市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

人間の声を聞こう

 大阪の橋下新市長と「大阪維新の会」(「日本維新の会」はこちら)の勝利については、非常に興味深い。橋下新市長に75万票が集まったことよりも、平松前市長がそれでも52万票を獲得したことが大きい。
 橋下は75万票の民意を早速振り回しているが、マスコミによって積上げられた斑入りのマジョリティが多数者の横暴を為すならば、マイノリティの52万人の民意を踏みにじる事になる。
 そもそもその75万人に一人ひとり聞いてみたい、「大阪都構想ってなんなんですか?」と。(このデンで言えば、名古屋の66万人にも「減税の経済理論の根拠って何?」と聞きたい)


 昨日も書いたように、この社会の「閉塞感」。現在の日本の政治状況に対する「閉塞感」が、既存政党への不信感となって現れ、それが(正体不明な)地域政党への支持に繋がっている。というのが実際のところで、この「閉塞感」を打ち破ってくれればなんでも良いんだろう。威勢の良い何かを待望しているように思える。
 河村のカンが鈍っているのもここで、市民は「何かを打ち破って欲しい」と思っていたんだ。その「何か」は何でも良いんだろう。既得権にしがみつく議会でも、旧態依然とした市当局でも何でもいいわけだ。(そして、そのような実態が有ろうと無かろうと関係ない)それをぶち壊したので人気を博したわけだ。(勿論、あの66万票が「減税」を求めた「民意」であるはずが無い。66万票が求めた物は、この正体不明の破壊そのものだったわけだ)
 破壊した跡に自分の責任となる政党なんぞ作ったのが失敗。それが既存の議会と同じか、それ以上の醜態を見せたから「バレちゃった」
 そして、「ぶっ壊してくれる」筈の河村さんが、いつまで経っても同じ「減税」で足踏みをしているので、突破力がないとみなされてしまうわけでしょうね。

 しかし、こんなものは政治ではありませんよ。
 昔の夏祭りに出てきた見世物小屋の理屈ですね。

 入り口では威勢の良い掛け声がかかっているんですよ。
 「世界最大のオオイタチ」とか、「蛇女」とか「大阪都構想」とか「市民税減税」とかね。で、中に入ってみるとベニヤ板に赤いペンキが塗ってあって、「大板血(オオイタチ)」とかね。

 まあ、そんなポピュリズムは時の裁定には耐えられませんから、どこかで足は付きます。河村は既に露呈していますし、橋下も府の財政については誤魔化しが効かなくなっていて、これで大阪市に移ったら何を「敵」に回すんでしょうかね?
 どうも「大阪市の職員」を槍玉に挙げそうな勢いですけど。
 何かの所為にして都構想が頓挫しないと格好が付きませんからね。

 そんな予想もどうでも良い。
 内田樹氏がこのような「閉塞状況」や「新自由主義」の問題点。更に、「ウォールストリートを占拠せよ!」にも繋がる競争原理の過ちについて語っている。大阪のこういった声が結局マジョリティにはなりえず、それでもこういった立論の一つ一つが52万票の批判票を積上げたのだろうと拝読したい。


教育基本条例再論(しつこいけど)
(略)
メディアは「競争力のない企業は市場から退場すべきだ」というビジネスルールをそのまま学校に適用して、「競争力のない教育機関は市場から退場すべきだ」と書いた。
この能力主義的命題が実は「競争力のない子供は市場から退場すべきだ」という命題をコロラリー(※1)として導くことにメディアの人々は気づいていなかったのだろうか(気づいていなかったのだと思う)。
能力のない子供、努力をしない子供は、それにふさわしい「罰」を受けて当然だ、というのが能力主義的教育観である。
「罰」は数値的格付けに基づいて、権力、財貨、文化資本すべての社会的資源の配分において「不利を蒙る」というかたちで与えられる。
罰の峻厳さが(報償の豪奢と対比されることで)社会的フェアネスを担保する。
能力主義者はそう考える。
(略)
社会の能力主義的再編(「既得権益を独占する抵抗勢力を叩き潰せ」)に、劣悪な雇用環境にいる若者たちがもろ手を挙げて賛同したことを私はまだよく覚えている。
(略)
現に階層下位に位置づけられ、資源配分で不利を味わっている人々がなぜか「もっと手触りの暖かい、きめこまかな行政」ではなく、「もっと峻厳で、非情な政治」を求めているのである。
(略)
日本社会はどうなったのか。
たしかに能力主義的再編は進んだ。
たしかに社会的流動化は加速した。
でも、それは下層から上層への向上でも、上層から下層への転落でもなく、「一億総中流」と呼ばれたヴォリューム・ゾーンが痩せ細り、かつて中産階級を形成していた人々が次々と「貧困層」に転落するというかたちで実現したのである。
「人参と鞭」による社会再編を日本人の多くが支持した。
「もっと甘い人参を、もっと痛い鞭を」と叫びたてた。
でも、そう叫んだ人たちのほとんどは「鞭」を食らう側に回った。
(略)
まだ社会の能力主義的再編が「間違った選択だった」ということを誰もカミングアウトしていない
(略)
財界人も言わない。言うはずがない。
彼らは「多くの能力のある若者が社会下層に停滞してそこから脱出できない」という現実から「能力があり、賃金が安く、いくらでも替えの効く労働力」を現に享受しているからである。それがいずれ「内需の崩壊」を導くことがわかっていても、ビジネスマンたちは「今期の人件費削減」を優先する。(※2)
(略)

(引用者補足)※1:コロラリー (corollary) 「論理的帰結」の謂
(引用者補足)※2:人件費削減とは、本当の生産性の向上ではない。単にデフレ・スパイラルを回し、振り回されているに過ぎない。経済のイロハである合成の誤謬である。議会でも、行政当局でも人件費削減は本当の行政改革でもないし、経費削減効果も低い。指定管理業者に投げ出す事も行政サービスの毀損とノウハウの喪失でしかない。

 市場原理主義が企業を選別するように、人を選別する事を肯定できるだろうか。
 激烈な競争原理が様々な経済効率を上げることで、人々は幸せを得ることができるのだろうか。

 そして、このような競争原理に対する懐疑は、それ自体が「負け犬の遠吠え」なのだろうか。(「負け犬の遠吠え」をしている暇があるならば、ポジティブシンキングでチャレンジウサギなんだろうか?)

 今となっては、明白に「否」と言える。

 競争は、途中の勝者間での競争を呼び、この競争が果てることは無い。最終的な勝者は一握りの者たちだけとなる。それが「1%」であり、それ以外の者たちが「99%」であると、「ウォールストリートを占拠」しているのである。

 この世界はもっと豊かであるはずだ。

“ In this world there's room for everyone
  and the good earth is rich and can provide for everyone.”
「この世界には一人一人場所がある。
  大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれるものだ」

チャールズ・チャップリンが映画「独裁者」で訴えた言葉だ。

 そして、この競争は公正なモノでもない。
 持つ者たちが次々にルールを変えてくるからだ。(TPPもこの文脈だ)

 チャンプリンもこの有様は看破している。
「獣たちもこういった公約をかかげて権力を手にしたのだ。だが、嘘だった。奴らは公約を守らなかった。これからも実現させることはない!」


2009年のマニフェスト(1/5)
このマニフェストについて、2011年1月5日の段階で「約7割に着手」しているらしい。

どういう風に数を数えたら「約7割に着手」と言えるのか、私には理解できない。また、富口市議が本会議でこのマニフェストについて個人質問したらしいが、どの程度の検証になったのだろうか?
(この模様は聞けなかったので伝聞ですが、富口市議は守山区の災害についてはノータッチだったんですよね、守山選出なのにね!)


 もう、こういった嘘つきの利己主義者たちと付き合うのは止めた方が良い。
 橋下のような者の詭弁、言い逃れは聞き飽きた。
 河村の壊れたレコードの様に繰り返される嘘も聞き飽きた。

 人間の声を聞こう!

「みんなで団結しよう!
  新しい世界のために闘おう!

皆に雇用の機会を与えよう。

若者に未来を与え、
  老人に保障を与えよう。

そんなまともな世界のために闘おう!」




内田樹さんの論考ではこちらも参考になる。

「平松さんの支援集会で話したこと」
政治とマーケットは教育に関わるべきではないというのは、人類学的な常識に属することです。別に僕が言い出した話じゃない。元東大経済学部教授の宇沢弘文先生が、「社会的共通資本論」として述べていることです。
共同体が存立するためにどうしても必要な要素がいくつかあります。それを宇沢先生は「社会的共通資本」と呼んで、三つのカテゴリーに分けています。
(略)
原理的なことなんですから、そのことははっきり、繰り返し言わないといけないと僕は思います。
教育というのは我々のこの共同体の次世代の「フルメンバー」たりうる人を育成し、継続的に供給するためのものです。