市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

自由っていったい何だ

 まるで尾崎豊の歌詞じゃないですが、今日のブログのタイトルは「自由っていったい何だ」に決めました。この言葉にまつわる話で、今でも怒りで体が震えます。

 自由をはき違えている者は誰か。
 それは後に。

 本日、定例の名古屋市長会見がありました。
 次期総合計画のシンポジウムなどの話題もありましたが。
 http://www.city.nagoya.jp/shisei/category/66-7-3-6-0-0-0-0-0-0.html

 予定外に市長から「常勤民間アドバイザー」公募の発表があったようです。
 なんでも産業振興やらエンタテインメント、行財政改革の分野など、民間から職員を登用して対応をしていくとの事で、待遇は課長級で、任期は一年、職制としては各局に置かれるが、市長室の横に机を置いて働いてもらうとの事です。
 これは市長選マニフェストの1−(4)に謳っていたことの実現なのでしょうが、果たして制度設計が上手くいきますかどうか。(ちなみに既に設置された「政務秘書」は市長選マニフェストの1−(8))
 同じマニフェストに掲げた公約を果たすのであれば「南海トラフ地震防災チーム」の方が優先順位が高いんじゃないかと思うんですけどどうなんでしょうね。

 記者からも指摘されていましたが、一年以上もたって、なぜこの時期?それも民間登用となると、通常は年度の境を見越して動くのではないの?

 それに「民間登用」というと今では大阪市立学校の民間人校長の登用問題が連想される。あちらはあまり芳しい結果になっていないというのに、その轍を踏みに行くのだろうか?


 などなど、先週とは打って変わって話題が豊富でした。
 記者から不祥事が相次ぐ市バスの問題についても質問が投げかけられていました。

 対策を聞いてみても具体的な話はなく、話題が基幹バスレーンの無塗装問題(市バス基幹バスレーンが赤塚交差点で国道19号線と交差する。この部分は管理が国の所管となり、基幹バスレーンの塗装を名古屋市が勝手に行う事が出来ない。その為にバスレーンの取り違いにより、市バスが逆コースを走行するという事例が起き、マスコミなどでも大きく取り上げられた)にズレても市長として国に要請をすることは無いのかと記者から追及される始末。
 最後は「責任者である市長として市民に伝える言葉は無いのですか」と暗に謝罪を促されると、なんと!

 目ヤニを取りつつ(泣いていたわけじゃないですよね)「申し訳ないとは思っていますよ」ときた。

 本当に、ヒトに頭を下げることができない人だね。*1

 まあ、この様子は動画を見て判断してください。


 さて、私が怒っているのは別の話題。

 日本維新の会の分党を受けて、河村市長は大阪の橋下市長、東京の石原慎太郎代議士のどちらと連携をするのかという質問が投げかけられた。その中で自主憲法を巡って分党した中で、河村市長は改憲を主張している訳で、そうした事情を見ると護憲派の人々との連携は難しいのではないかという意見がだされた。

 これに対して河村市長は原発に対する態度、憲法に対する態度、そして減税政策と三つのフィルターを通すと、自分と同じ意見のヒトは居なくなると答えた。
 そりゃ、居なくなって当たり前だ。*2
 河村市長は(自由主義者として)
   原発政策ついては反原発
   憲法改正については改憲
   そして減税。
 であるという。

 河村市長も認めるように、自由主義者 ―国家主権を否定する立場の人々― にとっては、原発政策は国家主権による原発設置地域への抑圧と捉えられるから*3原発になるのは理解できる。*4

 しかし、国家主権を否定する自由主義者は国の交戦権も認めない。国の交戦権によって、徴兵などで個人が国家間の戦争に巻き込まれることを由とはしないのが自由主義者だ。そういう意味で河村市長が言うように「反原発という人は大抵護憲になる傾向がある」というのは正しい。「自由主義者」として論理的整合性がある。

 逆にいうと、反原発(反国家主権)と言いながら、憲法改正=自主交戦権の保持(国家主権の強化)をいう河村市長の主張が異常であり、論理的整合性を持たないのだ。


 自由主義、または「リベラリズム」という言葉は歴史の変遷とともに意味を替えている。

 しかし、一般的な解釈では個人の自由意思を尊重し、政府の統制(国家権力)を最小化しようとする指向の事を言う。

 けれども実は最近の日本に、この「自由主義」を言いながら「国家の自主防衛権は有って当たり前である」「日本も戦争ができる普通の国になるべきである」などという人々が出てきている。

 いわゆる「自由主義史観」派の人々だ。 *5

 藤岡信勝などの提唱に始まる「自由主義史観」は結果として資料を「自由」に選択し、解釈を「自由」に捻じ曲げるたんなる「恣意」史観であり「放埓」史観であった。

 彼らは「自由」を「恣意」とか「放埓」とかと勘違いしているのだから。そう、彼らが非難する「戦後民主主義教育」によってもたらされたとされる「青少年の精神的退嬰」は、実は彼らの精神自体の影にすぎぬ。

http://homepage1.nifty.com/tkawase/essay/bongu.htm

 河村市長の子どもじみた主張や責任回避の姿勢も、まさに彼らが批判してやまぬ「戦後民主主義」の放蕩そのままの姿ではないか。

 彼らの頭の中は「美しい日本の私」という自意識が根付いている。勿論この「美しい」は「日本」にも「自分」にも係る修飾語である。彼らは彼らの<当為の日本>という視座から現実の日本を批判し、よりよい国にしていこうという気概がない。逆に自分の心の中にだけある<当為の日本>を守ろうと必死である。

http://homepage1.nifty.com/tkawase/essay/bongu.htm

 河村市長は南京問題において「こんな事(南京大虐殺)があったら、土下座して謝らなかんですよ」と述べている。そして河村市長の南京事件に対する否定の根拠は東中野修道氏の著書のようだ。
 いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書

 しかし、東中野修道氏の主張の信憑性についてはすでに決着はついている。

 夏淑琴さん名誉毀損訴訟 東京地裁判決(目次) - 15年戦争資料 @wiki - アットウィキ
 *6

 少なくとも数千から1万数千人はかの「偕行社」の「南京戦史」でも認めざるを得ない逸脱行為による被害者数なのである、これらを無視して「無かった」などという無学、恥知らずな発言は許しがたい。(その根拠がコレだけなら嗤うしかない)

 名古屋のプライドを傷つけた河村市長は、即刻中国領事館まで出かけて発言の訂正でもすべきだろう。領事館に入れてもらえないのであれば、その前で入れてもらえるまで待つぐらいの誠意を見せてみろ。(この部分、最初には 「門の前で土下座して詫びろ」と書いてしまったが、あまりに表現に品が無いので止めた。最近「在特会」近辺の動画等を見ているので余計な影響を受けているのだろうか)

 河村市長は「名古屋人のプライド」という言葉を使う。名古屋城天守閣を木造化する事が「名古屋人のプライド」になるのだろうか?名古屋駅に1000mタワーを作る事が「名古屋人のプライド」になるのだろうか。
 そんな事よりも自らの不明を恥じ、率直に詫びるべきは詫びる姿が日本人の心であり、名古屋のプライドに繋がる行為なのではないだろうか。また、それらモニュメントに付ける予算があるのであれば、名古屋はつましく暮らして、東北の復興に予算を割く事こそ名古屋人のプライドになるのではないだろうか。


 河村市長にとっての「自由」とは「自由放任」の自由であり、「責任」やら「誇り」という言葉とは遠い。まさに戦後民主主義が生んだ、無責任な「戦争を知らない子どもたち」の自由なのだろう。

 その不幸は「視座の硬直」にあるとも思える。*7

 真の自由とは「視座の自由」であって、自分自身をも客観的に評価観察できる自由であるだろう。そうすれば自分を含めた様々な事柄が、様々な関係性の束で繋がれている事が認識できる。この関係性を認識できれば(難しい事だけれど)他人を犠牲にすることなく行動する事ができる。
 自身の視座に、つまりは主観に拘束されている人間には、この関係性の束を見出すことができない。世界を立体的に捉えることができない。(立体的な視界を得るには少なくとも4点の視座が居る)
 つまり「自己責任論」などの「自由論」を振り回す人々。
 利己主義的な「自由論」を振り回す人々は、「自由」を主張しているようでいて、強く「当為の自己像」に束縛されているにすぎない。

 そこから「自由」になる事こそが、本当に「自由」になる事なのだろうけれども、還暦を過ぎて、ソコソコの教育機関で教育を受けてみても、こんな簡単な事に気が付かない人というのは居るものなんだろうね。



追記:とても大切な事を書き漏らしている。
 動画を見ていただければお判りの通り、
 河村市長は「憲法9条」が「国の交戦権を認めない」「ものすごいキケンなもの」と主張している。
 「もっとも戦争に近づける思想」だとも。
 まったく、前世紀の「自由主義史観」派の人々が言っていた「日本も戦争ができる普通の国になるべきである」というバカな主張そのままだ。


 「空想的平和主義」が「戦後民主主義」の産物であると批判されるが、その批判から出てきたそれ以下の主張が、この「戦争もできる普通の国」論である。



河村市政の裏表

河村市政の裏表

*1:そういえば、「常勤民間アドバイザー」を「とにかく頭を下げて回る仕事」と言っていたが、誰かに「河村さんは頭を下げて回る事ができないのか」と言われたかね。 それで、代わりに「頭を下げるヒト」を雇うのだとしたら、異常だね。普通は頭を下げるだろう。 私が尊敬していたある会社の社長(すでに鬼籍)は「幾らでも頭を下げる、なんせ原価はタダだ」と言っていた。商売人で頭を下げられないなんて、サッカー選手が走れないのに等しい。やはり、河村氏が商売人だったなどというのは幻想だろう

*2:論理的整合性が無いのだから、特に最後の減税政策は論理的に破たんしているのだから誰も乗ってこない

*3:そしてその設置地域というのが、事実上すべての国土とも取れるので

*4:自由主義者が反原発になると言っているのであって、私の意見ではない

*5:ちょっと本論とは外れるが、「自由主義史観」について、面白い論考に行き着いたので紹介してみる。1997年の論考で、どこかの宗教誌に載ったようだがそんなこと関係なく面白い。 http://homepage1.nifty.com/tkawase/essay/bongu.htm 

*6:この裁判において注目すべきはその争点となった法理ではない、東中野氏の主張の論理的整合性だ。東中野氏の主張には説得力ある論理的整合性が無い。更に、2008年に日本「南京」学会なる団体が活動を停止している事情を見れば色々と判る

*7:川瀬氏の論考で言うと「当為」への拘泥かもしれない