市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「私たちの『表現の不自由展・その後』」事件について

前回情報が飛び込んできたと言っていた「私たちの『表現の不自由展・その後』」について、詳細が判明してきた。

今の時点で言いたいことは。

1.愛知県警はカカシか
2.名古屋市は無法集団
3.エリートは矜持を持て

ということに尽きる。

(ここから、愛知県警に対して好き勝手書きますが、ここで論評されるのは警察本体で、表に出てきている現場の警察官ではありません。ある意味、彼らが「カカシ」なのは、上が「カカシになれ」と言っているからで、そうした「カカシ」を求める指揮官の問題を批判しています。具体的には警部以上を対象にしたもので、だからといって現場の警察官を「カカシ!」と揶揄する行為には与しません)

人間は直立歩行を行うようになった。(突然、何の話かとお思いでしょうが)
直立歩行することで、脊椎が頭蓋骨を真下から支える形となった。つまり、後頭部から頭蓋の下部へ、脊椎の接続点が移動したことになる。これに伴って脳と、脊髄を通る神経系の接続点も後頭部から頭蓋下部に「伸びる」事となった。この時、大脳側頭部、丁度「こめかみ」から耳に至るあたり、脳の部位区分でいうと、「A10」と呼ばれる部分が、伸ばされ、肥大化した。この部位は特にドーパミンの受容体が発達しており、ドーパミンによる快楽に敏感な部位でもあった。脳のこのような変化のために、人間はA10神経系が満足するように、脳内でドーパミンの発生を促し、様々な形で快楽を追求するようになる。薬物、心地よい刺激、音楽、知的好奇心、発見の快楽。まだ知能の発達の初期にある子どもであろうと、動く物体に目を奪われるのは、そうした変化の知見がこの部位における快楽につながっているからで、人間が知識欲にかられて、研究したり、学んだり、または単に野次馬となるのは、こうした脳内の快感を満足させているに過ぎない。

人間は、自分の行動を決める際に、3段階の価値観を持つと言われている。

第一段階、子どもの価値観とも呼ばれるものが「好き・嫌い」である。
これは煎じ詰めれば、上に述べた快楽部位の奴隷ともいえる。全体的な関係性も無視し、視野狭窄的、刹那的に、主観的判断、感覚的判断だけに依拠して、反射的に「好き・嫌い」に反応し、選別する。その結果がどういった意味を持つかも考慮しない。

第二段階、大人の価値観とも言われる「得損」である。
理性的に判断して、その結果が自分にとって「得か損か」判断する。
これも突き詰めて考えると、快楽部位を満足させているに過ぎないが、自分自身の快楽部位をより長時間、より多く満足させるためには、どのようにすべきかという理性的判断によって主体的にコントロールするという意味では、「快楽部位の奴隷」とは言えないだろう。しかし快楽部位に拘束されていることには変わりはない。

第三段階が「善悪」の判断となる。
これは、自我を離れ、社会全体の「善」と「悪」を判断し、行動するものである。視座自体が自我を離れている。
しかし、気をつけなければならない。この「善悪」の判断も、その基準や判断する材料を誤れば、単なる「好き・嫌い」と代わりはなくなる。自我に束縛された、主観的で手前勝手な「善悪」の判断など「好き・嫌い」の言い換えでしか無い。

東大、「東京大学」の、特に駒場というところは、この「善悪」の判断を教えるところだと思ってきた。
社会のエリートは、この「善悪」が判断できるか否かに、そのメルクマールがある筈ではないのだろうか。

そういえば、丁度今日、文藝春秋が発売されている。先ごろ亡くなった事が公表された立花隆氏の特集が組まれているようだが、氏が社会のエリートに対し批判し、繰り返し訴えてきた基本には、エリートは矜持を持って「善悪」を峻別、判断し、この社会を良きものにしていかなくてはならない。知識はそのために使われるべきだ。ということだったんだろうと思う。

このコロナ禍に見られた厚生労働省の有様。30年の経済退化をひき起こした財務省金融庁、それに経産省。あいもかわらず、「仲良くすることが外交だ」ぐらい思っているような「仲良し」外務省。安倍政権で完全脳死状態と言われている法務省

この日本という国には、今、エリートが存在しない。
高潔で高い視座から「善悪」の判断ができるものが居なくなっている。

官僚が「損得」程度の価値観しか理解できなくなっていては、社会は刹那的で、方向性のない、船頭の居ない船のように漂い続けるだろう。この30年ほどの日本の状態を閲すると、まさに問題はここだと判る。

この世に生を受け、人より優れた能力を与えられ、更にそれを使って人一倍の努力をし、余人には到達し得ない社会的位置について、そこでやることが「老後の人生設計」「金儲けの算段」「ドーパミンの奴隷」になることでは、あまりに虚しくないだろうか。

一燈照隅

ひとの世に、一筋の光を差し出し、世を照らそうとは思わないのだろうか。

あなたのその一日、一時間、一分を。この世の一隅でもいい、灯を照らす事に使わないか。

エリートであれば、それを組織的にできるのだ。官僚組織というものは、日本を「善」へと導いて行けるはずだ。

エリートであれば、矜持を持て。

それが判らない、愛知県警の幹部は、愛知県警という組織を、単なる「カカシ」にしてしまっている。

(さあ、こっから具体的な話に入る)

まず昨日、中区栄ギャラリーに郵便物が届いたようだ。これを同ギャラリーの職員が開いたところ、爆竹様の破裂音がし、おりから警備に当たっていた愛知県警の職員に報告したようだ。

ここから、8階ギャラリーで開催されている「私たちの『表現の不自由展・その後』」の会場に「退去命令」が出た。

退去命令は、愛知県警の判断か、中区栄ギャラリーの判断か、名古屋市の判断かは不明だ。

そもそもこの郵便物と、「私たちの『表現の不自由展・その後』」展示会が関係していると判断されなければ、この「退去命令」は発令されない。

事実、すでにその前に、同展覧会開催者、中区栄ギャラリー、名古屋市、愛知県等々に様々な「脅迫」が届いていたようで、そうした判断から、この郵便物も同展覧会に対する反対者の行為であると判断したのだろう。

しかし、ここでまず問題がある。事前に様々な脅迫が有ったのであれば、こうした不審な郵便物をなぜ、一般の職員が開封するような不用意な対応としたのか。警察の重要な職責は、事案の抑制であって、一昨年のあいちトリエンナーレにおける様々な状況を勘案した場合、少なくとも不審な郵便物に対応するぐらい警察が引き受けてしかるべきではないのだろうか。

破裂させた時点で警察の負け。「愛知県警はカカシか」と言う所以だ。

次。

この破裂事案は10時前には起こっていたようだが、それから延々対策は決まらなかったらしい。

最終的に対応が決定したのは15時近辺、名古屋市の決定による。名古屋市が決めた対応は、

「7月11日まで、中区栄ギャラリーを閉鎖する。『私たちの「表現の不自由展・その後」』展示会は中止する」といったものだったようだ。

不審物を送った者の意図は不明だが、明らかに『私たちの「表現の不自由展・その後」』展示会を妨害しようとする意図は明白だろう。で、あればこの名古屋市の判断は、その「犯人」の意図を叶える結果となる。

こんな事が続けば、「みんなでJOCに爆竹送りつけてオリンピック止めようぜ」とか「中部電力に爆竹送りつければ原発再稼働は止まる」などと言ったような違法行為が誘発されかねない。

犯罪者に成功事例を示すことになる。


(ここから、脱線するが、ある意味、一番言いたいことかも知れない)

名古屋市は、そのトップである河村たかしが「自分自身の経験から、家族が他の家族の名前を、中小企業の社長が社員の名前を勝手に書いたりする程度はあり得ても」(「河村たかし『不正署名』疑惑に答える」文藝春秋2021年7月号p.340より)などと、直接請求における署名への違法行為を容認するかのような、「成功体験」を述べており、こうした歪んだ見識が、今般の大量偽造事件を誘発したのではないのだろうか。

呆れたことに、カカシ愛知県警は、約36万筆と言われる、偽造署名の内「立件容易な71筆についてだけ立件し」3名の関係者だけ起訴した。「愛知県内産の偽造署名については、寄せ書きのようになっており、指紋掌紋が判然としない」と、立件しないという方針のようだ。圧倒的多数の偽造署名を見逃すらしい。その中には、初期の段階で告発された地方議員や現職市長の署名偽造も含まれているようで、そうした違法行為については、事実関係すら判然とできないらしい。その他にも偽造事件における資金、及び元となった名簿リスト、主権侵害個人情報保護法違反の元となった偽造されたデータの出どころも判然とできていない、その上、事件の指示命令系統など、事件の発生機序すら明らかにできない。
県内64箇所の選挙管理委員会に家宅捜索をかけて、43万筆あまりの署名簿をすべて押収し、それを調査分析して、出した答えが「判りません」では、「カカシ」と言われて反論ができるのだろうか。

愛知県警の中のものは、こう反論するかもしれない。「だって、検察がそうしろっていうんだから」

だから、エリートは矜持を持てって言うんだよ。検察が「この範囲で良い」と言われて、喜んでその部分だけ仕事をして、そこから見える犯罪については「見ないこと」にしていては、「認知件数を減らせば検挙率は稼げる」ってカカシ警察の姿そのものじゃないか。

こち亀や踊るで描かれた、「川の真ん中に死体が上がったら、その死体がお向かいに流れ着くように見守る」民主警察の姿なんぞ、見たくない。


名古屋市、及び愛知県警に提案する。

これは本当に真面目に。
土日、早急に展覧会を再開すべきだ。違法行為に屈して、そうした違法行為者の意図を実現させ、犯罪者に成功事例を見せてはいけない。

警備をしっかり行えば、防げることは明白だ。

警備の為に警察職員の活動場所が必要であれば、日本第一党の「トリカエナハーレ」は順延してもらって、場所を作ればいい。作るべきだ。これは、政治的な左右の話ではない。犯罪者に成功事例を見せるか見せないかの、治安上の判断だ。

さて、名古屋市は訴訟リスクを負った。
ここで裁判に負ければ、またまたまたまたま名古屋市民は不要な賠償責任を負うことになる。

resumetheexhibition.seesaa.net

展覧会主催団体である「表現の不自由展・その後をつなげる愛知の会」が声明を発表しているが、この声明でひかれている「

上尾市福祉会館事件(平成5(オ)1285)」
www.courts.go.jp

泉佐野市民会館事件(平成1(オ)762)」
www.courts.go.jp

泉佐野市民会館事件
ja.wikipedia.org

「単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である」

「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条に反対する他のグループ等がこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは、憲法第21条の趣旨に反する」

という最高裁判決が出ており、名古屋市の判断は明らかに違法だ。

ここで、上記措置を十分にとって、展覧会を再開しなければ、名古屋市は訴訟に負け、名古屋市民はまた、不必要な賠償責任を負わされることになる。

マスコミも、名古屋市に忖度することなく、また、主催者側と、名古屋市の「どっちもどっち論」で片付けるのではなく、最高裁判例に沿った、法的に正しい報道を行うべきだ。有権者は、お上の大本営発表など欲しくはない、法に準じた事実の報道が必要なのだから。