名古屋市長河村たかしの嘘と詭弁を公共の場において否定しなければならない。名古屋市長河村たかしの嘘と詭弁を名古屋市政から排除しなければならない。なぜなら、嘘や詭弁によって名古屋市政が歪められていくならば、名古屋市政による福祉を期待する人々。➖➖眼前の感染症対策、生活困窮者への支援、高齢者や身体にハンディキャップを持った人々への公平な社会実現➖➖こうした基礎自治体としての機能が、嘘と詭弁で歪められていくからだ。そのためにも、名古屋市長 河村たかしの 嘘と詭弁を名古屋市民に広く知らしめる必要があるし、地元メディアである中日新聞は、名古屋市長河村たかしの嘘と詭弁という「事実」を名古屋市民に知らせる義務がある。
先日、中日新聞を読んでいて呆れた。名古屋市長河村たかしを生み出したと言っても過言ではない「河村市長の提灯持ち記者」が、その河村たかしがろくな議論もなく停止した政策について「停滞である」と批判を加えていたからだ。
誰が、どの口で言うのかと呆れ返った。
追記:
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しかし、そんな過ぎ去った過去はどうでもいい。それが停滞であるというのであれば、是正すればよいし、その決定に至った背景を反省すればいい。早い話、名古屋市長として河村たかしを排除すれば、その政策課題も結論をみるだろう。幸いにも名古屋市は4月には市長選挙を迎える、それまでにこの河村市政12年を再検証し、市民に「嘘と詭弁」という実情を伝えれば良いだけだ。
このブログに「リコール署名の疑惑について」と題された文章がある。掲載日は2011年6月6日で、すでに10年ほど前の文章となる。
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これは今、騒動になっているリコールについて「予言」を行った文章ではなく、当時、河村市長の煽動で行われた「名古屋市会に対する議会リコール」についてその疑惑を掲載したものだ。
当時も大量の無効署名が存在し(多くは、受任者未記載の署名)名古屋市選挙管理委員会はサンプル調査として約10万件の郵送調査を行った。その際、601件の冒用(書いた覚えのない署名、つまり捏造)が判明したが、議会リコールを推進するかのような中日新聞の論調や、そうした報道に押された「民意」で正当な検証がなされないまま、住民投票となり、議会は解散、地域政党「減税日本」が誕生した。その後の減税日本を起因とする馬鹿騒ぎは、呆れ返るほど続出し、それは今も続いている。
河村市長は、現在の疑惑と同時に、この疑惑にも答える義務がある。
今回の知事リコールに係る、大量の署名偽造問題で、河村市長は「自分も被害者である」というような発言をしているようだが、これは10年前の議会リコールに続く、「リコール署名簿流出事件」における物言いと同様の、無責任極まりないものであり、自分の事しか考えていない、公職者としてあるまじき思考を露呈したものであると指摘する。
10年前の「流出事件」においても、まっ先に行うべきは、管理の稚拙についての謝罪と、自分の署名が流出したのではないか、悪用されるのではないかと不安に思う署名者に対する説明であったはずで、そうした謝罪も、説明も行われてはいない。
今般の事態においても、大量の偽造があるのであれば、不正に氏名を利用された市民、県民への謝罪を最初に行うべきで、こうした違法な運動を起こしてしまった責任についても釈明すべきだ。河村たかしには、市民、県民の心、民意というものを「忖度」する能力がない。常に、河村たかしは河村たかし自身の考え、価値観、視点、つまりは主観に縛られ、客観的に状況を俯瞰して、市民、県民が何を必要としているかという観点がない。彼は自分がやりたい放題をやっているだけに過ぎない。もはや、これだけでも公職者として資格喪失だ。更に、こうした公的責任を追求されると「嘘と詭弁」で逃れようとする。
「嘘と詭弁」を突き通し、その場だけ逃れれば、地元メディアである中日新聞は、適当に擁護してくれるし、「人の噂も七十五日」大部分の有権者は問題を意識することもなく沙汰止みとなり、選挙ともなれば現職ということで自分の名前を書いてくれる。何もせず、適当に口からでまかせを言い、酒でも飲んでいれば、あとは優秀な名古屋市職員が尻拭いしてくれるから安泰といったわけだ。
こうしたやらずぶったくりの市長給与と、国会議員年金で安穏な生活を続けていられる。
まさに「人生行き詰まったら、選挙に出ろ。運良く受かれば税金で飲んで遊んで、おまけに外国旅行まで付いてくる、たまりませんわ」という極楽が待っているというわけだ。
国会議事録にまで残っている「国会議員年金は1円も受け取らない」との明言を無視して、議員年金を受け取り続けても、誰も咎めもしない。なんと名古屋市長とは楽ちんな仕事だろう。中日新聞がちょっと批判じみたスタンスを取るようなら、名古屋城の金鯱でも下ろしてイベントをやらせておけば機嫌を治すということだろうか。市民の困窮や市政の停滞など、知ったことではないのだろう。
このリコール騒動についても、東京新聞は先週の段階で実情を紙面に掲載した。しかし、その記事は「共同」の配信した記事だ。地元名古屋の中日新聞は、全く掲載もしない。東京新聞が掲載するような問題を、地元の中日新聞が掲載せず、東京新聞は「共同」電を掲載する。これが報道の歪みでなくて何が報道の歪みなんだろうか、中日新聞は明白に筆を曲げている。
du-contrat-social.hatenablog.com
もう、こんな異常は、この私のような変わり者が騒ぐだけでは済まない。すでに10年以上も続けていれば、少なくない名古屋市民も気がついている。いい加減に中日新聞は目を覚ますべきだろうし、これ以上歪んだ報道を続けていれば、市民(購読者)が離れていくことを覚悟するべきだ。
当ブログをひっくり返せば、名古屋市長河村たかしの嘘と詭弁はいくらでも見つかる。しかし、最新の嘘、詭弁をお伝えしよう。
名古屋市が名古屋城天守木造化についての市民向け説明会を行っていたことは前回の投稿で述べた。その中で河村市長は「奈良文書」(本人は当初、「奈良ドクトリン」などと誤って理解していた)を持ち出して、新たな材料による木造復元が「真実性がある」と主張していたが、これは詭弁である。そもそも「奈良文書」には直接的にそのような言及はないし、彼が言っていたような3つの条件などもない。
議論していけばややこしいので、骨格だけ引いておくが、そもそもこの「奈良文書」は次のような経緯を踏まえなければ理解できない。
最初に、1931年の「アテネ憲章」がある。
https://icomosjapan.org/charter/others1931.pdf
ここで貴重な歴史的建築物修復のためには、どしどしコンクリートでも何でも使って、補強、保存が必要だと結論づけた。ところが、当然のことに、乱雑な補強修復が乱発されて、却って歴史的建築物の一貫性(真実性)がなくなってしまった。そうした反省を基に「ヴェニス憲章」(1964年にヴェネチアで取り上げられたので、「ヴェネチア憲章」と記載しているところもある)が1965年に採択され、ここでは「修復工事はいっさい理屈抜きに排除しておくべきである」とまで厳しく、真実性の維持を訴えた。
https://icomosjapan.org/charter/charter1964.pdf
豊かなメッセージ - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0
ichi-nagoyajin.hatenablog.com
しかし、ここからは河村市長が言うように、確かに木造の建築物について、この基準を当てはめると、歴史的建築物の維持ができなくなってしまう。例えば法隆寺なども、現在残っている素材は、最古のものでも鎌倉時代と言われているが、全体としての法隆寺は1400年の歴史を伝えているとみなしても良いのではないか。今後、修復を重ねたとしても、「その真実性はゆるがないのではないか」というような議論を提起したのが「奈良文書」(1994年)となる。
http://www.japan-icomos.org/charters/nara.pdf
この「奈良文書」の第5センテンスは次のようになっている。
5 我々の世界の文化と遺産の多様性は、すべての人類にとってかけがえのない精神的および知的豊かさの源泉である。我々の世界の文化と遺産の多様性を保護しおよび向上させることは、人類の発展の重要な側面*1 として積極的に促進されるべきである。
また、11には次のように言う
11 文化財がもつ価値についてのすべての評価は、関係する情報源の信頼性と同様に、文化ごとに、また同じ文化の中でさえ異なる可能性がある。価値とオーセンティシティの評価の基礎を、固定された評価基準の枠内に置くことは、このように不可能である。逆に、すべての文化を尊重することは、遺産が、それが帰属する文化の文脈の中で考慮され評価しなければならないことを要求する。
さらに、1994年に「奈良文書」が採択されて以来議論は続けられ、「姫路提言」(2012年)や
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/isanbukai/sekaitokubetsu/1_03/pdf/shiryo_1-4.pdf
「奈良+20」(2014年)という文書が採択されている。
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/isanbukai/sekaitokubetsu/3_03/pdf/shiryo_1.pdf
さて、こうした中で「復元」や「復元的整備」についても、多様な在り方が容認されるようになり、敢えて言えばその極北が「平城京跡歴史公園」という、どこに「真実性」があるのか見当もつかない観光施設(公共事業)ということになるのだろう。(私は、公共事業一般を否定しないし、「無駄な歳出」という価値観だけでものは見ない)
ここで、そうした在り方の是非は議論しない。平城京跡歴史公園に価値を見出す人がいても構わない。個々人の価値観だ。
つまり、かつて有った木造の歴史的建造物を、現代に、新たな材料(木材)を揃えて再現してみて、それを「真実性がある」とか「本物である」と言ってみても、そうした価値観も認めるべきなのかもしれない。(説明会場で言っていたように、名古屋城には確かに資料は豊富にあるが、内部構造図は残っていない。外形的な資料を基に、推測で再現するに過ぎない。これも河村市長の「嘘」だ)
つまり、大幅に譲歩して。名古屋城を木造復元することが「本物の再現」であり「真実性がある」ことであるとの主張を受け入れてみよう。しかし、大問題がある。
名古屋城跡に今、何も建っていないのであれば、その議論は成立するだろう。
「木造復元天守」の真実性という議論については、一定の指針を得ることができるだろう。しかし、この論点には大きな見落としがある。名古屋城跡には外観復元を果たした鉄骨鉄筋コンクリート製の天守が厳然と聳えているのである。
この、今建っている、鉄骨鉄筋コンクリートの名古屋城を取り壊すことについてはどう評価すべきか。
先に「奈良文書」の第5センテンスと第11センテンスを引いた。そこに述べられている言葉は、現存する鉄骨鉄筋コンクリート製名古屋城天守にこそ適応されるべきではないのか。
「我々の世界の文化と遺産の多様性は」つまり、昭和の名古屋市民が外観復元を重視し、素材については燃えて無くならない鉄骨鉄筋コンクリートによって名古屋城天守を再現したことは、「すべての人類にとってかけがえのない精神的および知的豊かさの源泉である」現に、この名古屋城を見るために、世界各国から観光客は訪れ、周辺のホテルは借景として天守を望む。「我々の世界の文化と遺産の多様性を保護しおよび向上させることは、人類の発展の重要な側面として積極的に促進されるべきである」つまり、この貴重な戦後復興のシンボル、昭和の名古屋市民が建てた平和と民主主義のシンボルである、現名古屋城天守建物を保護し、向上させるべきである。と解釈可能だ。
「文化財がもつ価値についてのすべての評価は、関係する情報源の信頼性と同様に、文化ごとに、また同じ文化の中でさえ異なる可能性がある」確かに、木造復元を希望する市民もいるのだろう、しかし、現在の名古屋城天守に愛着を持ち、それが取り壊されるという報道がなされた際に、それを泣きながら聞いていた市民も居るのだ。「価値とオーセンティシティの評価の基礎を、固定された評価基準の枠内に置くことは、このように不可能である」つまり、乱雑に木造が良いとか、現存天守が良いとかを一方的に決めつけるべきではないだろう。「逆に、すべての文化を尊重することは、遺産が、それが帰属する文化の文脈の中で考慮され評価しなければならないことを要求する」ただ、ここで現在の天守をわざわざ壊して、無くならせることは、戦後復興期の歴史的事実を失わせる事となる。
現在の天守を尋ねる人々は、それがコンクリートによる再建であることを知り失望する、しかし、それは同時に第二次世界大戦による戦災と、都市に対する無差別爆撃という非文明的な暴力の惨禍を知る縁となり、戦争の悲惨を語り継ぐ語り部ともなる。
けれども、ここで木造復元を行うことはこうした「それが帰属する文化の文脈」そのものを否定し、失わせしめる行為にほかならない。
このように、「奈良文書」の語るところは、現在の鉄骨鉄筋コンクリート製名古屋城天守の真実性と、歴史的重層性への尊重であり、この天守を残すことこそが、歴史の連続性を維持し、現在の名古屋市民として先人から託された責務であり、将来の市民への義務でもある。
文化財とは、その建物、物そのものが尊いのではない。
その遺物を残し、伝えた、それぞれの時代の人々の思いが尊いのであり、
その思いを今に受け継ぎ、次の世代に引き渡す、時の連続性が尊いのである。
そして、そうした事実に気がつく時、
自分自身もまた、
自らが歴史の中に居る存在なのであると知ることが尊いのである。
このようにして、時の流れに視座を据えてみたときに、そこから、社会性は紡ぎ出される。
保守思想とは、こうした人の営みを信ずる立場をいうのである。
*1:引用者:補足