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ピケティ「21世紀の資本」からみる河村流減税論

 トマ・ピケティ「21世紀の資本」が照らし出す「河村流減税論の意味」「均衡財政論の正誤」について述べたいと思います。

 名古屋で行われている「河村流減税論」や、私が厳しく批判した「均衡財政論」(参照)をこの本によって照射しようとするのであれば、第13章の「21世紀の社会国家」にある「20世紀における社会国家の成長(同書 p.493)」「社会国家の形( 同書 p.497 )」「現代の所得再分配ー権利の論理(同書 p.499)」というパラグラフによって議論されている「国家の在り方」「税の在り方」を参照する事が出来るだろう。

 この部分を読み解く事で、これらの論点はおのずと判断できる。

 なお、ピケティは「福祉国家」という言葉よりも「社会国家」という言葉が合うという事で、「社会国家」という言葉を使っている。

 ピケティは次のように語る。

 経済と社会における政府の役割の変化を計測する最も単純な方法は、国民所得に対して総税収がどのくらいかを見ることだ。次頁の図13−1は、4ヵ国(米国、イギリス、フランス、スウェーデン)についての歴史的推移を示したものだが、富裕国で起こったことはこれでかなりよく表現されている。(21世紀の資本 p.493)

 4ヵ国のどこでも19世紀中から第一次世界大戦にかけて、税収は国民所得の10パーセント以下だったということだ。これは当時の国が経済や社会生活にはほとんど介入しなかったという事実を反映している。国民所得の7−8パーセントだと、政府は中心的な「君主」機能(警察、法廷、軍、外交、一般行政等)は行えるが、それ以上はたいしてできない。
 (略)
 この時期の国家は、ある程度の道路などインフラにも支出したし、学校、大学、病院などもまかなったが、ほとんどの人々はかなり初歩的な教育や保健医療にしかアクセスできなかった。(同書 p.493)

 1920年から1980年にかけて、富裕国が社会支出にあてようとする国民所得の割合は大幅に増えた。たったの半世紀で、国民所得に占める税のシェアは、少なくとも3倍か4倍にはなった(北欧諸国だと5倍以上)。
 (略)
 言い換えると、富裕国はすべて例外なしに、20世紀の間に国民所得の10パーセント未満が税金になるという均衡から、国民所得の3分の1から半分までその数字が上がった新しい均衡に移行したことになる。(同書 p.494)

 ちなみに図13−1には日本は含まれていないが、日本における現在の国民所得における総税収の割合は32〜33%だそうだ。図でいうと、米国よりも少々高い値を示している事になる。

 この政府税収の歴史的な増加が何に使われたのかについて、ちょっと詳しく記述しよう。その税収は「社会国家」*1の構築に使われたのだ。19世紀の政府は、自分たちの「君主的」役割を果たすだけで満足していた。(略)増大する税収で、政府はますます広い社会的機能を引き受けられるように。これがいまや国によって、国民所得の4分の1から3分の1を消費している。これはまず、ほぼ二等分できる。片方の半分は保健医療と教育に行き、残りの半分は代替所得と移転支払に行く。
 (略)
 政府は巨額の税金や社会保険料を徴収して、それを代替所得(年金や失業保険)や移転支払(家族給付、公的扶助など)の形で他の世帯に支払うので、全世帯の可処分所得を合計すると、総額は変わらないままだ。
 (略)
 20世紀を通じた財政増大は、基本的には社会国家の構築を反映したものなのだ。
 (同書 p.496〜498)


 河村市長は税を「悪」であるかのように語る。「お上の権力基盤たる税を減らすことが庶民革命への第一歩」と語っている。かつての君主国家のように、王が国民から徴税をしていた場合には、その王政維持の為の税と課税される民衆の間にはトレードオフの関係が成立した。そこでは課税する国と課税される民衆では利害が対立していたのだ。
 しかし、君主が消え、民主国家となれば、税は特定の王の為に使われるのではなく、民衆の為に使われる。つまり、民衆が民衆に課税し、税の配分を受け取るのも民衆というのが現代の民主国家、社会国家(福祉国家)の現実なのだ。

 ここにおいて「民のかまど」のたとえ、仁徳天皇の故事は意味を成さない。
 (敢えて言うならば、通貨流通が滞る時には、流動性を高める、財政出動せよというのが、仁徳天皇の故事に近いだろう。王制=徴税者と民衆=課税負担者という対立が無い現代において、この故事が語る減税は現代における税制と同一視はできない)


 それまでのように王や荘園貴族、または宗教寺院などが領主となって、民衆から十分の一税などを徴収していた時代においては、徴税者はそれ以上の介入をしなかった。
 課税負担者たる民衆はこれ以上の課税には抵抗を示し、時には議会を形成してより一層の課税の軽減を求めたのだろう。
 民衆は相互には市場原理主義、自由競争を行ったのだろう。それは確かに働けば働くだけ利益を得られる社会ではあったのだろうけれども、いったん天災や病気、事故などで働けなくなった時には何の保証も期待できない社会でもあった。民衆の間で相互に代替所得(年金や失業保険)や移転支払(家族給付、公的扶助など)を成立させるには社会保障か税という強力で公正性の期待できる仕組みが必要となる。

 つまり、現代のような社会国家(福祉国家)においては、国家の強権、税の強制力は、国民の中でも弱者の為にあるといえる。

 こうした徴税権に対して否定的な態度を現すべきは、その国家の中で利益を上げている者たちだろう。暫く以前に、現在のピケティ氏のように日本国内で広く受け入れられたハーバード大学マイケル・サンデル氏はコミュニタリアニズム共同体主義)の立場から、現代の社会で大きな利益を上げている者は、自身の素質や努力と同時に、その素質に市場的価値を見出している社会にも着目すべきだと述べている。

 つまり、現在多額の報酬を得ている日本国内のサッカー選手を例に考えてみると、彼等の報酬と、ふた昔前の日本サッカーリーグ(JSL)の当時の選手たちの報酬とでは雲泥の差がある事は明白だ。(すでに数億を稼ぐ日本出身のサッカー選手もいる)
 では、JSL当時の日本人サッカー選手と、現在の彼等と、その差ほどの素質や努力の差があったのだろうか?

 個人だけに限らない。企業についても同じことが言えるだろう。

 個人や企業が収益を上げた時、その個人や企業の能力や努力を否定するつもりはない、しかし、それと同じように市場が、社会がそれを見出した結果が収益につながっているという事を見失ってはいけない。

 収益とは個人や企業と、社会全体の関連の中で形成されているのである。収益とは個人や企業の私的なものではあるけれども、その形成過程は社会的な関連性の中にあるのであって、であるならば、収益の幾分かを社会に還元するのは当然の事なのではないか。*2

 サンデル教授は共同体主義者の立場から、このように主張した。 
 これが社会における「正義」なのだろう。

 ピケティ氏の言葉に戻るなら彼はフランス人権宣言に立ち戻り次のように述べている。

 1789年フランス人権宣言第一条の第二文*3は、この問いかけに対する一種の答えとなっている。というのもこれはある意味で、挙証責任をひっくり返しているからだ。平等性が基本であり、格差が認められるのは、それが「共同の利益」に基づく場合のみ、というのだ。
 (略)
 社会的不平等が容認できるのは、それが万人の利益になるとき、特に最も恵まれない社会集団の利益にかなうときだけ、というものだ。したがって基本的人権や物質的な利得は、最も権利や機会の少ない人の利益にかなう限り、できるだけ万人に拡大すべきだということになる。米国の哲学者ジョン・ロールズが『正義論』で持ち出した「格差原理」も似たような意図を持つ。そしてインド人経済学者アマルティア・センお気に入りの「ケイパビリティ」アプローチもまた、基本的な論理の点ではそんなにちがうものではない。
(同書 p.499)


 また、ピケティは収益について、個人と企業、社会の間でどのように分配すべきか、次のようにも述べている。

 そしてズバリどんな要因が個人のコントロールできる範囲で何がその埒外なのか(どこまでが運で、どこからが努力と能力なのか?)という点だ。こうした問題は、抽象的な原理や数式などでは決して答えが出ない。これに答える唯一の方法は、民主的な熟議と政治的な対決だ。だから民主的な論争と意思決定をつかさどる制度やルールが、中心的な役割を果たすことになる。(同書 p.500)


 再度申し上げるが、現代のような社会国家(福祉国家)においては、国家の強権、税の強制力は、国民の中でも弱者の為にあるといえる。確かに、国家の強権は弱者には冷たく、それが有効に使われない事は多く、時として弱者を押し潰す事もある。しかし、弱者こそこの強権を利用し、公平性を手に入れるべきだ。それこそが政治というものだ。

 けれども、社会的に不遇な立場に居る者(現在の日本でいうと、非正規雇用に甘んじている若者や国民年金生活者、失業者やシングルマザー等々)ほど「国家の強権」であるとか「政治的な力」に対して懐疑的で否定的な立場を取る。

 この錯誤がこの国を歪めている。

 弱者は諦めるべきではない。日本の政治は民主主義を取っている。民主主義とは敢えて乱暴に言えば多数者の政治なのであって、社会的に恵まれている者よりも、不遇な者の方が本来は圧倒的に数が多い。しかし、不遇な者は政治に信頼を寄せず、自ら距離を置いてしまう。結果として、少数者である恵まれた人々が政治に圧倒的な発言力を持ち、少数者の為の政治が実現されてしまう。

 つまり話が逆なのだ。
 政治が少数の富裕層の物になっているから不遇な者は政治に背を向けているのではない。
 不遇な者たちが政治に背を向けているから、政治が少数の富裕層の物になってしまっているのだ。

 疑いなく少数の富裕層の党、持てる者の党である自由民主党は、衆議院議員選挙において、おおよそ40%の得票率で80%の議席を確保している。

 安倍政権は圧倒的な「棄権票」によって支えられているのだ。



 ・・・・・しかし、かといって投票率が高まれば理想の社会が訪れるとも思えない。

 大多数の有権者は歪んだ社会観、政治観しか持っていないようにも思える。
 その歪んだ社会観、政治観の発露が、前回の名古屋市会議員選挙、リコール選挙の結果だ。上記のように現代の日本という民主主義国家において、税が国民間の富の再配分を実現する大切な制度である事は疑う余地はない。その税制度を否定し「お上の権力基盤たる税を減らすことが庶民革命への第一歩」などという歪んだ社会観が肯定されてしまったのが前回の名古屋市会議員選挙であり、その結果生まれたのが「減税日本」である。

 安易な対立構図に騙されたり、現実を踏まえない議論に惑わされることなく、しっかりとした熟議の為の議会を形成すべきだろう。

 「財政均衡論の正誤」については次回に続く。


*1:引用者注:すでに述べたように「福祉国家」の意味

*2:余分な事だが、吉田何某のように「税」を「収奪」と見る見方が如何に歪んでいるか

*3:引用者注:「21世紀の資本」の巻頭にはこの言葉が引用されている「社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」