市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

ネトウヨ親父と「十二人の怒れる男」

中区役所の8階にある栄ギャラリーで「わたしたちの表現の不自由展」が始まった。
感染症対策という意味も含めて、会場を広く取り、1時間毎に入場者を50人程度に制限して運営されているらしい。日曜日(最終日は、終了時間が早い)まで、開催されているそうなので、ぜひ一度ご覧になる事をおすすめする。

金曜日からは、日本第一党(元在特会)主催の「トリカエナハーレ」(名前からしても、頭が悪そうだけど)も開催される。「不自由展」は地下一階に入り、エレベーターで8階まで上がって手続きをする。

「トリカエナハーレ」については1階からエレベーターで7階に上がり、そこから階段で8階の会場に入る。警備のため完全に8階は二分され、人の行き来ができなくなっている。なので、両方行きたいという人は、一階と地階の行き来をする事になる。

さてさて、その「わたしたちの表現の不自由展」は、それ以前に東京や大阪で開催できなかったり、大阪では会場利用についての訴訟が起きたりしており、名古屋における開催が注目されている。6日には、日本だけでなく、海外からも取材が来ていたようで、最後まで無事に開催されることを願っている。

この6日には中区役所前の歩道に、開催反対を訴える人たちがずっと路上街宣を行っていた。(路上宣伝員とも、「展示物:愚かな日本人」とも取れる)その前の日曜日にも右翼、民族系の街宣部隊がとっかえひっかえ街宣を行っていたようで、見慣れない顔の者も散見された。

SNS上では「破壊活動」を公言するものや、主催者団体にも「実力行使」を示して脅しをかけるものも居るようだが、警察や主催者団体は淡々と安全に展示会を続けているようだ。また、週末からの街宣でも「脅し」とも取れる表現を行うものもいたようだが、ずっと警察が監視カメラを回しているのだから、事が起きれば面白いことになるだろう。

中には栄ギャラリーの使用を許可した河村名古屋市長に対して、抗議行動を行うために、名古屋市役所で街宣を行っていたものも居るようだ。

右派でも左派でも、こうした極端な主張というものは、政治的には悪手だ。

例えば左派の「暴力革命」や右派の「排外活動」は、そうした事を主張し始めると、どんどんエスカレートし、法律違反ギリギリの行動を主張したものが「英雄」扱いされかねない。そうなると、皆で、その崖に向かって歩いていくこととなって、やがて崖から落ちる。賢い者は、こうした先のない「政治的主張」はしないものだ。

石原慎太郎渡部昇一、それに小林よしのり、最近では百田ナントカだの、みな、勇ましいことを言って扇動をするが、どこかでみっともなく踵を返す。こうしたアジテーターに乗って崖に走り出す者こそバカを見る。

しかし、中区役所前で、「表現の不自由展」を路上宣伝してくれる「展示物:愚かな日本人」の人たち、見事なまでにみっともない。掲げた大きな横断幕が「表現の不自由・その後 対日侮展示 断固反対!!」となっており、誤植、脱字でも平気で掲げている。こうしたいい加減さが、厳密な事実の評価や、正しい論考が行えない彼らの知的怠惰を表している。「愚かな日本人」とは、知的に劣るということを指しているのではない、知的怠惰を指して「愚か」と評している。


最近では「高齢の父親(母親)に、スマホを持ってもらったら、突然『愛国心』に目覚めだして、とんでもないことを言い出した。聞いてみるとユーチューブの動画なんかをよく見ているらしい、安倍総理についてご近所の人と喧嘩したらしく、今までそんなことなかったので驚いている」というような話などを聞く。(つい先日も、SNS上で相談されたし、昔はパソコン通信やら匿名掲示板というフィールドで、「突然目覚めた愛国者」の話をよく聞いていた。

まず、そうした「右翼言説」やら「愛国心」は決定的に間違っているし、そうした者たちが振り回す「保守思想」も全く保守思想ではない、それどころか百田ナントカやら、在特会どもが振り回すような「保守思想」は、そうした保守思想の泰斗であるバーグが批判した、「革命思想」でしかない。(在特会など、戦後民主主義の鬼っ子と言っていい。戦後民主主義の良くない部分を選別して、煮しめたような存在だ)

19世紀・デカルト的社会観、というのか、「設計主義」という考え方に乗ると「●●を日本から叩き出せ!●●さえいなくなれば日本は美しく、素晴らしい国に生まれ変わる」というような主張を行う。この「●●」には、中国や華僑、韓国人や在留外国人などが入るし、反日だとか左派、左翼とか、朝日新聞なんてものも含まれる。

けれど、この構造は、大資本、だとか米国、在日米軍、なんてものを代入すればそのまま「左派革命思想」になるし、ルイ王朝とかにすればフランス革命になる。「アベ政治」であったり「原発」であったり「食品添加物」なども代入可能だ。

何か「敵」を作って、それを排除さえすれば「バラ色の世界が現れる」なんてのは、政治的デマゴギーであり、設計主義的で全く間違っている。バーグはそうした思考方法を否定した。そうした設計主義を否定したのが「保守思想」であって、ここが判っていない者が多すぎる。

この社会は複雑なのであって、何か一つのもの、一連のものを排除すればバラ色の未来が来るなどという夢物語は、インチキであると断じて良い。

ここで、大急ぎで指摘しておくが、当ブログは延々と延々と、河村批判を加えている。河村をバカだの無能だのこき下ろして、名古屋市政から追い出すべきだと訴えている。しかしだからといって河村たかしを名古屋から追い出せとか、出て行けと言ったことはない。こんな無能な嘘つき、デマゴギーの恩知らずであっても、共棲の場を考えるのが、地方自治であり、政治だと心得ている。市政を壟断するべきではないと思っているが、彼の存在自体を否定したことは一度もない。
 また、河村たかし名古屋市政から追い出せば、名古屋の自治が市民の手に戻るとも思っていない。河村を市政から追い出すことと、名古屋市民が自治を担うこととは論点が異なる。しかし、今は明白に名古屋市民の正当な自治を、河村たかしという存在が妨害し歪めている。ゆえに、市政の舞台から退場していただいて、国会議員年金で静かな老後を過ごされることをご進言申し上げる。


こうした「日本社会の害悪となる一つのもの」に注力してしまったご老人がいたら、ぬるいお茶でもいただきながら、「そうですか、でもね」と、凝ってしまった肩をほぐすように、凝り固まった思考を解いていく以外にない。

そうした時、参考になるのが映画「十二人の怒れる男」である。

〔ここから、盛大に同映画のネタバレを行います。というか、1957年に作成され、すでに「コモンセンス」(常識)として、義務教育で扱って然るべき題材なのだから、内容を知らないって人は、大急ぎで視聴するべきだ。〕

wikipedia における同映画のあらすじが、端的にまとまっているので引用しておく。

父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員が評決に達するまで一室で議論する様子を描く。

法廷に提出された証拠や証言は被告人である少年に圧倒的に不利なものであり、陪審員の大半は少年の有罪を確信していた。全陪審員一致で有罪になると思われたところ、ただ一人、陪審員8番だけが少年の無罪を主張する。彼は他の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを要求する。

陪審員8番による疑問の喚起と熱意によって、当初は少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心にも徐々に変化が訪れる。

十二人の怒れる男 - Wikipedia

と言ったわけで、(へんてこな気を使わすにすむように、さらりと最初にオチを言ってしまうが、)最後にはすべての陪審員が少年を無罪とするというわけだ。

登場人物は12人の密室劇で、それぞれ名前もなく、番号で呼ばれる、あらすじにも有るように、8番が最初に疑義を呈するが、それでも無罪であるという確信を持った行動ではない、少年の犯罪について、よく考えもせずに有罪としてしまって良いのかという、いわゆる「悪魔の代弁者」の役を買って出る。

やがて、頑なな陪審員3番だけが、少年の有罪を主張する。ちょうど wikipedia に「舞台版」のセリフが示されているので、私の記憶を頼りに、この舞台版のセリフを改変し引用しておく。

「みな想像でしかない。俺はいままでばかげたことを見てきたけど、こんなもんじゃなかった。お前のたわごとのせいで、ここにいる十二人は心を動かされた。しかし俺は引っかかりはせんぞ。やつは有罪と言ったら有罪なんだ。昼のように明白で、水のように鮮明じゃないか。お前らいったいどうしたんだよ。やつが犯罪者だってわかりきってるくせに、死刑になっちまえばいいんだ。われわれの任務は、やつを地獄に送ることなんだぞ。それがやつの宿命でもある。やつを滅ぼしてこそ世の中のためになる。わからんのか。」

やがて、陪審員3番には、彼に反抗的な同じ世代の息子がいることがわかり、「父親に反抗し、父親を殺した容疑者は許せない」と思っていることがわかる。

そして「でも、彼(容疑者)は、君の息子ではない」と諭され、頑なな陪審員3番も無罪を受け入れる。

(追記:確認のために、見返してみました。驚いたことに、このセリフはなかった。私が記憶を捏造していたようです。陪審員3番と息子の関係性については、3シーンほど丹念に描かれており、その最初は比較的始まってすぐ、伏線が張られています。
しかし、直接的なセリフはありませんでしたね。謝罪して、訂正します。)

偏見や思い込み、さらに自分の人生を投影してしまう人間の性、これが極めて明快に、手際よく示されるのがこの映画だ。時代を超え、今も作品が色褪せない背景には、作品が描き出しているものが、人間そのもの、社会そのものであって、それは1950年代のアメリカであろうと、21世紀の現代、日本であろうと同様だからだ。

(コロナ禍の)今は流石にないが、バーや居酒屋などで、サラリーマンが酒の肴に、政治やプロ野球の話をする。そうした時、語られているのは、政治やプロ野球の話ではない。組織や組織の中での自分自身への慰めが語られるのだ。叩き上げのサラリーマンなら、政治やプロ野球の舞台で、日の目を見ず、コツコツと努力を続けるような政治家や選手の話を持ち出し「こういう選手(政治家)が上に行かなけりゃ駄目なんだよ」と言っているが、それは「コツコツ努力している、俺を評価しろよ」と言っているに過ぎない。

こんな事もあった、長嶋一茂が選手だった頃、彼をやたら庇う人物が居て、やがて彼自身も、二代目経営者であるとわかったものだ。「そんなこと言っても、偉大な父親の名前の下で、のれんを守る苦労って大変なんだよ」と言っていた。なんで、長嶋一茂が「のれんを守るんだ?」と思ったが、そっくり自分の事として引き受けていたんだろう。

例えば仕事を引退する、隠居の身となる。社会と繋がりが切れてしまうと、自分自身疎外された気分になる。そうした時に、「●●は日本の社会を腐らせている」などという言葉を耳にすれば、少しは気になる。地上波のテレビや常識的な編集を経てきた新聞や雑誌などの言葉しか受け取ってこなかったものが、遠慮会釈無いユーチューブにあふれる言葉に晒されれば驚き、注目する。

実は、こんな言葉をボーッとした人に受け入れさせるのはわけがないのだ。テレビを見ていて、なんだか知らないが、いい話だなぁと見ていると、突然青汁を売り始めたり、なんだかわからない健康器具を紹介し始めるという番組、長時間コマーシャルに出会ったことが有るだろう。ああした「良い話」をしばらく続けて、視聴者を何回か「うなずかせた後」に、情報をすりこむのはわけはない。ちゃんとプロトコルさえ守れば人間はその刷り込みを受け入れてしまう。浄水器でも健康マットでも買ってしまうものなのだ。

あのブルーベリーやら磁気ネックレスの宣伝コンテンツというのは、馬鹿にならない「マインドコントロール」の教材であって、注意深く見てみると、非常に興味深い知見が得られる。

なので、自分の父親や母親が「●●排撃」というような文脈にハマってしまったら、

1.基本的にはほかっておく。余生を過ごす「おもちゃ」程度に思っておく。
2.隣近所に迷惑をかけてしまうとか、過大な経済負担をしているなどがあれば、
  対応が必要かもしれない。
3.対応の基本は「よく話を聞くこと」(「話をすること」ではない、徹底的に聞くこと)
4.議論してはいけない。
   心得:なぜ親の洗脳を解こうとする?
      ご近所の手前、体裁が悪い?。
        ぐちゃぐちゃと愚にもつかない話に付き合えない?。
      そんなあなたの都合を押し付けようとすれば、
        より頑なに自説に閉じこもるだけ。
5.徹底的に、聞いてあげる。これ読めと言われたものは読む。
  そして、質問する。この時も、矛盾点を詰め切ってはいけない、その手前まで。
  矛盾点を詰め切ると、あなたとは会話したくないと言われます。
6.その他の考え方や、別の楽しみを模索してみる。


人が何かにハマるというのは、孤独だから。それをほぐすには孤独を解消させる以外にない。

上で陪審員8番が3番に「でも、彼(容疑者)は、君の息子ではない」と語った時、3番の頑なな心が溶解したのは、3番の孤独を、8番は理解したよと告げているからだ。「でも」の前に語られていない次のような言葉が含意しているのだろう「君の孤独と、憤りは理解できるよ、でも」

この共感が、陪審員3番の心を解きほぐしたように、人の心を解きほぐすのは、共感なんだろう。


さて、こんな事書いていたら、「不自由展」の会場に不審物が贈られてきたそうだ。爆竹が破裂したとの話も飛び込んできている。
はぁ、全く嘆かわしい。

ここで「表現の不自由展」を、例えば本当に爆弾で爆破させたとしても、より警備が強化されるだけで、展示は行われるだろう。よしんば、そうしたリアルな展示がかなわないとしても、インターネットで同じような主張をしてみたり、異なる表現方法で主張は繰り返される。

そもそも、この「不審物」を送りつけてきた者は、何がしたかったんだ?

「表現の不自由展」を中止に追い込んで、それで何かが変わるだろうか。また、数年後、必ず再開される。「時間は民衆のものだ」という言葉がある。一人や二人の狂信者が人生をかけて妨害をしたところで、民衆の意思は止められない。

「不審物」を送りつけてきた者が、河村が言ったように「不自由展は天皇陛下を侮辱するものだ、とんでもない」という言葉を真に受けたのなら、まったくご愁傷様という以外無い。見ればわかるように河村のこんな言葉はデマであって、展覧品に「侮辱する」ようなものはない、よしんば有ったとしても、そうした天皇制の批判であるとか、「反日的主張」なんてものを、こんな不審物一つで止められるわけがない。全くの無意味。

文字通り「犬死」

ツイッターではすでに書き込みましたが、愛知県警に特に告げたい。

もし、この不審物騒ぎで愛知県や名古屋市、愛知県警が、この展覧会を中止させるような事態になれば、短期間であれ違法行為者の意図が叶う結果となってしまう。そうすれば、今後、こうした政治的意図を持つものが、同様の事案を引き起こす。違法行為者に成功体験を与えてはいけない。

より厳正な警備を行い、粛々と展覧会の完遂を行うことこそ、治安維持の観点からも正しい。

今後、厳重な警戒が必要であるのなら、明日から同フロアで行われる、別団体の展覧会については、順延か中止をしていただくように取り図られては如何だろうか。