市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

表現の不自由

 私たちがいる社会は、今まさに オルテガ*1 が指摘した「大衆」の支配する社会である。

 このブログで取り上げている現在の名古屋市政における「河村たかし問題」とは、すでに前世紀にオルテガによって指摘された「大衆」の支配する社会の問題である。

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表現の不自由展ロゴ

 「あいちトリエンナーレ2019」において企画展「表現の不自由展・その後」において、「旧日本軍の慰安婦を象徴した少女像」が展示され、それに対して批判が起きた。
(この企画展には、その他にも昭和天皇の姿をコラージュした作品や、それを燃やす作品などもあり、それらを批判する伝統的右翼、国粋主義者も居るようだ)


 名古屋市の河村市長は8月2日に、この会場を訪れ、「日本国民の心を踏みにじるもの」と批判、少女像の撤去を求めたと報じられている。

www.chunichi.co.jp

 そもそも、名古屋市長は「あいちトリエンナーレ」の「会長代行」であって、こうした個々の作品について、事前の報告を受けている筈で、このように開催以降「撤去を求める」という姿は、「騒ぎに乗じるポピュリストの演技」であるのか「事前報告から事態を予測できなかった、無能の証拠」なのか。まあ、それはどうでもいい。

 展示会場にマスコミを連れて訪れた「パフォーマンス」の際に、河村市長は「表現の自由は相手を傷つけないことが絶対(条件)」と発言したそうだ。

 なんとも、小学生のような薄っぺらい発言だ。

 なら河村市長、いやさ、河村たかしよ、私はあなたのそのインチキ臭い名古屋弁に常々心を痛めている。なので今後は発言を控えてもらえないか。

 河村たかしが、その軽々しい表現行動でどれほどの人々の心を傷つけているか。
 地域委員会騒動の時には我が身を削る思いで地域に貢献している区政協力委員に対して、あたかも「地域の既得権を固守する人々」のような言葉を投げかけた。
 減税政策の議論においては、その政策の所得逆進性を批判する人々に対して「納税しているヒトに感謝をしなければならない」という経済的にも、実は倫理的にも問題のある「詭弁」を投げかけて議論をごまかした。
 議会リコールの際には、市会議員に支出される政務調査費(活動費)を、自分の貰っていた国会議員の文書通信交通滞在費であるかのように語り(制限は全く異なる)それが第二所得であるかのように語った。
 そして、それは今も続いており、名古屋市会の議員報酬1400万円に政務活動費600万円を加えた2000万円が報酬であるかのように喧伝している。
 これは最早明白なウソであり、オーバートークだ。

 そして、名古屋城の問題においては、現在の昭和再建天守建物を蔑むような表現を行い、それに愛着を持つ人々の心を傷つけ。
 エレベータ設置問題では、令和の時代を疑うような詭弁を弄して障害を持つ人々を傷つけている。

 この視野狭窄で見識も低い人物の軽口は、口を開けばヒトを傷つける。

 そういえば、この参議院選挙においても、自分が擁立した候補を「この歳をとった方の女性が参議院候補です」と紹介していた。他人を「パワハラ」で訴える以前に、こんな発言が「セクハラ」に当たる事すら判っていない、見識の低い人物が河村たかしだ。

 そもそもすべての表現活動は誰かを傷つける。要はその傷つける程度が、社会的に受容できるか否かという問題に過ぎない。


ichi-nagoyajin.hatenablog.com


 私は以前は「すべての表現活動は自由であるべきだ」という態度でいた。
しかし、例えば「石に泳ぐ魚」裁判の問題。天皇コラージュやシャルリー・エプド襲撃事件をめぐる信仰と批判的表現の問題、更に昨今のヘイト・スピーチを巡る議論など、表現にも一定程度の制限は必要であるという見解に変わってきている。

 しかし、それでも表現行為に「誰も傷つけない」イノセントな表現行為があるなどとは思えないし、そうした表現行為だけが社会的に容認されて「誰かを傷つける表現行為」はすべて排除されるべきとする見解は<間違っている>と考える。

 なぜ、はっきりと<間違っている>と言えるかといえば。「誰かを傷つける表現行為」は排除されるべきという主張には、「誰をも傷つけない表現行為」が存在するという前提があり、そこには「自分の表現行為は誰をも傷つけていない」という思い上がりが隠れているからだ*2。そもそも「表現の自由は相手を傷つけないことが絶対(条件)」としてこの少女像の撤去を(トリエンナーレ会長代行が)求める発言/表現行為は、この作品の出品者を傷つけていないだろうか?津田っちを傷つけていないだろうか*3


 自分の表現行為はイノセントであり、自分に容れられないものについては排除に迷いがない。こういった姿こそ、100年以上前にオルテガが指摘した「大衆」の姿である。

 オルテガは次のように述べている。

あるがままの自分に確信をもち、自分の道徳的・知的資質はすぐれており、完全であると考えるようになる。(略)耳をかさず、自分の意見に疑いをもたず、他人を考慮に入れないようになる。(略)慎重も熟慮も手続きも保留もなく、いわば、<直接行動>の制度によって、すべてのことに介入し、自分の凡庸な意見を押しつけようとするだろう。


オルテガ「大衆の反逆」寺田和夫訳(中公クラシック pp.119)

 昨日の模様を「予言」したかのような記述ではないだろうか。

 オルテガの「大衆の反逆」はその後、悲劇的な、破滅的な事実を突きつける。私たちはその警告に「耳をかさず」にいて良いのだろうか。


www.youtube.com

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表現の不自由 作成年表


少女像展示の企画展終了=大村愛知県知事(時事:2019年08月03日17時25分 )


www.jiji.com


*1: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%AC%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88

*2:この言明自体、誰かを傷つけるかもしれないという内省性に照らせば表現不能の矛盾となる

*3:まあ、津田っちはいい