市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

事実に立脚した議論を

伊藤某さんの裁判で判決が出されたようだ。

www.huffingtonpost.jp

こうした問題は微妙な要素があることだろう。
誰も本当のことは判らない。下手をすれば当事者だって判らないんじゃ無いかと思う。

それだけに、訴えた側が主張することが全てであるとか、訴えられた側が一方的に悪いとか。推測でモノを言うことは控えるべきで、そこで迂闊にモノを言うか否かで、その人物の「リアリティライン」が判る。(しかし、山口某の記者会見を見て、少々モノが言いたくなったので、欄外に述べる)

まあ、それでもこうして判決が出たということは、社会的にはこの出来事の、一定の「事実」が認定されたということだろう。(まあ、確定ではないかもしれませんが)

実は私のメモには、この判決期日が記載されていました。
なぜかといえば、この裁判に注目していたからです。

それは、 #MeToo 運動に興味があったからでも、この加害者とされる山口某や安倍首相を「許さない」からでもない。

この裁判で、山口某の代理人を務めているのが、愛知県弁護士会の北口弁護士だそうだからだ!

そして、その北口弁護士こそ、私が関わっている名古屋城裁判(河村城裁判)で、名古屋市側の代理人を務めている弁護士なのである!!


なんでも北口弁護士は、この裁判に絡んで、伊藤某さんへの誹謗中傷をブログに書いて、愛知県弁護士会から「懲戒審査相当」との判断が出されたそうだ。

www.sankei.com

札弁主催のフォーラムに係争中のパネラーがいるから『大丈夫か』と電話をし自分のブログに当時者の主張を投稿し「懲戒相当」となり自分は大丈夫でなかった?愛知の弁護士 – 弁護士自治を考える会

mybouzu.info

北口弁護士はブログ記事で被害女性である伊藤某について「過度に侮蔑的な表現を頻繁に交えながら具体的詳細に述べた」(県弁護士会綱紀委員会)らしいのだが、その理由は「虚偽の事実の宣伝広告によって男性の名誉が毀損されていることに対する正当防衛」なのだそうだ。

う~ん、判らない。

綱紀委は「男性弁護士(北口弁護士)の主張によっても男性の社会的評価はすでに低下しているため正当防衛には該当しない」と判断したそうだ。そうだろうなと私も思う。

これによって、北口弁護士に「懲戒」が出るかもしれない。

北口弁護士ほど "優秀" な弁護士を失うのはなんとも惜しいので、なんとか軽い結果が出てくれることを願ってやみません、ましてやこれを期に名古屋市側の代理人が交代するなどという事がないように、祈っております。

先日、東京の日本ペンクラブでですかね、河村名古屋市長が「あいちトリエンナーレ」の件で記者会見を開いたようですが、この席でも北口弁護士は同席していましたね。(会見後津田っちと名刺交換していたようですが)


なんでも、今回「あいちトリエンナーレ」問題で、これほど河村名古屋市長が発言を続けるのは、後ろに北口弁護士が居て、河村名古屋市長が大村愛知県知事に提出している質問状なども、北口弁護士が書いているという観測もある。

するって~と、ここで

河村たかしの公開質問状について - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

「引用判例を間違えてる」と指摘して、「法学部出身なんだろうか?いや違うだろうね。こんな判例の参照は学部生でもしないだろう。」なんて失礼な事を申しましたが、東大法学部から、最高裁判所研修生であらせられた北口弁護士の書かれた文章であった可能性があるんでせうかね?

まあ、いいや。

さて、ここでちょっとおもしろい情報が私の耳に飛び込んできた。

なんでも、最近トミに「ネトウヨのカリスマ」と目されている高須克弥氏が
自分の私財を全て擲って、大村知事のリコールを行うと主張しているようだ。

大丈夫なんでしょうかね?
高須氏は最近、第二次世界大戦の南方戦線に従軍して、片腕を失う体験をされた水木しげるさんを「落伍兵」と批判して、軽く炎上もしている。

togetter.com

matome.naver.jp


戦争の現場に居たヒトを、平和な後の世から評価するというのは、よほどの根拠がなければできることではないが、「パプアニューギニアの現場検証」をしたからと、その狭い視野の中から水木しげるさんを批判できると思える傲慢さはどこから出てくるのだろうか?(お母様も草葉の陰で心配されていることでしょう)

余計なことをいうと、私は付き合う男性でキャラクターが代わる女性が哀れに思える。
あまりに自我が脆弱じゃないか。ましてや付き合う女性で性格が変わる男性というのは、底が浅いというか、なんというか。まあ、余計なことだった。

この高須克弥氏の私財で大村知事のリコールが行われるとすると、その実現度はどの程度だろう。
愛知県内の有権者数は約620万人。

集めるべきリコール署名数は87万5千人程度となる。
これを2ヶ月間で集めることになる。

ただ、これは住民投票を求める署名となり、本当に知事を解任しようとすれば、その住民投票過半数を獲得する必要がある。もちろん、住民投票の経費は県民の公費となる。

過去に市町村長のリコールが成立した件数は19件だそうだ。住民投票を行ったものの過半数の賛成を得られず不成立だったのは4件で、都道府県知事でのリコール成立事例はない。

こうした住民投票直接民主主義の実現に見えるが、実はそんなものではない。
結果としてポピュリズムの弊害が現れる「プレビシット」にしかならないと、当ブログでは平成23年に指摘しているが、元愛知大学、現在沖縄大学におられる小林武氏も分析をされている。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

住民投票制度のプレビシット的運用⑴ 小林武

名古屋市において河村たかしによって煽られ、実現した「名古屋市議会リコール」が何を生み出したのだろうか?

結果としてくだらない議会劣化を生み出しただけであり、市政の停滞は目を覆うばかりだ。(地域委員会、誤った減税政策、相生山問題、そして名古屋城の問題や名古屋市における学校給食の劣化。それらも問題のほんの一部でしか無い)

そして、その市議会リコールによって集められた署名簿は、流出を起こし、その原因である減税日本河村たかしには反省もない。本当に、市民の署名をなんと心得ているのだろうか。ヒトの心を踏みにじる行為を繰り返して恥じない。

追記:署名簿の流出も大問題だが、その後、問題を報告した後にも、中村孝道元市議の事務所に「放置」してあった署名簿が存在していた。
さらに、署名収集時に、河村事務所において署名簿が1箱紛失していたという事例も報告されている。
また、11万人の署名が無効になりかけた事情は、河村事務所が制度を理解していなかったからであり、その11万人分においてはおおよそ非現実的な主張によって適法と無理強いさせても居る。
さらに、署名収集時の違法行為も複数報告されており、結果としてなんの為の署名であるか理解せずに署名した人々も多い。
この署名簿を作成する際に、河村たかし名古屋市長は氏名と住所だけで十分なはずの記載事項に「電話番号」を加えるように要請したそうだ。つまりは、選挙の際の「電話作戦」に利用しようとしたのだ。
河村たかし名古屋市長の行動は、時に理解しがたく見えるが、「選挙」を軸に眺めてみると、よく理解できる。参議院選挙なども敗北の連続だが、それでも立候補者を立てる。その理由は「選挙」それも「自分の選挙」の為であると解釈すると、合理的な判断であることがわかる。きわめて合理的で、利己的な判断だ。


最近の話題としては、平成28年の4月に議会リコールを求めて署名が集められたようだが、結果としては不発に終わった。もう一度言おう、なんの効果も産まなかった。結果としては参議院選挙に向けての河村たかし一派の選挙に利用されただけだろう。(つまり、リコールの成果や運動そのものはどうでもいい。それによって河村の名がメディアに載り、それによって若干なりとも参議院選挙の票を動かそうとしているに過ぎないだろう)

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

河村たかしにとって(知らない間に、敬称を除いていますね、自分)全ては選挙のための行動でしか無い。名古屋城の問題やあいちトリエンナーレもそうだ、それらが問題となりメディアに自分が載ればいいと考えているだけだ。本心では名古屋城を木造化など、実現しようがしまいが関係ないし、あいちトリエンナーレの問題など、何も考えていないに等しい・・・論点が少女像から天皇コラージュにずれていく様子も、何も考えていない証左だ。

河村たかしは、あいちトリエンナーレについて、あれだけ騒いで、では何をどうしたいのだろうか?単に自分が気に入らないということを「気に入らない」と言っているだけに過ぎず、こんなものは大人の、ましてや政治家のやることではない。9歳児の行動だ。

その9歳児の選挙基盤の為に、高須克弥が私財を擲つというのなら、それはそれで見ものだ。残念でしたね、西原さん。ぐらいしか言うことはないだろう。

引っ掻き回される県民こそいい面の皮だが、ネタになるメディアは大喜びだろうし、在特会の周辺組織も喜ぶことだろう。そして何より、この数億円の予算を商売にする者たちは、よだれを垂らして居るらしい。

本当に、河村たかしは、この名古屋に何を生み出したのだろうか。結果として健全な政治や市民運動の基盤を毀損させ、名古屋市の市政から議論を、熟議を奪っている。

そして、その河村たかしを生み出したのは、マスコミであり、有権者だ。

民主主義は、現代社会において最高の制度であると思っている。それは独裁政治や寡頭政治よりも優れているだろう。しかし、時としてその制度が生み出す社会は最低のクズにもなる。つまりは、最高の制度でも、最低のクズを生み出すのであり、制度だけで成果が得られるわけではないという当たり前の結果を目にしているに過ぎない。最高の制度から、最高の結果を得るためには、その制度を有効に「まわす」構成員が必要となるのだろう。

それには、熟議が必要であり、そこから「虚言」を排し、事実に即した議論を行わなければならない。

追記:
札幌であいちトリエンナーレ、表現の不自由展・その後の騒動を踏まえて、企画展「北海道・表現の自由と不自由展」が開催されたようだ。

www.chunichi.co.jp

札幌で「表現の自由と不自由展」 愛知芸術祭踏まえ、21日限定
 愛知県で開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が一時中止になった騒動を踏まえ、身近にある不自由について考えてもらおうと、北海道内の有志でつくる実行委員会が21日、札幌市の施設で企画展「北海道・表現の自由と不自由展」を1日限定で開いた。

 実行委によると、約10団体が参加。元慰安婦を象徴した「平和の少女像」のミニチュアや、7月に札幌市で安倍晋三首相の演説中にやじを飛ばした聴衆が排除された問題を振り返る映像を放映するほか、アイヌ民族の権利を訴える展示も。

札幌で「表現の自由と不自由展」 愛知芸術祭踏まえ、21日限定:社会:中日新聞(CHUNICHI Web)

河村たかしの行動が、「図に当たった」形となってる。
つまり、ああいった「(形式的な)反対行動が」こうした展開を生み出し、こうした展開がまた新たな「反対行動」を生む。問題は拡大、拡散するばかりで、何も解決などされない。
しかし、河村たかしのような扇動家には、こうした状況こそが目的であり、「飯の種」になる。
北海道におけるこうした展示へ「反対」する者たちは、河村たかしを呼んで講演会でもするかもしれない。

反対運動をするなと言っているわけではない。
何が目的であり、その目的のためにはどのような行動をするべきなのか。もっと理性的で民主的な方法を取らなければ、扇動家に任せ、感情の赴くままに動いていては、却って状況は悪くなると言っているのだ。

これは、北朝鮮における拉致被害者の問題にも共通する。
合目的的な行動を、粘り強く続けられる者が、本当の政治家であり、問題を先鋭化し、対立を深めさせ、解決を遠のかせるものは、政治家ではない、単なる扇動家に過ぎない。




欄外に述べるいいたいモノ:

この出来事について、具体的にアレコレ推測でモノを言う気はない。
私の目の前に見えた、加害男性とされる山口某について言いたい。

覚悟がなさすぎる。

取り敢えず、「ヤルことはやっちゃっている」ってのは認めているようだ。

よしんば、「ハニートラップ」であったとしよう。
しかしそれでも、その判断をしたのは誰か。自分ではないのか?それならば、その結果を引き受ける以外にない。

ヤルことをヤルっていうことは、その人物に人生なり、命なりをかけるってことだろう。

こんな事言うと、あまりに「重い」とか「ガキ臭い」と言われるかもしれないけれども、例えば異性を一時の性欲を晴らす「道具」のように扱うということは、その人物はその程度の人物であるという事だ。その評価を甘んじて受け入れなければならないだろう。

こうした事情には、男女で明白な相違がある。
やっちゃった結果、女性は人生を左右する結果(妊娠→出産)を引き受けなければならない可能性がある。

ならば、男性も同等の結果を受け入れる覚悟がなければ「手を出す」べきではないだろう。その相手とともに、或いは地獄の業火に突き落とされても仕方がないというような覚悟がなければ「手を出す」べきではない。地獄の業火の覚悟があるからこそ、天国の愉楽を味わえられるのだろう。一瞬の天国の愉楽のために、永遠の地獄の業火を厭わない。その決断の瞬間こそが、最高のエロティシズムの筈であって、これを乗り越えない人物には、ヒトとして人生に用意されたエロティシズムを味わうことはできない。

自分の判断を受け入れ、その責任を引き受けることこそが「自由」なのであって、事が至って責任を求められた時に、それを回避するのであれば「放佚」でしかなく、自由を享受することはできない。言葉を替えるのなら、様々な関係の束を失うかもしれない。そうした事を自覚しつつそれでも決断をするから行動を味わえるのであって、決断にまつわるこうした関係を無視し、耳をふさぎ目を閉じてしまうのであれば、同時に行動に伴う享受も受けることはできないのは当然だ。自由と放佚の差はここにある。

こうした覚悟の自覚がない。覚悟の自覚がないもの、自我のないものの主張は聞くに値しない。山口某の髭面もスケベ臭かったが、その髭をそったのっぺりした面が、なんともこの覚悟の無さを表しているようで、日本の文化を浅くしているように思えてならない。

恥知らずが多すぎる。