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あいトリ 知事ー市長意見交換(問2における表現の自由とヘイトスピーチの誤解)

「118河村見解」における「【問2】 に対する回答について」において、河村市長は次のように主張する

率直に申しあげて、私は、貴職の「二枚舌」に、大変驚きました。貴職は、先般、10月27日、一民間団体*1が、愛知県の管理する施設で、「日本人のための芸術祭あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」(以下「特定表現自由展」という。)が企画・実施された際、その中の展示物に、在日韓国・朝鮮人の方々に対する民族的偏見から、その人々の心を深く傷つける作品や、貴職を揶揄する作品が展示されていたことについて、激昂して、「明確にヘイトにあたる」、「(展示内容が)分かった時点で、中止を指示すべきであった。」などと記者会見で公言されています。

しかしながら、そのような貴職のコメントは、「作品の表現内容に内在する『暴力性』、『反社会性』等の害悪を客観的に評価することは非常に困難」であるといった貴職の前記見解と正面から矛盾しますし、「『芸術性』の評価だけにとどまらず、思想、信条、良心に立ち入っての評価に直結する危険性を有しています」という貴職ご自身の前記ご見解がそのまま妥当することになるのではないでしょうか。

まず、議論の根拠として、10月27日に行われたという、その「一民間団体」による「特定表現自由展」の実態を見ておこう。
写真は、この展覧会に潜入した者が得た配布物である。(私はある理由から会場に入れなかった)

次の写真は、いつもであればここでブログに掲載するが、これは直接掲示することが憚られる内容であるので、リンクだけをお示しする。「差別扇動表現」であるので閲覧する方はその事を承知してご覧頂きたい。

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日本第一党 あいちトリカエナハーレ2019病の時代

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こうした「差別扇動表現」が渦巻いていたのが「一民間団体」による「特定表現自由展」の実体であり、会場周辺を粗野な罵声を挙げて何人もの参加者が闊歩していた。またそれらを監視していた者たちと小競り合いが起き、実際に私も2件、明白な違法行為(暴力行為等)を目撃している。

追記:
「ウィルあいち」利用規定
https://www.will.pref.aichi.jp/shisetsu/pdf/riyoukitei.pdf

5 利用の許可が認められないとき
(略)
⑦本邦外出身者に対する不当な差別的言動が行われるおそれがあると
認められるとき。


「ヘイト」という言葉は単なる「憎悪」または「憎悪表現」であるので、いわゆる偏見に根ざした「ヘイトスピーチ」とは少々趣が異なる。個人の主観的な「憎悪」または「憎悪表現」というものは、それをなす主体の人格等を表しはするが、本質的には「個人の自由な表現行為」といったものだろう。それ自体は大村知事が指摘するように「害悪を客観的に評価することは非常に困難」であると言う以外にない。*2

しかし、偏見に根ざした「ヘイトスピーチ」と呼ばれるものは(1)明白な定義が為されており、(2)正当な理由により(3)法的に規制されている。

(1)「ヘイトスピーチ」の明白な定義

ヘイトスピーチとは、本人が主体的に変えることができない属性(生来的属性:人種、出身国/帰属国、民族、宗教、性的指向/嗜好、性別、容姿、障碍など身体的特徴)に基づいて、その個人または集団に対して攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のことである。

この際、その社会/国家におけるマジョリティがマイノリティに行う行為を指すとの解釈もあるが、私はそれは取らない。マジョリティとマイノリティの差は本質的なものとは思えない。

また、表現者本人が、自身の帰属する集団に対して批判を行うことは「ヘイトスピーチ」には当たらない。日本人が「日本人は○○だからダメだ」という表明(あるいは、攻撃、侮辱)は、その集団の構成者が、自集団に対して行う批判であり、当然に許される表現行為/評論行為だろう。つまり日本人による「日本人へのヘイトスピーチ」など成立しない。

(2)「ヘイトスピーチ」を認めない正当な理由

そもそも人間と人間の間に境目を設ける行為自体が不毛であり無意味だ。人間が異なるというのであれば、ほぼすべての人間はそれぞれ異なるのであろうし、人間に集団があるのだとすれば全ての人類が一つの集団となりえる。民族や帰属国、肌の色や思想信条で境を設け、どちらは優れており、どちらは劣っているなどと評価することは、その境目を恣意的に、主観的に決めているだけで自己満足に過ぎない。更にそうした根拠もない峻別を行って、自分の属している集団は優れている。とか、そこに属していない者は劣っているなどとする判断は、なんともさもしい自己肯定であり、陶酔であると判断する以外にない。脆弱な自我しか造形できなかった個人が、「有りもの」の属性にもたれかかって、自我構築を委ねる懈怠としか見えない。*3

しかし、こうした傾向は危険な現象を生み出すことは歴史が証言している。上記のように自我が脆弱な者は、容易にプロパガンダに踊らされ、凄惨な事件を引き起こす。ハンナ・アーレントが喝破した「アイヒマンという凡庸」は時代を超え、地域を超えて現出する。

1994年にルワンダで発生したジェノサイド(虐殺)は、ラジオ局が流した民族差別に根ざしたアナウンサーの発言に、人々が踊らされた結果だ、2000年以降に起きた「ISIS」の事件でもこうした民族差別、宗教差別が根底にある。日本においても、1923年の関東大震災直後に起きた「関東大震災朝鮮人虐殺事件」では、誤った情報を流す者、そしてそうした情報に踊らされる者が無残な結果を引き起こした。

こうした事実を踏まえ、日頃より社会はヒトとヒトの間の壁を取り外し、無意味な差別を解消しなければならない。こうした差異を利用して「攻撃、脅迫、侮辱」を行う者の「本当の目的」を把握し、包摂していく必要がある。


(3)「ヘイトスピーチ」を抑制する法的規制

国連は「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」を採択しており、日本は1995年に加入している。
その第4条には次のようにある。

第4条

 締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。

(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。

(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

(c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。

International Convention on the Elimination of All Forms of Racial Discrimination


「国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めない」



つまり、「作品の表現内容に内在する『暴力性』、『反社会性』等の害悪を客観的に評価することは非常に困難」であるとする大村知事の発言と、この「特定表現自由展」を「明確にヘイトにあたる」、「(展示内容が)分かった時点で、中止を指示すべきであった。」と批判する行為は「二枚舌」ではない。


河村市長は愛知県芸術センター前に座り込む際に、この「日本第一党」その前身である「在特会」と協働行動を繰り返してきた「愛国倶楽部」の構成員と座り込みを行っていた。(河村事務所の職員が、愛国倶楽部の構成員にプラカードを渡していた事が確認されている)


この「愛国倶楽部」は街宣の際に「日本人に対するヘイトスピーチはやめろ」などと主張し、法務省のポスターやそれを改ざんしたものを掲げているが、日本人が行う「日本人に対するヘイトスピーチ」など存在しない。こういった理路も理解できない見識の低さが、大村知事の批判と、表現の自由を守る主張が「二枚舌」であると誤解してしまう理由なのだ。

名古屋市河村たかしは、自らの見識の低さを反省すべきであるし、
このような者を市長としている名古屋市民に対しても再考を求めるものである。

そしてこうした文書は永く後世に残し、現代の恥辱とともに
せめて前車の覆るは後車の戒め としていただきたい。



あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2における表現の自由とヘイトスピーチの誤解)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問3)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問4)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 阪口論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 奥平論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問6)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問7)



*1:日本第一党、あの在特会代表であった桜井誠の政党

*2:個人の表現だけではなく、その表現の置かれた文脈、地域性、時代背景などを加味しなければ正確に解釈することは難しい。例えばネット上には精神科医香山リカさんが街頭で凄まじい表情を投げかけている写真が流布しているが、彼女が四六時中ああした表情を浮かべているわけではないだろう。あの表情の意味を把握するためには、周囲で行われていた事柄を理解しなければ、正確な評価とは言えない。そうした周辺状況から切り出された部分をもって主張を行う行為はプロパガンダ、政治的宣伝と捉えたほうが良いだろう

*3:私は、人間というのは自己に「まとわりつく」属性と、ある一定の年齢(期間)に向き合い、それを憎みながら愛し、愛しながら憎まなければ、本当の自己を発見できないのではないかと思っている。自分自身を形成する一定程度は、自己を取り巻く環境であり、その環境はこうした属性と深く関わっている事は明白だろうからである。それらと何らかの「決着」を付けていないヒトは、何かを「卒業」していない気がする。私にとっても、「日本」であるとか「名古屋」という属性は愛憎相半ばする存在である。こうした思想的な個人作業を経ていない者、そうした属性に単純な愛情や、逆に一方的な憎悪を持ったヒトは、やはり重層性や深みがなく、そうした環境と臍の緒でつながったままであるように思えてしまう