市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

独裁者

 「ウォール街を占拠せよ!」のコンテンツを見ている。99%の人々が、1%の富裕層の占有する富と不公正な競争に対する再検討を求める運動「ウォール街を占拠せよ!」

 粗野な新自由主義への反抗であり、今のこの名古屋市政にも考えさせられるところがいくつもある。いや、しっかりと政治思想の段階で通底している。

 小泉−竹中改革によって、新自由主義的な競争原理を社会のあらゆる階層に当てはめることが正しい事であるかのように語られた。行政機構においても経済効率が求められ、行政機構本体(公務員)から、外郭団体(みなし公務員)、そして指定管理事業者(一般企業社員→パート・アルバイト)と行政サービスの提供主体が変わっていくと、「割を食う」のは現場の作業者ばかりで、本当の問題であった筈の「行政の非効率」や「高級官僚の天下り先」は無くなりはしない。指定管理事業者であるとか、その評価をするようなNPOの構成員という形で行政サービスから「掠り」を得ることだけは聡く続けている。

 こうやって「効率」が上がったように見えるのは、現場の作業者の人件費が抑制されて、「安上がり」になっただけだ。
 しかし、これも短期的な見方、一方的な見方でしかない(※1)
 すぐに思いつくだけでもデメリットが3つある。(※2)



 左の図は「ウォール街を占拠せよ!」の様子を写したピンナップで、先日も別のカメラマンが彼女を写していた。

“You Know Things are Messed Up When Librarians Start Marching”

大体の超訳としては、

「司書までが行進の列に加わったのを見たなら、
   いよいよ何かがおかしいと思ってください」


といった所だろうと思われる。(※3)

 日本においても、乱雑に図書館業務を指定管理事業者になんぞ任せれば、こういった列に連なる司書が増えることだろう(というよりも、図書館業務を民間で賄えというのなら、私にだって黒字を発生させるアイディアの2つや3つはある。しかし、そんな事をしてはいけないから行政がバランスしているのが判らないのだろうか)

 このようにバランスを欠いた視点、
 または狭い視野が新自由主義を粗野なものに換える。

 この具体例が減税を求める河村市政であることは疑いを入れない。

 見事なまでに河村市政は、この批判されるべき粗野な新自由主義を体現している。

 彼の三大公約の内、減税と地域委員会が、この粗野で視野狭窄新自由主義から来ている事を確認したい。

 河村流0.6%減税とは、定率税の比率を0.6%下げる事で、これは誰が見ても高額所得者に篤い減税となることは明白である。OECDの指摘等、日本において論議されるべきは「税の負担割合」であるべきで、減税をするにしても低所得者層や子育て対象者に対して為されるべきだろう。
 さらに、河村は初期のマニフェストで「金持ちはゼロ」と明言している。今になってこんな約束など無かったかのように食言している姿は見苦しいとしか言いようが無い。(この「食言」の事実はこの後の議論でも重要となるから忘れないでほしい)

 今、一部市民(河村サポーターズ)から、予算の根拠も無い中で、この減税を求める請願が名古屋市会に出されている(これについては次回にでも徹底的に論考する)

 もしも、この請願を出した者たちが、実際にこの減税によって利益を得る者たちであるのならば、その「貪欲」は異常と言って良いだろう(マイケル・ムーア風に言うならば、「貪欲」という名の中毒にかかっている)
 税という所得の再配分機能で、「分ける」という事を考慮せずに税の減額を求める姿は利己的に過ぎる。

 彼等は言い訳の様に「寄附」を言うが、その実態は計測不能なほど少ない。
 「寄附」によって行政サービスに還元するのなら、強制的に税という形で行政を賄えば良いではないか。実態的に有りもしない「寄附」をちらつかせて、減税を求めるのは、偽善的だろう。

 この「寄附」に絡めて「地域委員会」も考察してみよう。

 この制度は「地域のことは地域に任せる」という制度だった筈だ。
 これは、裏を返せば「他地域の事など知った事ではない」という態度でもある。

 特に、河村の主張の様に、周辺地域から人や企業を名古屋に呼び込むという政策は、逆にそれらの地域から雇用や消費者を奪うという事であって、「名古屋さえ良ければ他の地域はどうなっても知らない」という身勝手な態度だろう。「行政もこうやって競い合うべきである」というような言葉は、まるで「ウォールストリートで摩天楼の上にふんぞり返っている人々」と同じ台詞では無いか。
 行政も競い合うべきだろうが、名古屋と(たとえば)「あま市」が同じ土俵で競い合うことができるだろうか?「競い合え」という言葉は一見公平で公正に聞こえるが、その実非常に偏っており、受益者だけに受け入れられる言葉なのである。

 名古屋と周辺地域、名古屋市内における各地域。これら相互の「助け合い」という思想は「地域委員会」であるとか「減税」といった河村市政にはない。

 「貪欲」を肯定し、不公正であれ「競争」をあおり、人々の人間らしい「助け合い」の精神を踏みにじる。
 そして、「公約を守らない」
 これらの者を「独裁者」として徹底的に批判した人物が居る。

 それが映画「独裁者」におけるチャールズ・チャップリンであった。

 今回、「ウォール街を占拠せよ!」のコンテンツを見ている中で、この独裁者の「最後の演説」が放映され、思わず目頭が熱くなった。
(リンク先は日本語訳がついています)



もっと詳細な日本語訳と解説はこちらにあります。

貪欲が人の魂を毒し、憎しみをこめて世界をバリケードで封鎖してしまったのだ」

「皆に雇用の機会を与えよう。若者に未来を与え、老人に保障を与えよう。そんなまともな世界のために闘おう!」

「獣たちもこういった公約をかかげて権力を手にしたのだ。だが、嘘だった。奴らは公約を守らなかった。これからも実現させることはない!」

「独裁者たちは自分だけを自由にし、民衆を奴隷にしたのだ。さあ、この約束を実現させるために闘おうではないか!」


「自然のしずく × ことばの大海 
  2009年11月17日 チャップリンの『独裁者』ラストの演説(映像と和訳つき)より
 如何だろうか。

 減税ではなく、適正な配分をし、そして必要な人々に分け与える事。
 地域の独立ではなく、各地域間の相互扶助。
 名古屋だけの発展ではなく、周辺地域との調和の取れた振興。


 河村市政を進めるのではなく、これらの事が今、必要なのでは無いだろうか。

 最後に特に、減税日本ゴヤの市議各位にチャップリンの演説からこの部分をお送りしよう。
 立候補の際には求められなかった「党議拘束」を今になって、後出しジャンケンのように求めてくる河村代表は、公約を守る者だろうか?
 キッチリと独裁者、それも非常にだらしなくみっともない独裁者ではないだろうか。

「兵士たちよ!獣に身をまかせてはいけない!
奴らは、君たちを軽蔑し、奴隷にし、生活を管理する。

君たちが何をすべきか口を出してくる。
考え方や感情にまで指図する!


思想を叩きこみ、決められた食事を与え、家畜のように君たちを扱い、
砲弾の餌食として使うだけだ。」

(同上)




※1 減税によって、歳入が減れば、納税者の可処分所得が増えて消費効果が高まるというのは典型的な「一方的な見方」であって、歳入が減れば歳出も減るわけであり、歳出側の消費効果(経済効果)を勘案すれば、減税も増税も「ケインズの45度」に嵌って経済効果はゼロであることは既に述べた。

※2 3つのデメリット
 1.今まで公務員として保護されてきた作業(人件費として高価)が、安価なパート−アルバイトに渡ることで、同じ生産に対しての支出が減る。つまり、経済効果としてはデフレ側に振れるわけで、これがあちこちでも発生すれば完全に「合成の誤謬」が発生し、デフレが深刻化する。

 2.専門作業者として常用者をリストラし、パート−アルバイトにすることで現場作業者のスキルが落ちる。落ちるだけではない。実際に、こういった変動期においては、最初、常用者として雇われたものが、その行政機構の中で業務研修を受けて業務能力を身に付ける。やがてその作業が外郭団体に移管され、作業者も移籍される。ここではまだ身分保障自体は余り変わらない。しかし、この外郭団体が解体され、現場作業者は解雇となる。
 この作業を肩代わりするのが指定管理事業者となる。この指定管理事業者は当該作業の経験者を、こういった元の行政セクタから得ることができる。つまり、業務訓練の経費を元の行政機構に依存しているのと同じ事になる。
 けれどもこれができるのは最初の一回だけである。業務訓練能力の無い指定管理事業者はこれ以降現場作業者を訓練する事ができず、または充分にできず、結果行政サービスの低下に繋がる。また、各地で問題となっているが業務の継承が困難となる。

 3.このように行政業務において将来展望を無視した市場原理の導入は、そこに参入する作業者を減少させる。一般的な物販、製造などであれば、将来的なイノベーション等で将来所得の増加という希望が持てる。これが元々の民間セクタの人材吸引力であった筈だ。しかし、行政業務というものにはこのような拡大、成長は望めない。
 昨今、「官民格差」という言葉は、民間セクタに比べて、行政セクタの所得が高く、厚生が手厚い事を言うが、これは不況期には常に言われる事で、好況期には行政セクタの将来期待の無さと、民間セクタの将来期待や厚生の差が取りざたされる。これも、「一方的な見方」でしかない。
 将来的な成長、拡大が本来望めない行政業務が、更に民間並みの競争に晒された場合、参入してくる若者が居るだろうか。

※3 確か、こんな言葉をフランス革命だかの時の言葉として聞いたことがあるような気がしたのだが、誰の言葉であるとか、何時の言葉であるとか出典まで思い至らなかった。(まあ、自分の脳みそはこんなものである)誰か思いついた人が居たら教えてください。