ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」を読んだ。
- 作者: ユヴァル・ノア・ハラリ,柴田裕之
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前著である「サピエンス全史」の続編となる論考だ。
- 作者: ユヴァル・ノア・ハラリ,柴田裕之
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簡単に紹介すると、「サピエンス全史」においてハラリ氏は三つの革命が人類を今の姿にまで導いたと見る。一つが「認知革命」であり、虚構(架空の物語)を信じる事によって集団で生きることが可能となり、宗教、国家、貨幣、法律という社会の秩序を打ち立てることができたとする。次に「農業革命」で、人類は「麦の奴隷」となることで種としての拡大を得た。そして最後に起きた革命が「科学革命」である。この科学革命を駆動したのも、「ヒトが明日を信じる」(明日という虚構を信じて、今日の労苦を惜しまない)という認知傾向による。
そして今、科学革命は人工知能や遺伝子操作、生命科学の発展によって「超ホモ・サピエンス」を生み出すと予言された。その予言についてさらに論考を重ねたのが「ホモ・デウス」だ。
(ハラリ氏のオンライン歴史講義は YouTube で提供されている)
Online Course: A Brief History of Humankind - Yuval Noah Harari - YouTube
ハラリ氏の論考にはヴィパッサナー瞑想の影響が見てとれ、論考にも重要な要素となっている。これは上座仏教(大乗仏教/北伝仏教が優勢の日本においては「小乗仏教」などと呼ばれ誤解されている)の「観行」の事であり、日本においても日本テーラワーダ仏教協会などが指導をしてくれている。
日本テーラワーダ仏教協会 | こころを清らかにする人が幸せである
私もスマナサーラ長老の講演や瞑想会に参加したことがある。ハラリ氏の透徹したリアリティと上座仏教の思考方法には共通するものがあると感じる。(肉を否定し、虚構を排し、そうした執着や思い込みから離れ、それでも在る自己、その自己を投企することで、はじめて人は自己を獲得できる。被投の段階から、投企する自己を、そしてその自己に対する執着すら離れる。そこに何かのゴールがあるのだろうという気はしている)*1 閑話休題。
お釈迦さまは四門出遊によって老いる苦、病む苦、死ぬ苦を見、苦諦によって出家を決意なされた。人を常に苦しめるものはこうした逃れ得ぬ苦である。人類は長い事、様々な方法でこの苦から逃れる方法を考えてきた。秦の始皇帝は不死を求めて東の海蓬莱にまで不死の仙薬を求めたとされる。しかし、今や人類は様々な病を克服しつつある。そして「アンチ・エイジング」として老いる事すら克服するかもしれない。生命科学や遺伝子操作技術が進むと、死すらも克服可能なのではないかと考えられている。
(特定の個人から得た細胞から、「無脳症」のクローンを生み出す技術と、そのクローンを育成できる技術。そして、20年程度育成したこのクローンに、細胞提供者の脳を移植する技術が確立すれば、この脳そのものの寿命まではヒトは生きられる。これらの技術が確立するのは、果たして50年後か?20年後か?、今世紀中には可能に思える。しかし、そのコストはとんでもないものになるだろう。ここでも経済の格差が恐ろしい格差を生み出す)
人間は、エデンの園の中央に生える「生命の樹」と「知恵の樹」の内、知恵の樹に生える「知恵の実」を食べて楽園を追われたとされる。
知恵は得られたが、生命の樹の実によって得られる永遠の生命は得られなかった。しかし、その知恵によって「生命の実」を自ら生み出すのかもしれない。
ハラリ氏は現代を「人間至上主義」の社会と見る。世界を生み出したと言われる神は居らず、人間が神を生み出したと理解されている。ハラリ氏が指摘していた事例が面白い。
フランスにおいてシャルリー・エブド襲撃事件が起きた際、イスラム教組織のうちの一つはテロ行為を批難するとともに「世界中の何億というイスラム教徒の感情を傷つけた」として、同紙も責めた。けして「同紙が神の思し召しに背いた」と咎めたわけではない。ここにおいて既に「神」よりも「何億というイスラム教徒の感情」の方が説得力があり、重要とされている事が判る。「神」は死んだのであり、人間至上主義が現出しているのが現代だ。
こうした人間至上主義が科学を、文明をけん引し「戦争、飢餓、疫病」という人類の脅威を封じ込めている。人が自らの欲望を求める事をどこまでも是認する社会が現代であり、人間至上主義だ。それは「物欲を捨てる」という欲望すら肯定する。(つまり、いわゆるエコな生き方なるものも、一つの欲望を実現させているに過ぎない、上座仏教的に言うと執着から離れていないのだろう)
こうした人間至上主義が行き着くと、人間至上主義は空洞化する。
どういう事かというと、例えばすでに目の前にまで立ち現れている「自動運転」が完成した社会においては、人間は移動を「自動運転」にすべて委ねるだろう。ある映画では、未来の交通手段というものが描かれていて、そこでは一般の自家用車はすべて自動運転で、手動操縦ができる自家用車というのは一部の高級車だけであるという描写がある。今でいうとオートマ車とミッション車における逆転*2が、自動運転車 と手動操縦車の間で起こる。人は移動の間をシステムに委ね、時間を自由に使える。しかしそれは同時に旅をするという行為を空洞化させるだろう。(私は、すでに今でもワンボックスカーに家族が乗り込んで目的地から目的地へと移動するだけという旅行には空洞化を感じる。移動中のワンボックスカーの中は家庭における居間とまったく同じ状況となる。奥さんと下の子どもは前と後ろのモニターでそれぞれお気に入りのテレビ番組を見て、上の子はポータブルゲームに夢中というような状況では、「旅」は空洞化していると思うが)
ハラリ氏はスマートスピーカーに2人居るボーイフレンドの内、どちらを恋人に選ぶべきか相談する女性の姿を描いて見せる。スマートスピーカー(をインタフェースとしたエージェントシステム)がこの女性の嗜好や考え方の傾向、及びボーイフレンドのそうした属性情報を集め、社会全体のビッグデータから、そうしたファクター間の適合傾向を勘案、算出して、どちらの男性の方が良いと勧めたとすると、その選択は、この女性自身の選択よりも優れた(彼女自身の嗜好に適した)選択である可能性がある。ヒトはそれほど自身を知り得ないし、システムには今後どこまで拡大するのか底知れない可能性がある。ここで将来の伴侶をスマートスピーカーに尋ねる行為は、自我の喪失ではないのだろうか。
実は、人間至上主義の限界、空洞化はすでに目の前で起きている。
(特に、ハラリ氏が日本を「国家主義」的と見做している事には興味深かった。「空気」という「同調圧力」が支配するのが日本であれば、こうした観察は正しく思える)
というのも、すでに何年前になるだろうか。インターネット商用化すぐの頃だと思うが、「監視社会」の到来を予感して「脱統制」という呼びかけを行っていた。警察などの「Nシステム」の設置や「犯罪捜査への盗聴の利用」そして「監視カメラの設置」を批判していたのだ。(その歪んだ先が「個人情報保護」の風潮だったりする)
映画「踊る大捜査線」などでも青島刑事が膨大な監視カメラの録画を見せられるというシーンが描かれて、戯画的に監視社会を揶揄するような描写があった。分水嶺はここまでだろう。すでに、監視カメラによる犯罪捜査は市民権を得ているようだ。「脱統制」の頃のように、今、監視カメラ設置に対して反対運動など起こそうものなら変わり者扱いされてしまうのだろう。
日本の社会を見ていると、自ら積極的にパノプティコンに入ろうとしているようで、呆れてしまう。
そして、今年の年明け。中日新聞/東京新聞がすっぱ抜いた「企業情報の警察への提供」という話だ。当初、具体的な企業名がなかったわけだが、アソコなんて危ないだろうなぁ。と思っていたら、まんまとやってくれました。「Tカード」/「CCC」
公共図書館とTポイントカード(11月9日 プレゼン予定稿) - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0
この他にも、M女史が音頭を取っていた、東区における「地域委員会試行」において、東区の大曽根駅前に「監視カメラを設置する」と聞いて、腰が抜けた。訳あって、この「地域委員会試行」については、お手伝いをさせてもらおうと思っていたのに、さすがにそこまでは節を曲げられないために距離を置かせていただいた。
(まさか、自分が監視カメラの設置を推進するなんて!)
日本の社会は個人主義よりも社会主義に親和性が高い。個人の自由よりも場の空気、集団の和を重んじる。多くの個人は自分であるよりも、自分が安全である方が良いように思える。
ヒトは常に利便性を求める。
それが現代のような技術が生まれた今において、ヒトそのものを、ヒトの存在そのものをスポイルしているようにも思える。
ああ!しまった。
ローレンス・レッシグの CODE との関連と、
ドラマ「3年A組 ―今から皆さんは、人質です―」における描写、及び先日のブログの解説を盛り込み忘れた。機会があったら書きます。