市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

植松聖を生み出したもの

 前回の文章に対する少々補足的な回り道からお話ししたいと思います。
 映画「葛城事件」を見て気が付かされることは「対話の困難」だ。

 映画の中で、勿論会話は存在する、しかしそれが対話となっていない。
 観客はこの対話の無さ、困難さに辟易とする。(それが作劇の狙いであることは明白だ)

 知性は大切だ。しかし、必要な事は内省性だ。
 内省性とは、知性を、知性による批判を自らに向けることだ。

 「葛城事件」の作中に描かれる会話はどれもこれも意見の押し付けや我の表明でしかない。その言葉は空しく空間を滑って消えていくだけだ。

 人や人間の関係は対話によって「形を変えていく」
 それが社会性である。

 形の変わらない人間関係、自己変容を遂げられない人間は
 生き生きとした人間ではなく、消し炭のような、人格の形骸でしかない。

 三浦友和演じる「父親」は結局自己変容を遂げられなかった。
 誰をも受け入れることができず、故に彼の下からは誰も居なくなってしまった。


 排外主義とは社会の硬直である。

 「日本」の「本来の姿」などというものは無い。
 「日本」は外来文化に晒され、それを受け入れつつ変容してきた。

 日本古来の「かんながらのみち」やら「和魂」など、具体的に説明できるわけがない。
 *1


 形を変え、変容していくものが「日本」である。

 実は「日本」だけではない。およそすべての国は、変容していく。

 なぜなら、国や国家、それに民族といったものは「後付け」の概念でしかない。
 人間や社会(集団)が先に有って、それらがよりよく在る為にでっち上げられた道具が国や国家や民族と呼ばれるものであるに過ぎない。

 人間や社会(集団)の為に国や国家、民族があるのであって、その逆ではない。
 人間や社会(集団)を犠牲にする国や国家、民族などというものがあるとするならば、それは本末転倒の錯誤でしかない。*2


 自然界の生存ルールは「弱肉強食」ではないと述べた。
 「弱肉強食」という原理は刹那的に過ぎるのだ。

 「今、この時、ここ」という限定された環境下での優劣を問うのが「弱肉強食」や「市場原理主義」という幼稚な、子どもでも理解できる原理だ。

 しかし、生物(種)も、人間集団(国家)も、常に変化する環境に囲まれている。

 「今、この時、ここ」で最適な形質が、十年後にも有効であるとは限らない。

 つまり「弱肉強食」という原理が生存競争の中で有効でない理由は、「時間の評価に耐えられない」からに他ならない。

 これを勘違いして「弱肉強食」や「市場原理主義」を信奉する日本の企業は増えている。

 つまりいたずらに「生産性」を追求し、「効率」を追求することに血道を上げる企業だ。

 企業が追求する「効率」は「今、この時、ここ」における最適でしかない。
 将来的な市場や社会の変容にそれが耐えうるのか、それは疑問だ。

 実際、ちょっとした天災ですぐに操業に支障を来す企業(トヨタ)もあれば、重大な社会の変化に対応して批判を受けながらも貴重な社会インフラを安定的に供給し続けた企業(中部電力)もある。


 ここで必要なのは冗長性であり、多様性である。
 ところで、「日本」という国土は安定性、安全性には欠ける。古来から天災に晒されて、そうした天災すらも考慮して社会インフラを形成してきた。*3

 そうした意味では「カントリーリスク」が無いわけではない。しかし、それに対応した冗長性や多様性をもった社会インフラが残っている。この優位性を生かせば、人口減少社会においても、アジアにおいてそれなりの位置を占めることはできるだろう。(この社会的インフラの優位性に気が付き、ちゃんとアセットマネジメントを行える政府が続けばだが、例えばおおさか維新の政策は愚かなことに、こうしたインフラを手放そうとしている)

 しかし、今の日本(の有権者)は全く逆を向いているだろう。

 日本の有権者、それも大多数を占める無党派層と呼ばれる人々が、行政や政府に求めるものは、「行政改革」という行政の縮小であり、歳出削減である。*4


 さて、ここで前回の質問。
 「お金の価値はいつ生まれるのか」お答えはいただけましたでしょうか?

 「Modern Monetary Theory(以下では「MMT」と表記します)」の中に 「Taxes drive money 理論(租税貨幣観)」という考え方がある。

 The Basics of Modern Monetary Theory – alittleecon

 これを妙訳してくれている。
 Modern Monetary Theory の基礎 - Togetter

 ここでお金の価値が生まれる瞬間が明確に示されている。

 理論的には、誰でも貨幣を発行できる。問題は受け取ってもらえるか。政府が貨幣による納税を国内居住者に課すことで貨幣は受け取られる。貨幣納税を強制されれば、居住者は納税のため、貨幣を稼がなくてはならない。租税によって、通貨に対する需要が生まれ、通貨価値が確実になる。

Modern Monetary Theory の基礎 - Togetter

 納税にまつわる強制力が否応なく貨幣(通貨)に対する需要を生み、貨幣の価値を生み出す。

 
 この「MMT」という観点から見ると、税収や借入(公的債務)が政府支出を賄っている訳ではない。話は逆で、政府が支出を行うことで貨幣が流通し、租税という形でこの貨幣に価値が与えられ続ける。

 つまり、政府を賄うものは納税者ではない。

 よく、バカな運転者が交通違反などした際に「俺は年間何百万と納税しているんだ、お前ら警察官を何人か雇える額だぞ」などと訳の分からないくだをまくが、こうした考え方は根本的に間違っている。

 公務員は納税者の為にあるのではない、全体の奉仕者なのであって、それは納税の有無に左右されない。

(「納税者の為の政治」が実はいかに間違っており、危険で醜悪であるかは後述)


 こうした観察もある。
 http://empyrea.blog.shinobi.jp/mmp/mmp3
 3.近年の米国の部門別バランス―ゴルディロックス、世界金融危機、財政のパーフェクトストーム|Tout ça pour ça


 政府収支と民間部門収支、さらに貿易収支は常に足し合わせればゼロになり、その国が貿易収支においてプラスマイナスゼロであったのなら、政府収支が赤字であれば民間部門の収支は黒字になり、民間部門が赤字になれば政府収支は黒字になる。というものだ。

 今の日本は国や地方の政府部門は膨大な赤字を積み上げているが、それは民間部門の黒字(企業の内部留保)に移転しているにすぎない。

 この観点からすると、政府の歳出を削減し、財政を健全化させれば、政府収支は黒字に転換するのだろうが、同時に民間部門は赤字に転落するのだろう。


 「MMT」の考え方から言えば、「財政再建」や「均衡財政」など枝葉末節の議論に思える。そしてそれは現実をよく反映している。

 「MMT」の観点から政府に求められるものは「雇用」だ。
 その他の事はセクタ間のバランスであって重要ではない。焦点は実物資源であって貨幣ではない。

 こうした考え方は高橋是清55年体制下の自民党税制調査会のメンバーなどの意見に近い気がする。

 「経済」を単なる「金勘定」と捉えるのではなく、「経世済民」の方策と捉える考え方は、実物資源(社会資本も含む)とセクタ間のバランスに目を配り、完全雇用と安定した社会を目指した55年体制下の自民党の経済政策そのものだろう。

 それを壊したのは、小泉元首相の自認する通り、小泉・竹中改革だ。
 竹中平蔵の言葉を聞いていると、彼には「経世済民」の思想などなく、経済を単なる「金勘定」と理解しているように思える。そして決定的なのは雇用環境を破壊し、完全雇用を否定した事だ。(これによって「少子高齢化」は深刻化し、地域コミュニティーは破壊されている)

(追記: 「世界で一番派遣会社パソナが活躍しやすい国」へ竹中平蔵氏肝いり派遣法改悪-若者は「貧しさをエンジョイしたらいい」(竹中氏)、皆フリーターにし「オーディション型雇用」で「人材派遣が日本の基幹産業に」(南部パソナ代表) | editor )


「均衡財政論」は人口に膾炙しやすい。国家財政を家計に例える誤謬は今に至るも繰り返されている。(貨幣を貨幣であるから価値があると無条件に信じて疑わない非文明的な態度だ)

 そして社会的資源は有限であるという言葉も説得力を持つ。
 古くは「ローマクラブ」における「成長の限界」が持て囃されもした。

 いまだに主張される「均衡財政論」。やれ「税の負担を軽減させるために、行政改革を行う」だの挙句の果ては「首長や議員、職員の給与を切り下げて行政支出を賄う」などというバカで空虚な発言もみられる。(東京都知事選挙でもこうした言葉を発する内の一人が最多得票を得ている)

 ここにあるのは、ナチス・ドイツの優生思想プロパガンダポスターだ。

 「60000ライヒマルク この遺伝病患者に生涯これだけの負担が社会にかかります。同胞のあなたのお金です」

 つまり「納税者の為に、社会の負担となる遺伝病患者を排除しましょう(殺しましょう)」というポスターだ。そして、実際にナチス・ドイツはこうした遺伝病患者、先天性疾患の罹患者を虐殺、排除した。


 驚くべきことに、こうした考え方は今も、この日本においても生きている。

 考えてみてほしい。知的障害者を生かしていて何の得があるか?まともな仕事もできない、そもそも自分だけで生活することができない。(略)つまり平時においては金食い虫である。

 (略)そんな状況では国民の税金が無駄に使われるのがオチである。無駄な福祉費を使わなくて済ませることが国家に対する重大な貢献となる。だからこそ植松が言うように障害者はいなくなるべきなのである。

 (略)日本を良くするためにも(略)少しでも負担を少なくするためにも正しい政策を実行しなければいけない。そしてそれに逆行する政治家は正義の鉄槌を下さなければならない。

重度障害者を死なせることは決して悪いことではない: 愛国を考えるブログ

 http://archive.is/7wyoy


 ナチスの優生思想から一歩も出てはいない。

 国民の税金は無駄に使われている訳ではない。まず、それは職員などの雇用を生み出しており、彼らの生活(消費)は経済を生み出しているのだ。

 先に述べたように、彼ら障碍者を含めたすべての国民の為に国、国家があるのであって、その逆ではない。「MMT」という経済原理からいってもこうした優生思想は間違っている。

 残念なことに、上記のブログは「自民党のサポーター」らしいが、自民党にも異なる意見もあることは取り上げておこう。

 思うこと | 野田聖子オフィシャルブログ「ヒメコミュ」Powered by Ameba




 小泉・竹中改革が生んだデフレ経済。縮小均衡の社会が、この日本の経済を、社会そのものを縮小させている。人々はこの縮小に息苦しさを感じている。
 竹中平蔵が破壊した雇用は(そして、雇用を破壊したおかげで竹中の会社(人材派遣業/口入屋)は活況を呈し、竹中自身は高額の報酬を得ている)この社会の息苦しさに、将来の不安を加えている。

 法人税の軽減は企業活力など生まない。
 逆に、漫然と内部留保(課税対象利益の計上)を積み上げさせ、企業から投資意欲や起業活力を奪い、企業運営は企業の運営ではなく、資産勘定、利益率の追求のみに邁進する経営者を生み出している。

 国家間の法人税率競争などない。法人税を下げなければ、企業が海外流出するのであれば、タックスヘブン(企業課税の事実上ゼロ)の存在と、それでも国内に残る企業の説明がつかない。国家間の法人税引き下げ競争などに参加する必要はない。逆に国際的な傾向は、こうした脱税行為に対する対策であって、そうしなければ、国家の持つ貨幣発行権そのものが脅かされる。


 国民の圧倒的多数は無産階級である。

 有資産階級がどの程度の課税負担をしているか、注目すべきだ。

 そして、政治とは(納税者の為の物ではなく)この無産階級の為のものであると知るべきだ。圧倒的多数の無産階級は連帯し、再配分を求めるべきだ。*5

 野党(民進党共産党社民党)が選挙に勝てないのは、彼らが国民(無党派層)のニーズを把握していないからだ。

 国民(無党派層)は、政党に対して懐疑的だ。政党は自分たちだけの「既得権」を守るために活動していると無党派層は見ている。そして彼らは政府と自分たちは、対立概念であると考えてしまっている。(自分たちの実入りの少なくない比率は、政府支出から来ている事に気が付いていない)

 野党が政権を取りたいのであれば。

 政府と国民(無党派層)の利害は一致する、それを一致させるのが政党、政治家の役目であると宣言すべきだ。

 再配分を主張すべきなのだ。

 「政府の責任は国民の完全雇用である」と力強く宣言すべきだ。

 「高齢者の生活も政府の責任である」と力強く宣言すべきだ。

 縮小均衡の均衡財政論や、貨幣の価値を盲信する市場原理主義*6から決別すべきだ。


 若者に、希望をもって明日を考えさせ。
 老人に、安心をもって明日を憂えさせない。

 そんな政府を再建するべきなのだ。


*1:それが具体的に説明できるとする者は、すでにその段階で自己矛盾している。言挙げしようとする段階で「かんながらのみち」を踏み外しているのだ

*2:しかし、こうした錯誤は古今東西を問わず数多く起っている。人間の知性の限界というものだろう

*3:この辺りは、松岡正剛の「フラジャイル」辺りを参照

*4:相変わらず

*5:いま、この時の資産の配分は、必然ではない。単なる偶然による歪でしかない。市場原理など気まぐれな女神でしかないのだ。人間の英知はこの気まぐれな女神に抗うべきだ。

*6:まるで、畳の下に札束をため込みながら餓死する孤独な老人のようだ