前回のエントリーは名古屋城木造化復元に対する様々な会合の内、名古屋市市民オンブズマンによって開催されたシンポジウム (参考: http://www.nagoya.ombudsman.jp/castle/160515-1.pdf )において、名古屋大学の田村教授から提案された「熟議民主主義」について書いていた文章の内、参議院選挙投票までに掲載しなければ意味を失う部分についてピックアップしたものです。
選挙前に慌てたものですから、「熟議民主主義」については全く触れられないままでした。今回、これを軸に考えている事をもう少し述べさせていただきたいと思います。
そういった事柄よりも前に、選挙結果はほとんど想像通りでした。
最近はSNSなどを使って候補者が主張を伝えることができて便利です。
あなたの玩具でもない! https://t.co/x2miSpj2By
— 奥田かよ (@dogbell_okuda) 2016年7月8日
キャッシュ 奥田かよ(減税日本&おおさか維新の会) on Twitter: "あなたの玩具でもない! https://t.co/x2miSpj2By"
当該ツイートに返信しましたように。私には国民一般に平等に与えられている権利しかありません。こうしたブログなどで自身の意見を表明することは、表現の自由として当然許されている天賦の人権です。そこで市政について語ることが「おもちゃにする行為」なのでしょうか?
しかし、翻って市長や公職者にはその責任と権利が与えられています。
例えば市長であれば、所管するあおなみ線にSLを走らせることもできますし、その乗車について抽選にされた一般市民とは違って関係者として機関部に乗り込むこともできるのでしょうし、汽笛を鳴らすこともできるのでしょう。
大部分の市民が、市長がSLに乗って喜ぶことを主権者として希望したのでしょうか?
市長がまったく自分の趣味で、SLを持ち込んで大喜びで乗り込んでいるのは、これは市長の権限を利用した「遊び」であると断じて当然なのではないのでしょうか?
名古屋城にしても同じです。市民の民意を無視した予算を計上し、あまつさえそれを事実上取り下げる。こんな無責任な政治的ブレは、審議時間も無駄ですし行政にも要らぬ負担をかけている事になります。(この騒動で動員された職員人件費は誰が負担するのか)
こうした事を踏まえ「市政をおもちゃにしている」と批判する事は当然の事なのではないのでしょうか。*1
そして、ツイッターで指摘したとおり、名古屋市議会を解散し第一会派を獲得する。
ほとんど地方自治において「革命」を実現させたにも関わらず、いったい何ができたのか。結果として何もできなかった。いや、しなかった。それはなぜか。
そうした検証や反省もないまま、国政において「革命」を実現させようとするのは、あまりに無責任です。
検証、反省もないまま、単なる思い込みや妄想で社会を変革することは、社会をおもちゃにする行為に他なりません。
社会を変革するという者は、その実効性を説明し、証明する説明責任を持ちます。そして、当然それに対する批判は開かれていなければなりません。それを満足させられない者はそういった提案を行う資格を持たない。
政治を語る資格を持たないのです。
さて、そういった事は置いておいて。
田村教授の「熟議民主主義」について。私は民主主義について前回次のように述べた。
民主主義は万能ではない。(略)消極的な選択として民主主義は選ばれているに過ぎない。真の民主主義が訪れ、人々の政治的意向が正しく社会に反映されたら、バラ色の社会が生まれるなどというのは幻想に過ぎない。
参議院選挙雑感 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0
ヒトは容易に判断を間違えるし、社会に対する理解も万全とは言い難い。
そのような個々人が、無責任に集まったのが現代社会であるならば、過誤の総和である民意が絶対真であると推定するのは無理がある。
(略)
民主主義が優れているのは、そうした政治的判断が、常に批判に開かれているという一点に尽きる。
正しい選択ができるのではなく、誤った選択について、誤りであると認められること。
これが民主主義の優れているところだ。
誤りを素直に認める成員だけであれば「熟議民主主義」も成立できるだろう。しかし、現実の政治が困難なのは、こうした誤り、思い込み、偏見にとらわれた人々が多い事にその原因がある。人間がこうした蒙昧から啓かれないかぎりそれは成立しない。
当日でもこうした意見が出されましたし、私もそう思います。
田村教授の「熟議民主主義」にまつわる論考として、現代政治の変化という論点があり、これについて非常に刺激を受けました。
かいつまんで説明すると従来の社会では「確固たる社会的支持基盤に支えられた政治・政党 → 大衆政党」が存在した。
(自民党に対する農協やら地域組織。社会党、共産党に対する労働組合)
政党とはこうした支持基盤(社会的集団)の利益代表として、政治的闘争を行う。
(農協であれば農業製品の国内保護や補助金の分配。労働組合であれば労働条件や雇用条件の法整備)
しかしこうした支持基盤が弱体化している。
社会的集団自体が組織力を弱めている。
結果的に社会と政党の結びつきも弱体化している。
政治がこうした明確な社会集団から離れて、不明確な支持基盤(浮遊票)によって構成されていく。
そうすると、既存の社会集団に支えられていた政治集団に対して「既得権」という批判が起こる。
明確な支持基盤を持たない新たな政治集団は、既存の政党、社会の中の集団と強く結びついている政治集団に対して批判を行うために「既得権打破」という批判を繰り広げる。
また、既存の社会集団と結びついた政治集団、政党であれば、こうした集団の利益、意向を整理する為に明確な組織を通して、そうした政治的運動を行う。
けれども、新たな政治勢力は社会の中にこうした明確な支持基盤を構築せず、個々の有権者と緩やかな支持関係を築こうとする。
その結果:政治の「パーソナリゼーション」
・政党のリーダーが政党の「代表」(代表中の代表)として、個々の有権者と直接的につながる形で支持を獲得。
・リーダーのパーソナリティ・振る舞い方が、政治を決める重要な要因となる。
・「演出」のための戦略が重要になる。
つまり、政治は実態(有権者の社会的闘争)を離れ、どんどん「演出」された「キャラクター」たちの間の単なる人気投票になっていく。
私は当日、田村教授に指摘したように。
こうした傾向に加えて、「有権者の消費者化」が顕著ではないかと思っている。
都市部において、人口が流入している。東京や大阪、名古屋などで人々が周辺部から都市中心に回帰しているようだ。こうした傾向によって都市部では「人口」は増えたが、地域自治の担い手不足が問題となっている。
つまり「人口は増えたが住民が減っている」という問題がある。
これはこのブログですでに述べた。
同様に「有権者」も自身を「市民」や「国民」あるいは「組合員」と言ったような集団の成員として自覚する機会が減っている。ましてや「有権者」「主権者」として責任を追及されるような場面もついぞ存在しない。
現代社会の人間が自分をどのように自覚するか。
その時間が最も長いものは「消費者」だろう。
現代人は「消費者」として扱われることになれている。
結果として政治的言説においても「(これを買えば/支持すれば)これこれが手に入りますよ」という「消費の言葉」が溢れかえる。
自民党の選挙テーマが「この道を。力強く、前へ。」であり、
民進党の選挙テーマが「国民とともに進む。」であった。
「この道を。力強く、前へ。ナイキスポーツシューズ」
「この道を。力強く、前へ。トヨタランドクルーザー」
「国民とともに進む。日本生命」
「国民とともに進む。イオングループ」
どうだろうか。
支持基盤が不明確であるため、実は何を訴えたいのか。どこを向いているのか判らない政治テーマになっているのだ。*2
こうした空間では政治は「行政サービス」として、あるいは仮想的な演劇として提供されてしまう。
こういった過誤が広まった結果。国家財政を家計や企業会計に見立てる議論がもてはやされ、均衡財政論や「行財政改革」「小さな政府論」つまりは、「安い政府」が支持を得てしまっているのだ。
そして、今の日本でこれ以上「小さい政府」を主張するのは、単なる政治音痴の証明でしかない。
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田村教授が指摘するように「リーダーのパーソナリティ・振る舞い方が、政治を決める重要な要因となる」
舛添要一が知事の座を追われたのも、その「パーソナリティ・振る舞い方」が問題だったのだろうし、大阪の橋下徹が生き残っているのも「パーソナリティ・振る舞い方」がテレビサイズだからだろう。その他にSEALDs の奥田や憲法学者の小林節などの例も、その内容如何ではなく、「パーソナリティ・振る舞い方」によって支持を得、批判を受けているように思える。(そして、その言葉の多くは政治的な文脈とはかけ離れている)
テレビのフレームに「はまる」 パーソナリティは持て囃される。
社民党の吉田党首などはこうした「はまり」方をしなかった典型だろう。
ここで話は突然飛ぶのだが。
立川談志は「落語とは人間の業の肯定である」と断じていた。
人間とは誤りが多く、愚図でノロマでずるい生き物だ。そしていとおしい生き物なのだ。
落語は人間のこの醜い姿と、それへの慈しみを描いているから、ヒトはその話が聞きたいのだ。ヒトはその話を聞くことによって、自身の業を肯定することができる。
実はテレビなどのメディアにおいても、根底を流れるのはこうした「人間の業の肯定」である。文学でも映画でも、およそこうした観点から外れるものはない。(というか、外れてしまえばその作品は作品として成立していない。*3)
テレビという仮構の世界、文学や落語という「消費される物語」の中では人間の業は肯定される。肯定されねばならない。
しかし、実体の社会においては時として人間の業は肯定され得ない。
自動車メーカーはどのような事情があっても安全な製品を販売しなければならない。調理師は食材の衛生に絶対の責任を負っている。消費者が口に入れるものに、衛生という観点から一切の妥協も許されはしない。自動車メーカーの社員が「自社製品をよく見せようというのは人間の業だから」であるとか、調理師でも「気を抜くときはある」などと言って、いい加減な製品を提供する事は許されない。
消費者は当然すべての甘えを許されている。
それに対峙する提供者、サプライヤーにはこのような甘えは許されはしない。
実体的な政治の場において、政治家はサプライヤー、提供者である。
その政策は車であり食品である。車に不正な部品が使われていたり、食品の衛生が守られていないようなら、その提供者はその市場から退場する以外にない。
ここにおいて「人間の業」などという言い訳は通用しない。
しかし、テレビのフレームの中では、人間の業を持った者が肯定され、もてはやされる。
テレビのフレームの中で肯定され持て囃される者が、今後も実体政治の舞台に上がろうとするだろう。しかし、それは消費者と、提供者というまったく異なる基準、物差しで測られるべき人々を、混同する行為でしかない。
本来であれば政治家自身が、そして最低でもメディアに携わる者は、この両者の間の溝に自覚的であるべきだろう。