市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

遵法・利他・保守思想

法律は自分自身を守るもの

 名古屋の人は車の運転免許を取るのが早い。たいてい高校を卒業すると同時に車の免許を取って、私の世代など車が無ければ遊びにもいけないし、人間扱いしてもらえなかったりもしたものだった。私は、その年代に、ちょっとした事情があって、車の免許を取得せず、ずっと遅くなってから車の免許を取得した。免許を取得した直後に父親が、運転の様子を見ると言って私の運転する車に同乗してきた。自宅の回りを適当に流して、なんとか及第点をもらって、駐車場に帰ろうとした時に、私は幹線道路から少し早めに裏道に入った。それを見咎めた父親が、なぜこんな手前から裏道に入ったと聞いてきたので、「信号がないから」と答えると。「信号は自分自身を守るものだぞ」とポツリと言った。

 若い頃、特にちょっと小賢しいような若者は、すぐに「ショートカット」や「手抜き」を覚え、「楽ちんだ」などと、他人を出し抜いたつもりになる。ちょうど、信号のある幹線道路を回避して、信号のない裏道を走るようなものだ。しかし、幹線道路の信号は、「自分が守らなければならない義務」であると同時に「自分自身を守ってくれる規則」でもある。

 それまでも色々な場面で、「ショートカット」や「他人を出し抜く方法」などを鼻にかけていた私は、この一言で「規則の重要性」を知ったような気がする。

 先日、東京の新宿で地下駐車場の作業員が二酸化炭素の消火装置に巻かれて亡くなった。それを受けて関係先の家宅捜索が入ったそうだ。その前には販売した薬品に誤った薬剤を混入させてしまったジェネリック薬品の製造業者が、事故の詳細報告を公開している。

https://www.kobayashikako.co.jp/news/2021/210416_surveyreport.pdf

 規則を守る、決まり、手順に沿って作業を進めていくということは、他者に迷惑をかけないための義務であると同時に、何よりも作業者自身を守ることになる。利益を追求する私企業においても、近視眼的に「ショートカット」や「手抜き」を行うよりも、こうして決められた規則や手順を守ることは重要な自己防衛と言える。

 河村たかしは小賢しく、法律や規則の抜け穴を突いているようにみえる。名古屋城の木造化において現行法が要求するバリアフリーなどの設備は、文化財の復元においては建築基準法の除外規定が適応されると言う。しかし、除外規定が適応されようが、その建物に火が付けば人が死ぬ事に変わりはなく、避難するための方法は備えねばならない。建築基準法を逃れられても、物理的な条件は誤魔化すことはできない。こうした設備もなく不特定多数の人を入れる高層建築を造るのであれば、人命軽視も甚だしい。時折起こる、違法建築による店舗火災における大量の死亡事故。そうした施設のオーナーなどと同じような人命を軽視し、危機意識に欠けた無責任な考え方だろう。

 また、今般の知事リコール運動においても、自らの団体「ネットワーク河村市長」の持つ受任者情報を、リコール推進団体に提供した。政治団体の政治活動であれば個人情報保護法の規定は除外されると言っているが、そもそも「ネットワーク河村市長」は政治団体ではないし、同様に法律の抜け穴を利用したように見えて、その実、個人情報のコントロール権は当事者本人にあり、侵されるべきではないという、立法の趣旨に反している。そもそも宗教団体や政治団体がこの法律から除外されているのは、宗教団体や政治団体が信者や支援者に対して、そのような人権侵害を行えば存続自体が危うくなるため、高度な倫理観を持って個人情報を扱うとみなされていたものであって、それを逆手に取り、自分だけは乱雑な扱いを許容される特権階級であるというのなら、その考え方自体が歪んでいる。

 さらに、この知事リコールにおける偽造署名問題でも、偽造を指示したとされる田中事務局長が「充足数に足りていない署名は、署名ではないので、(押印をおこなって、偽造をしても)地方自治法に違反しない」と説明していたようだが、この発言は偽造問題が発覚し、県選管が調査を始めた際の河村たかしの見解(「充足数に足りていない署名は、署名ではない」)と同じであり、リコール運動のノウハウを持っていると、リコール事務局を指導した、河村たかしの歪んだ遵法意識が、この大量の偽造署名を生んだとは言えないだろうか。

 その関連性、法的責任は、まだ事実関係の解明を待たなければならないだろうが、この発言の付合は、気になるところだ。

三方良し

 日本の伝統的な商売の教えに「三方良し」という言葉がある。「売り手よし・買い手よし・世間よし」の謂で、自分の利益を追求するだけでなく、買い手の利益に配慮し、世間の利益も阻害していないか目を配らなければならないという教えだ。買い手の足元を見たり、商品を誤魔化して暴利を貪ろうとしても、そんな商売は長くは続かない。また、世間、社会全体の利益を阻害するような商売も、やがて行きづまるのは目に見えている。買い手や社会が、己の商売、己の提供する商品やサービスを継続的に望むものか、しっかりと判断し、そうした期待に応えられるよう、常に商品やサービスの品質を維持する必要がある。

 そうした際にも、法律や規則、決められた手続きというものは、単に守らなければならない義務などではなく、自分自身を守ってくれる武器となる。不幸にして事故が起きた場合でも、こうした規則や法律に準じた行動を守っていれば、提供者自身が法律に守られる。

 私は、「大阪維新の会」の主張に反対である。橋下徹の主張などは、短期的な利益を追求するような主張であって、目先の損得という意味では整合しているように見えて、実は長期的には利益になっていない。「今だけ、金だけ、自分だけ」と言われる態度では、持続可能性がないのである。

 河村たかしには「他を利する行為が、自分自身を利する」という発想がない。(そもそも、彼には他者が理解できていない)

 河村たかしが減税政策を掲げた時、名古屋の市民税を減税することで、「人も企業も名古屋に呼び込む」と言っていたが、税を安くすることで、人や企業を名古屋に呼び込むということは、取りも直さず、周辺地域から人や企業を奪うということに他ならず、名古屋だけ儲ければ周辺地域はどうなってもいいという態度でしかない。結果として減税政策自体が小さなものになったために、こんな移動は発生しなかったが、このような呼びかけを行うこと自体が倫理的に誤っているだろう。

 2つほど余計なことを言うと、河村たかしの家業である古紙回収業「河村商事」は、春日井にある。そうはいっても名古屋とは隣接しているのだから、減税で企業が名古屋に移るのだとすると、「河村商事」は真っ先に名古屋に移ってきても良さそうなものなのに結局動かなかった。つまり、河村たかし自身、「減税で人も企業も呼び込む」とは言うものの、そんな効果は最初から期待していなかったということだ。口から出任せで言ったまでで、本気で受け取っていたひとを、河村たかし自身バカにしていたのではないのか。(そういう時、あの怪しい名古屋弁もどきで話す)

もう一つは、河村たかしが商売など知らない、できない事を論証しよう。

今回の河村たかしマニフェスト2021を読んで、奇異に思った項目の一つに「(10)昇龍道とは別の新たな観光の創設」というものがある。昇龍道とは名古屋をハブに、中部、東海地方の各観光地をつなぐ観光プロジェクトだ。

https://shoryudo.go-centraljapan.jp/ja/

 これについてまだ充分展開されているとは思えないし、項目の中で書かれている事柄も具体性にかけ理解不能だ。ある人の解説によると、「昇龍道プロジェクト」の推進者たちと意見が合わず、協力が得られないために、河村たかしは疎ましく思っているようだ。そのためにわざわざネガティブな項目を加えたらしい。逆に「犬山、郡上、木曽、裏木曽の市町村」を持ち上げているのは、名古屋城木造化に伴う木材調達で、それらの地域が河村を接遇し、機嫌を良くしたために、取り上げたのではとのことだった。つまり、自分を肯定的に見る「味方」には気さくでやさしく、自分に意見を言う「敵」には冷たい。まったく子どもじみた態度が現れているのではないかとのことだ。

 これだけではない。河村たかしは、あおなみ線SL走行に伴って、笹島ライブエリアに「鉄道博物館」の構想をぶち上げた。金城ふ頭に、JR東海が運営する「リニア・鉄道館」がすでにあるというのにだ。この「リニア・鉄道館」はいわゆる「宝塚開発方式」とでもいうものだろう。あおなみ線という旅客鉄道を設置したところで、利用者は知れている、その終点駅に観光スポットを設置することで、旅客線の利用を少しでも促進しようというJR東海の企業戦略は商売をやっているものであれば、誰だって理解できる。で、あるのにも関わらず、そのあおなみ線の始発側の笹島ライブ駅に、同様の施設を作ってしまっては意味がない。

 河村たかしの経歴を見ていくと、大学を卒業して、就活を一切せず家業に入り、その家業も力を入れず、窯業学校に通ってみたり、画廊をやってみたり、書家を気取ってみたり、挙句の果ては法律学校に通って司法試験を9年連続で落ちてみたり。禄に自力で稼いでいない。たまたま日本新党という「風」で衆議院議員に当選したまでだ。自力で金を稼いでいない人間には、自力で金を稼ぐ苦労も、面白さも判らないのだろう。

 そのために、利他の心がなく、私利私欲一辺倒の行動を取ってしまうのだろう。

保守主義・伝統主義

 保守主義は革命思想に対峙する形で形式化された。
 フランス革命に対するバーグの論考が保守主義、保守思想の先駆とされている。

 革命思想というものは、デカルト的世界観、つまりは「この世のすべてを要素還元することで、人間はこの世界のすべて理解することができる。人間の理性が理解したこの各要素を、合目的的に再構成することで、人間に最適な社会を構成することができる」という「要素還元論」を基盤としている。産業革命以降の工業技術において大成功を収めたこの思想は、やがて社会や経済にまで演繹され、人間の英知による社会変革を信じる人々によってフランス革命が起こり、共産主義思想が確立し、共産主義社会主義を掲げる国家が誕生した。(ナチス国家社会主義や、日本における維新革命、明治政府も同じデカルト的世界観に立っている)

 産業革命の立役者となった蒸気機関であれば、確かに各部品という要素に還元してやれば、その全てを理解する事ができる。うまく動かない、機能しない場合には一度ばらして、機能を阻害する部品を治すなり、調整を施し、再度適切に組み上げれば機能を果たす。しかし、経済や社会はどうなんだろうか。一つの部品を取り外したり、作り直すことで機能を上げられるものだろうか。

 メアリー・シェリーの小説「フランケンシュタイン」は、こうした要素還元論を人間の体、生体に適応した様子を描いた空想小説である。生体に要素還元論を当てはめた名もない存在は、やがてその創造主であるフランケンシュタイン*1自体を滅ぼす。

 このメアリー・シェリーの示唆は優れて予言的で、経済や社会に要素還元論を当てはめた人工国家たるソ連ナチス・ドイツ、そして大日本帝国はその後滅びる。要素還元論の誤りは、要素間の関係性というものが、その全体の性質を左右するという事に無自覚であったことだ。そして、事物は決定論的ではない。ラプラスは、ある瞬間の全ての物質の力学的状態を知ることができたなら、全ての物質の将来の有り様を見渡せるとして、「ラプラスの悪魔」を提唱したが、残念ながらこの世はこうした決定論的には存在しておらず、それゆえに私達も存在できているようだ。

 事物は決定論的に存在せず、さらにそうした事物を総合して取り扱う際には、より複雑な事物間の関係性によって性質が左右されてしまうのであり、結果として、知性によって全てを理解し、全てを再設計することはできない。つまり、社会や経済を決定論的に語ることは本質的に誤りであり、革命思想、設計思想には運命的に錯誤が生じる。

 革命を唱える社会改革論者は、常に立証責任を持つ。社会になにか問題があった場合、この世には、国会の中から、新橋のガード下まで、何らかの「解決策」を提唱する者で溢れかえっている。しかし、そうした者たちの口車に乗って、社会を改造しようとするのであれば、そこには効果を証す証拠が必要となる。それを提示せず、ただ単に、思いつきのまま改革を唱えるものに、社会の舵取りを任せてはならない。

 革命思想、設計主義とは以上のような弱点を持っている。ではそれに対峙する「保守主義、保守思想」こそが、人類が身を委ねるべき考え方であり、思想だろうか。保守思想は、「否」と答えるはずだ。一つの思想に対して、全幅の信頼を寄せて、それに全てを委ねる。その考え方そのものが、革命思想、設計主義と同じであり、真の保守思想は、保守思想自体をも懐疑する。

 真の保守思想は、伝統に答えを求める。それも、今、日本の社会を席巻するような、視野の狭い右翼思想とは異なり、人間の本質を理解するための歴史的視野、伝統を尊重する。それはなにか、明治に生まれたような伝統ではない、武士道などという架空の事柄でもない。神ながらの道などという捏造臭い代物でもない。十八史略に代表されるような、中国の歴史書には確かに様々な人間の在り様が描かれていて、参照に耐え、何よりも読んで面白いが、それすらも深く読み込んでいくと「人間というのは色々ある」と思わせるだけで、答えを得るには少々迂遠だ。

 私は、人間の本質的有り様は、群生であると考えている。

 人間の以前、猿類は、群れを形成して生活していた。人間の本質的行動は、この頃すでに形作られていたと見られている。では、その根源はどこか、猿類の更に前、穴蔵の中で群れをなして生活していた弱小の哺乳類。彼らの在り様が人の在り様を決定づけ、人の本質を形成している。

 群生する動物は、利己的な行動だけを取らない。時に利他的な行動を取る。そうした利他的な行動を反射的に取ってしまう個体が、結果的に生き残り、こうした特性が世代間を受け継がれてきたとされている。人間は短期的には不合理な、利他的行動、自己犠牲の行動をみせる。現代の様々な社会学的シミュレーションが、功利的個体による集団よりも、利他的行動を取りうる集団のほうが、集団的生存可能性の高いことを示しているようだ。ここでも注意が必要で、常に集団を主に考え、個よりも全体を優先する全体主義を選択すべきと言っているのではない。それも単なる決定論である。

 全体の中に、個の生きるすべがあり、
 個の中に、全体の存続可能性がある。

youtu.be

 個人が尊重されるとともに、個々人が周囲と、そして全体と調和の取れた在り様が、500万年以上続く、哺乳類の種としての人類のもっとも存続可能性の高い、「伝統的な在り方」であろうと推測される。(そして、それは演繹されるように、朱子学や神ながらの道にも通じるものである)

 簡単に言うならば、保守思想・伝統主義の要諦は、人間を知ることに尽きるのであり、その人間が生きやすい社会を形成していくことである。
 そこで、生きにくいと感じる個々人に対して、その個々人に働きかけると同時に、原因となる社会の在り方を再検討していく。こうした斬新的な態度が保守主義である。

 生きにくいと感じる個人が声を上げ、その声を拾い、社会の斬新的な修正につなげる。これこそが民主主義の存在意義であり、個人にも、社会にも、そして、その社会にこれから参加する、次の世代にも有意義な在り方だろう。故に、為政者は常に個々人の声*2に耳を傾けなければならないし、そうした声を社会に反映する方法を模索することに、心を砕かなければならない。更に、そうして得られた知見を広く説明し、合議し、社会をより良いものにしていく情熱を持たねばならない。

それが保守思想に立つ政治家の姿である。


*1:いわゆる「フランケンシュタイン」と思われている、あの人造人間、怪物に原作では固有名はない、それを作り出した創造主が「フランケンシュタイン」となっている

*2:社会全体への警告音