市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「勤労の義務」について

 この話をするためにはどこまで遡らなければならないか。少し迷った。しかし、結局以前「減税日本ゴヤ市議に送る、市議養成講座(2)」で述べたように、社会的問題でその判断に迷った時には、その「根拠法」に戻る事が間違いのない選択だろうと思い、今回も迂遠ながら「根拠法」から話を始めようと思う。

 減税日本ナゴヤ市議に送る、市議養成講座(2) - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0


 つまり、憲法の26条と27条、30条のお話になる。

 現在の憲法に対して「権利ばかりを主張して、国民の義務が規定されていない」と仰る方が居る。これはそもそも憲法というものの意味を理解していない発言だ。
 憲法とは国民が国家に対して拘束する規定だ。
 逆に言うと、国家が国民に対して「こういった事はいたしません」と約束した規定と言える。

 つまり、憲法の各条は国民に対して国家とはどうあるべきだという事を定めた規定であり、国民に対しては、憲法は何も語らないというのが基本スタンスとなる。

 現在の日本国憲法は国民に対して基本的には、何も拘束していない。義務規定を持たないとも解釈できる。

 どういう事か。

 例えば、憲法の第30条は次のような条文となっている。

「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」

 これは憲法にいう「国民の3大義務(勤労、教育、納税)」の内、納税について定められた条項だ。

 これを見ると確かに国民に納税の義務を求めているように見える、しかしその義務の前に条件が規定されている。「法律の定めるところにより」
 この条項は「国民は法律の定めにない納税の義務は負わない」と逆に読むべきなのだ。
 つまり「租税法定主義」と言うようだが、予め定められた以上の租税(勿論、使役を含めた)の義務を国民は負わない、と定められたのがこの条項となる。(第84条の租税法律主義の規定と呼応している。非常にシンプルで強靭、きれいな律令です)

 更にいうと、憲法は国家に対して拘束するものですから、主語を国家にしてみるともっと規定が判りやすくなる。
「国家は、国民に対して、法律の定めのない税を課してはならない/課さない」

 憲法に定められた国民の3大義務というものは、よくその条項を読んでみると、一つの例外を除いて国民そのものを束縛するものではない事が判る。

 義務教育の規定についても見てみましょう、条文はこうだ。

「第26条 2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」

 国民に教育を受ける義務は有りません。
 子どもの頃議論になりました。それこそ「中二病」という時期に。
 「僕たち中学生は、教育を受ける義務があるのか?」というやつです。

 答えは「ありません」

 子どもたちに「中学までは学校に行く『義務』があるから『義務教育』というんだよ」という発言は単純に誤りです。憲法の規定は教育を受ける当人である子どもに対しては何も言っていません。その保護者である「親」に、教育を受けさせる(機会を与える)という「義務」を課しているだけで。その「親の義務」も経済的負担は国家が無償提供するとしているのが憲法の規定です。国民に対しては何も強いていない。

 敢えて言うと、子どもを労働力と見做していたような社会下においては、その労働力を奪う事となるのでしょうが、それはやはり続く第27条3項における「児童は、これを酷使してはならない」という児童保護の規定とも相俟って、児童を親の所有物(生産財)とせず、独立した個人として尊重すべしという国民(児童)の自由を保障した規定であろうと思われます。(非常にシンプルで強靭、きれいな律令です)

 さて、納税、教育と二つの「義務」が「義務」ではありませんでした。

 そこで「勤労」はどうでしょうか。条項を見てみましょう。

第27条になる。

「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」

 ここには「勤労の権利」とともに「義務」を併記する形で述べられている。
 文言を読むと、条件も与件もなく、確かに単純に「すべての国民は勤労の義務を負ふ」という言葉となる。

 「国民は勤労の義務を負っているのだから、働きもしないで親のすねを齧っているニートだとか引きこもりなどという存在は、国民の義務を果たしているとは言えない」

 こういった発言は社民的な人と、保守的な人。国家主権的な人、もっと単純に言うと、左気味の人と右気味の人、どちらに多いでしょうか?

 やはり「右気味の人に多い」というのが私の感覚です。自民党憲法草案にもこの第27条はほとんど修正を受けないまま引き継がれています。

 では、保守的で国家主権的な方、右気味の方にお伺いいたしますが、この「勤労の義務」は明治憲法(欽定憲法)にはどのように規定されていたかご存知ですか?

 「坂の上の雲」を目指した明治の元勲たちは「勤労の義務」を憲法にどのように盛り込んだのか。実は明治憲法には「勤労の義務」は規定されていない。

 現行憲法においても、戦後すぐの政府案には義務規定が無かったそうです。つまり先の条文は単純に「すべての国民は、勤労の権利を有す」となっていたそうなのだ。ここに「義務を負ふ」を追加するように提案したのは当時の社会党だったそうだ。では社会党はどこから「勤労の義務」規定を持ち込んできたのか。それが実はソビエト連邦の「スターリン憲法」を手本にしているらしい。

 憲法の全条文の中で、国民に対して明確に語っているのはここだけになる。

 この浮いている条文は、戦後の憲法制定時に「スターリン憲法」を手本に作られたものであって、その条文に「右気味の人々」が喜んで引用するという姿は中々楽しい。「右気味の方々」の「反知性主義」の一つの表れと言える。


 異様に浮いているこの規定に対して、憲法学者は整合性を取る事に苦労しているようだ。その為、この規定は「国家に対して国民に労働を提供する義務を負う」と解釈すべきだという意見もあるそうだが、いささか強引に過ぎる。

 「スターリン憲法」が前提とする社会主義であれば、労働を国民の義務として、社会の為の国民を規定する事には整合性がある。「ハタラカザル者食ウベカラズ」というわけだ。

 しかし、資本主義社会においては資本の存在を容認するのであるから、有産階級は働かない。働かなくても食える人間を容認するのが資本主義ともいえる。

 また、社会主義においては労働を用意、提供するのは国家であったので、国家が国民に労働を提供する義務を持つという制度設計は蓋然性がある。けれども資本主義社会においては、国家がどこまで労働を提供できるのか。その限界はおのずとあるだろう。

 さて、今までの戦後日本は曲がりなりにも「勤労の義務」を国家も国民も守ろうとしてきたのだろう。その為に、社会人は「会社」に所属し、「勤労」によって生活も、身分も、そして家庭も保障されるという社会。つまり、勤労の義務を基盤として生存が許される社会というものができたとも言える。
 これは資本主義制度下でありながら、「勤労の義務」という概念を社会主義から輸入したがために、その概念が逆に社会を「社会主義的」にしたとも捉えられるかもしれない。

 確かに、20世紀末の日本は、貧富の格差、社会保障の厚さ等、社会主義よりも成功した社会主義国とも呼ばれる国となった。

 以下、続く。
 まだ、本論の影すら見えてきていない。



 さて、7月11日に名東区の元市議、冨田勝三さんが続けられている「市政シンポジウム」が開かれる。
 名東区、及び名古屋市会に議席を持っている各会派に声をかけて、自民党から共産党まで市議が一堂に関して対論を交わす見応え、聞きごたえのある会になっている。

 これも第8回という事で、各区で広く行われればとも思える。

 今回は中日新聞の市政記者クラブキャップである内田康記者も加わって、「河村市政の功罪」という題目で講演があるようだ。
 果たして「中日新聞記者」の目から見た「河村市政」は是なのでしょうか?非なのでしょうか?

   日付 : 7月11日(金曜日)
   時間 : 18:30(午後6時半)〜20:30(午後8時半)
   場所 : 名東区役所講堂

 参加費:100円 (どなたでも参加可能)



河村市政の裏表

河村市政の裏表