市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

減税日本の病巣

 前回、政治的議論では事実を元に話さなければならないと主張した。そして哲学を心得なければならないと。哲学とはなにかといえば、それは「テキストクリティーク」の事であり、批判する精神こそが現代文明を支える基礎であり、徹底的な批判をくぐり抜けていない言明には意味はない。

 何か頭で思いついても、様々に思考し、批判に晒した後でなければ言明すべきではない。(または、意味のない言葉として言明すべきだ)

 例を引くのであれば、選挙の際に対立候補の掲げた「商品券配布政策」を「バラマキだ」と口に出して批判する前に、その批判は正しいか考えるべきだ。単に思いつきで「聞いた風な批判」を行っても、我が身に帰ってくるだけだ。更に、その政策が有権者に受けているとみて、追従しようと「30%キャッシュバック」などと口走る前に、その実現性について考慮し、自己批判しておくべきだったろう。

 人間はすべて頭の中で一旦考える。考える時には言語を使い、論理を使う。論理的思考を経ていない言明は客観性を持たず、説得力もなく、普遍性もない。言語化できないような感覚の世界の問題は、政治的文脈には乗らない。そうした課題領域も政治的文脈に乗せようとするのであれば、言語化され、客観化されなければ議論できない。

 人間を突き動かすのは論理ではない、という人がいる。確かに人を動かすのは情動だ。しかしその情動を律するのは論理であり、社会性を獲得させるには法に準じさせねばならない。ほしいままに情動を開放させることは社会人にはできない。

 論理的思考は万能ではないとの指摘もある。(その指摘もまた、論理的論考なのだ)確かに、そうだ、人の情動は論理だけでは測れない。しかし、法と論理に収められていなければ、社会的言論とはならず、客観性を持ち得ない。ある者は「論理的思考とはレゴブロックのようなもので、物事を因数分解(これは、「要素還元」という言葉を使ったほうがより正確だろうが)して、それをらしく並べてみせるだけで、レゴブロックで作られた車や船は、それらしく見えるが、ディテールがゴツゴツしているように、そのものではない」と批判する。論理的思考がすべての細部まで語り得ないとの批判だ。(これは、実は論理的思考の批判ではなく、論理的思考が徹底していないとの批判であり、より徹底させよという主張に行き着く)

 確かに、論理的思考には限界がある。言われるまでもなくゲーデルによって不完全性定理が証明されており、無矛盾な言明はなし得ない。またこの世にはプランク定数があり、人間はプランク定数がなぜプランク定数なのか知らない。知には限界がある。

 しかし、であるからすべての言明には批判が可能であり、必要となる。何某かを決定論的に語る言明には必ず不備がある。それ故、保守主義者は何某かの論理を掲げて、この社会を性急に変革しようとするものに批判を加え、懐疑を投げかける。

 「王政を打倒して民主革命を起こせ」「世界史上最も偉大な民族であるゲルマン人による人種革命」「科学的唯物論による共産革命こそ正しい」「天皇を中心とする神の国」「大阪府市を合体させて大阪都にする」これら社会設計思想を否定する態度が保守思想であり、政治哲学の態度だ。

 論理は不完全であり、人間の知には本質的に不備がある。しかし全てが不条理というわけでもない。前提を設け、その前提の中で、一定の言明は無矛盾を構成でき、真実とし、客観性を維持できる。ユークリッド幾何学では三角形の内角の和は2直角を表し、その前提の下、我々は文明を築き得る。飛行機が飛び、経済が成立し、医薬品が効果を見せるのも、それぞれの領域(前提)の中で論理的に主張できること(科学的知見)が成立するからだ。

 ヒトは非論理的で情動に支配される生き物である。しかし社会性を維持し、客観的な議論によって相互の生存を諮っていこうとするのであれば、言語化し、論理的に思考できねばならないし、そこに嘘を紛れ込ませれば必ず矛盾が生じ、破綻が起きる。

 更に政治的言明においては、主観性を排するべきである。自分の欲望や希望を主張する前に、社会全体の利益、共通の利益を考慮しなければ、共感は生まれず、組織、社会も成立しない。

 河村たかし減税日本の根本問題はここにある。

 これも河村たかしの浅学を表す逸話だろうが、河村たかしは「仁徳天皇」の逸話をよく口にする「民の竈」だ。河村は自らの「バラマキ行政」を肯定する論拠として、この逸話を引いているが、この逸話の要諦は最後にある。つまり、民の竈が十分温まるまで、仁徳天皇は自らの事は顧みなかったのである。ヒトの上に立つものは、自分のことよりも先に民のこと、社会全体の利益、共通の利益を考慮しなければならないとの教えだ。

 しかし、河村たかしは理解していない。最も顕著な例は、市長記者会見や市議会において、河村に異論が示された場合に、不満も顕に言う言葉「僕はそうは思いませんがね」だ。自分の主観を述べ、それを押し付けようとする。なんとも幼稚な態度、これは仁徳天皇の逸話からは、かけ離れた在り方であることは明白だ。民の意見より、自分の意見、民の感じ方より、自身の主観に拘束されている。河村が尊重する「民意」は自分が同意できるものに限られる。逆を言うと河村は自身の主観を押し付けるために、「民意」を使うに過ぎず、自身の意見と合わない「民意」は無視をし、隠蔽する(実例:名古屋城跡保存活用計画に対するパブリックコメント)。このような者に公職者たる資格はない。

ombuds.exblog.jp


 佐藤夕子も同様だ。河村と同じように「自分ファースト」である。

 佐藤夕子減税日本ゴヤ市議団に乗り込んできてから、いよいよ減税日本はヘンテコなことに成っている。1年も経たずに7人の幹事長が変わるなども異常だが、そもそも他会派と交渉できないなどという議員が、いったいどう政治を行うことができるというのだろうか。政治家にとって交渉というのは、料理人で言えば包丁を扱うようなものだろう。包丁も扱えないような料理人は料理人とは言えない。交渉ができない政治家など、政治家と言えない。

 この当たりの具体例は、
ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 佐藤夕子の委員会討論を見ていると気が付かされる事が幾つかある、この内ここでは2つだけ指摘しよう。根本的な問題についてはヒントすら与える気はない。気になる方は当ブログの過去ログにある、立花隆氏の発言が参考になるだろう。

 1つ目が、佐藤夕子が度々見せる「俯瞰の議論」だ。何か議論している時に、それを俯瞰から見たような漠然とした論点を展開する。

 本来であれば、議論をどんどん具体的な物に詰めていくべき時にも、そんな事は委細構わず俯瞰視し、論点をぼやけたものにする。特に注意を引くのが、そうした論点を外した議論を展開しつつ、本人は満足げなところがある。これは推測なんだが、佐藤夕子はああした行動を取ることによって「あなた達は、枝葉末節な議論に終始しているけれども、この私はもっと高い視野からこの問題を捉えているのよ」とでも言いたいのかと思えてしまう。実際には、そんな前提の議論はすでに終わっているから、具体的で実効的な議論を詰めたいのに、混ぜっ返すように前提に、全体構造に議論を持っていく。

 これは、減税日本ゴヤにいた「東大生市議」も同じ傾向があった。結論に行き着きそうになると「それは大切な論点ですね、ぜひ一度勉強会を実施したい」だとか「プロジェクトチームを作って話を詰めてみたい」って、そもそもそんな事しなくても、もはや議論の出口は見えているのに。と何度も思ったものだ。(当ブログの過去ログ、投稿欄に、「議会報告会」の費用負担についての議論が残っている)

 議論するのは好きなんだね。結論を出して実行に移すのは嫌い、またはできないんだ。

 つまり、居酒屋政談。無責任な井戸端会議のように、お話するのは楽しいけれど、実態的な問題、課題が浮き上がってきて、それに対して実効的な行動を起こすのはできない、やらない、やり方を知らない。

 こういう人がいると、いつまで経っても問題が解決しない。

 次に気になるのが「自己正当化」の議論だ。特定の事柄を話す時に、その自分の主張の論拠を話せばいいだろうに、それに係る自分の位置を説明する。つまり、自分はその事柄を話すだけの行いをしている、意見をいう正当性がある、その自分が「主観的に」こう思うのだから、それは正しい。とでも言うような理路で立論していく。いやいやいや、どんな権威であろうと、今までの正当性から、今回の正当性を主張するのは「類推」でしかなく、論理的には正しくないから。自己正当化には価値がないのに、それを続ける。更に面白いのは、その事柄への批判よりも、佐藤夕子の正当性への懐疑に対してより敏感に反応し、論点である事柄のことなどおいておいて、自身の正当化に血道を上げる。

 田山市議でも「ギャーギャー言う」と評価するのは無理がない。

 うーん、なんとなくバカバカしくなってきた。佐藤夕子の議論を分析していると、見事なまでに没論理の恐ろしさを感じさせる。人間は言葉を使い、論理を組み立てて思考すると言った、このような粗雑な言語定義と混乱した論理構成でしか話せない人物というのは、同時に粗雑な言語定義と混乱した論理構成でしか考えられない。それではやることなすこと支離滅裂になるのは当たり前だ。

 減税日本は、こんな混乱を今後も抱えていくのかと思うと、笑いが止まらない。

 さて、これ以上減税日本にヒントを与える必要もないだろうから、今日はこの程度にしておこう。

 美濃加茂市の藤井元市長の再審請求が出されたそうだ。この事件は実は減税日本と深く関わっている。ある意味、藤井元市長は河村たかしの被害者とも言える。政治のリアリティラインを引き下げ、ぽっかり空いた穴に落ちてしまったのが藤井元市長であったように思える。リクエストにお応えして、どこまで書けるか分かりませんが、この問題について書いてみます。