市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

あいトリ 知事ー市長意見交換(問4)

<<920河村質問>>
<<115知事回答>>
<<118河村見解>>

<<920河村質問>>


4.「検閲」概念を誤用・濫用しているのではないか。


【問4】「大村意見」では、本件企画展の規制の問題について、憲法21条2項が禁止する「検閲」概念をもちだして論じられているが、本件は「検閲」とは全く関係のない問題であり、「検閲」概念をもちだすのは不相当ではないか。


【質問の趣旨】「大村意見」では、「憲法21条2項にいう『検閲』の解釈については様々な解釈がありますが」云々と述べられているが、「検閲」概念は、最高裁大法廷判決によって、明確な定義されており、既に社会的に確定・定着している。すなわち、憲法21条2項にいう「検閲」とは、「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるもの」(最高裁昭和59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁)という解釈が確定しており、本件企画展の場合、「県立美術館の安心・安全な管理運営」の面から、本件企画展に寄せられた「肖像画・焼損映像」のような作品の展示を中止したとしても、他県の美術館での展示や、「作者自らの資源を用いて表現活動を行う」ことを何ら妨げるものではないから*1、「検閲」に当たらないことは、上記大法廷判決の趣旨に徴して明らかであると考えられる。


「大村意見」に記載のある、「もし事前に展示内容を審査し、そのような理由(本件展示の内容が「日本国民の国民の心を踏みにじるもの」といった理由)で特定の展示物を認めないとする対応をとったとすれば、その展示物を事前に葬ったとして世間から検閲とみられても仕方がなく」云々との見解は、貴職独自の見解であって、現に、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」(以下「検証委員会」という。)の委員であり、京都大学大学院法学研究科の曽我部真裕教授(憲法学)も、インターネット上で公表されている「弁護士ドットコムニュース」で、河村市長が、貴職に中止を申し入れた行為は、「憲法でいうところの『検閲』にはあたりません。」と明言されている。*2


以上のとおり、貴職のように憲法21条2項の解釈を歪曲して、「検閲」概念を誤用することは、「検閲」概念の歴史的意義を見失い、その禁止の絶対性を相対化させてしまう危険があることから、厳に慎むべきものと考えるが、いかがか。

<<115知事回答>>


【問4について】


「検閲」という概念を用いることが不相当とは一切考えておりません。最高裁判例(昭和 59 年・札幌税関事件)についてはもとより承知しておりますが、中間報告書では、「首長もキュレーションの自律、美術館の自律性の尊重が求められ、それに反して介入する場合(とりわけ、作品内容を理由として介入する場合)には、表現の自由の原理からして問題がある(広い意味での「検閲」とも言いうる)。」とされております。公職にある者は、公務員の憲法尊重擁護義務(憲法第99条)の観点からしても、「検閲」と受け取られても仕方ない表現の自由を侵す行為や、それに繋がりかねない脅かす行為については厳に控えるべきと考えております。


なお、曽我部教授は、ご指摘の 2019 年8月6日付け「弁護士ドットコムニュース」で、「河村市長(略)は中止させる権限を持っているわけではなく、実際にも中止の理由は、市民の抗議が度を越した状態になったということなので、決定的な理由となったわけではなく、憲法でいうところの『検閲』にはあたりません。ただし、不当な介入だという程度の意味で『検閲』だというのであれば差し支えはありません。実際、市長は実行委員会の主要メンバーでありますし、(略)その発言は大きな圧力となりえます。本来は大村秀章知事の言うように、展示内容に口を挟む立場にはないはずで、不当な発言でした。」と述べておられます。


また、今回の貴職からのご質問に対して曽我部教授からは、「トリエンナーレの運営に権限や影響力のある政治家の発言は、行政(を担う者)によるものであること、表現の内容を理由とすること、事実上強い圧力となる効果をもつこと、からして、最高裁のいう検閲の定義に当たらないにしても一定程度の近似性があり、これを『世間から検閲とみられても仕方がなく』という表現で批判することは十分可能だと思います。」とのご意見を頂いております。


貴職はご自身に都合の良い部分だけを切り取って引用されておりますが、曽我部教授のご発言の主旨をきちんと受け止めていただきたいと思います。


www.bengo4.com

<<118河村見解>>


【問4】に対する回答について


【問4】は、公共事業の主催者となった地方自治体(愛知県)が、公共事業に反するという理由から、特定の県立美術館での公金を使った作品展示を拒むとは、日本国憲法が禁止する「検閲」に当たらないというのが私名古屋市長の見解であり*3最高裁判例を重視するあらゆる法律家にとって異論のないことだと思われますが、「検閲」でない事象について、貴職のような地方公共団体の長が、「検閲」に当たると強弁する*4ことは、法律概念を正しく理解しないもの*5として、著しく不適切ではないか、という趣旨の質問です。


貴職は、「中間報告」の内容を引用して、「キュレーションの自律、美術館の自律性の尊重」の趣旨に反して、芸術に介入することは、「広い意味での『検閲』とも言いうる」と強弁されています*6が、私は、個人的*7には、検閲の歴史的意義と、その禁止の絶対性という社会的意義を無視した用語の転用*8は、厳に慎むべきものと考えております。*9貴職は、「不当な介入だという程度の意味で『検閲』だというのであれば(『検閲』概念の使用は)差し支えはありません。」という曽我部教授(京都大学大学院教授)の見解を援用されていますが、曽我部教授の当該見解は、同教授独自の見解であり*10、「検閲」という厳格な定義のある学問的概念を不当に歪曲して、対立する見解をもつ批判者(具体的には、私名古屋市長)をイデオロギー的に攻撃する「道具」として使用することを是認する曽我部教授のような意見については、憲法学者の見識としていかがなものかと思われます。*11


さらに、貴職は、曽我部教授の意見である、「トリエンナーレの運営に権限や影響力のある政治家の発言は、行政(を担う者)によるものであること、表現の内容を理由とすること、事実上強い圧力となる効果をもつこと、からして、最高裁のいう検閲に当たらないにしても一定程度の近似性があり、これを『世間から検閲とみられても仕方がなく』という表現で批判することは十分に可能だと思います。」との意見を援用されていますが、このような曽我部教授の言葉は、そのまま貴職にお返しします。貴職の論法を前提とすれば、貴職が前記「特定表現自由展」に対して公表された批判的コメントに対しても、『世間から検閲とみられても仕方がなく』云々との批判がそのまま妥当し、まさに「天に向かって唾を吐く」ものと言われてもしかたないと思われます。*12

良い子の文章添削教室。

本日のお題は次の文章

「【問4】は、公共事業の主催者となった地方自治体(愛知県)が、公共事業に反するという理由から、特定の県立美術館での公金を使った作品展示を拒むとは、日本国憲法が禁止する「検閲」に当たらないというのが私名古屋市長の見解であり」

の部分について検討してみようと思います。この文章は、

「【問4】は - 私名古屋市長の見解である」と言っています。

どのような見解かというと。

地方自治体(愛知県)が - 公共事業に反するという理由から - 作品展示を拒むことは - 「検閲」に当たらない」

という主張を言っているのですが。

間接的な主語となっている「地方自治体(愛知県)」にかかる「公共事業の主催者となった」や、目的語である「作品展示」に修飾される「特定の県立美術館での公金を使った」及び、「検閲」を修飾する「日本国憲法が禁止する」という言葉によって冗長になり、意味が取りづらい文章となっています。

さらに、そもそも文意に齟齬があります。
書いているヒトも、自分でもわからなくなっちゃったんでしょうかね?

論点である「検閲」は、どの行為を指して言われているのかというと。

曽我部教授の意見から引くなら「河村市長が、貴職(大村知事)に中止を申し入れた行為」であるはずですが。

上記の構造解析を見ると、「地方自治体(愛知県)が - 作品展示を拒むこと」になって、あたかも河村市長はそれを間接的に「申し入れただけ」であるかのようにも受け取れますね。

こんな腰が引けたような、最初から責任回避するかのような、意識が、こうした修飾語の多い、文意を掴みづらい文章を生み出してしまったのでしょうかね?

添削例としては次のようになるでしょうか。


「【問4】において私名古屋市長は、愛知県が作品展示を拒むことは「検閲」に当たらないとの見解を示しております。

公共事業の主催者である愛知県(地方自治体)が公金を使った県立美術館での作品展示に対して、公共事業に反するという理由からそれを拒むことは、日本国憲法が禁止する「検閲」には当たらないとの見解です」

主張は歪めていませんよね、理解しやすいと思います。そして、論点から「河村市長が(略)中止を申し入れた行為」がスッポリ抜け落ちてしまっていることがわかり、全体の文意が掴みにくい理由も理解できます。

論点から自分の行為を隠蔽しているわけです。
河村市長の言動には、こういった傾向が見られます。つまり「都合が悪くなると、自分を前線から逃がす」わけです。

何を怖がっているのでしょうか。

あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2における表現の自由とヘイトスピーチの誤解)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問3)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問4)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 阪口論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 奥平論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問6)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問7)



*1:そうだろうか、なんとも無責任な態度ではないのだろうか

*2:ここは、以下の大村反論に任せますが、完全敗北を認めるべきだろう

*3:何? この文章

*4:「検閲とみられても仕方がなく」と言っているのであって「検閲である」とは言っていない

*5:法律概念の前に、他人の発言を正しく理解できておりませんね

*6:発言主体は「中間報告」

*7:「中間報告」という努めて客観的であろうとする大村知事に対して反論するに、個人的主観を持ち込むというのは、幼稚な行為だ

*8:だから、そうした行為を行っているのは、自分であるとなぜ判らないのだろう

*9:ここから、「歴史に残る」レベルの恥ずかしい暴論が出てきます

*10:おいおい、先に引用したのはどっちだ。怖くなるぞ

*11:皆さんも、自分が持ち込んだ「権威」を、後出しで否定するような恥ずかしいことはしないように注意しましょう

*12:大村知事が「特定表現自由展」を批判した理論には、そうした自己撞着など無いことは「問2における表現の自由ヘイトスピーチの誤解」において詳述した