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あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき)

昨年、8月に開催された「あいちトリエンナーレ」における騒動は全国的なニュースとなり、注目を浴びた。
この問題について、河村たかし名古屋市長と、大村秀章愛知県知事の間で、いくつか書簡がやり取りされた。

その中で9月20日に提示された河村たかし名古屋市長の「公開質問状」に関わるやり取りについて、仔細に検討してみたい。当ブログではすでに9月20日の「公開質問状」については若干触れている。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


9月20日の河村たかし名古屋市長による「公開質問状」(以下[920河村質問」とする)

<<920河村質問>>

11月5日の大村秀章愛知県知事による「回答」(以下「115知事回答」とする)

<<115知事回答>>

並びに、11月8日の河村たかし名古屋市長による「見解書」(以下「118河村見解」とする)

<<118河村見解>>

の3つの文書について検討してみる。(他の文書-河村市長の抗議行動における違法性追求など-については、とりあえず置く)また、以下に各文書の「頭書き」を引き、文書を構成する1~7の論点について、3つの文書からの引用を並べる。
(各論点について、ブログのエントリー1日分に区分けしておく)最後に私が「ちゃちゃ」を入れておく。(その他、ちゃちゃを入れたいヒトは、コメントはご自由に)

つまり、各文書を論点ごとに平行に整理してみる。

この作業で私が示したいことは3つに分かれる。
1つは、もちろん各論点である。しかしこれについては大村知事の見解が常識であり、正解であろうと思われる。こういった当たり前の意見に何が不満があるのか、興味がある。

2つ目は、その河村市長名義の文章だ。まず、酷い。
文章というのは自分が言いたいことを押し付ける行為なのだから、伝えようと思うのであれば、表現の方法にも気を配るべきであろうし、記述に於いてもまず読むヒトの立場にたって考えるべきものだろう。つまり、アドラー心理学にいう「共同体感覚」の有無、簡単に言うと、「他人の立場に立ったモノの考え方」ができるか否かが現れる。当ブログでも、河村市長には「主観の膠着*1」が見られると指摘しているが、こうした文書でもそれが至るところに見られる。

ただでさえ、主観的な価値観が分かれる問題について、自身の主観を「正」と見、相対する者の意見を「否」と見れば、議論は噛み合わない。更にここに主観の漏出*2が合わさると、議論は一気に成立しなくなる。その上に、その主観が膠着していては、そういった主体から紡ぎ出される言葉は、意味をなす主張として捉えることすら危うくなる。

こうした作文上の問題については、文中に ※n とアンカーを置いて、欄外に「解説」を書いてみた。

3つ目は、いわゆる「ヘイト・スピーチ」「ヘイト」という言葉、概念に対する、現代日本に広がる誤解に基づく問題だ。これについては、文中に上記のアンカーを置くとともに、別エントリーで詳細に述べる。

リンク

あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2における表現の自由とヘイトスピーチの誤解)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問3)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問4)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 阪口論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 奥平論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問6)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問7)


各文章の頭書き引用

<<920河村質問>>頭書き


公開質問状


令和元年9月20日


あいちトリエンナーレ実行委員会会長
愛知県知事 大村 秀章 殿


名古屋市長 河村 たかし
(あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行)*3


貴職は、2019年9月10日付けで、「あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』について」と題する文書(以下「大村意見」といいます。)において、当名古屋市長の見解を公表した文書に対し、「日本国憲法を解釈する上でいくつかの疑義が散見されました。」と述べた上で、「このような間違った情報を市民に発信されている」などと聞き捨てならない、著しく不穏当な誹謗記事を公表されております。


しかしながら、当名古屋市長の方では、貴職の日本国憲法の解釈の方こそが、その趣旨を明らかに曲解されており、「あいちトリエンナーレ実行委員会」(以下「実行委員会」といいます。)の会長として、また、愛知県知事としての職権を適正に発動せずして、これを懈怠し、現時点でも、あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」(以下「本件企画展」といいます。)の適正な運用を懈怠し続けている疑いがあるものと考えております。


ついては、「実行委員会会長代行」として、また、名古屋市長として、貴職に対し、後記の諸事項について質問いたします。速やかに書面での回答を賜りたい。

<<115知事回答>>頭書き


令和元(2019)年 11 月5日


あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行
名古屋市河村たかし殿


あいちトリエンナーレ実行委員会会長
愛知県知事 大村秀章


貴職より拝受しました令和元年9月 20 日付け公開質問状につきまして、下記のとおり回答いたします。

<<118河村見解>>頭書き


見解書


令和元年11月8日


あいちトリエンナーレ実行委員会会長
愛知県知事 大 村 秀 章 殿


名古屋市長 河村 たかし
(あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行)*4


名古屋市*5は、貴職・大村愛知県知事に対し、令和元年9月20日付けで、公開質問状を出しましたが、同年10月2日付けの督促状にもかかわらず、速やかな回答をいただけず、およそ愛知県民が期待する迅速な回答*6をされる意思がないのではないかと疑念を抱いておりましたところ、今般、ようやく令和元年11月5日付けで、貴職から、上記公開質問状に対する回答をいただきました。*7


もっとも、貴職の回答を通覧しましたところ、各質問の殆どについて、遺憾ながら質問の趣旨が正当かつ真摯に受け止め*8られておらず、あるいは論点をはぐらかされ、あるいは論理矛盾が随所で認められ*9ました。私*10としては、貴職が公共事業の主催者として、また、公金支出の執行責任を負うべき地方自治体の長として、責任ある態度を正しく理解されていないように見受けられますことから、貴職の回答では、愛知県民の信頼を失いかねないものと危惧しているところです。


ご回答につきましては、名古屋市が設置を準備している検証委員会において貴重な参考資料として活用させていただく予定ですが、せっかくご多用のところ回答をいただきましたので、貴職の各回答に対する名古屋市長(あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行)としての見解・感想*11の要旨を次に申し述べておきます。

あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)


*1:自身の主観的見解から離れることができず、相対者の主張が理解できなくなること。議論において、一旦、相対者の主張に耳を傾け、それを咀嚼、解釈した後に、その考え方の矛盾や無理、無駄を指摘するなど、自説との比較評価を行うべきだが、こうした経過を経ず相対者の意見を「自分はそうは思わない」と切り捨てるのならば、単なる主観の押付け合いにしかならない

*2:自分の主観的判断は、誰もが同様に判断すると、なんの前提もなく確信する傾向

*3:なぜ、「あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行」を括弧で括っているんでしょうね?

*4:なぜ、「あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行」を括弧で括っているんでしょうね?

*5:「920河村質問」では「当名古屋市長」という表現でしたが、ここでは「私名古屋市長」になっていますね

*6:「およそ愛知県民が期待する迅速な回答」主観の漏出の例、迅速な回答を期待していたのは「当名古屋市長」であって、「愛知県民が期待する」ものであるかは不明だろう

*7:「920河村質問」では回答期限が設けられていなかった。「迅速」とは何をもって「迅速」となるのか不明、曖昧。こうした経緯や督促について記載する意味があるのだろうか?曖昧で身勝手な主張をしているのは、河村市長側であるにも関わらず、河村市長支持のポジションを取っている人々は、こうした文章に触れると、大村知事は約束に遅れ、愛知県民の期待に応えていないように映るということなんだろう

*8:質問の趣旨を正当に受け止められていない場合、質問が曖昧、不明確であるとういうことは無いのだろうか?「主観の膠着」とみなせる

*9:以下の文章でその「論理矛盾」なるものの指摘があるのでしょう。楽しみです

*10:誰? 皆さんも文章を書く際に、自分を表す言葉は慎重に選んで統一するように心がけましょう。公職者が公的文書に一人称を書くのであれば「当職」が適当でしょう(役職は敬称ともなりますので不適当です)

*11:文書名が「見解書」であるなら、ここは「見解」だけにした方が宜しいでしょう