市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

部分否定再録&MMTについての会話など

1.部分否定と歴史的事実
2.他国批判と自国批判
3.MMTについての会話

1.部分否定と歴史的事実

いわゆる「従軍慰安婦問題」について、「従軍慰安婦などなかった」などと主張する人々がまだいるようです。
何を根拠にされているのか伺いたいものですが、「従軍慰安婦」の存在については政府見解が出されており、その存在は疑いようがありません。また、従軍慰安婦制度について、旧日本軍や旧政府*1の関与を示す資料も出てきているようで、こうした「事実」から目を背け、厳然とある「事実」を否定する態度はファナティックですし、理性的とは言えないでしょう。そしてそれは「歴史修正主義」と批判される態度です。

www.mofa.go.jp

こうした事実を否定する人々の中には、「従軍慰安婦」の存在を裏付けていた証言自体が事実ではなかったという出来事を取り上げ、「従軍慰安婦」の存在まで否定する人もいるようです。いわゆる「吉田証言問題」です。

www.asahi.com


こうした「部分否定」と「歴史的事実」については当ブログでは「南京事件」についての論考ですでに述べておりますので、それを再掲したいと思います。

南京事件に対する法的に認定された事実、客観的事実 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

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 私は「歴史的事実」というものはこういったものだろうと考えている。
 まず全体として「歴史的に解明しきれない部分」という領域がある。これを模式図では灰色のグラデーションで示してみた。概念的にはこの領域はもっと大きいものだろうが、図の収まりとしてこの程度にしてみた。

 この中で「事実」と呼ばれる領域がある。
 模式図の中では青いグラデーションで示した領域だ。
 これとても当事者の証言があろうと、一方的な見方という側面もあろうし、その証言における表現方法に事実を伝えきれていない部分もあろうことは容易に推測できる。つい最近の事であっても「何が事実で何が事実でないか」判別する事は難しく、ましてや歴史という大きな壁を超えて、その中から事実を拾い出すのは大変な作業だろう。

 そうした中で、事柄によっては「法的に認定された事実」という物もある。

 司法や学問的な批判を乗り越えて、信憑が揺るがなかった「事実」であり、社会的には充分「客観的事実」(または「スタンダードを獲得している」)と呼ぶにふさわしいものだろう。

 この「客観的事実」に対して懐疑を呈する事は自由だ。しかし、その懐疑は信憑性を持たない。持っていない。「法的に認定された事実」「客観的事実」に対して、公的にその「事実」を否定したり「解釈変更」しようとするのであれば、そこには新たな立証と信憑の構築が必要となる。


 ここで注意したいのはこの「法的に認定された事実」「客観的事実」にしても取りこぼしている事実は有るだろうし、事実として認定するのに根拠が薄弱と捉えられるものもある。こうした司法的な、または学問的な研究、批判は常に続けられるべきで、一旦確立した「法的に認定された事実」「客観的事実」が「不磨の大典」であると言っている訳ではない。新たな批判、反論に開かれ、その評価を続ける事によって、この「法的に認定された事実」「客観的事実」の信憑は成立している。

 しかし、こうした「事実」を基盤として、そこから何かを言おうとすれば ― 歴史的教訓を学ぼうとするのであれば、または歴史的傾向を汲み取ろうとするのであれば ― 今の段階ではこの「法的に認定された事実」「客観的事実」を基盤として対話をする以外にないのではないか?

 この「法的に認定された事実」「客観的事実」を「認めない」という主観的態度は自由だが、それが客観性を持つことは無い。

 つまり、こういった部分に対して懐疑を持つことは、社会的に客観性を獲得していないのである。

 主観的信憑を持つことは各個人の自由である。しかし、各個人が持つ主観的信憑を他者に押し付ける行為は文明的な、理知的な行為とは言い難い。


 さて、南京事件南京大虐殺などという大きな事件になれば、その関係者は膨大な数になる。そうなると法的な評価を受けず、歴史学的な評価がまだ十分に為されていない「証言」や「写真」「資料」が存在する。

 それが模式図で言うところのピンク色の部分「異なる立場から見た『事実』」の部分となる。ここはまだ事実ともそうでないとも言えない部分になる。

 先ほど示した「『南京大虐殺』は捏造だった」というサイトが否定しているものはその大多数がこのピンク色の「事実、証言、写真、資料」に対する批判だ。(東中野修道氏の検証した物もだいたいはこういった事例)

 つまりこうした「新たな事実」に対して、その反証を行い、よしんばその批判が正当であって、「新たな事実」なる物に対しては懐疑的な結論に行き着いたところで、全体としての「南京事件南京大虐殺」の否定までには行き着いていない。

南京事件に対する法的に認定された事実、客観的事実 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

つまり、当たり前のことだが「部分」が否定されたからといって全体が否定されたわけではない。全体の中でも「客観的事実」としての信憑性を獲得している事柄というものはあるのであって、それを否定するのであれば、その信憑以上の材料を示せなければならない。

「違うと思いますよ」などと個人の主観に捉われて、こうした厳然とした事実を見ようとしない態度は知的怠惰でしかなく、営々として重ねられた検証作業を無にする行為である。つまり、文化や文明といったものに*2敬意を払わない態度であり、そうした者はまた、他者から文化的、文明的な評価は得られない。

歴史修正主義 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

2.他国批判と自国批判

外交問題を語るときに、「自国の批判ばかり行って、他国が同じ問題を引き起こしたときに批判をしないというのは偏っている」というような批判も目にする。

今回の日韓外交問題についても、確かに文在寅政権の外交手法についても問題があるようにも思えるし、彼の政権を揺るがすスキャンダルといった韓国国内事情も、この外交問題に大きな影を落としているようには思える。

しかしだからといって韓国政府の手法を批判しなければならないとは思えないし、そんな必要も無いと思える。逆に、韓国政府や文在寅政権の問題をあげつらって、日本政府の問題点について不問に付してみたり「相手も悪いのだから、こちらの問題もアイコだ」とでも言うように免罪を主張する態度は疑問だ。

私は私が批判すべき事柄しか批判しない。それは私と関係があるものに限られる。関係が無いものについて批判してみても始まらない。

私は日本国民であって、日本国の、日本政府の施策は直接私の生活に関りがあるので批判する。そして私は日本国の主権者の一人であるので当然こうした声を上げる権利も義務も持っていると思っている。

私は名古屋市民であって、名古屋市の、名古屋市当局の施策は、直接私の生活に関りがあるので批判する。そして私は名古屋市の主権者の一人であるので当然こうした声を上げる権利も義務も持っていると思っている。

極端な事を言うならば、韓国がどんな酷い施策を展開し、国家破綻したところで知ったことではないし、東京都がどのように失敗しようと知ったことではない。

例えば車に乗っているとする。あなたが運転している。するとエンジンルームから異音がしてきた。あなたはどうするだろうか。「なんだか変な音がしない?」と同乗者に確認するかもしれない。こうした時「そんな音、大したことないよ」と同乗者から言われたら、その声に同意して放置するだろうか、「確かに気になるから、いっぺん止めてみてみたら」と言われた方が良いだろうか。また、実際に車を止めてエンジンルームを見てみる。見たところではよく分からない。こうした時に異音のするあたりを「ひっぱたいたり」はしないだろうか?*3

自分が責任をもってかかわる物事について、不具合が発生しているようなら、「いやいや、気のせいさ」とか「俺様の車だ、大丈夫さ」などと過信する態度は異常だろう。ひっぱたいたり、分解してみたり。様々な角度から原因を追究するのが当たり前の態度だ。「批判」とはこうして対象を「ひっぱたく」行為であり、そうすることによって車や、社会の健全性を保つことは理知的な行為だ。

隣の車から異音がするからと言って、それをひっぱたく者はおるまい。

3.MMTについての会話

先日、参議院選挙の直前にMMTの旗頭ステファニー・ケルトン教授が来日して以来、日本国内でMMTと、積極財政論の主張が活発だ。

当ブログがMMTに触れたのは2016年8月になる。「相模原大量殺傷事件」を受けて、均衡財政論の危うさを述べた中で取り上げている。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


今でも、河村たかしと植松聖の論理は通底していると思っているし、河村たかしにおいて、自身の主張する「減税政策」が、実はどれほど社会に深刻な問題を投げかけているか、その自覚の無さは醜悪に過ぎる。(こうした文脈で見ると、私設政党「減税日本」など、バカで貧乏くさい「ナチス」の尻尾にしか見えない)

まあ、それはさておき。財務省がそうしたMMTへの反論資料を掲載している。均衡財政論を突き崩されたくはないのだろう。*4

説明資料(わが国財政の現状等について)平成31年4月17日

※「上で外務省の文書、政府文書を「客観的事実」と取り上げており、ここでは財務省の文書に疑問を投げかけようというのか」というような反論は受け付けない。この財務省の資料を読んでみればわかるが、財務省は自分を主語として、MMTに対する反論を述べていない。つまり、客観的にMMT批判者の発言を集めているに過ぎない。


この資料の中の、特に後半の「世界的有識者によるMMT批判」を読むと、MMTへの批判点がよくわかる。特に多いのは「ハイパーインフレ」への懸念なんだろうが、これについてはケルトン教授が見事な反論を加えている。「日本のようにデフレからの脱却に苦労している国が、なぜ、ハイパーインフレの心配をするのか分かりません」まったく、お見事。自分の頭で考えず、他人の文書/言葉で批判している人に対する切り返しとしてはこれ以上ない。なぜなら、ここに掲載されているコメントは、主に米国国内におけるMMTの展開に対するコメントであって、日本のようにデフレに張り付き、過剰流動性が企業の内部留保という形で蓄積され続けている場合には、考慮する優先順位が異なるというものであって、「ハイパーインフレ」の心配をしている場合ではない。というか、そんな批判は説得力がない。

この文書を肴にある人たちと話をしていたのだが、ひとりが指摘するには「自国通貨建ての国債はデフォルトしない」という主張を批判しなければMMTを否定できない筈だが、日本の財務省はこの主張ができないという。2002年に日本国債の「格付け」下落に対して、時の財務官黒田東彦氏(現日銀総裁)が提出した意見書に、堂々と「自国通貨建ての国債はデフォルトしない」と書かれているそうで、今更それを否定することはできない。

また、ハイパーインフレの原因を通貨の過剰を原因とするには無理がある。すでに日本は十分流動性が高いが、ハイパーインフレどころか、インフレの兆しさえ見えない。現在の日本国内においては、そうした過剰流動性(お金)は、フローから、ストック(企業内部留保)にたまってしまって、物価に影響を与えていない。

企業にたまったストック(内部留保)をフローとして、社会に循環する「お金」にするには、こうした資産に対して課税する(国が無理やり吐き出させる)か、企業会計を旧来のように戻して、労働分配率を上げさせるかしかない*5。現在の日本の企業は、顧客や労働者の為にはなく、資産家や株式市場の為にあるように見える。なんとなく「国際企業会計」に合わせるというような方向性が「正しい」とされているけれども(されていたけれども)その根拠は、まともな議論も無かったように思われる。日本の消費者は賢く、「外国車を買おう」と言われても、バカみたいにガソリンを食って故障の多い米国車は買わずに、ヨーロッパ車、それもドイツ車を買ったのだが、日本の経営者は企業会計に米国車を買ったようなもので、これで日本国内を走り回っているように見える。

社会にお金が回らない(フローが足りない)ので、国内経済が振るわず、いくら金融政策しようと国内総生産が高まらない。

ハイパーインフレとは、商品の需要と供給のバランスが崩れた際に起きる。*6ドイツでハイパーインフレが起きたのは、ベルサイユ条約によって生産拠点を奪われて、国内生産力が落ちてしまったために、需要を満足させる供給が行えなかったからだ。

日本においてもデフレ傾向が続くのは、通貨流通によるものではなく、商品の需要と供給のバランスによる。労働分配率が低く、国民の可処分所得が低いままなので、需要が起きていない。そこに十分以上の供給能力があるので「物が売れず」価格が上がらない。需要を発生させなければならないし、そのためには可処分所得を上げなければならない。・・・・ここで少し「河村流減税政策」の誤りに触れておく。河村流減税では、減税によって納税者の「可処分所得」を上げるとしている。確かに減税されたお金は「可処分所得」にも成り得る、それは認める。しかし、その原資を「歳出削減」で賄う。「歳出削減」とは需要の削減である。100削減された歳出は、100の需要を減少させる*7。そしてそれによってなされた100の市民税減税は、果たして100の支出を生むだろうか。逆進性の高い、富裕層に篤い減税制度のため、その大部分が貯蓄され、100の支出がなされないのであれば、その減じた分だけ経済効果としては低くなる。河村市長は市民税減税で名古屋市の経済が活性化し、市税収入が増えたと言っているようだが、そんな言葉を信じている経営者はいない。単に、市長の前で調子を合わせているに過ぎないか、企業経営者/高所得者であれば、富裕層としてしっかりと減税政策の恩恵にあずかっているので喜んでいるだけだろう。

ここで、需要と供給、通貨流通量と物価などを話しているうちに、これって電気回路に似ていないかという話になった。

需要と供給のバランスは「電圧」そこで流れる通貨が「電流」、物価は「電流量」になるだろう。今、30Ωの抵抗に、12Vの電圧をかけると、0.4Aの電流が流れる。「電圧×電流=電力」なので、12(V)×0.4(A)=4.8(W)という事になる。

この回路に、もう一つ。20Ωの抵抗を並列につなげる。この時の「合成抵抗」は幾つか。

答えは12Ωになる。20Ωの側にも、12Vかかると、0.6Aの電流が流れ、7.2Wの電力消費となる。両者で1Aの電流量になるので、回路全体の消費電力は12Wとなる。これは合成抵抗の12Ωに流れる電流量と電力と合致する。

ここで、ちょっとおもしろい現象が起きた。30Ωと20Ωの抵抗を並列につないだ回路の合成抵抗が12Ωとなる事が理解できない。と言い出す人が出た。「電流(電子)の立場からすると、30Ωの回路を通るにせよ、20Ωの回路を通るにせよ、抵抗は残っているのだから、並列につなげた場合はその間の値になるんじゃないのか?」というような事を言っていた。

こういった場合には「仕事算」という考え方で説明すると良いというので、それを試みた。

「一人の人は、一つの仕事を片付けるのに30日かかる。もう一人は同じ仕事を20日で片付ける、2人でこの仕事を片付けるには何日必要か」1日当たり「1/30(仕事量/日)」の処理能力を持つ人間と、「1/20」の処理能力を持つ人間がいると、二人の合計は「5/60」(仕事量/日)となる(2/60+3/60、大丈夫だよね)この合計の処理能力で、1の仕事を片付けるには60÷5を計算すればいい。答えは12。二人で12日で片付く。

・・・と、言っても合成抵抗の演算について理解してもらえなかった。しかし、この経済循環と電気回路の比喩は、何か導き出しそうで面白かった。

それと、次のような話も興味深かった。ハイパーインフレの際に、よく引き合いに出されるのが、瞬く間に目の前のパンの値段が上がっていくという話だ。

これでわかるのは「生産性」なんて幻想にすぎないという事だ。パンの価格が10倍になれば、それを売る者の生産性は10倍になると言える(厳密には色々と違うが)。商品の本質(そこから得られる便益)も、販売員のスキルも関係ない。状況がパンを売る者の生産性を高め、購買者がそれを(リヤカーに乗せた札束であろうと)買った段階で、生産性が決定される。

吉野家のアルバイト店員と、ホテルのラウンジのウェイター。サービスの本質は変わらないのだろうが、生産性は異なるだろう。それでは生産性は何が生み出した?ホテルのラウンジという「説得力」と、そのラウンジを利用できるだけの可処分所得を持った消費者の存在(そして、その消費者を引き付け得る、ホテルのブランドなりの「説得力」ということだろう)「生産性」を生み出すのは、そこで働く労働者ではなく、その環境を造る経営者なのではないのか。日本の労働者の生産性が低いというのであれば、それは日本の労働者における問題ではなく、日本の経営者の問題なのではないだろうか。

などなど、グダグダと話し合った。


追記(令和2年4月5日):
wam-peace.org


*1:大日本帝国

*2:実は、十分にその恩恵によくしつつ

*3:まあ、最近の車はひっぱたいたところで影響を受けるようにはできていないだろうが

*4:いったい何のため!ここなんかも最早、合目的性を失って、ドグマの為に省庁が動くという、戦前からつながる日本型官僚制度の自動運動の恐ろしさが垣間見える

*5:法人課税を下げると、内部留保はたまる。なぜなら法人税が低いのであれば、企業は課税対象利益を計上でき、それは役員報酬や株主配当(ということは企業の株価高騰)につながり、そうした残りが内部留保となるからだ。逆に法人税率が高いと、企業は課税対象利益を圧縮しようとするので、当期の設備投資や人件費などに利益を分配する(労働分配率が上がる)。つまり、消費が喚起される

*6:第二次世界大戦以前に

*7:名古屋市が買わなくなるという事