1)事実認識の精度をあげなければならない話
精度の低い認識の例(1)
名古屋市における市民税減税。いわゆる「河村流減税政策」は、通貨発行権がある国における減税政策とは異なる。
SNS上で一般的な公共経済学の標準モデルを提示してみたところ、
「提示の資料の-Kは私が大学で学んだ20年前ですら既に否定されているので初心者騙しの数式ですね」
「その経済モデルの前提自体に疑義を持っておけという事ですね。経済学そのものの限界とも言えます。軽く探した限りはこれが参考になるかと思います」などと返されてこの論文を示された。
経済学的世界観の強さと限界 -経済学における人間の行動前提の再考そして対応方向- 岡部光明 (PDF)
慶應義塾大学名誉教授であらせられる岡部光明氏の論文で、仰々しくも 「経済学的世界観の強さと限界 ー経済学における人間の行動前提の再考そして対応方向ー」などとしている。
経済学において経済モデルを構築する際には、ヒトや企業といった経済単位は「1.利益の最大化を目指し」「2.均衡(情報や行動の効果)」であり「3.効率的に(または、合目的的に)」動くとされているが、「社会の目標は単に効率性だけではない。それ以外の目標(例えば公平性)、あるいは経済学を越えた目標(社会の安定性、文化的価値、美徳など)も考慮したうえで、政策は最終的に実施される必要がある」等と岡部氏は主張している。
確かに、経済合理性だけでヒトは動かないが、では上記に示したような公共経済学における一般モデルを否定できる立論が当該論文中でなされているのかと言えばそれは為されていない。
それどころか「4-1.経済理論の再構築:新しい経済モデルの提案」「4-2.人間の自己成長と社会的問題解決の関連付け:もう一つの新しい視点」と言いながら「高橋佳子」なる人物の著作からいくつか引用を行っている。
そして「5.結語」はこうなる。
「(略)経済学は今後、人間行動に関する前提を見直す(人間には利己心のほか利他心もあることを考慮にいれる)とともに、それを踏まえた新しい枠組みを構築する事が求められている。さらに、経済学は究極的には人間行動とその結果に関する研究であるので、個人の深化・成長が社会問題の解決に結びつくことを示す新しい視点も萌芽的にみられるようになっており、そうした未開拓の領域に挑戦することが期待される」と来る。
で、岡部光明氏がたどり着いたのが「魂の学」だそうだ。
大丈夫か? 慶応大学。
この論文に引かれている「高橋佳子」なる人物は、どうもこちらの方らしい。
特定の宗教に対して論評する紙幅はないが、上記結語に対しては、「それは学問の敗北である」という論評以外思いつかない。人生の終端に近づいて、こんなことしか言えないようなら、いったい今まで積み上げてきた「学」ってなんだったんだろうねと思わずに居られない。
宗教は既に述べたように個人の内的な確信に依って立つ。それは良く言えば「思想及び良心の自由」によって保証されているのであり、悪く言えば「愚行権」としての自由が認められている。しかし学問とは、社会の共通認識として議論が可能でなければならない。批判に開かれていない思想は学問とは言えず、学際的な批判に晒されていない宗教的確信を学問の根拠に据える行為は学問の敗北だ。
まあ、ある意味日本社会が平和で緩いってことの象徴とも言える。
経済学の標準モデルでは解決がつかない事柄はある。ヒトは時に合理性や効率化を離れた行動を起こす。その一つに1953年、モーリス・アレが提示した「アレのパラドックス」と呼ばれる実験がある。
次のような2問の選択肢が有った場合、あなたはどちらを選択しますか。
第1問
くじA: 確実に1,000円がもらえる。
くじB: 10%の確率で1,200円、
89%の確率で1,000円がもらえ、
1%の確率で何ももらえない。
あなたは、AとBのどちらを選択しますか?
第2問
くじC: 11%の確率で1,000円がもらえ、89%の確率で何ももらえない。
くじD: 10%の確率で1,200円がもらえ、90%の確率で何ももらえない。
あなたは、CとDのどちらを選択しますか?
この金額設定はモーリス・アレのオリジナルよりもよく出来ている。
みずほ証券と一橋大学の共同研究ノートがわかりやすく解説してくれている。
付言すると、それぞれの1回試行期待値は
くじA:1,000円(当然!)
くじB:1,010円
くじC:110円
くじD:120円 となる。
ここで期待値の計算以上に、または期待値を示されても、くじAが選ばれるとすれば、「期待効用理論」における「確実性効果」が高い事がわかる。
こうした一見不合理な人間の行動、選好は、ダニエル・カーネマンやエイモス・トベルスキーなどが提唱した「行動経済学」として知見が深められている。岡部光明氏が言うように「経済学は今後、人間行動に関する前提を見直す」に当たって、漠然とした「人間には利己心のほか利他心もあることを考慮にいれる」などとする方向性や「魂の学」などという胡乱な遊戯とは関係ない。
人間の祖先と言える「げっ歯類」が現れたのが新生代古第三紀(約6600万年前~約2300万年前)だそうで、その頃から天敵に囲まれた貧弱な げっ歯類は餌を求めてさまよいながら、危機を感じたら即座に逃げ回る必要があった。自分の周囲で物音がしたなら、それが風のいたずらか、天敵の接近かなど、正確に知る必要はなかった。逆にそうした「事実」に興味を持って、物音の発生原因を突き止めようなどとする個体は生き残れなかっただろう。結果としてちょっとした危険に対して、必要以上に敏感で、思い込みに左右される個体が生き残ってきた。逃げる必要などないような事象においても、臆病に逃げるという行動を起こせた個体がより生存可能性が高かったのだろう。そこでは真実を見極める能力などより、不確実でも断定できる愚かさのほうが優位であったと言える。6600万年慣れ親しんできたこうした臆病な脳の不具合を、ちょっとやそっとの注意、訓練で解消できるわけがない。しかし現代に至り、人間はここまで自分を理解できてきており、こうした認識の歪みから解き放たれて、社会や行動を構成しうる。
そうした営為に背を向け、合理的思考の可能性を否定するとすれば、文字通り「賢い生き方」とは言えないだろう。
(続く)
追記(1):
河村たかしが市内で「河村政治塾」を開いたようだ。
1.河村たかしが市政でどのような実績を上げたのだろうか? 耳を傾ける価値がるのか?
2.河村の主催した塾などから公職者となった前例が、名古屋市議会などにある。
この塾の参加者はそうした「前車の轍」を見ないのだろうか。
3.中日新聞を始め、地元メディアも、そうした事例をなんとも思わないのだろうか?
日本保守党が「詐欺的である」と批判を受けているが、漫然と広報するメディアは
同罪であるともいえる。
4.罪がある。それは塾参加者が騙されるという意味だけではない。
そこから少なくない公職者が生まれた場合、被害を被るのは誤情報から付託を行った
有権者、住民であることを考慮しなければならない。
※参加者の半分は日本保守党支持者だそうだ。
日本保守党と言えば、飯山陽や藤原信勝などに批判され「詐欺だ」などとも論評されている。
実際に総選挙の際の公約と、現在河村などが行っている行動に整合性はない。
次の「追記(2)」で「政治的議論の場において、(略)嘘を振りまくものを排除すべきだ」と主張したが、そうした虚偽についても説明がないまま由とする姿勢は、政治の混迷を深める結果となるだろう。そしてそれは日本社会を弱く、貧しいものにしていくだろう。
追記(2):
昨年11月に兵庫県議を辞職した竹内英明氏が亡くなった。
死亡原因は明確になっていないが、自殺であったと報道されている。
この「自殺原因」(自殺であったかも推量でしかない)を巡って、立花たかしなどが、「竹内元県議は逮捕される予定だった」などとする推測を振りまいて、兵庫県警はわざわざこの噂を打ち消している。
噂や風聞、偏見をもとに主張を展開する者には警戒しなければならない。
事実や、根拠を示さない主張に耳を傾けるのは無駄だ。
特に、社会や公的な意味をもたせる政治的議論の場において、不確かな根拠を持ち出すもの、嘘を振りまくものを排除すべきだ。
日本社会は一体いつまで 立花たかし を放置し続けるつもりだろう。
河村たかし についても 発言について、裏を取っていないような話は信じるに値しない。
そして、呆れることに中日新聞ですら、河村たかしの嘘を平気で掲載する事に注意を払う必要がある。(正月の一面にのった、「あおなみ線延伸して、中部国際空港に乗り入れ」は笑えたが)