市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

過去を顧みないものは、現在にも盲目となる

1.破棄される「友好」のモニュメント
2.あいちトリエンナーレについての知事コメント
3.文化庁の『責任ある方』とは誰だ?
4.「歴史修正主義者」に語る言葉

1.破棄される「友好」のモニュメント

 バカは、自分がバカであることが解らないからバカのままで居られる。そして、自分のバカさ加減に一生気が付かないために、恥を感じることもないし、後悔もしない。そういう意味では幸せな一生を送れる。おめでとうございます。

 さて、こういった出来事はなんと理解すれば良いのだろうか。

“友好の証”処分…名古屋市が姉妹友好都市から贈られたモニュメント6基を廃棄「劣化したため」(東海テレビニュース)


 名古屋市久屋大通公園の再整備に伴い、姉妹友好都市から贈られたモニュメント6基を廃棄処分していたことがわかりました。

 名古屋市が今年1月から再整備をしている久屋大通公園の北エリアには、姉妹友好都市から贈られたモニュメントが合わせて10基設置されていました。

 名古屋市によりますと、このうちメキシコ市の「アステカの暦」やシドニー市の「英国船シリウス号のいかり」など6基をすでに廃棄処分したということです。

 廃棄の理由について、市は、「劣化し破損や腐食しているため」としていて、南京市から贈られた石の柱「華表」など一部を除いて処分する方針です。

 不十分な管理で友好の証を失ったことに批判の声が上がっていて、河村市長は18日の市議会で「今後残せるものは残す」と話しています。

https://www.tokai-tv.com/tokainews/article.php?i=98102&date=20190918

対象となったのは「姉妹友好都市記念広場」のこの10件のモニュメントのようだ。

姉妹友好都市記念広場 - 名古屋姉妹友好都市協会

megalodon.jp

原因を「劣化したため」としているそうだが、「劣化させた」のは名古屋市だ。

名古屋市は科学館に露天展示(雨ざらし展示)していた。B6を「動態展示」しようと、業者に7800万円かけて調査させている。

あのB6を動かす? それも「ヒトを乗せて動かせるレベルに修理する」?なんて、それこそ常識で考えれば無理なことは判る。(なにせ、野ざらしになっていて、表面からバリバリ剥離しているのが判るし、内部のボイラーなどはもっとひどい状態だろうことは想像に難くないからだ)結果として、ボイラーを再建して動かそうとするのなら4億8000万円かかるとの結果が出た。

これは海外の事例だが、17年の歳月を費やして、500万ドルで蒸気機関車を「復元作成」した例が紹介されている。

www.businessinsider.com

つまり、まったく新規に作るのと同じことなのだ。

なんだろう。これでも「当時の物と同じように作ったんだから「本物復元」とでも言うのだろうか。復元は復元だろう、どこまでいってもイミテーションだ。「本物」ではない。*1

復元には復元の価値がある、本物には本物の価値がある、その両者は違う価値なのだ。
なぜそんな簡単な事が解らないのだろう。まあ、解らない者には解らない。解らないからバカなのだ。


復元だの本物だのの前に、その「物」の経緯というものがあるはずだ。ましてや「友好」を顕すための公的な物であれば、その価値は別のものでは代え難いはずだ。しかし、そうした価値が解らない者には解らない。

追記:なんか大切なセンテンスが抜けていた。
指摘を受けた。

こんなバカげた事に使うお金があったら、大切な友好姉妹都市のモニュメントの維持管理費に割いていれば、劣化させることもなければ破棄することもなかったのではないかということだ。


2.あいちトリエンナーレについての知事コメント

さて「あいちトリエンナーレ」について、当ブログでもあれこれ言ってきたが、大村愛知県知事・あいちトリエンナーレ実行委員会会長のコメントが最も得心がいく。

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について (2019年9月10日 あいちトリエンナーレ実行委員会会長・愛知県知事 大村 秀章)

まず、中止の理由については河村市長や菅官房長官などの発言、さらに有象無象の政治家から寄せられた意見が原因ではなく、あくまで重篤な犯罪を想起させるような電話、ファックスによって防犯上の判断が必要と考えられたと説明されていて、ここには納得がいく。特に、「京アニ事件」の直後でも有り、あの展示場の形態(完全に袋小路となっている)を考えても、仕方のない判断だったと思える。(その後の検証委員会でも、展示場が小さすぎた、または、展示作品が多すぎたという意見があった)

その上で「表現の自由」についての知事の見解はスタンダードなものであり、河村市長とは一線を画し誰しも納得できるものだろう。

特に次の一文は。このまま教科書や公務員試験の教材にしたいぐらいの代物だ。

 憲法は、表現の自由だけでなく、19条で思想・良心の自由を保障し、14条で法の下の平等も保障しています。したがって、公権力は、補助金の交付といった便益の供与・サービスの給付的な局面で用いられる場合でも、こうした基本的人権に反することが許されないことは当然です。そして、表現の内容、思想や良心に立ち入り、表現や思想等の内容次第で便益の供与やサービスの給付の取り扱いを判断し区別することは、これら基本的人権の保障に反することは明らかです。公的な場であるからこそ、多様な表現が保障されるべきことが、憲法の要請と考えます。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

私はこちらの文章で「三権をふるうものは『全体の奉仕者』として、自身の『思惑の空間』から離れ、誰もが共有できる公共空間を構成しなければならない」と述べた。

政治家が私的にどのような思考をしようと、発言をしようと、自由*2だろう。しかし一旦公的な立場となった場合には、公的な発言を行う義務を持つ。そうした制限が嫌ならば公職を辞せばよいわけで、公職には就くが、わがままを通すというのではガキの振る舞いだ。


今回、名古屋市会でも、この問題が取り上げられたようだ。

減税日本の田山市議も本会議における個人質問をしたようだが、事実誤認があったようで大村知事から名指しで批判されている。

(44分20秒のあたり)

t.co


田山市議の発言は河村市長の発言と同工異曲のようで意味がない。
死ぬまでこうした過ちに気が付かないままで居てくれ。


自民党藤沢市議については私は2点異論がある。(歴史認識については、議論しない)

聞いていると「表現の自由にも制限がある」ということで、昨今のヘイトスピーチでも同じではないかとの発言もあったが。例えば私は、あのヘイトスピーチを行うような団体が、どこかホテルの会議室を借りて、好き勝手に騒ごうと、気勢をあげようと自由だと考える。

つまり、表現には当然その様態というものが密接に意味を与えるのであって、閉鎖された空間であり、それに触れることで不快になる者(または、そう推測できる者)に対して、十分な配慮がなされているなら自由であろうと考える。

その表現行為(オブジェなどの作品)の存在そのものだけでは意味を持たない。表現行為と観覧者の関係性が大切なのだろう。

いわゆる、昨今の「ヘイトスピーチ」で問題なのは、そうした当事者たちに向かって「憎悪表現」を投げつける行為が、投げつけられた人々の「被害」を生み出してしまうという事であって、それを夜中に金城ふ頭でやるのなら、どうぞご勝手にと思う次第だ。

そういった意味からすると、日本政府が韓国政府に大使館前に設置された当該少女像の撤去を求めていることについては一定の理解はできる。しかし今回のように閉鎖された空間で展示されることまで抑圧する事は政治的には逆効果であると考える。

次に藤沢市議は「美術祭」なら「美術」でなければならない。と言われた。この「不自由展」の作品については「美術」とは認められないので、「美術祭」での展示にそぐわないと。残念ながら政治家が「よい美術」「わるい美術」を選別するといった場合、歴史の上には良い例はない。

ソビエト連邦や、その前の国家社会主義を標榜して歴史に消えていった国のように、政治家が「美術」を「よい/わるい」で選別することは、歴史的には良い傾向とは言えないとだけご指摘しておきたい。

共産党の田口市議の発言について、河村市長の反論にはしびれた。

出ましたね「吉田発言」

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


ここで批判している「部分否定」の誤謬だ。本当につくづくわかりやすいバカだ。

伝統と格式のある名古屋市の市会議事録に「吉田証言問題があるから、従軍慰安婦問題は存在しない」というような趣旨の発言が残るとすれば、これは凄い。表現の自由を尊重する立場から、ぜひ残すべきだと思う。なんなら、ぶっ壊したモニュメントの代わりに、その議事録を銅でエッチングして飾ろう。発言者の名前も明記して。そして皆で指を指して笑おう。末永く。


「発言の自由と、それへの批判について」ちょっと付言しておくと。

一つの発言に対して、それを「批判」すると「表現の自由ではないか」と反発するのは間違っている。発言に対して「批判」という表現行為が投げかけられるのは、これも表現の自由である。特定の発言を途中で遮るのであれば、表現行為を制限する抑圧だろうが、その発言を許した上で、批判をするのは、当初の発言者の表現の自由を認める行為だ。

表現の自由」を「表現に批判を受けない権利」と解釈するのは間違っている。

3.文化庁の『責任ある方』とは誰だ?

さて。

本日の中日新聞に、昨日(9月20日)に行われた名古屋市会経済水道委員会の模様が書かれている。この記事によると、名古屋市名古屋城天守の「先行解体の申請」を取り下げない方針のようだ。この「先行解体の申請」に「天守木造化の申請」も加えて、一体申請とするというような説明をしている。

色々な契約問題やら、触法性を考慮すると、こういった回答になるんだろう。

正直言ってよくわからない上に、高いハードルを飛ぶための足元がぬかるんでいるので、更に水を撒いているように見える。結構な傾向です。

河村被告は「文化庁の『責任ある方』と電話でやり取りした際に助言されたことだ」と繰り返したらしいが、そんな言葉をこの期に及んで信じるとすれば正気を疑う。

そもそも「臨時の特別部会で、早急に回答(許可)を出す」と文化庁から言われていたのではないの?その「臨時の特別部会」やら「早急の回答」という言葉を伝えたのも、この「文化庁の『責任ある方』」なら、騙される方が無能でバカだ。

委員から「今後の市長と文化庁との電話連絡については正しく記録を」と念押しされるとは、情けない。というか、もう、割れてるでしょうよ。

別の委員から「10月の審議会で申請が不許可になる」という観測を質したら、市長は「不許可は絶対に有り得ない」と断言して「生死を懸けて臨む」と回答したそうだ。

安い命だ。

春には「切腹」と言っていたが、知らない間に「自分が切腹」ではなく職員に切腹を求めるような話になっているし、この「生死」も自分ではなく職員の誰かの「生死」なのだろうか?

21世紀の今、政策の失敗で「死ね」とは言わない。しかし、「生死を懸けて臨む」というのなら、そめて「政治生命」ぐらい懸けられるのですかね。

減税政策についても、「10%実現できなければ堀川で泳ぐ」「名古屋港で泳ぐ」と公言していたが、そうした公約は実現されていない。

まさに「エドマンド・バーグ」*3である。安い命だ。


結果として、河村たかし被告にとって、成果は自分の手柄だが、失敗は誰かの責任でしかなく、彼の頭の中、お花畑が広がっている頭の中では、河村たかしは間違えたことが一度もないし、負けたことも一度もないのだろう。(間違いも、負けも、全て焼酎で洗い流して忘れてしまうのだろう)

4.「歴史修正主義者」に語る言葉

私は、「歴史修正主義者」にどのように語ればよいか、わからないでいる。「歴史修正主義者」というのは、頑なな思い込みに囚われてしまって、事実が全く見えていない。

歴史修正主義者」とはオルテガのいう「大衆」の一形態だ。

歴史修正主義者」は批判されても、それを顧みて思考することができない。自身に対する批判について、批判者の思惑やら利益を勝手に想像して「こととして自分を批判しているに過ぎず、その言葉には正しさはない、聞く価値はない」と排除することによって、自己防衛する。こうして自分の発言は無謬となる。(「歴史修正主義者」が陰謀論と親和性があるのもこうした理由だろう)

上の「発言に対する批判は表現の自由への圧力だ」というような考え方も同根だ。
自身の発言と、その批判という「論点」に着眼せず、自分が批判されたという「形態」に着眼する。そして、相手は表現の自由だとか言っているくせに、自分の表現を抑圧している。相手は矛盾している、間違っている。というわけだー形態としての対論者の矛盾(本当は矛盾は成立していないが)を指摘し、対論者の「過ち」を証明できれば、議論は自身の「勝ち」で終了というわけだーろうか。そして、本来の「論点」については考慮しないままだ。

オルテガは過去の人々、「死者」を再考することで、刹那的な社会運営や制度設計を批判した。社会が時間の経過とともに流動的に動いていく中で、「今、ここ、自分」だけにとらわれる社会運営や制度設計は脆弱にすぎる。

数十年、または100年程度のスパンで社会を考えなければ次世代の人々に万全な社会は手渡せない。

そしてまた、ありがたいことにこの半世紀以上、戦争を*4味わうことがなかった日本という国、社会に住んでいる人間は、この「平成」という不戦の世代を生み出してくれた人々に感謝を感じるべきだろうし、その苦労を偲ぶべきだ。

確かに死んでしまった人々は、現実に今、存在しない。その人たちの想いなど、今、この時に現実には存在しない。それよりも、自分の、今の、主観的感覚のほうが間違いなく存在し、自分を動かしている。

先人たちが積み上げてきた姉妹都市だろうと、友好都市関係だろうと、知ったこっちゃない。それよりも、自分の勝手な「歴史修正主義」の思い込みのほうが大切だし、自分が好きなSLの調査のための予算の方が大切だ。

「史実に忠実な再現」であり「史実に忠実」であるが、その名古屋城に起こった、昭和20年の事実と、昭和34年の事実はまったく無視をする。無かった事にする。

これが「歴史修正主義者」のメンタリティだが、自身は永遠に解らないままだろう。


「●●ちゃん、鼻の頭になにか着いているよ」
「え?そんなわけないよ」
「着いているって、鏡見てみなよ」
「そんなわけないから鏡も見ないよ」

永遠に、鼻の頭に「ナニカ」着けて歩いていかれればよい。

あなたには「恥」という言葉は関係ないのだから。


追記:

司馬遼太郎日露戦争から太平洋戦争に至る期間を「奇胎の四十年」と名付けた。日本は皇国史観を建てやがて亡国に至ってしまった。

太平洋戦争を引き起こした軍部、日本政府、日本社会のリーダー、そして国民に至るまで、そこには大きな慢心を感じずにはおれない。当時の日本人が愚かであったなどとは思わない。
当時の日本人が、たまたま愚か揃いであるから、ああいった結果に至ったのであって、今の自分達は違う。などと考えるものは、多分、当時の彼ら以上に愚かだ。もっと愚かしい者も居る。つまりは、こうした亡国の実情すら、反省を持って見つめないものだ。そうしたものが歴史修正主義に走り、微かでも日本国の誤謬を糊塗しようとする姿は、愚かしさを通り越して哀れでもある。

歴史から得られるものは異なるが、歴史そのものは変えられない。

太平洋戦争直前の日本人、日本社会の一つの傾向に。歴史への学びが単眼的であったということが言えるだろう。キリスト教一神教思想を導入してしまった日本神道の歪んだ解釈は、排除、排外を生み出して「国家主義」を視野狭窄の傲慢なモンスターに変えてしまった。

国家、そしてその象徴としての国旗や国歌は、国民の底から湧き出ものでなければならないはずだ。

ちょうど現在、ラグビー・ワールドカップが行われている。ここでニュージーランド代表が披露する「ハカ」は、「戦いの踊り」ではあるが、その意味するところは、先人たちを思い、同胞を思う気持ちであって、こうした過去や、守るべきものへの思いがあるからこそ、それを象徴する国歌に力が与えられるのである。

それは逆であってはならない。

www.youtube.com

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pukana

名古屋城天守復元60周年祭」

 日時 : 10月21日 (月)  午後6時より
 場所 : KKRホテル名古屋  4階  菊の間
 
   (中区三の丸1丁目5-1 電話:052-201-3326)

 会費 : 無料(カンパは大歓迎です)
 参加資格:名古屋城天守の60周年を祝いたい心

 内容は、名古屋城天守の歴史や、現在の木造化事業についてのお話や、ご参加いただいた方々のフリースピーチになる予定ですが、何よりきれいに名古屋城天守が見られる部屋から、その威容に触れ、60年の感謝を捧げたいと思います。お気軽にご参加ください。


月に一回程度、北区にある「北生涯学習センター」で「名古屋城有形文化財登録を求める会」の月例勉強会を開きます。

10月4日(金) 18:30~20:30 第1集会室
11月11日(月)18:30~20:30 第1集会室

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。



名古屋城天守閣木造化事業基本設計代金支払い住民訴訟

次回、第四回公判は10月9日(水)午後2時より
名古屋地方裁判所 第1102法廷 です。
(傍聴希望の方は、15分前に整理券が配られ、抽選となる場合があります。お早めにお越しください)


*1:いい加減に「嘘」はやめよう。これでも元画商なのか?というか、そういう「画商」か?

*2:発言の自由と、それへの批判については特に後述する

*3:偽善者は素晴らしい約束をする、約束を守る気がないからである。それには費用も掛からず、想像力以外の何の苦労も要らない。

*4:直接は