市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

民主主義とはなんだ

この参議院選挙を見て、少々気になることを。
この参議院選挙では、ツイッター上で「#会いに行ける国難」とハッシュタグをつけて、安倍首相の街宣に野次を飛ばすなどの行為が拡散されている。まず、気になるのが、こうした行為はそのものズバリ公職選挙法違反となるので、それを認識せずに付和雷同的に乗ってしまうと、驚くような罰則を食らうことになる。

(選挙の自由妨害罪)
第二百二十五条 選挙に関し、次の各号に掲げる行為をした者は、四年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。
一 選挙人、公職の候補者、公職の候補者となろうとする者、選挙運動者又は当選人に対し暴行若しくは威力を加え又はこれをかどわかしたとき。
二 交通若しくは集会の便を妨げ、演説を妨害し、又は文書図画を毀棄し、その他偽計詐術等不正の方法をもつて選挙の自由を妨害したとき。
(略)

e-Gov法令検索

形式が明白な場合(例えば、運動員に手を挙げて、チラシ等奪い取ってそれを破いて捨てたりした模様を動画に撮られて押さえられたような場合)、満期拘留(最長23日間)を食らって、選挙期間中社会から隔絶される例もあるらしい。(愛知県警はあまりこういった「予防拘禁」は行わないようだけど)

また、首相や内閣構成員の場合、警察の警備部門がしっかりついているので、冗談でも「卵を投げつける」とか「スニーカーを投げつける」というような行為は止した方がイイ。警察(警備)を本気にさせる行為で、非常に厄介な事になる。

プラカードを掲げるという行為も、高いリスクを伴っていることを認識するべきだ。
つまり、例えば首相が街頭演説をするような場合であれば、当然周りにはその支援者も集まってくるわけで、そうした首相支援者の群衆の真只中で、その首相にネガティブなプラカードを掲げれば、周囲の支援者からどのようなリアクションを引き出すかぐらいは考えた方が良い。そうした危険性を認識すべきであるし、少なくとも一人ぽつんとプラカードを掲げるような事はしてはいけない。

これは政治的な主張云々ではなく、「他人が嫌がることをすれば、その反発を受ける」ということだ。そうした反発を受けることを覚悟で、敢えて「嫌がること」を行うということはあるかもしれないが、そこにはリスクがある事を自覚しなければならない*1。そうしたリスクに無自覚であったり、周囲の他者の反応をまるで無視するのは幼稚な行為だろう。(もちろん、首相街宣の場所でプラカードを掲げていたら、誰かに突然殴られた。というのであれば、立派な傷害罪なので刑事告発すべきだが、告発できるだけの用意もまた必要となる)

私は、選挙運動に対して野次を飛ばすであるとか、上記のようなことを認識しつつ、静かに抗議のプラカードを掲げる程度の行動(最近、警察はそうした行動を区分して、「はい、こちら、賛成派の方、こちら反対派の方」と引き離そうとする。これはお互いの中から暴力的な行為に走る人を抑制することで、犯罪(傷害行為等)を予防するという意味では理解できる行為だ)であれば容認できるだろうが、集団で「コール」を行い、演説自体をかき消してしまうとか、集団で威圧的な行動を起こすというのは止めたほうがいいと考える。

なぜかというと、もし、「選挙の自由に対して、国民にも表現の自由がある」などと言って、特定の政党に対する選挙活動の妨害を容認するようになれば、人的資源、物量に勝る政党の「やりたい放題」を容認することになってしまうからだ。公職選挙法で選挙の自由妨害を違法としているのは、「たとえどんな政治的主張であろうとも、選挙の際の主張については、その自由を認める」ということで、社会的マイノリティや特殊な立場の人々の政治的主張を認め、こうした様々な意味での「弱者」の政治的主張をも法的に保護すべきという社会の「覚悟」の表明であり、これこそが民主主義や自由主義の根幹をなす考え方だからだ。

「敵とともに生きる」

自由主義とは、自身の自由を認めてもらうなどという思想ではない。自分自身の自由を認めてもらう為に、まずは自分自身がとても受け入れられないような考えでも、それが思考であり、表現活動であるのなら、その存在を認めるという態度だ。*2

民主主義とは、多数の決定に従うことなどではない。少数者とも一緒に生きていける道を模索する制度だ。
(ここから論点が大きくずれたので、割愛する、しかし掲載しないのももったいないので末尾に掲載する)

確かに安倍首相にも問題はある。2017年の東京都議選最終日では、1時間以上も続いた「アベヤメロ」コールに対して安倍首相が「あんな人たちに負けるわけにはいかない」と反応したシーンがインターネットなどで取り上げられた。(煽ってどうする)

従来、自民党という政党は、党の中に政権担当派閥と、敵対する派閥があって、活発な議論が行われることで「揉まれた提案」を行うことができた。(自民党の総務会では、陶器やガラスの灰皿は置かれないという伝統があったらしい。投げつけたり、机に強くたたきつける行為が頻発したために、壊れないペラペラのブリキの灰皿が置かれたそうだ)

しかし、まあ、最近の「お友達人事」やら「生煮えの提案」には、あきれ返る。
自民党憲法草案なんて、本当に顔から火が出るから、即座に作り直していただきたい)

日本における政治的困難は、「一強多弱」と呼ばれる政党間の力関係の問題ではなくて、政権政党である自民党の中における「一強多弱」の派閥間闘争の結果なのかもしれない。

日本人にかかると「議会(本会議、委員会)」というものは、すぐに「セレモニー」の場になってしまい、議論を行う場とはならない。自民党総務会という「論理と人情」の綯交ぜになった、そして「事前の根回し」の尊重される、独特な民主主義のルールによって駆動される会議体が必要だったのではないだろうか。というよりも、日本人の集団が要求する、「論理と人情+事前の根回し」という独特のルールが、議決の場として間接的な「自民党総務会」を形成したのかもしれない。

しかし、今、この日本の社会にあるルール(有形無形のそれら)では、「自民党総務会」も有名無実化してしまったという事なんだろう。こうした「議論の場」が失われ、結果として官邸の機能が突出してしまい。その論理的結節点に「安倍首相」が居て、「一強多弱」の派閥状況が生まれてしまったのかもしれない。昭和の頃の自民党総務会であれば、昨今の偽装問題もこのような形にはならないだろうし、「2000万円」問題もこんな生煮えの提出だとか、それを引っ込めるというようなみっともないことは許さなかっただろう。「そんな話が総務会から生きて出られる」とは思えない。

ここには、政党助成金(既存政党の主流派幹部が力を得る)の問題や、選挙制度の問題。官邸機密費の問題(これは政権政党の力となる)。さらに野党と霞が関の関係、霞が関と大学との関係など、てこ入れすべき課題がたくさんあるんだろう。(米国、ワシントンD.C.における "Revolving door" の存在は、平和的で緩やかな革命であって、これが米国の民主主義の健全性と、政権の活性を生み出すのだろうが、日本においてはまったく機能していない。ただでさえ弱いうえに、更に大学における反政権派が「冷や飯」を食わされるようでは、政権派は健全な批判者を失い、目を瞑って車を運転しているようなものだ。まったく不健全極まる)

そもそも、選挙なんてものは、公示後に何やったってそんなに効果はない。
参議院選挙なんて5万票は集めなけりゃならないんでしょう?

配布できるチラシってのも、25万部なんですか。

でもね、選挙期間調、候補者が一般有権者と顔を合わせられるのは、せいぜい1万人行かない。

安倍首相が街宣したって、全選挙期間を合わせても数万人程度しか動員できない。そして、そこに来るのはそもそも自民党に票を入れる固定客であって、必要とする新規開拓はさらに効果が薄い。

こうした場面にプラカードを持って、集団で「アベヤメロ」コールを繰り返し、街宣を妨害しても、自己満足以外の効果はない。それよりも、それぞれの支持政党の支持拡大のための活動を行った方が生産的だろう。

「私はプラカードを掲げ、アベヤメロのコールを続けて、反安倍政権の民意を可視化するのだ」という人がいるかもしれないが、そうした行動で可視化できるのは、「反安倍」を掲げる人々が、上記のような民主主義の根幹をなす、「選挙の自由」「表現の自由」を脅かすという事実であり、それを「見る」のは、安倍首相の街頭演説を聞きに来た、自民党支持層となる。そうなると、どういった事になるだろうか。この社会にまた一つ、壁ができ。そうした「民主主義を心得ない安倍政権否定派に負けないように、この選挙、支持を広げる活動をしなければならない」というような安倍支持層のリアクションにも繋がるのではないだろうか。

なんにせよ。こうした行動よりも先に、行うべきことはいくつもいくつも、いくつもあるように思われてならない。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


(割愛した部分)

民主主義を「多数決主義」とみなすのは、最も幼稚な行為だ。しかし、残念なことにこうした幼稚な考えにとらわれた人物は少なからずいる。私は、某市長のいとこといわれる「おばさん」に「私たちは選挙に勝ったんだから、あんたたちが文句言うのはおかしい」と言われて二の句が継げなかった事がある。実に現市長も、例えば名古屋城問題についても「名古屋市民の民意だ」とあたかも、名古屋市民の多数者が、自身の掲げる名古屋城木造化を支持しているから強引に進めてもよいと思っている節がある。

まず、名古屋城木造化を進める名古屋市民の多数の民意なるものはない。数字としての根拠として挙げられるものは2つしかない。それは「2万人アンケート」か「市長選挙の結果」ということになるのだろうが、前者についていえば、2万人送付したアンケートの回答者は約7千人に留まるのであり、マジョリティは回答も寄せないほど「どうでもよい」と思っている。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

市長提案に賛同した回答者は7.8%にとどまる。

また、市長選挙については「63%の人が『木造復元を投票の判断材料にしない』と回答」している。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

名古屋市民の多数者は、つまり「民意」は木造復元など、早急には求めていない。それでも市長は、自身の願望である木造復元を「民意である」と市民に仮託して、責任を押し付けるような発言を続ける。

この残念な人物は「民主主義」とは「多数者の信認を得た者」のわがまま勝手は、通したい放題。という誤解があるのだろう。(これを体現した先人がいる。その人物はこれを「民主主義の効率化」とも呼んだ。その人物はアドルフ・ヒトラーだ)

しかし、そうではない。民主主義とは多数者のためにあるのではないのだ。少数者、弱者の為にこそある。
少数者、弱者といかに共存を図ることができるかを模索する社会制度設計が民主主義なのである。

何かといえば「民意」を口にし、「多数の市民の意向」を隠れ蓑に使おうとしても、それは誤りである。

衆議院議員を16年、名古屋市長を10年勤めて、自ら市長就任の際に「民主主義発祥の地、名古屋」とまで掲げた人物が、実は「民主主義」の事を根本的に勘違いしていたというのは、これほどの笑い話は無い。すでに齢70を過ぎ、このまま自らの不明を認識することもなく老いさらばえていくとは、残念なことだが仕方がない。これも自業自得というものだ。南無~♪



*1:この私が言うと、より一層説得力があると思うが

*2:ヘイト・スピーチなど、差別煽動発言は少々事情を異とする。ヘイト・スピーチは実は、ヘイト・スピーカーを含めたマイノリティの存在自体を脅かす。自死に至る矛盾した行動である。そしてその行動自体が表現の自由を毀損する。その為の措置を加えない、むき出しの「表現の自由」は、例えば出版物や映画などで、「年齢制限」が加えられているような「配慮を無視した行為」だ。カウンター活動などによるヘイト・スピーチの「不可視化」は、こうした「年齢制限」の代わりの入場制限ともいえるかもしれない