市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

豊かなメッセージ

今日は歴史の話をしてみたいと思います。

まず最初は江戸城天守閣の話。

ご存じのように江戸城跡(現在の皇居)に天守閣は現存していません。それどころか江戸城において天守閣は慶長11年(1606年)の慶長期天下普請から 明暦の大火(明暦3年:1657年)まで約50年しか存在していません。(太田道灌のそれは考慮しない)

明暦3年(1657年)から明治元年(1868年)までの211年間。江戸時代において、そのほとんどの期間、江戸城には天守閣は有りませんでした。明治元年(1868年)の江戸城開城においても「城」として扱われていますし、今に至るも「廃城」は行われておらず、皇居としてその機能は果たされています。

「城」という場合、天守閣だけに価値を置く見方は特殊であると認識すべきでしょう。

明暦の大火(振袖火事)で江戸の町は大半が焼け落ちました。江戸城天守閣を失ったのですが、この時江戸幕府の実質的なリーダーは保科正之であった。

保科正之は大火を受けて、16万両の御用金を支出して被災者の救援に充てた。幕閣の間からは「それではご金蔵がカラになってしまう」と危惧する声も上がったが、保科は「幕府の貯蓄はこういう時に使って民衆を安堵させるためのもの」と一喝したという。

また、保科は災害後の物価高騰を抑制するために米価の上限を決め米の確保に力を注いだ。更に、参勤交代で江戸に向かう大名をとどめ、江戸にいる大名も領国に返した。こうして江戸市中における米の需要を抑制し価格の安定に努めた。

保科は街の再建にあたり防災の観点も加えた。それまで日本の城下町は敵の侵入を防ぐために道路をせまく、複雑に造られていた。しかし、火災の延焼を防止するために街のそこここに空き地や広い小路を備えさせることとした。上野広小路などの地名はこの時にできたものだ。(戦後の名古屋の街づくりもこれを手本にしたものかもしれない)

さて、そうした中、幕府内で江戸城の再建が課題となった。
ここで保科正之江戸城天守閣の再建に敢然と反対を表明する。

「思うに天守閣と申すものは、戦国の世の織田右府(信長)の建てた安土城に始まると思われるが、これが軍用に多大な利点を発揮した例は史書に見えませぬ。いわば、ただ世間を観望いたすのに便利というだけの代物なれば、さようなものの再建に財力と人力とを費やすよりも、むしろ町屋の復旧に力を入れるべきでござろう」(『保科正之中村彰彦・中公文庫)

天守閣は権力と権威の象徴であり、当時の常識ならその再建は最優先課題だったといってもおかしくない。保科はそれを否定したのである。まさに、国難に直面し、優先順位を明確にして復興に取り組んだのだった。これ以降、江戸城において天守閣は再建される事は無く、それは今に至るも続いている。江戸城における天守閣の不在は、仁心無私の政治家、保科正之の事績を雄弁に語り継いでいる。


もう一つの話題は19世紀にくだります。また、場所もドイツ、バイエルン地方に飛びます。ドイツ・ロマンティック街道の一角にあるノイシュヴァンシュタイン城の歴史です。

ノイシュヴァンシュタイン城は美しいお城で、カリフォルニアや香港にあるディズニーランドの眠れる森の美女のお城のモデルの一つとされているそうです。しかし、このノイシュヴァンシュタイン城は政治や外交的目的の為に造られた城ではありません。歴史的必然性という意味は何も備えていない建築物です。

その城を築城したルートヴィヒ2世の趣味の為だけに造られた城であって、ある意味、こうした文化的、文学的、或いは精神医学的文脈から捉えられる建築物となっています。

1864年ルートヴィヒ2世バイエルン王となる。しかし、王としての執務を嫌い、幼い頃からの夢だった騎士伝説を具現化すべく、中世風のノイシュヴァンシュタイン城など豪華な建築物に力を入れるようになった。王としての執務を省みないルートヴィヒの行状に危惧を抱いた家臣たちは、1886年6月12日に彼を逮捕し廃位した。ルートヴィヒは翌日シュタルンベルク湖で、水死体となって発見された。

その知らせを受けたエリーザベト皇后は「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」と述べたそうだ。

ルートヴィヒが亡くなった時点で、ノイシュヴァンシュタイン城は未完成のまま建設工事は中止された。元来実用性の乏しい施設であったが、公的な施設として用いられることはなかった。一見すると伝統的な建築方式で造られているように見えるが、石造りではなく鉄骨組みのコンクリート及びモルタル製で、装飾過多であり、耐候性や耐久性も低かった。実際の住居としての居住性はほとんど考慮されておらず、施設としての実用性は無視された設計になっており、居住にも政務にも、もちろん軍事施設としても不向きな城であるとされる。

現在も単なる観光施設でしかない。文化的価値は、このルートヴィヒ2世の狂気を据えないと理解できない。

形だけのレプリカであり、それだけに模倣しやすいのだろう。上で述べたようにディズニーによって模倣されたり、そのものずばりの模倣もある。日本でも兵庫県姫路市にレプリカが建っている。

姫路・姫路城周辺で観光するなら|太陽公園|石の文化と歴史・新しい福祉

もしも、もしも名古屋城天守閣が木造復元されて、それが50年間360万人もの観光客を呼ぶ一大人気スポットになったのなら、各地の城址はこぞって木造復元する事だろう。そうなれば、先鞭をつけた施設は陳腐化し、来訪者は減るだろう。レプリカのレプリカは造りやすい。易々と名古屋城天守閣が木造復元できるのであれば、各地がそれに追従しない謂われはない。


「歴史好き」と「歴史から学ぶこと」は別だという事が判った。
歴史が好きでも、歴史から学ぶ事が出来ない人はいる。

または、歴史から、その事跡そのものを受け取ろうとするのではなく、
ルートヴィヒ2世のように、自分に好ましい部分だけを、抽出し、創出する者も居る。
(まさに歴史修正主義であり、歪んだものの見方である)

この名古屋において、今(この平成の御代に)名古屋城天守閣を木造復元すべきか、または、昭和34年に復元された現天守閣を残すべきかという議論がある。

(と思う。残念なことに、名古屋市はこうした議論を汲み取っていない。現、名古屋城天守閣の鉄筋建築物は、昭和実測図や金城温古録に示された形状を模した(本物そっくりの)復元建築物であり*1、同様に鉄筋構造で復元再建された、大阪城天守閣登録有形文化財とされている例に倣えば、2025年前後には同様の認定がされる可能性もある。こうした議論も、名古屋市の当局の中では行われていないというのはどうした事なのだろうか)

とにかく、木造復元が良いのか、現天守閣を残すべきなのか。その両者の選択は価値観の相違であり、基準など無いという人がいるかもしれない。つまり、どちらも価値として等価であり、時の為政者や権力者、既得権者の恣意的な判断や、時の市民の民意*2で決めればよいとでもいうのだろうか。

そうした考え方は誤りだ。

歴史的建造物や、文化的遺構に対しては、国際的な合意があり、それは国際的な、そして時代を経た議論の末に導き出された合意である。それが「ヴェニス憲章」と呼ばれるものだ。その前文には次のように訴える。

ヴェニス憲章
―記念建造物および遺跡の保全と修復のための国際憲章―

前文

幾世代もの人々が残した歴史的に重要な記念建造物は、過去からのメッセージを豊かに含んでおり、長期にわたる伝統の生きた証拠として現在に伝えられている。今日、人々はますます人間的な諸価値はひとつであると意識するようになり、古い記念建造物を人類共有の財産とみなすようになってきた。未来の世代のために、これらの記念建造物を守っていこうという共同の責任も認識されるようになった。こうした記念建造物の真正な価値を完全に守りながら後世に伝えていくことが、われわれの義務となっている。

そのため、古建築の保存と修復の指導原理を、国際的な基盤にもとづいて一致させ、文書で規定し、各国がそれぞれの独自の文化と伝統の枠内でこの方式を適用するという責任を取ることが不可欠となった。(後略)

http://www.japan-icomos.org/charters/venice.pdf

例えば歴史的な建築物や遺構は、各地において災害の可能性を住民に知らせていた。また、各地における町名や地名はその地域の来歴を雄弁に物語る事も有る。将に歴史的な文物は「過去からのメッセージを豊かに含んで」いるのだろう。

それらは「人類共有の財産」であり、何人も私的に歪めて良いという物ではない、何人もわたくしして良いという物ではない。そして、こうした歴史的な文物の「真正な価値を完全に守りながら後世に伝えていくこと」が文明の果実を享受している人間の責務であり、そうした価値を省みない者は文明的存在とは言えない。

このように前文は現代における人類の共通認識を明文化している。

我々は、歴史的文物に向き合う際には、個々の個人の価値観(主観)に固執するべきではなく、こうした国際的、歴史的議論の帰結である「客観」に従うべきだろう。それが国際社会の中での自分、歴史的経緯の中での自分を再認識させ、そうした空間的、時間的自己認識を得ることで、はじめて目の前の文物の価値を理解することができるし、そうした文物をどのように扱うべきかを理解できる。こうした思想的立脚点を欠いたまま、その文物に対峙しても、その理解は浅薄で歪んだままと言う以外にない。


さて、では人類の共通認識は、今回の名古屋城天守閣木造化復元についてどのようにジャッジを下すのであろうか。

発掘

第15条

発掘は、科学的な基準、および、ユネスコが1956年に採択した「考古学上の発掘に適用される国際的原則に関する勧告」に従って行われなければならない。廃墟はそのまま維持し、建築的な特色および発見された物品の恒久的保全、保護に必要な処置を講じなければならない。さらに、その記念建造物の理解を容易にし、その意味を歪めることなく明示するために、あらゆる処置を講じなければならない。しかし、修復工事はいっさい理屈抜きに排除しておくべきである。ただアナスタイローシス、すなわち、現地に残っているが、ばらばらになっている部材を組み立てることだけは許される。組立に用いた補足材料は常に見分けられるようにし、補足材料の使用は、記念建造物の保全とその形態の復旧を保証できる程度の最小限度にとどめるべきである。


明確だ「修復工事はいっさい理屈抜きに排除しておくべきである」
原文を見ると次のようになっている。

'All reconstruction work should however be ruled out "a priori." '

a priori 「アプリオリ」自明なことだと言っている。

つまりどういう事だろう。

名古屋城の歴史をもう一度振り返ろう。江戸幕府、徳川政権が確立してから、その権威を示すため、西国への備えとして名古屋城天守閣は整備された*3。勿論、城としての戦闘の為の機能を備えた建築物だったが一度も実戦に使われることなく、*4平和のまま江戸は終わる。

武士の世が終わり、戦争の姿が変わるにつれ、名古屋城の価値も変わる。戦争の為の、政治の為の建築物の価値は失われ、文化的価値だけが認められ国宝とされる。

しかし、日本の軍国主義化の帰結として、大空襲を受け、その城下町たる名古屋とともに焼失される。

その後、戦後の焼け跡から街が復興するに軌を一にするかのように遺構の上に鉄筋で再建される。
その建築費の三分の一は城下町、名古屋の市民からの寄付による再建であった。

ヴェニス憲章」に照らし合わせれば、本来天守閣が焼失された段階で再建すべきでは無かったのかもしれない。歴史的な事実としては、第二次世界大戦における焼失までが歴史であるともいえる。

しかし、その失われた遺構である名古屋城天守閣(と、金の鯱鉾)を再建したという事は、名古屋と言う街のアイデンティティを(歴史的に)表す事ともいえる。

つまり、今の天守閣そのものが歴史の証人であり、その姿に耳を傾ければ、名古屋の街の「過去からのメッセージを豊かに含んで」いることは明白だ。

ちなみに、大阪城天守閣は1931年(昭和6年)に鉄骨鉄筋コンクリートで再建されている。
そして、1997年、登録有形文化財とされている。
同じ鉄骨鉄筋コンクリート名古屋城が再建されたのは1959年(昭和34年)だ。
大阪城に倣うと、2025年には名古屋城天守閣も登録有形文化財とされるのではないのか?

2025年に登録有形文化財とされる現名古屋城天守閣は、戦国や江戸の事は何も語れない。
その当時には無かったのだから。
しかし、その時期を経た姿に、城下である名古屋の市民がどのような愛着を持っていたかは雄弁に語るだろう。
それが、鉄骨鉄筋コンクリートとなっても、無理にでも再現された外見に現われている。

そして、戦争の災禍から立ちあがった名古屋の市民が、名古屋の街を再建するシンボルとして名古屋城天守閣を捉えていた事も語ってくれる。それが最上階の窓の設計だろう。国宝として再建するのではなく、新生なった民主国家日本として、市民/国民が誰でも天守閣の最上階に上る事が出来て、名古屋の街を眺める事が出来る。民主的な展望施設として再建された、その歴史を刻んでいるのである。

今、この平成の世に、歴史的必然性もなく、ろくな議論もないまま
この歴史的価値を持つ天守閣を破壊し、木造のレプリカを造ろうという蒙昧には、ルートヴィッヒ的狂気しか感じられない。

100年後、或いは、この建造費の負債に追われる名古屋市民に、この木造天守閣はどのように写るのだろうか。私たちは、この100年後の子孫に、どのようなメッセージを送ることになるのだろうか。


*1:最上階の窓は独自の改造が施されている:後述

*2:しかし、財政負担は数十年後の市民が被る事になるのではないのか

*3:最終に造られた天守閣としてその規模、建造に対する技術の集約は最終形態を迎える

*4:追記:とうぜん、この「平和のまま」というのは、名古屋城にとってはという意味で、明治維新が平和的に行われたという意味ではない