市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

政治を歪ませない為に

昨年のコメントにお応えする

 昨年のエントリーにご意見を頂戴した。
 コメント欄で少々ご返答をさせていただいたが、こちらで逐次的に補足させていただく。

それなら今までの古いタイプの政治家W氏とかが、支持者のために我田引水的に陳情を行い、役人に圧力をかけるのもいけないだろう。

それなら、地域委員会でしっかり話し合ってくれたほうがまだましだ。

先生と知り合いでなければ不利な状況にされるというのでは話にならない。

地域委員会ならまだ立候補できるチャンスがあるというものだ。

 というご意見だった。

 議会は元々市当局、つまり、役人を監視する為に存在している。「役人に圧力をかける」のが議会の役割であり、圧力をかけない議員は給料泥棒ということになる。
 その圧力の起点が、特定の支持者のための我田引水であるかは、それこそ主観の問題になるだろう。あまりに偏った圧力は当然問題になるが、そのような異常な圧力は違法性を形成する可能性がある。
 逆に、公平、公正な市当局の監視というものでも、起点が支持者である可能性はある。支持者である住民が気が付いた行政の齟齬について、議員が当局を糾すというのは地方自治の姿として至極真っ当ではないか?

 こういった事を「地域委員会」でしっかり話し合う?

 正直言って、地域委員会でいくら話し合っても、市当局の中の問題には触れる事すらできない。地域委員会は地域予算の支出についてしか権限が無い。市当局に意見を訴えても、それが聞き入れられるかは不明だ。

 河村市長の言うような「地域委員会万能論」は市会の機能を理解していない者の妄言でしかない。

 「先生と知り合いでなければ不利な状況にされる」かどうかは判らないが、本当に市当局に不当な扱いを受けたのであればこのW氏の元に「陳情」してみれば良い。

 この人は本当に「来る人は拒まず」話を聞いてくれる。口さがない人は「ダボハゼ」というぐらい間口が広い。

 そして、「支援するとなったら命がけで支援する」といわれる。つまり、言外に「助けてあげたのだから、(W氏が)支援をお願いした時にはお返しをしなければならないですよ」と言っているのだろう。けれども、これも「世間的な常識」の範囲で、確かに助けてもらった恩も忘れて、支援を求められた時にお返しをしないのは人として疑問がある。

 実は、今回の問題で違法行為に手を染めてしまった3人の役人というのも、この人のこういった強い信念に取り込まれて、指示を外れて違法な行為を行ってしまった可能性も無いわけではないと思える。

 日本の社会には(というか、実は国際的にも、つまり人間の社会全般に言えるのだろうが)「義理と人情と浪花節」というものが色濃く人々を束縛しているのであって、その縛りが法の枠組みと微妙にずれているところが様々な意味で問題なのだろうと思えます。

中日新聞に、年の初めに<考え直して>欲しい。

 1月3日の中日新聞の社説は「天下布武を学び直す 年のはじめに考える」という文章が載った。まあ酷い文章だった。

 http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2013010302000083.html

 おおよそ要約するとこういうことだろうか。

 「昨年末の衆議院選挙において地域政党が惨敗した。

 しかし、地域から中央集権を見直すことは悪くは無い。

 織田信長が唱えた『天下布武』という言葉も、『武』を単なる武力と解釈せずに、楚子の『七徳の武』(原文「春秋左氏伝」では「武有七徳」となっているので、「武の七徳」とすべきだろう)と解釈し、信長は天下を安んじようとしたと解釈できる。*1

 よって、住民も地方政治に責任ある参加を行い、地方から中央を正していこう」

 こういった主旨には文句は無いが、しかし、いくつかひっかかる言葉があった。


 まず、この選挙における明白な結果として、全滅した減税日本の体たらくがあるが、これらの原因を「準備不足で政策が浸透しなかったことは明らかです」と捉えている。

 「地元の有権者は、庶民減税を全国に広げるという原点や、身近な市政を忘れていないかと疑問に感じたことでしょう」と筆者は言うが、逆じゃないだろうか。

 この騒ぎで「減税政策」「庶民減税(この言葉の意味は社説の筆者はどう定義するのだろうか?)」の空虚さが露になった。つまり「政策(の実態)が浸透」した事が減税日本の敗因なのでは無いでしょうか。

 さらに言うならば「身近な市政を忘れていないかと疑問に感じた」という表現は、河村市長が何か市政を行っているという前提で書いていませんか?
 ならば問いたい。いったい河村市長が市政で何をしていますか?

 河村市長は市政を忘れてなどいない。そもそも市政なんか考えて居ないのだから。
 考えてもいない事は忘れようがない。

 そういった実態をちゃんと伝えなければ、市民は誤解したままになりますよ。

 もう一度本気で、この社説の筆者に問いたい。

 あなたから見て、河村市長は市長として、名古屋の市政に、ここのところ(そうですね、トリプル選挙以降位で)いったい何をやりましたか?
 
 この文章は非常に空疎なんですよね。
 なんでしょうか、地に足が着いていない。次もそうです。

 「東日本大震災で浮き彫りになった、原発立地の地方集中などのひずみは、都市からもただしていくべきなのです。」という言葉は、具体的にどうするのでしょうか?

 「新宿に原発を!」とでも言いたいのですか?

 原発が危険なのは理の当然で、その危険な施設が人口の少ない地域に建設されるというのは発生確率と影響範囲から算出された結論なのでしょう。こういった計算が冷酷だというのであれば、自動車事故の保険金や慰謝料の計算も冷酷で、「あるべき」ではないのでしょうか。

 私たち現代人は、結局自分の命とそのリスクすらも計算に載せて、毎月生命保険の掛金を払っているのでは無いですか。それは冷酷な計算かもしれません。しかしその一方で、残される家族や仕事の為に必要な経済活動、保障です。

 過疎地に原発を立地したからといって、安全性が疎かになってはいけない。
 その安全性は「新宿に原発を」建設するのと同等の真剣さ、つまりは安全にかける同等のコストで運営されなければならない。

 今回の教訓は、構造改革などといって適当に省庁を再編してしまった為に、原発開発にブレーキを踏むセクターが居なくなって、安全性保持の為の設計に穴が開いたという事でしょう。(女川/東北電力ではクリアできた。しかし、福島/東京電力ではクリアできなかった)

 その他にも論点はあるのでしょうが、「原発立地の地方集中などのひずみ」という問題を「都市からもただしていく」とはいったい何を言いたいのですか?

 これって、安倍政権が苦慮している<核廃棄施設維持のため>の核燃料サイクルの持続と同列の問題先送りの言葉に感じられます。



 「試行錯誤はあっても、いろいろな経験を通じて、地域の政治は確実に良くなっていくと信じたいものです。」

 これも空疎だ。

 というか、理想論?

 または、昭和の頃の様に懐かしい「空想的平和主義」=「平和を願えば平和になる」的な。

 信じたって良くなるかどうかは判らない。それよりも、メディアというものはキッチリその地方政治を演出する力を持っているのだから、「良くなる」ように報道を行うべきだろう。

 こんな空疎な「願望」を書き散らかしている暇があったら、事実の摘出をすべきだ。

 そして「市民が政治に責任ある立場で参加」というのであれば、結局、今回の衆議院選挙で流用された「リコール署名運動」の際の受任者名簿。あの収集主体は「市民団体」であったのだろうが、リコール署名簿の流用、流出にも「責任ある行動」を一切とっていない。こういった責任を具体的に指摘すべきだ。

 こういった責任を追及していないが為に、目的外使用。または「嘘」が現実のものとなった。こういった無責任でわがまま勝手な行為が、市民に失望を広め、政治からの距離を生み出す。

 つまり、河村市長やネットワーク河村市長の無責任な行為と、それを一切報じない無責任なメディアが、市民に落胆と政治への参加の空しさを味あわせることになる。

 そして、そういったニヒリズムの先に、歪んだ政治が実現されていくのだ。

 政治を歪めるのは、現実を歪んで伝えるメディアの責任も重いと知ってほしい。



 ところで、その河村市長はこの正月。例年のように街宣を行ったそうだが、その演説でも「やけくそ」を連発していたそうだ。

 具体的な政策など一切なく、衆議院選挙の結果などについては「やけくそ」とボヤキばかりだったそうだ。

 このところ確かに「やけくそ」という言葉が多い。自暴自棄になるのは勝手だが、どうぞお一人で自暴自棄になっていていただきたい。名古屋市民を巻き込まないでいただきたい。
 そして、できればそうやって「やけくそ」になってぼやきつつ煽る焼酎の原資は、名古屋市民から戴いている給料である事を思い出していただきたい。

 もう、辞めたら?


*1:同じ楚子の言葉に「戈(ほこ)を止(とど)むるを武と為(な)す」という言葉がある。「武」という文字はそもそも「戈(ほこ)」を「止(とど)むる」と書くのだという教えだ。