市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

参議院選挙雑感

 いよいよ参議院選挙も終盤を迎えた。
 ほとんど結果は見えてきているように思われる。

 また、このブログを読まれる方は、よもや減税日本には投票されないだろうから、ここで減税日本の問題を指摘しても投票行動に影響はないだろうと思われる。

 興味があるのは、名古屋市内で減税日本、及び「おおさか維新の会」が得票シェアの8%を確保できるのかというところだろう。

 この線が、多分「河村」の呪縛、中日新聞、T記者の名古屋市民にかけた「呪い」の影響ラインだろうと思われるからだ。

 結果として河村たかし名古屋市長は、名古屋に何を残すのだろうか。
 または、政治団体としての「減税日本」という存在は何だったのだろうか。

 よく言って「齟齬」その実態を見れば、まったくの嘘八百を並べ立てた、政治的詐欺でしかなかったと言えるのではないだろうか。


 民主主義は万能ではない。他に適当な制度が無い。独裁政治や寡頭政治が、現代の民主主義よりも優れた制度とは言えない事から、消極的な選択として民主主義は選ばれているに過ぎない。

 真の民主主義が訪れ、人々の政治的意向が正しく社会に反映されたら、バラ色の社会が生まれるなどというのは幻想に過ぎない。

 ヒトは容易に判断を間違えるし、社会に対する理解も万全とは言い難い。

 そのような個々人が、無責任に集まったのが現代社会であるならば、過誤の総和である民意が絶対真であると推定するのは無理がある。

 民主主義が独裁政治や寡頭政治よりも優れているのは、その意向選択が、より多くの人々の意見によって練り上げられた結果だからではない。そんなものは容易に集団的過誤、集団ヒステリーによって、誤った結論に至りうる。歴史はそれを繰り返し教える。

 民主主義が優れているのは、そうした政治的判断が、常に批判に開かれているという一点に尽きる。

 正しい選択ができるのではなく、誤った選択について、誤りであると認められること。

 これが民主主義の優れているところだ。

 そうした意味で、批判に開かれておらず、政治的判断の結果について正当な検証を受けていない政治的言説は、民主主義的な政治的言説ではなく、単なる妄言でしかない。

 河村たかし名古屋市長を選択し、減税日本という政党まで生み出したT記者をはじめとする中日新聞の言説は、検証されなければならない。


 しかし、本人である河村たかし名古屋市長や減税日本政治的主張には、検証に耐えうるだけの物があるだろうか。

 河村たかし名古屋市長候補として3回、「マニフェスト」を掲げている。

 この「マニフェスト」に掲げられた「約束」はどれほど実現したのだろうか。

 平成25年の「マニフェスト」には「名古屋市政4年の成果 マニフェストの9割以上を着手」と大書されている。ここにいう「マニフェスト」は平成21年4月、及び平成23年2月の「マニフェスト」であると明記されている。

 http://genzeinippon.com/manifesto201304explain.pdf

 さてさて、「着手」されたものの「成果」はどれほど上がったのだろうか?

 名古屋市内の高速道路は無料化されただろうか?
 地域委員会はどうなったのだろうか?
 消えた年金の独自調査や、住基ネットの独自検証はどのような結果になったのだろう。

 先に「まったくの嘘八百を並べ立てた、政治的詐欺」と言ったが、この表現でも穏当とも思える惨状だ。

 こうした「マニフェスト」の一環が、「4大事業のストップアンドシンキング」であり、その結果が西部医療センターの工事遅延と、名古屋市が日立から訴えられた遅延損害金の発生である。

 河村たかし名古屋市長候補が自ら訴えた政策と、それを市民に広めた中日新聞には、あの工事遅延が正しかったのか、責任をもって検証する義務があるだろう。このままでは名古屋市が、名古屋市民がこの遅延損害金を負担することになる。それは正しい事なのだろうか。

 また、ひょっとすると、この遅延損害金は1億5千万円程度で済んだ可能性もある。これがそれ以上になった場合、その金額の拡大は、誰のどのような判断によって生まれたものか、それも名古屋市民に正しく知らせるべきだろう。


 河村たかし名古屋市長は「減税してもなお、日本一の福祉のまち」と言っているが、本当だろうか?

 市民に対する福祉とは、何よりも、安心、安全な生活を保障することだろう。
 ところが、今回の名古屋城問題であらわになったように、名古屋市内には十分な耐震性能を満たしていない市営住宅がある。そして、その危険性は5年も前には把握されていた。

 この5年間、河村たかし名古屋市長は、市営住宅に住む市民を危険な状態に放置していたのだ。
 そして、放置しつつ、名古屋城の建て替えだけを議論していたのだ。

 こうした姿をバカと言って何が悪いのだろうか。
 このような無責任な市長をうつけと言わずに、何をうつけというのだろう。



 最近名古屋の街は「薄汚い」
 歩道や街路樹は手入れがされず、デザイン博の頃などに設置されたモニュメントもメンテナンスがされていない。最近毎日、広小路を歩いて通勤しているがせっかく地下埋設されている配電設備の、地上に出ている(多分、トランス)のカバーが半壊したまま放置されているものもある。

 また、堀川の導水事業は停止したままだ。堀川はまた、暑い夏を迎えて、悪臭を放つ川になってしまっている。

 そうした積み重ねの結果が、これなのだろうか。

 http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000078566.html


 当たり前の事を当たり前にやっていれば、都市は魅力を発揮するだろう。
 ただやみくもに魅力を出そうと力んでみても、当たり前の事が為されていなければチグハグで乱雑な印象しか与えられない。そしてそれは薄汚く写り、魅力を削ぐ事になる。

 名古屋城を木造化するというような、宝石を身に着けることよりも、体を清潔に保ち、当たり前の生活を市民が生き生きと生きている方が、都市の魅力というものは自然と湧き出て来るものなのではないのだろうか。


 今回の参議院選挙において、減税日本の候補が「Tax Payerの為の政治」を訴えている事について触れておこう。

 バカなんじゃない?

 先の市議選において「市長を助ける男/女」という、地方議会・地方自治を真っ向から否定するような公約を掲げて恥というものを知らない無知を晒したが、今回もよくもこれほどバカな主張ができるものだと関心をする。

 評論家の池田信夫「高齢者、年金受給者には選挙権を与えるべきではない」と言ったそうだ。池田はこうした発言が反発を招くだろうと予想して「一つの学説として」とエクスキューズ、保険をかけているが、「Tax Payerの為の政治」などという主張はこれに近い。

 税金を納めているものだけが、その税の使途を決める政治的決定権を持つという「制限選挙」を志向する言説が「Tax Payerの為の政治」という言葉に他ならない。

 これは新自由主義的な、「自己責任論」的な、現代的な政治志向に近い言説だろう。

 フリーライドを許さず、受益者は義務を果たすべきだ。という自由主義の原理に正直な考え方だ。

 しかし、こうした言説は歴史を知らない「ネトウヨ」程度の思考の浅い考え方でしかない。

 理由を説明しよう。
 この世には税金を納めている者と納めていない者がいる。

 早い話が十分な儲けを上げていないか、資産を持たない者は税金を納めていない。
 では、こうした者は政治に関わってはならないのだろうか。
 社会の成員ではないのだろうか?

 そんな事は無い。

 ある者が儲かっているか儲かっていないかは、経済や社会変動による全くの気まぐれの結果に過ぎない。

 さらに税とは恣意的な制度だ。誰がそれを負担し、誰が負担しないか、それは恣意的に決められているに過ぎない。

 経済や社会変動による個々人の生活に対する脅威、これを軽減するものが共助や公助といった政治の働きであり、こうした再配分が社会を安定させ、経済の循環を維持する。

 トマ・ピケティが指摘するように、自由経済が調整機能も無く続けば、格差は拡大し社会は持続可能性を失う。ロールズのいうように、社会の成員は自らの立場を越えて、政治的選択をするべきだ。自身が今、納税ができる恵まれた立場にいるからと、納税者に有利な社会を再構築しようとする志向はこうした社会正義にも悖る行為だ。

 呆れたことに中日新聞7月6日掲載の「各党に聞く」インタビューにおいて、河村たかし減税日本代表は「貧富の差が広がっており、うまくいっているとは思えない」と述べている。

 格差が広がることを否定するのであるならば、「Tax Payerの為の政治」などという主張は自己矛盾だろう。

追記:「家事労働者をどう捉えるのかという視点も欠けている」という意見をいただきました。

 この候補や減税日本はどんどん追い詰められることになる。

 なぜならば、代表自体がこうした矛盾した主張をしているために、党員は政治的主張を維持できない。
 この選挙戦で、減税日本の演説が最も空虚な理由もここにあるのだろう。

 最後に減税日本参議院候補が雇用について述べていたが、河村流減税制度では雇用は創出できない。逆に雇用を奪ってしまっているという原理を説明しよう。

 河村流減税論の特異なポイントは減税の財源を歳出削減で賄うとしている事だ。
 例えば100億円の歳出を削減したとしよう。
 そうすると、この100億円の公共事業が無くなることになる。
 実際に名古屋市は公園や道路整備などの歳出を削減している。
 すると、こうした事業に従事していた人々の雇用は失われる。
 実際に名古屋市から公園整備を請け負っていた会社が雇い止めを行った例がある。


 名古屋市の歳出100億円とは、それを受ける業者にとっては100億円の売り上げなのであり、それが削減されれば雇用は失われる。

 さて、こうして捻出した100億円が減税される。

 減税において利益を受けるのは納税者という事になる。

 名古屋市内で最も税金を納めているのはインフラを提供している某巨大企業だ。
 こうした企業はでは減税で雇用を生み出すだろうか。
 一端、黒字を計上してしまった企業はそれがストック(内部留保など)に回ってしまうのであり、消費の循環には乗りにくい。

 こうして企業や個人に回されたお金は一定程度の貯蓄に代わり、経済循環からは外れてしまう。これが「消費性向」という係数の原因だ。

 歳出として支出される100億円は100%経済の循環に乗る。
 しかし減税で戻される100億円は一定程度しか経済の循環に還らない、そしてそれが雇用を生み出すにはまだまだ迂遠な理路が必要となる。

 河村流減税政策では、歳出削減によって雇用を削減する以上に雇用を生み出すことはできないのである。



 減税日本参議院候補には同情する。
 つまりは「おおさか維新の会」の比例候補に票を積み上げるための、掘り起こし候補でしかない。その為にろくな政治的議論もプランニングも受けていないだろう。

 単に利用されているに過ぎない。

 その構造があるから、前回の候補者は二度目の挑戦を行わないのだろう。

 減税日本河村たかし代表の下からはどんどん人が離れていく。

 その理由は、河村たかし代表自身が批判に開かれておらず、その場その場で言い逃れのような発言を繰り返し、そうした発言が相互に矛盾していくことに無頓着だからだ。

 河村たかし代表は良いだろう。そうした矛盾に、また口から出まかせの誤魔化しを重ねて、議論を避け、逃げればいい。しかし周囲の者はそういう訳にはいかない。そうした矛盾点を追求され、反論もできなくなる。主張もできなくなる。

 まあしかし、「市長を助ける」と自己選択した結果なのだから、そうした結果も「自己責任」として受け止める以外にないのだろう。