市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

マニフェスト検証

 ツイッター上で、河村市長の公約を市長就任前就任後第一党獲得後と並べると、段々と具体性を失い、市民から乖離している印象を持ったというツイートが流れてきたので、見させていただいた。

 と、いうよりも。そもそも「なぜ公約らしきものがこれだけあるのか」と疑問に思える。

 次のような言葉があるそうですね。
 「偽善者は素晴らしい約束をする、約束を守る気がないからである。 それには費用も掛からず、想像力以外の何の苦労も要らない。」 − エドマンド・バーク

 威勢よく約束してみたけれど、実現できそうも無いか、問題がありそうなものに関しては、「無かったことにする」という姿勢に思えてしかたがない。

 マニフェストであるとか、公約は、こうやって打ち出すことには何の価値も無い。実際に実行されるか否かが最重要であって、検証されないマニフェストや公約には何の価値も無い。

 河村市政1年半の主な取り組みには、「平成21年4月市長選マニフェスト」の約7割に着手。と明言されている。

 どうなんだろうかと、2009年4月の「マニフェスト」マニフェストで良いんだよね?これ※1)の、どの項目が「着手」されて、どの項目が進捗していないか見てみることにした。

 と、いったような作業を土曜日に思いついたので始めてみたのだけれど、コレが大変困難な作業であるとわかった。

 まず、この「マニフェスト」に具体的な施策が明記されていない物がある。こうしますって大雑把な方向性というか、アジテーションがあるだけで、具体的な施策として打ち出されていない物があって、これについてはどのように評価して良いやら判らない。

 なので、作業の第一段階として、とりあえず無条件で項目を書き写してみる事にした。
 それが、コレになる。

2009 マニフェスト (1/5) 
2009 マニフェスト (2/5)
2009 マニフェスト (3/5)
2009 マニフェスト (4/5)
2009 マニフェスト (E/5)
  
 赤く着色してあるのは、特に調査が必要ではないかと思われた項目で。
 こうやって整理してみると、少しはわかり易い。

 というよりも、オリジナルの文書は、インデントも整理されていないし、項目間で文章を続けているものもあって、まるでラフの状態であると思える。この原文を書いた人が誰とか言われているけれども、その方から来た文章を、そのまま手も入れずに公表しているのではないだろうか。お得意の丸投げというやつか。

 この2009年の文章をこうやって改めてみてみると、地域委員会のイメージもだいぶ現状とは異なる事が判る。当初は今後社会的負担の増加が予想される福祉・社会保障を地域で討議して効率的に施行していく政策と打ち出されていた。
 つまり、この理論は、後退する行政が、一定の予算を地域に残すから、その予算の中で地域独自に、自立的に予算執行を決めてくれという、被合併町村が受けたものと同じような説明だったわけで、そういう制度設計であれば理解はしやすい。ただ、そんな制度を受け入れる地域は無いだろうけど。(つまり、自分の地域を広域行政(この場合は、名古屋市)が切り捨てる事を承認するような地域は無い)

 自立、とか、自助、という言葉は、つまりは「勝手にやってちょうだい」という事で、結局は「切捨て」でしかなくて、これは「小さな政府」「後退する行政」という文脈からは一貫性がある。
 「行政のムダを省く」ではなくて「行政を省く」方向性である。

 これは、「新しい公共新自由主義にもなじむと思うのですが
 (むしろそちらの方がしっくりくると思います)、どう思われますか」という問いかけに対する回答として「『新しい公共』と新自由主義」(5月1日)で論考しました。

 確かに、その新自由主義が正しいか否かは政治的選好ではあろうかと思います。特定の個人の政治的選好を強制する気持ちはありません。ただ、このように一見そうとは見えないような体裁で、また、そういったデメリットの説明も無いままに、一方的に新自由主義的な政策を押し付けるのは、特定の個人の政治的選好の強制でしかないと思います。

 また、現在日本の社会において新自由主義的な政策がこれ以上必要でしょうか?

 実は、河村市長の政策というのは、官僚制度を批判しつつも官僚制度を補完するように働いている。ちょうど、55年体制社会党などの野党が批判する事に応えるように行政がアレもコレも対応するようになって、肥大化していったように、現在、縮小していく社会にあわせて行政がその責任範囲を縮小していこうとしている。その行政の後退に呼応するように「行政のムダを省く」と言いながら、実際には「行政自体を省く」姿は、完全に行政当局の思った通りの政策と言う事になるだろう。


 また、もう一つ。

 この「マニフェスト」で感じることは、結局実現化しなかったものも含めて、市長自身が指揮をする「審議会」をアレコレと作ろうとしていた事だ。
 この「審議会」を乱立させて、「政治主導」による行政の「壟断」は、前菅政権が批判された事でした。私は民主党的政治主導を全否定する気にはなりませんが、こういった中途半端な「政治主導」(?)には大反対です。


 「市長のもとに「減税検討プロジェクトチーム(仮称)」を設置して具体的な検討を行い、成案を得る」というPTには、市長は参加しないものなんだ?




※1 そもそもマニフェストとは、具体的な達成目標が明記されていて、事柄によってはその数的目標も明示される。それによって進捗度合いが客観的に評価できる。更に、その目標が何時までに達成されるか、その時期についても予め明記する。そこまでやって「マニフェスト」といえるのだけれど、2009年4月の文書はその条件を満たしていない。そして、そもそも文書にも「マニフェスト」とは明記されていない。「マニフェスト」と言う言葉まで大安売りされている気分だけれど、ご自分が「マニフェスト」と言っているんだから、「マニフェスト」で良いんでしょ。(それとも違う文章があるのかな?)