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カルトのジャーゴンとしての「自虐史観」

歴史は勝者のためにある
と言われる。現在放映されている大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の底本となっている『吾妻鏡』も、鎌倉幕府の勝者となった北条氏に立った記述であると言われている。中国の『史記』を著した司馬遷は、時の権力者が歴史を歪めようとしたことに抗して、宮刑に処せられたとも言われている。これも『漢書』に著されたところで、その他の説もあり、それぞれの著者が司馬遷に対してどう思っていたか、その主観がそれぞれの「歴史」を浮き上がらせる。

歴史には「自虐史観」も「自尊史観」もない。人間は恥多い者であり、また尊い者でもある。それらはそれぞれの環境や経緯によって現れた側面であって、一方的に正しいヒトや集団があるとは思えないし、逆に極悪非道なヒトや集団も無いのだろう。歴史の中で語られるそうした人々にも、別の側面は有ったのだろうし、歴史がその人物を万全と描ききることなどできるわけがない。

この「自虐史観」や「自尊史観」という言葉には注意した方がいい。「カルトは特殊な言葉(ジャーゴン)を使う」と言われているように、この言葉にも特殊な、暗示、洗脳の作用がある。「自虐史観」と繰り返し気に入らない歴史的事実に向かって決めつけていくことで、揺るぎない事実からも目をそむけ、歴史の現実から遊離してしまう。歴史はヒトの生きてきた物語であって、それを少しでも正しく捉え、理解することはヒトそのものの理解を助ける。歴史を歪めて理解するということは、このヒトに対する理解をも歪めるということとなり、歪んだ人間理解は、歪んだ判断に通じてしまう。

統一教会は韓国に対する日本の戦争犯罪や責任を信者に植え付けるそうだ。そしてその贖罪を求めるという。これを受けて「自虐史観」を子どもに教える教育がいけないのだ。という馬鹿な人達が居るけれど、そりゃあ話が逆だ。私が聞くところ、学校教育では日本の戦争犯罪についてあまり教えないと聞く。近現代史については通り一遍の学習にとどめ、カリキュラムの進み方によっては触れもしないそうだ。これは下手に日本の戦争犯罪や加害を授業で扱うと、「なぜ子どもたちに自虐史観を植え付けるのか、お前は日教組か!」と父母からクレームを受けるかららしい。実際私は日本が第二次世界大戦で米国と戦争したということを知らない高校生に会ったことがある。

つまり、大学に入りたての若者が、韓国に対する日本の戦争加害を知らない無垢なまま、カルト教団が洗脳用に用意したエキセントリックな日本の戦争犯罪や加害を写した動画でも見せられれば、罪悪感を植え付けるのは容易だろう。

正しいアプローチは、日本の戦争加害について、正しく伝え、その責任についても正しく理解を促すような授業を行うべきだ。確か片山さつき議員などは、「私は自分が行っていない戦争犯罪に責任を取ることはできない」と言っていたようだ。これはある一面その通りで、ヴァイツゼッカー演説「荒れ野の40年」でも、同じように、自分が行っていない結果に責任を求めるのは妥当ではないと述べている。(「自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません」)

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

しかし、自分が生まれる前に、自分の生まれた国が行った行為について理解しておくことは必要で、そうした「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と戒めている。

こうした授業を行うことで、歴史的事実と、その事実への向き合い方を教えることは意義がある。例えば韓国のヒトに「お前は日本人だ、日本人は韓国に酷いことをした、自分のおじいさん、おばあさんは日本に酷い目にあった、謝罪しろ」などと責められた場合にも、そうした歴史的事実や言われたことを否定するのではなく、「私は確かに日本人で、日本人が韓国の人々に戦争の当時、酷い行いをしたことは歴史で習って知っている。それは申し訳ないことだと思っている。しかし、私自身はあなたや、あなた達韓国のヒトに対して酷い行いをしようとは思っていない、私のことを日本人だからと決めつけずに、一人の私として見てくれないか」と、伝えることも可能だろう。そう言ったところで伝わるか伝わらないかは判らないが、自分の身に覚えもない行動を、通り一遍の謝罪でごまかすのではなく、事実と事実を見つめ、共棲の機会を探ることはできるはずだ。

歴史的事実から「自虐史観」などという歪んだ言葉を使って目を背けるよりも、事実を直視し、それを乗り越えていく方法を模索すべきではないのだろうか。

真実に向き合うには、勇気が必要なのではなく、単純に謙虚であれば良い。