市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「庶民革命」とは何か?

河村たかしは「庶民革命」という言葉を使っている。
「庶民革命」とはなんだろうか?「庶民」を広辞苑で引くと、「?もろもろの民。人民。?貴族などに対し、なみの人々。世間一般の人々。平民。大衆」と面白くもなんとも無い当たり前のことが書いてある。
 では、もろもろの民、なみの人々の「革命」とはなんだろうか。

 そもそも「革命」とは何か?「庶民革命」を掲げてリコール署名やらした人なら即座に応えていただきたい。「革命」とは何ですか?

 フランス革命の時に次のような逸話があったらしい。1789年、バスチーユ監獄が襲撃された時に、時のフランス国王ルイ十六世が「叛乱(révolte)だ」と口にしたのに対し、リアンクール公爵が「いや、これは革命(révolution)です」と応じたそうな。
 この言葉の源を探っていくと、1517年のマルティン・ルターによる宗教改革に行き着く。宗教改革は英語でもドイツ語でも頭大文字で "Reformation" と表記される。ラテン語では "Reformatio"
 この言葉は、次のように使われていたそうです。

 “Reformatio totius orbis

 日本語に直すと「世界全体に形を与えなおすこと」です。

 つまり、「庶民革命」とは、「庶民の在り方になじむように、社会全体の形を与えなおす事」となります。

 さて、「庶民」とは今、どのような人々を言うのでしょうか?

 震災と、原発事故を目の当たりにして、復興と、震災、防災対策の重要性を再認識し、自分たちの使っていた電気が、いかに危ない橋を渡って作られていたかについても再認識した。日本と言う国が少子高齢化に向けて、働く人々や、将来を担う国民の人口は減るにも関わらず高齢者人口が増えていき、今後も社会保障、医療、福祉の分野の国全体の負担が増えていくだろうと思っている。

 ここで、「庶民」は「自立」を選ぶだろうか?

 「自立」とは、すなわち、「自分の事は自分が決める」という態度であって、結果責任に関しても自分が背負い込むと言う態度である。

 私は「庶民」は「自立」を選ばないと思う。

 震災においても、社会秩序を守り、不足を補い合い、また、足りている分には分かち合うのが日本人のメンタリティであったと思う。そして、これを否定する必要は無い。
 日本人の多くが、このように自己の利益確保に疎く、争奪の現場に至っても手を出せずにいる姿は、例えば国際会議などでの交渉でも弱腰となって現れもする。しかし、「和を以って貴しと為す」という教えは深く日本人の心に根ざしていると思われる。

 ちょっと、脱線して考えると。こういうことなのかな?

 この言葉は勿論、聖徳太子の言葉であって、日本人であれば広く同意するところであろうと思う。「和ではなく、議や理によって決せよ」というような意見はあるにしても、日本人の集団が事を決定するにあたっての基底的なルールが、太子の言葉に縛られている現実は認めざるを得ないところでしょう。
 つまり、このような。ある意味今の言葉で捉えなおせば「共同体主義的」な考え方自体が、聖徳太子的、貴族的と捉えて。「そうではない、それぞれが自らの利益が最大になるように自由に行動する事で、全体の利益も最大化される」という新自由主義リバタリアニズムこそが、「反聖徳太子的」「反貴族的」つまり「庶民主義」ということなんだろうか?
 確かに、事あるごとに選挙という「闘争」を持ち出す河村市長が「以和為貴」と思っているとはとても思えないけれども。


 地域委員会の意見交換会で「行政に声を掬い上げてもらうのではなくて、自分たちで自立していくのが地方自治だ」と言っていらした人が居たけれども。こんな台詞を聞いた総務省やら市の当局者はほくそ笑んでいるに違いない。行政の支援は要らないと言っているのに等しいのだから。

 しばらく前まではまったく逆であった。

 道路が整備されていない、上下水道の整備が遅い、川ののり面が土砂のままでは子供たちが川に入る危険がある、大雨で川の水量が増えた際に、のり面の土砂が流出して堤防が決壊する恐れがある。のり面をコンクリートブロックで固める必要がある。こっちのアレをこうしろ。そっちのソレをどうしろ。
 様々な要望に行政は応えてきた。応える事によって行政は仕事の範囲を増やし、組織を肥大化させてきた。

 日本において、人口の総数は減少する傾向にある。
 人口が減少するので世帯も減少する、つまり今後住宅も需要が減る傾向にある。
 衣料、食料、教育などの基本的な消費物、サービスについても需要は減少傾向にある。

 そして、行政サービスも減少傾向にある。

 人口が減れば税収は減る。
 ところが、人口は減るものの年齢構成比率は「少子高齢化」の傾向を示し、社会保障、医療、介護などの行政ニーズは拡大の一途をたどる。

 つまり、行政として、拡大し続ける社会保障、医療、介護分野の支出の為に、他の支出を削らなければならない。そのような時に「地域が自立していくのが地方自治だ」という勇ましい言葉ほどありがたいものはないだろう。

 以前書いた、後教授やら児玉教授も参加していた「東海社会学会」でのテーマも、撤退していこうとする行政をどのように繋ぎとめておくかが課題だったかのように思う。( http://ameblo.jp/ichi-nagoyajin/entry-10942872122.html )

 NPOも、自助のための仕組みと考えられているが、NPOの存在が、撤退する行政の補完として、その撤退を後押ししているのかもしれないという観察は貴重だ。

 河村市長は、衆議院議員になったばかりの頃から、官僚、行政への不信を公言していた。そして、NPO法案などを独自に立案もしていた。
 しかし、それが行政の効率化につながっているかどうかは不明だ。
 行政が非効率だからと、NPOという別の仕組みを持ち込めば効率が上がるという議論はいただけない。なぜならば、行政も機関であり、NPOや民間企業も機関であるからだ、それぞれが効率を上げられるか否かは、結局中で運営している人々で決まる。
 NPOや民間企業であれば競争原理に晒されて、効率が良くなる。という議論は、しかし、社会保障、医療、介護のような現場ではどうだろうか。
 今、行われているのは果てしない現場いじめであり、現場作業者の献身によって制度が支えられているように思える。このような制度が長く続くかは疑問だ。

 本来であれば、行財政改革によって行政のムダを削減し、社会的ニーズの変遷に伴って行政の力点を移動させていくのが「政治」であろうと思われる。

 「庶民革命」と言う言葉は、この力点を「庶民」のニーズに合わせるという意味であろうと思われるが。河村市長の施策は逆ではないのか?

 「庶民」は今の社会が貧富の差が激しい社会であると感じている。貧富の差を調整するのは税による所得の再配分機能である筈で、で、あるならば「庶民」は税の累進性是正を要求するのではないだろうか。
 たったの0.6%とはいえ、この所得格差を再拡大させるような「定率減税」は「庶民」の要求とは相容れない。


 「庶民」は行政のサービスを要求しているのではないだろうか。社会保障、医療、介護は言うに及ばず、子育て支援、産業振興、環境保全、防犯、防災、更に安心な発電。
 これらの声を地域の中で解決するというのではなく(そもそも地域だけではできない)行政がしっかりと要望を受け止めて、迅速に、柔軟にこれら地域の要望を満たしてくれる事。これを求めているのではないだろうか。
 つまり、「地域委員会」に予算をつけて行政の責任はおしまいであるとか。各地域がそれぞれ別個に議論をするという非効率を放置するのではなくて。地域の要望を区なり市にスムースに送ることができて、それに対して対応できる一定の仕組みがあれば良い。
 つまり、連絡所を判りやすく設営して、事務所も常設して。連絡先がわかりやすく、月に一回程度は公約どおり市政報告会を開いて、広く地域の声を聞き、市当局にそれら意見を届けてくれるような人が居ても良いかもしれない。あ!減税日本ゴヤではない、リコールされた既存の市議の姿ではないか。

 つまり、真の「庶民革命」は、顔の見えない減税日本ゴヤの市議と、国政ばかり見て、名古屋市政については脇見運転ばかりの名古屋市長を解任して、名古屋の町と、名古屋の市民の事を思う人と入れ替える事なんじゃないだろうか?

 少なくとも、名古屋を「ナゴヤ」と表記して喜んでいる人々は信用できない。