1)事実認識の精度をあげなければならない話
精度の低い認識の例(2)
トマス・ロバート・マルサスは 1798年『人口論』を発表した。人口増加は指数関数的であるのに対して、食料供給は線形にしか増加できず、どこかで食糧供給の限界に人口が至り、人類は飢餓に陥るという主張だ。
こうした主張は繰り返しぶり返される。1968年にはポール・エリックが『人口爆弾』を発表する、1972年にはローマ・クラブが『成長の限界』を公表する。
ポール・エリックやローマ・クラブの主張、危機感は世界的な流行となり、そうした世界観を背景にした映画もいくつか作成された。1972年に『赤ちゃんよ永遠に』*11973年には『ソイレント・グリーン』が作成されている。*2
日本において今に至るも『成長の限界』的な縮小均衡論を口にするものも居る。経済や社会を縮小均衡させれば「着地する飛行機のタイヤ」よろしく、社会の下層が割りを食い、結局棄民政策にしかならない。
ローマ・クラブの『成長の限界』論も、南北問題、南切り離し政策に陥っていた。*3
確かに日本社会はこれから2050年頃までの間、生産人口の減少や社会保障費の増大と言った、人口ピラミッドのアンバランスによる社会的困難は起きるのだろう。しかし、人口ピラミッドがアンバランスな時期に「財政均衡」を考えるというのは、あまりにも知恵が無さすぎる。個人の家計ですら、事業の失敗であるとか家族が体調を崩すというような場合には、貯金を取り崩したり、売れるものを売ったり、様々な方法で生き残りを模索するだろう。
日本には社会的インフラもあれば外債もある。悲観的になる必要は全く無い。
また、以前書いたようなイノベーションが起これば、全ての問題はほぼ解決がつく。世界中の情報を瞬時に手に入れることができ、安価に意見交換、情報交換までできる。物資は世界中から手に入れることができ、同時に世界中に販売することもできる。19世紀にはおおよそ考えられなかった事が、現代では当たり前に行われている。
国家の重要な使命は勤労の権利(憲法27条)を満たすことであった。
日本社会において、有効需要を生み出し、労働者に仕事を与えることは国家の責務であった。そしてそうした職場が、社会において中間のセーフティーネットとして機能し、失われていった地域社会や部族共同体の代替物として、生活の保証、身分の確保、医療や災害の際の安全弁として機能してきた。
しかし、日本社会が活力を失うにつれて、企業の能力が劣化し、企業にはこうしたセーフティーネットの機能を期待することができなくなった。EUの通貨危機などで見られたような通貨経済から脱落するような人々まで生み出されている。
通貨も雇用も要らない。
適正な社会的リソース(食料、衣料、住居、教育、医療、治安等)の分配さえあれば良い。
言い換えよう。
例えば、戦後、シベリアから引き上げてきた陸軍兵士たちを何らかの形で雇入れ、仕事を与え、賃金を支払わなければ社会不安を引き起こす可能性があった。その為に国は当時の国鉄に過剰な雇入れを行い、過剰な労働力を吸収した。日本の国鉄が世界有数の品質を誇り、同時に過剰な人員に苦しんだ背景には国鉄の経営の問題だけではなく、こうした戦後の雇用政策がある。
こうした政策のもう一つの面が大阪に現れる。
国は復員兵によって生み出される過剰な労働力の供給を国鉄の採用で吸収しようとしたが、大阪地域というのは日本国内でも有数の私鉄優位という風土が有った。大阪においては国鉄で労働人口を吸収し切ることが出来なかった。その結果として大阪では府と市が二重化し、行政自治体が労働力を吸収することなる。東京や日本全体で国鉄が労働力過剰であると指弾されるのと同じように、大阪においては府と市の二重行政が指弾された。
しかし、それは歴史的経緯が生み出した結果であって、そうした観点を欠如した議論はいささか乱暴にすぎる。
戦後の日本政府は雇用によって、社会的リソースの配分を企図した、国家の重要なテーマは雇用であり、失業の解消であった。しかしそれは目的ではなく手段でしかない。真の目的は社会的リソースの配分だ。
「核融合発電」(「核」という言葉が嫌なら「プラズマ発電」)によって、エネルギーは無尽蔵に生み出せる。そしてそれは食料の安定的な供給と、資源の充足を意味する。 核融合発電が実現すれば、ヒトは戦争などで奪い合う必要はなくなり、食料や資源の不足に怯える事も無くなる。
国家や社会は、こうして得られた社会的リソースを、どのように配分するのかと言った機能を果たすことになるだろう。通貨と言ったものも、こうした社会的リソースの配分を適正に、正当に行うための道具でしかない。ひょっとすると不要なものとなるだろう。
その昔は、金・ゴールドが国際的な価値を持った。その金・ゴールドを基準として兌換する証券を紙幣と言った。しかし現代で金兌換紙幣を求めるものは少ない。ダイアモンドなども国際的価値の基準だったが、鉱山の開発、人工ダイヤの進展、デビアス社の力の低下から、国際的な価値は下がりつつある。
通貨はいよいよ実態を失い、国家が「納税は通貨によって行え、納税を行わない場合には刑事罰を加える」との法的制限(というか、暴力的施策)を行わなければ、存在価値を失うかもしれない。
現在、通貨の価値を金との兌換によって考えるものが居ないように、通貨の供給量、財政均衡を主張するものも居なくなるだろう。
ここで上で述べた「行政の執行が最少の経費で行われる条件」について再考しておこう。この条件とは、条文を順番に読めば明らかで、地方公共団体は、「1. その事務を処理するに当つては」「2.住民の福祉の増進に努める」という前提条件を満たした上で「最少の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない」のであって、「その事務」とは国などから所管された自治事務であり、その他にも「 住民の福祉の増進に努める」義務を負っている。憲法が保証する(つまり、国が国民に対して約束した)「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことができるように「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」のである。
そしてそれが「核融合発電」(プラズマ発電)によって賄うことができれば、通貨も雇用も要らない。「減税」なんてせせこましい事を言っている必要もない。正当な社会的リソースの分配さえ可能であれば良いのだ。そしてそんな社会が直ぐ目の前まで来ている。
(続く)
次回以降いよいよ「減税会」のオピニオンリーダーと思しき渡瀬裕哉氏の著作を巡っての議論に入り、次いで既存政治勢力がなぜ「減税」を主張に加えようとするのか、そしてそれの何処が誤りか。その欺瞞性について述べていく。