市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

またまた「自由」とは

 いったい何から話し始めれば良いのか判らないほど私の頭の中では様々な事柄が一つの像を捉えつつある。集団的自衛権の容認という、後に述べるようにこの日本という国、そこに住む人々を決定的に危険にさらす決定を、閣議という場で行った安倍総理。更に、いままで色々な問題で「独自の法律解釈」を振りまき、施策を歪めてきた河村市長、そして今話題となっている中村孝道市議とそのスタッフの行為。
 この上は国家の行く末を危うくする問題から、下は詐欺紛いのさもしい行為まで、これらすべてが一つの像を結ぼうとしている。

 問題点は「自由とは何か」だ。

 自由とは恐ろしい概念だ。ヒトは本当の自由の下では生きられない。(生物学的にもヒトは群れを作って暮らす。群れという上位概念を要求する生物らしい)

 ドストエフスキーはヒトの自由に対する恐れを喝破し、ヒトは自ら己の首に巻いた鎖を握ってもらう、神、国家、社会を求めるようになると示した。

 野田秀樹はその戯曲「贋作・桜の森の満開の下」で「ヒトは下り坂を自転車のブレーキもかけずに走り続ける事はできない」とミミヲにヨナガとの決別を告げさせる。

 自由とは恐ろしい概念だ。

 しかし、本当に恐ろしいのは、この「自由とは恐ろしい概念だ」という事すら理解しない人々の存在だ。彼らは「自由」の恐ろしさを知らず、「自由」であることを満喫する。

 そう、ヨナガ姫のように。

 「自由」の持つ恐ろしい側面、「責任」をヒトが忘れる時、それは単なる「放佚」「放縦」「放埓」となる。



 ではなぜ彼らは無責任となり、主張する「自由」が「放佚」に堕してしまうのか。

 それは彼らに客観的な視点、他者からの視点が欠けているからではないだろうか。

 安倍首相、河村市長、中村孝道市議のスタッフ氏、主観的で手前勝手な法律解釈を振り回し、その法律解釈の客観的異常性に気が付かない。彼らは強弁しているのではないようだ。つまり、はなから主観的な、自分の立場からみた解釈を信じ、それのみが正しいと思い込んでいる。

 冷静な大人であれば、自説にどれほど自信が有ろうと、見落としの可能性は留保するだろう。ましてや政治的な文脈では利害関係や価値観の相違で、自説が必ずしも理解が得られない事は承知しているべきだ。
 「自説に対して政治的に反対を行う言うヒトは、自分を否定するため、攻撃するため、ためにする議論を持ち出しているに過ぎない」などという理解は幼稚に過ぎる。

 利害が異なり、価値観が異なれば、意見の相違が発生するのは当然の事であり、その為に「議論」という場があるのだ。

 河村市長に典型的なのがこれだろう。

 河村市長は「議論」ができない。

 彼が「議論」している姿を見た事が無い。

 河村市長が行っている事は「自説の主張」と「笑ってごまかす」事か「ただ黙る」ことの3つしかない。相手が黙って聞き入れれば河村市長から「味方認定」される。
 聞き入れない場合、相手が強いのであれば「笑ってごまかす」TVタックルでの姿はだいたいこれだ。聞き入れない「敵」であり無視ができると判断すれば、ただ黙る。(だいたい私に対する対応はこれだ)

 「議論」という行動には議論に臨む者同志が同じ土俵に立つという必要がある。
 減税日本ナゴヤ市議に送る、市議養成講座(5) - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 こちらでも引用した立花隆の言葉を引いておこう。

 論争は、双方の議論が噛み合ってこそ意味がある。Aがある議論を立て、Bがそれに反論したら、Aはその反論を受け入れて自分の誤りを認めるか、それともBに対して再反論するかしなければならない。 一部誤りを認め、一部反駁するという手もある。 さらに議論をつづけるときは、誤りを認めるなどして合意された論点についてはそこでさておき、まだ合意ができない論点に双方議論を集中して、お互いに相手を論駁すべく格闘する。

 論争がそうして正しい形でつづけられていけば、論争はついに両者が合意するところまで行きついて終わるか、それとも、論点をギリギリ論証も論駁も不可能な地点まで煮つめることによって(すなわち、主観の相違への帰着とか、相異なるプロトコル命題への帰着など)、 お互いに「合意できないことに合意する」かである。正しい論争はキャッチボールのようなものである。お互いに論点をやりとりしなければならない。

 「議論」を成立させるためには、相手側の発言をできれば相手側の立場に立って、聞いてみる必要がある。大抵の議論はこの「相手側の立場に立って」見る事でどのような齟齬があるのかが判る。つまり、そもそも議論が起きるという事は、どちらかが「相手の立場」を見落としていたに過ぎないのだ。

 こうやって「相手側の立場に立ってみる」という行為は絶対ではない。
 あくまで推測でしかないが、それがヒトとヒトとの相互理解の道だ。

 ヒト(人)は本質的にはヒト(他人)の痛みを理解する事はできない。
 けれども、その痛みを判ろうとする事はできるし、寄り添う事は出来る。

 そういった作業が本当の「議論」である筈だ。

 河村市長などのような人々の振り回す「議論」は「他人の痛みを理解しようとする作業」などではない。「自分の痛みを聞いてくれ」という押し付けに過ぎなく、それは乳幼児がオムツが汚れたからと泣きわめく姿に近い。


 「自由」と言えば「自由主義史観」があった。
 歴史教科書の記述問題に端を発した「東京裁判史観」批判の動きであり、それが現在の「南京事件否定」「慰安婦否定」「在特会問題」にまで繋がっている。

 この問題を見ていて思う事も「客観性の欠如」だ。

 なぜ、相手の立場に立って考えられない?(歴史的主体を含めての客体に思いを至らせることができないのは何故か)

 「・・・・(一切論拠も述べず)そう思いますよ」
 下らない主観の押し付けでしかない。



 河村市長の「減税理論」「リコール署名簿流出時の法的解釈」その無責任さ。

 例えば「リコール署名簿流出問題」において、河村市長は「自分たちも被害者だ」「法的な責任はない」と延々と主張しているが、その流出した名簿に記載されていた人々の気持ちに寄り添う様な発言、謝罪は一切ない。

 視点が固着化しているのだ。


 今、「己のケツに火がついている」中村孝道市議とそのスタッフは、それでも執行されていない政務調査費の支払いを求めて減税日本ゴヤを訴えているらしい。
 警察に告発までして。

 そして、その告発が受理されたかされないか、その決定が出る前に何やら減税日本ゴヤに要求しているようだ。

 いったい何がやりたいのか。


 こういった細かい事も、大きな事も。
 話は非常に単純だ。

 「相手プレーヤーの行動を考えているか否か」


 安倍首相は「集団的自衛権容認という備えをする事で、日本に対する戦争行為を抑止する事ができる」と言っている。

 まったく無茶苦茶で事実を見ていない。

 911の際、宣戦布告があっただろうか?

 今後また、あちこちで米国は他国に侵攻するだろう。
 https://twitter.com/no_soy_bonito/status/466957718436057088/photo/1

 アメリカ(合衆国)の戦争の歴史


 最近の「戦争」はついに人間が介在しない。「ドローン戦争」と呼ばれる「リモートコントロールされたロボットによる攻撃」が現実化し、先進国にとっては開戦による人的被害が少なくて済む、つまりは開戦に至る抵抗が少なくて済む状態が生まれている。

 米国に敵対するような国は米国の絶対的な物量に戦争としては圧倒的な敗北を喫する。
 しかし、そのような軍事的制圧は必ず反発を生む。

 アルカイダの存在が将にそれだ。

 こういった非対称の闘争、国家という枠組みでは計れない闘争に至った場合、戦争は戦争という形を取らない。テロという形を取る。

 日本が個別的自衛権の枠組みに逃げ込み、一国平和主義と言われようと、現実的非戦宣言と言われようと、米国のこういった軍事覇権と無関係であったのなら、または従属的関係に留まっているのであれば、テロの対象とはなりにくい。
 しかし、集団的自衛権を容認し、明確に米国と共同歩調を取るのであれば、日本もまたテロの対象となる。

 集団的自衛権は日本国内にテロを呼び込む政策決定でしかない。
 そのテロというリスクの見返りに日本は何を得る事ができるのだろうか?

 非対称な、非人道的な世界の在り方を追認する行為が集団的自衛権の容認だ。
 新自由主義とも整合性が良い筈だ。


 もう一つ。

 集団的自衛権はその行使を行う際、相手国に宣戦布告をする事が必要なっている。
 しかし憲法は「国の交戦権は、これを認めない」(9条2項)と明言している。

 つまり「集団的自衛権」が(一般的な独立国としての)国に備わっていると、閣議決定したところで、実質的には「集団的自衛権」は行使できない。宣戦布告ができない。

 または、逆にこの憲法の条項を無視して宣戦布告し、「集団的自衛権」を行使しようとするのであれば、それは憲法の定めを犯す行為である。

 憲法には98条に次のような定めがある。「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」

 憲法が明確に「認めない」とする「交戦権」を必要とする「集団的自衛権の確立、容認」は憲法と明白に相矛盾する。反している。憲法に反している閣議決定は効力を有しない。無効である。



追記:

「首相はオオカミ少年ではない」 河村・名古屋市

河村たかし名古屋市長「憲法9条は焼け野原になった時にできた。時代が変わったら変えないかんでしょう。集団的自衛権が行使できないのは軍事同盟を持っている国ではない。わしのとこ攻められたら守ってちょ、あんたんとこ攻められても守れません、というのはないですよ。

 北朝鮮はこないだもミサイルを撃ってきて……原爆つくっとる国ですよ。アメリカの力を借りないといけない。アメリカに何かあった時、私たちはお手伝いしますよと。日本人の命を守るために、一命をとして戦わないといけない時があるかもしれない。

 (集団的自衛権の行使容認は安倍首相の)信念なわけでしょう。東アジアの情勢は緊迫している。オオカミ少年じゃないと思いますよ。」(記者会見で)

(2014年7月1日23時44分 朝日新聞デジタル

http://www.asahi.com/articles/ASG7174H2G71OIPE03R.html

 http://www.asahi.com/articles/CMTW1407012400003.html

 物欲しそうでさもしい態度にしか見えない。

野田聖子氏、政権を批判「安全保障と少子化はリンク」

自民党野田聖子総務会長は月刊誌「世界」(岩波書店)6月号のインタビューで、安倍晋三首相が目指す集団的自衛権の行使容認について「安全保障も少子化とリンクしてくる。本当に安全保障を考えるなら、50年もつものを考えなければならない」と述べ、日本の現実に即した議論が出来ていないと批判した。

 野田氏はインタビューで「日本は急速に少子化が進んでいる。自衛隊は基本的に若い男性で構成されているが、安全保障政策でリスクを取ろうとしても、担い手がいなくなろうとしている」と強調。「ところが、国防の専門家はそのことを別次元で考えている」と問題点を指摘した。

 また、野田氏は「限定容認論」について「具体的に何であるのかよくわからない」としたうえで、「軍事的な役割を果たすことと引き換えに何がもたらされるのか、首相はもっと提示すべきだ」と注文を付けた。

 さらに「限定容認論だけでなく、人を殺す、人が殺されるかもしれないというリアリズムを語るべきだ」と訴えている。(上地一姫)

(2014年5月8日15時51分 朝日新聞デジタル

http://www.asahi.com/articles/ASG573RCJG57UTFK003.html

 自民党は党内にこういった野党を抱え、議論が可能である事で、
長期間にわたって政権を維持し続ける事が出来たのだろう。




 さて、7月11日に名東区の元市議、冨田勝三さんが続けられている「市政シンポジウム」が開かれる。
 名東区、及び名古屋市会に議席を持っている各会派に声をかけて、自民党から共産党まで市議が一堂に会して対論を交わす見応え、聞きごたえのある会になっている。

 これも第8回という事で、各区で広く行われればとも思える。

 今回は中日新聞の市政記者クラブキャップである内田康記者も加わって、「河村市政の功罪」という題目で講演があるようだ。
 果たして「中日新聞記者」の目から見た「河村市政」は是なのでしょうか?非なのでしょうか?

   日付 : 7月11日(金曜日)
   時間 : 18:30(午後6時半)〜20:30(午後8時半)
   場所 : 名東区役所講堂

 参加費:100円 (どなたでも参加可能)



河村市政の裏表

河村市政の裏表