。
全体としてどの程度の長さになるかはわからないが、現在のところ積み上がった情報カードはおおよそ3~4つに分類されていて、お話もこの3~4つに分けて記述されることになると思われる。
概要を述べるなら、
1)事実認識の精度をあげなければならない話
2)「減税会」のオピニオンリーダーと思しき渡瀬裕哉氏の著作を巡って
氏の著作である『税金下げろ、規制をなくせ ー日本経済復活の処方箋』(光文社新書2020年)はまだ理解できる(議論の論点が成立するという意味、同意できるわけではない)が、『社会的嘘の終わりと新しい自由』(株式会社すばる舎2023年)については、本質的な危うさが内包されているという問題。
3)既存政治勢力がなぜ「減税」を主張に加えようとするのか
そしてそれの何処が誤りか。
1)事実認識の精度をあげなければならない話
社会的共通認識の精度を上げる必要がある
政治の話の前に、社会的共通認識の精度を上げる必要があると思われる。
日本社会には骨絡みで誤った概念が絡みついている。特定の宗教を指しはしないが、「因果論」「生まれ変わり(東洋的には輪廻転生、西洋的にはリーインカーネーション)」「前世の因縁」などという概念を深く考えもせずに振りまく思想は誤りである。(宗教だけでなく、通俗道徳にも、因果論を誤って展開させている事例、相関関係を因果関係と見誤っているような主張が散乱している)
釈迦の説く教えは「因果律」で説明されていると主張する者たちが居るが、これは間違っている。因果律というのは全ての出来事(結果)には原因があって、原因が結果を生み出すのだという判り易い話だが、釈迦の教説では因果の他に「縁」という概念が外挿されている。釈迦は単純に因果律を説いていない。ましてや「生まれ変わり」において「前世の因縁」が「今生の生まれ」に反映されるなどとも説いていない。
また、現代科学(物理学)においては、「因果律」について局所性の破れが認められているのであり、そもそもこうした「因果律」から逸脱した事象が、現にある宇宙の根源であると考えられている。宇宙は決定論的でなく、因果律は成立していない。プランク定数以下の世界は決定不可能であって、釈迦の説く「縁」こそがこのプランク定数以下の世界なのではとも思えてくるが、ここでは深入りしない。
突然何を言い出すのかと思われるかもしれないので、少し判り易い話を加えておく。
問1「普通の6面サイコロを5回振って、1回も『1の目』が出ていません、さて、次にこのサイコロを振って『1の目』が出る確率はいくつでしょう」
問2「256回に1回、当たりが出るパチンコ台があります。今まで255回あたりが出ていません。次の試行で当たりが出る確率はいくつでしょう」
問1の答えは1/6であり、問2の答えは1/256である。
それぞれ独立した試行の中で発生する事象の確率は、前後の事象の影響を受けない。しかし5回も連続で『1の目』が出ていなければ、次には1が出そうな気がするだろうし、255回当りが来ていないパチンコ台は「そろそろ当たる」気がするかもしれない。
しかしこれが人間の思い込み。認知バイアスといったもので、冷静に論理的な議論を行うのであれば、こうしたバイアスから開放され、理知的な目で物事を捉えなければならない。
名古屋城木造化に伴う昇降機設置に関わる「市民討論会」の席上、車椅子を利用されている障害を持つヒトに対して「障害を持って生まれるヒトも、障害がない人も生まれる、それで公平だ」というような発言が有った。日本の伝統仏教の中にも、「障害を持って生まれるのは前世の因縁である」「今生において良からぬ行いをすれば、来世において、その報いを受ける」という教えを振りまく、または現在も振りまいている者たちが居る。実際に私も子どもの頃には家族から「食べるものを粗末にすると、次に生まれ変わる時に目が潰れますよ」と言われた覚えがある。
ヒトが誕生する際に障害を持って生まれるか否かは、独立した事象であって前世や後世が有ったにしろ、前後の出来事の影響を受けない。前世の因縁で今生において報いを受けるとするなら、次の生まれ変わりの際には因縁はプラスなのかマイナスなのか。それとも2回の生まれ変わりで帳尻が合うのか?何回の生まれ変わりで帳尻を合わすのだろう。また、現に今ハンディキャップを背負って生まれてきたものに対して、「前世の因縁なんだ」と考えの浅い「自己責任論」を押し付ける行為は、現代の文化レベルから見ると容認しうるものなのか。
こうした偏頗で、即座に論駁可能な「因果観」は単なる偏見であり、因習でしかない。もし、ある宗教が、こうした偏頗な「因果論」や「生まれ変わり」を基底においているのであれば、その宗教組織や宗教組織を基底においた社会は存続可能であろうとは言えない。
個人が内的にこうした偏見や因習から抜け出せないのだとするのなら、それは不幸なことと御同情申し上げるが、そうした明らかに浅い考え方、偏見を社会に漏れ出させるのは適切ではない。個人の思想及び良心の自由は、個人の内にあって自由なのであり、それを他者や社会に押し付ける行為は節度を欠く。
社会的共通認識の精度を上げておかなければ、その上に構築する政治議論の精度が上がるわけがない。
宗教的確信は個々人の自由であって、愚かなことを信じ続けるという愚行権も認められるべきだろうということだ。「輸血」を宗教的に忌避し、当の本人が亡くなるのならば、或いは「愚行権」の行使とも言える。しかし、独立した人格であるべき子どもに対して「輸血」を拒否し、命を奪うことは「愚行権」の行使とは言えない。明らかな虐待であり、殺人だ。
個人が頑迷固陋な思い込みに囚われ続けるという愚行権を否定はしないが、その思い込みを振りまいて社会を紊乱させる権利はない。社会もそうした妄論を尊重する必要ない。私的な主張と放置する以外ない。
(続く)